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土浦亀城邸~今も残る昭和モダニズム住宅の至宝~

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 その白い箱は白金長者丸の住宅街にひっそりと建っていた。

 昭和のモダニズム住宅の原型ともいえる土浦亀城邸だ。1935年(昭和15年)築ということは築後80年を超えている。

 日本において住宅は平均すると築30年で建て替わっているとの報告もある。木造住宅で築80年を越えて存続していることは自体ほとんど奇跡的なことといっても過言ではない。

 敷地は長者丸の丘から西に向かって少し下がってゆく斜面の中腹にある。道路は下がりきったところで行き止まりとなっているため、人や車の往来がない奥まった感じのする静かな場所だ。
 
 敷地の手前に土のまま残されている斜面があり、そこには緑が繁茂し、その一画を表通りから守っているような印象を作っている。佇むとそこだけが少し時間の流れが遅くなっているような感覚を覚える。

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 敷地は道路面より約2メートル程度上がっており、階段を上がってアプローチする。視線を遮っていた右側のよう壁が、奥に行くにしたがって後退し、末広がりのように空間が開け、玄関廻りのポーチが現れてくる。縦横の空間の変化とそれに伴うシークエンスの変化が心地良い。左手のヴォリュームはガレージ。

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 スチールの白い横桟が入ったガラスの玄関扉がモダニズム感覚の原型を感じさせる。素材と意匠が放つその若々しい感覚は今見ても新鮮さを失っていない。

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 建物自体は、白いスクエアなヴォリュームがふたつ、少しずれながら組合わされている。外壁は縦貼りのサイディングだ(建築当初は石綿スレートだったそうだ)。大きく張り出したバルコニーと薄い庇がシャープで潔い印象を作っている。

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 バウハウスにつながるドイツモダニズムの影響を色濃く感じさせる外観だ。
 

 この住宅は建築家土浦亀城が自ら設計した自邸だ。土浦亀城は、友人が相続した土地に「同じやるならジードルンク風にやっちゃうおうよ」と仲間四人でモダニズム住宅を建てることにした、と証言している(『昭和住宅物語』 藤森照信 新建築社)。
 
 伝説に彩られた白い箱。槇文彦は子供のころに見た印象をこう記している。
 
 「しかし、土浦邸が子供心に与えた強烈な印象は、玄関回りの吹き抜け空間であり、鉄製の細い手摺であった。白い空間に浮かび上がってくるガラスと鉄が伝える新鮮な物質性(materiality)が印象的なのだった。」(土浦フレンズwebsiteより)

居間&中二階
(*土浦亀城邸の居間と中二階 『昭和住宅物語』 藤森照信 新建築社 1990より) 
 
 土浦亀城邸は、日本を代表するモダニズム建築の重鎮に、モダニズムの啓示とも呼べるような空間体験をもたらした。
 
 段差を巧みに利用し空間を相互に組合わせた内部空間は、バウハウスというよりもフランク・ロイド・ライトを思わせる。
 
 「ハハ・・・気づきましたか。おっしゃる通りで、私はライトのスタイルから離れてモダニズムをやっていたんですが、スペースをお互いに組み込むやり方はライト譲りなんです。どうしてもそこは抜けませんでした」と土浦亀城自身が前掲書において藤森照信の問いに答えて解説してくれている。
 
 ヨーロッパとアメリカのモダニズムが日本の東京の山の手で奇跡的に焦点を結んだ。それがこの土浦亀城邸だ。
 
 この住宅は実験住宅という意味合いもあった。すなわち木造住宅での陸屋根、乾式壁への挑戦である。一般に耐水性に劣る木造住宅では、現在でも陸屋根は難しい。
 
 この土浦亀城邸は、土浦亀城とその妻の土浦信(吉野作造の娘)との共同設計だった。土浦夫妻は、タリアセンでフランク・ロイド・ライトのもとで建築を学んでいる。
 
 土浦夫妻の手許にタリアセンで撮った写真が残されている。
 
 居間の暖炉の前で寛ぐライトとその弟子たち。左から、ライト、リチャード・ノイトラ、モーザー夫人のシルヴァ、土浦亀城、信、バイオリンのワーナー・モーザー、チェロのノイトラ夫人のディオーネ。

タリアセン居間
(*『ビッグ・リトル・ノブ』 小川信子・田中厚子 ドメス出版 2001より)
 
 西部開拓を志して東部から中西部に移り住んだ開拓ファミリーの辺炉の夕べ、そんな雰囲気だ。まるで映画の一コマのようなアメリカン・ホーム・ライフを象徴する一枚だ。よく見ると暖炉のそばには仏像が飾られ、神棚のような飾り棚もある。ライトの日本趣味を裏付けている。
 
 こちらは製図室で撮られた一枚。左から、ライト、亀城、ノイトラ、モーザー、信。

タリアセン製図室
(*『ビッグ・リトル・ノブ』 小川信子・田中厚子 ドメス出版 2001より)
 
 どこか求道的な空気、たとえば修道院の一室のような、が漂っている一枚だ。ライトのいでたちがそうした印象を強めているのかもしれない。おかっぱ頭の信がカワイイ。ライトは信を「ビッグ・リトル・ノブ」と呼んで可愛がった。神経質そうな相貌のノイトラも見てとれる。
 
 日本にモダニズムを啓示した土浦亀城邸はその後の日本の都市住宅に大きな影響を与えてきた。
 
 建売住宅においては今や乾式工法による外壁は当たり前であるし、無印良品などの箱型のシンプルな建売住宅のルーツはここに起源を持っている。
 
 土浦亀城邸でもっとも象徴的な中二階のフロアは、いったい何のために作られたのか。土浦亀城本人が証言している。それはダンスの時の生のバンドが演奏をするためのスペースなのだと。
 
 楽団の生演奏のための中二階を設けた家。昭和初期のモダニズムが生み出した優雅なライフスタイルに関しては、残念ながらその後の日本の住文化に全く影響を与えなかったようだ。



 



*初出 zeitgeist site

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レイモンド・チャンドラー『ザ・ロング・グッドバイ』精読 Chapter21

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 第21章ではマーロウの探偵稼業のとある一日が描かれる。ストーリーとまったく関係ない、こういうパートが思いのほか面白い。
 
 その一日は、マーロウによって「クレイジーな一日」になると予測される。roll inはやってくる、gear wheelは歯車という意味。
 
 I knew it was going to be one of those crazy days. Everyone has them. Days when nobody rolls in, but the loose wheels, the dingoes who park their brains with their gum, the squirrels who can't find their nuts, the mechanics who always have a gear wheel left over.
 
 the dingoes who park their brains with their gumというところが相当手ごわい。しばらくは何を言っているのか理解できなかった。村上訳では「脳みそを糊でかろうじて貼りあわせているぼんくら」、清水訳では「脳みそを置き忘れた犬」となており、いずれもすっきりと腑に落ちる訳にはなっていない。
 
 dingoとはオーストラリアの野生の犬、臆病者、浮浪者、若い女性を好むジジイ、気が狂った人などさまざまな意味がある言葉。他動詞のparkは文字通り、公園にする、駐車する、置いておくという意味。gumはゴム、糊、チューイングガム、歯茎などの意味。
 
 まずgumはtheir gumで使われているので少なくともゴムや糊という意味ではないだろうと気がついた。また、歯茎は可算名詞で普通は複数形で使われるので、ここではそれも意味しないと思われる。snap one’s gum(ガムを鳴らす)あるいはblow bubbles with one’s gum(風船ガムを膨らませる)という言い方がある。所有格+gumはその人が噛んでいるチューインガムのことを指す言い方だとわかる。
 
 Parkもなかなか厄介だ。調べていくと、”Park one’s brains at the door”という言い方があり、日本語でこのニュアンスを解説したものが見当たらないので推測でしか言えないが「ドアのところに頭を放置する」つまり「家から一歩出たら頭を使わない」という意味のようだ。この場合のparkは”not deal with something or answer a question immediately but leave it for a later time”という意味合いで使われているのだろう。Parkに関しては清水訳のニュアンスに近いのではないだろうか。
 
 比喩されているものが、探偵事務所にやってくるヘンテコな依頼人の描写であることを考えると、このくだりは「噛んでるガムと一緒に脳みそをどこかに置き忘れてきたうすのろ」というような意味ではないだろうか。
 
 「車輪が緩んだ」最初のクライアントは、クイッセンネンというフィンランド系の大男。隣家の女が自分が飼っている犬を殺すために毒入り団子を庭に投げ込んでいると訴える。動物愛護局に問い合わせてみたらどうか、とマーロウ。
 
 大男はThey couldn't see nothing smaller than a horseといって罵る。Theyとは動物愛護局のこと。
 
 notが2回重なる二重否定=肯定と中学校で習ったので、この簡単な一文も考え始めるとわからなくなってくる。
 
 調べてみると、二重否定にはnegative concord(否定呼応)と呼ばれる、二重否定=否定という使われ方があるのだそうだ。もともと英語も含めたヨーロッパ言語では、二重の否定は否定を意味しており、英語の否定呼応は、その名残らしい。今は主に黒人英語やスラングで使われるということで、チャンドラーはこのフィンランド系の大男の出自をさりげなく匂わせているのだ。
 
 村上春樹は「あいつらは馬より小さなものは相手にもしねえんだ」と、チャンドラーの意図したニュアンスを反映した口調に訳している。
 
 マーロウは女を捕まえて欲しいという依頼を断る。そして別れ際に「隣の女性が毒を盛ろうとしたのは、本当にあなたの犬の方なのですか?」と相変わらず一言多いマーロウ。
 
 He started for the door. "Are you sure it's the dog she's trying to poison?" I asked his back.

 "Sure I'm sure." He was halfway to the door before the nickel dropped. He swung around fast then. "Say that again, buster."
 
 before the nickel droppedという表現が面白い。The penny droppedで「やっとわかった」という意味になる。ペニー硬貨を入れるスロットマシーンや自動販売機に由来するイギリス的な口語だそうだ。50年代初頭までアメリカでは電話の一通話は5セント(ニッケル硬貨)だったところから、チャンドラーはこの表現をひねって使ったのだろう。ちなみにdrop a dimeあるいはdrop a nickelという言い方もあり、電話で警察に通報することから「密告する」という意味になり、「硬貨が落ちる」という現象を同様の効果として使った表現だ。
 
 マーロウはニ番目の女性の依頼もやんわりと断る。午後になり三番目にやってきたのはシンプソン・W・エーデルワイスという人物。椅子の端っこに座る悲しい目をした五十がらみの小柄なユダヤ人だ。異教徒の妻が男と失踪したので連れ戻して欲しいと依頼する。妻は25歳以上、年下だ。
 
 「連れ戻してまた同じことが起きますよ」というマーロウに対しての男はこう答える。
 
 "It will happen again," I said.

 "Sure." He shrugged and spread his hands gently."But twenty-four years old and me almost fifty. How could it be different?
 
 How could it be different ?(なんと違いすぎていることか)という感嘆の台詞は、日本語の場合は「仕方がないのです」(清水訳)という諦観を伴ったニュアンスに訳されている。
 
 マーロウは依頼を受けることにする。奥さんの写真の複写を求めるマーロウに対して如才のないエーデルワイス氏は仮定法を使ってこう答える。
 
 "I could hear you saying that, Mr. Marlowe, before I got here. So I come prepared."
 
 「そうおっしゃるのではないかと思いました、ミスタ・マーロウ」(村上訳)と日本語では語順が逆になるところが面白い。
 
 以下はそんな一日を終えたマーロウの嘆息が聞こえてきそうな一節。
 
 So passed a day in the life of a P.I. Not exactly a typical day but not totally untypical either. What makes a man stay with it nobody knows. You don't get rich, you don't often have much fun. Sometimes you get beaten up or shot at or tossed into the jailhouse. Once in a long while you get dead. Every other month you decide to give it up and find some sensible occupation while you can still walk without shaking your head. Then the door buzzer rings and you open the inner door to the waiting room and there stands a new face with a new problem, a new load of grief, and a small piece of money.
 
 Once in a long while you get deadは「ごくたまには死んでしまうこともある」つまり「死ぬことだってないわけではない」というニュアンスだろう。
 
 マーロウの台詞には、探偵しかできない不器用な男の諦観という鎧の陰に隠された密かな使命感が滲み出ていると同時に、自らの可能性を否定する、というか、封印する深いニヒリズムの気配がたちこめている。自らを探偵稼業にあえて封印することによって、マーロウ、つまりチャンドラーが表現しようとしているものは一体なんなのだろうか。読了の暁には理解できるようになるかもしれない。
 
 三日後にアイリーン・ウェイドから、明日の夜の自宅でのパーティーへの誘いの電話が入る。マーロウは誘いを受ける。
 
 "I must have looked very silly acting Victorian about it," she said. "A kiss doesn't seem to mean much nowadays. You will come, won't you?"
 
 acting Victorian about itの「ヴィクトリア時代の人」とは、気取っていて堅苦しく古くさい事柄の象徴として使われている。
 
 何故か落ち着かない気分になり、マーロウはテリー・レノックスからの別れの手紙を取り出す。そして、そこに記された<ヴィクターズ>で自分のためにギムレットを飲んで欲しいという遺言のような言葉を実行していなかったことを思い出す。
 
 I had too much of his money. He had made a fool of me but he had paid well for the privilege.
 
 He had made a fool of meのfoolという言葉でマーロウが言いたかったのは、どういう気持ちだったのだろうか。ちなみに村上訳では「テリーは私を愚かしい立場に置いた」となっている。
 
 それはきっと、バーである人を弔うようにひとりで酒を飲むというセンチメントな行為に対するfoolであり、テリーのいつもながらの無邪気で独りよがりな依頼を無視することができない自分に対するfoolであり、それをする理由が、あたかもテリーが送りつけてきたマジソンの肖像のためのように思えてくることに対するfoolであり、他人からみればどうでもよさそうな、そんなことどもに煩わされていることに対するfoolなのだ。


James Garner as Philip Marlowe in Marlowe   1969
(*James Garner as Philip Marlowe in Marlowe , 1969)

 



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『コヤニスカッツィ』とプルーイット・アイゴー ~モダニズムという自由の重さ~

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 コヤニスカッツィ Koyaanisqatsi とは、ネイティブ・アメリカンのホピ族の言葉で「常軌を逸した生活」というような意味だ。映画『コヤニスカッツィ』(ゴッドフリー・レッジョ監督1982)は、その言葉通りに現代文明の常軌を逸したあり様を映し出す。
 
 ナレーションを一切廃し、コマ落とし(微速度撮影)やスローモーションを駆使して映し出されれる映像は、ありふれた日常を対象化して我々の前に差し出す。
  
 日常のなかに潜む「常軌を逸した」世界を炙り出す。
  
 大型ジェット機の離着陸、ネバダ砂漠での原爆実験、空を貫く超高層のファサードに映し出される雲の流れ、ハイウェイを延々と流れ続ける車のテールランプ、マンハッタンの交差点を行き交う夥しい人の流れ、製造機から次々へと押し出されパッキングされる大量のソーセージetc。
       

(*Youtube映像:Koyaanisqatsi in 5 minutes)
   
 文明、テクノロジー、産業、都市が生み出した世界。巨大化し、大量化し、高速化し、規格化し、機械化された世界。
 
 ひとはいつの間にか、かくも大規模で、かくもハイスピードで、かくも高密度の、ヒューマンスケールとは程遠い世界を作り上げてしまった。
 
 『コヤニスカッツィ』はこれでもかという過剰さで、そうした不愉快な現実を突きつける。バックに流されるフィリップ・グラスのミニマルミュージックが不快感を増幅する。
       
 映画の最後は無人ロケットアトラスの打ち上げとその直後にロケットが突然、空中で爆破する映像だ。 
  


(*youtube映像:Koyaanisqatsi Ending Scene)
          
          
 ジェットエンジンが噴射する際の圧倒的なエネルギー。巨大なロケットがゆっくり動き出す瞬間。天に向かって力強く推進するロケットの雄姿。突然の爆破。空中に散逸するロケットエンジンの一部始終をスローモーションの映像がとらえる。
     
 炎を吐き、回転しながら、いつまでも落下し続けるエンジンの残骸。炎は一旦消えかけては再び燃え上がり、幾度もそれを繰り返す。
      
 燃え尽きること、停止することは、まるで死を意味するかのように、抗い続けながら落下するロケットの残骸。それはまるで生き物のようで、消えては燃える炎は、その断末魔の叫びのようだ。
      
 この映像を見ていると、行き過ぎてしまった文明の自己崩壊の末路を見せられているような、言いようのない虚脱感に捕らわれる。
 
 映画のなかにプルーイット・アイゴーが爆破されるシーンが出てくる。
 
 プルーイット・アイゴーとは、セントルイスの中心部に建てられた集合住宅で、11階建ての高層住宅33棟総戸数2,870戸の巨大な公共住宅団地だ。完成は1956年。設計者は日系人建築家のミノル・ヤマサキ。9.11の標的にとなったワールド・トレード・センターの設計者としても有名だ。
  
 プルーイット・アイゴーは、当初から思うように入居者が集まらず空き家が多く、そのうち管理も疎かになり、ヴァンダリズム(器物破壊・環境破壊)が横行し、落書きや割れた窓がそのまま放置されるなど環境が急速に悪化し、結果的に暴力や犯罪の温床となりスラム化してしまう。
        
 幾度かの再生計画も効果は上がらず、結局、プルーイット・アイゴーは、1972年3月16日に全棟が爆破解体されてしまう。築後16年しかたっていなかった。


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(*SOURCE : https://www.theguardian.com/cities/2015/apr/22/pruitt-igoe-high-rise-urban-america-history-cities)
                 
 プルーイット・アイゴーが爆破された日は、「モダニズム建築が死んだ日」(チャールズ・ジェンクス)と言われ、ル・コルビュジエの「輝ける都市」に象徴されるモダニズム建築の非人間性が批判の的になった。
 
 プルーイット・アイゴーの失敗の原因として計画や設計の問題が指摘された。外部の者が容易に入れるオープンな敷地計画、EVが4層置きに停止するスキップストップ方式や閉鎖的な廊下空間などが死角を生み犯罪を助長した、あるいは、予算削減のため当初計画されていた公園などが作られず居住環境に問題があったなど。
        

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(*SOURCE : http://soci320student.blogspot.jp/2012/04/what-is-pruitt-igoe-myth.html)       

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(*SOURCE : 
http://www.wilderutopia.com/sustainability/land/pruitt-igoe-myth-the-death-of-20th-century-us-city/)
  
 オープンな敷地計画やスキップストップ方式のエレベーターや片側廊下型の住棟は、日本の公団が得意とした設計である。しかしながら、日本の公団住宅でヴァンダリズムが横行したことや、犯罪の温床になったという話は聞かない。むしろ、日本の公団住宅では、爆破解体どころか、長年愛着をもって住み続けられた結果行き着いた入居者の高齢化という、まったく逆の状況が問題となっているのだ。
    
 彼我の団地の設計に、さほど根本的な差異があるとは思えない。真の原因は別のところにありそうだ。
     
 ドキュメンタリー映像のThe Pruitt-Igoe Myth (監督Chad Freidrichs 2011)は、プルーイット・アイゴーの元の居住者へのインタヴューなどを通じて別の事実を浮かび上がらせる。
        
 戦後、経済減速と人口減少が著しかったセントルイスにはそもそも大きな住宅需要自体がなかったこと、都市の衰退に伴って、都心部は治安が悪化し、ミドルクラス層(特に白人家庭)はこぞって戸建を求めて郊外へ脱出しようとしていたこと、まさにスラムクリアランスによって作られたプルーイット・アイゴーには、こうした治安や人種問題など当時のアメリカの都市がかかえるインナーシティ問題が当初から影を落としていたことなど、プルーイット・アイゴーの失敗の真の原因は、セントルイス、あるいはアメリカの都市に固有の問題にあったことが示唆される。
   
 インタヴューで元の入居者たちは、プルーイット・アイゴーでの暮らしがいかに素晴らしかったかを語っている。クリスマスのイルミネーションの美しさ、リビングルームに漂う食べ物の匂い、子供が自由に遊べる広々とした空間etc。ある女性はこう証言する。「私の母は生まれて初めてドアつきの部屋と自分のベッドで寝ることができた」と。
           
 意外なことに(と今となっては言わざるを得ないが)プルーイット・アイゴーは、公共住宅として高く評価されていたのだ。
  
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(*SOURCE : http://collections.mohistory.org/search/custom_search?addfacet=subjects_facet%3APruitt-Igoe%20%28Housing%20project%20%3A%20Saint%20Louis%2C%20Mo.%29)

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(*SOURCE : http://collections.mohistory.org/search/custom_search?addfacet=subjects_facet%3APruitt-Igoe%20%28Housing%20project%20%3A%20Saint%20Louis%2C%20Mo.%29)

Pruitt-Igoe3

(*SOURCE : http://collections.mohistory.org/search/custom_search?addfacet=subjects_facet%3APruitt-Igoe%20%28Housing%20project%20%3A%20Saint%20Louis%2C%20Mo.%29)

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(*SOURCE : http://www.pruitt-igoe.com/thanks-to/) 

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(*SOURCE : http://www.archdaily.com/153704/the-pruitt-igoe-myth-an-urban-history)
                
 プルーイット・アイゴーの失敗の根本原因が、モダニズム建築や公共住宅政策にあったわけではなかったとはいえ、低層の建物が建ち並ぶ街のスラムクリアランスのために、周囲から隔絶したスーパーブロックに巨大な高層住宅を大量に建てるというコルビュジエ流のやり方がふさわしかったかどうかは、また別の問題だ。
     
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(*SOURCE : 
https://www.theguardian.com/cities/2015/apr/22/pruitt-igoe-high-rise-urban-america-history-cities)
        
 プルーイット・アイゴーを推進した当時のセントルイスの政治家たちは、マンハッタンのような建物を作って都市再生の切り札とすると考えていたそうだ。
 
 槇文彦はこんな主旨のことを語っている。
          
 モダニズムは建築家を自由に解放した。モダニズム建築とは「何でもあり」の状況で、建築家それぞれが規範を持って設計していく建築だ。それは単に施主の欲望を充足させるだけでなく、与えられた場所、あるいは時代に対して、社会性をもたなければならない、と。
     
 様式的拘束や技術的制約から自由になったモダニスムには、逆に厳しい倫理性が求められなければならない、ということだろう。
         
 モダニズムは、世界中を「常軌を逸した生活」に変えてしまうこともできれば、都市をプルーイット・アイゴーで埋め尽くしてしまうことも可能だ。
     
 世界がそうなるかどうかは、ひとえに、ひとりひとりの倫理にかかっているのだ。モダニズムという自由の持つ重さを忘れてはならない。
       




*参考資料 : Alexander von Hoffman,Why They Built the Pruitt-Igoe Project. Joint
      Center for Housing Studies,Harvard University.
      Available at<http://www.soc.iastate.edu/sapp/PruittIgoe.html>

                Chad Freidrichs(Director), The Pruitt Igoe Myth[MotionPicture].2011.
                Abailableat<https://www.youtube.com/watch?v=xKgZM8y3hso

     
*初出 : zeitgeist site


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解体を待つ丹下健三の電通本社ビル~幻の築地再開発計画~

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 丹下健三が設計した築地の電通本社ビル(電通テックビル 1967年竣工)は取り壊しが決まり、現在は空き家状態になっている。跡地は周辺も含めて住友不動産によって開発される予定だ。

 丹下健三は当時の電通社長吉田秀雄から本社ビルの設計を依頼された際、広く築地エリア全体を対象に「築地再開発計画」(1964)を策定する。
 

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(*「築地再開発計画」CG 右奥中央寄りに見えるのが築地本願寺 『メタボリズムに未来都市』より 制作:芝浦工業大学 デジタルハリウッド大学院) 
    
 電通本社ビルは、この「築地再開発計画」のなかで提案された全体のなかのひとつのピースとしての建物なのだ。そして「築地再開発計画」自体は1961年に発表された「東京計画1960」の続編とでもいうべき構想だった。
 

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(*「東京計画1960」と丹下健三 『東京人』2013年11月号より 写真:川澄明男)
  
 「東京計画1960」は、成長する東京を都心から東京湾にリニアに伸びる都市軸に沿って拡大させていくという、その後のメタボリズム運動の始まりとも言われる計画だ。
 
 「東京計画1960」において、東京湾上に伸びる2本の交通網からなる都市軸の内部には業務ゾーンが配置されている。「築地再開発計画」は「東京計画1960」における業務ゾーンのイメージを具体的な築地エリアに落とし込んだものだ。
 
 電通本社ビルの当初の設計は、この「築地再開発計画」でのイメージを忠実に具現化したものだった。
 

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(*電通本社ビルの当初の設計模型 豊川斎赫『丹下健三とTANGE KENZO』より 写真:村井修)
   
 2つのコアのヴォリュームが垂直に伸びる。コアは人や情報やエネルギーを垂直方向に導く役割とともに、フロアーを支える構造の役割を担い、コアの間には橋梁のようにトラスに組まれた鉄骨が架け渡され、フロアーを支えながら、そのまま外壁の意匠となる。構造から開放されたオフィスは無柱空間が実現するとともに、全方位の三次元方向に増殖・成長していくことが可能になる。コアは地下でパーキングを介して都市の道路ネットワークや設備動脈とつながっており、コアで持ち上げられたピロティによって建物の足許は都市に開放される。
 
 この設計案は実現しなかった。着工寸前に推進役だった吉田社長が死去し、大幅な予算超過となっている設計の変更が要求される。設計を一からやり直し、現在のRC造の柱・梁による通常のラーメン構造の建物に変更された。
 
 柱・梁をアウトフレームとすることで、結果的に執務空間の無柱化は実現されているものの、キーコンセプトであったコアの発想はなくなり、鉄骨トラスのファサードによる軽さや増殖や成長の途上を思わせる未完成の雰囲気を漂わせた外観のイメージもなくなり、いかにもマッシブな印象の建物になっている。
 
 当初のコンセプトやイメージからかけ離れてしまった電通本社ビルだが、これはこれで別の魅力を放っている。
 
 存在感のあるコンクリートの柱・梁に覆われた外観は、今どきのスマートなオフィルビルにはない実存的な力強さを感じさせ、ある意味、新鮮だ。

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 部分に目を転じても、オリジナルでデザインされたと思われる、蛍光灯隠しを兼ねたパーツ化された部材が連続するピロティの天井などは、工業化時代のモダニズムデザインを希求しようとする時代の意思のようなものを感じさせくれる。
 

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 たまたま構造体が途中で切断された風にデザインされた妻側に、当初の増殖・成長する建物のイメージがさり気なく残されている。あくまでこの建物は、増殖・成長する三次元都市の一部であると主張しているのだ。 

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 「東京計画1960」において、丹下健三は、これからの都市の本質はネットワークとコミュニケーションであると喝破する。広義のコミュニケーションを担う人々を「オーガニゼーション・マン」と呼び、「ひとは、オーガニゼーション・マンは孤独であると訴える。しかしこのネットワークから見放されるとき、さらに孤独である」と書きつけた。50年以上前とは思えない洞察力に驚く。
 
 実現しなかった丹下健三の二つ都市計画は、コミュニケーションとネットワーク、そして成長する都市というコンセプトを具体的に空間化、建築化、そして人々に向けて可視化してみせたプロジェクトであった。
 
 「電話、ラジオ、テレビ、さらに携帯電話、テレビ電話などの間接的なコミュニケーションの手段も、直接的接触の要求と必要性をますます誘発するだけである。人々はメッセージを運搬し、機能相互を連絡しようと、流動する。この流動こそ、この組織を組織ならしめている紐帯である。1000万都市はこの流動的人口集団である」(丹下健三「東京計画―1960 その構造改革の提案」)
 
 丹下が師と仰いだル・コルビュジエは「ヴォアザン計画」(1925)において、オースマンが作ったバロック都市パリの右岸に「緑と太陽と空間」の都市を暴力的に埋め込んでみせた。このイメージは、後に「輝ける都市」として、自動車とスーパーブロックと超高層建物からなる現在の都市のプロトタイプとなった。
 
ヴォアザン計画
(*ル・コルビュジエによる「ヴォアザン計画」模型)
 
 それでは丹下健三が描いた都市のその後はどうなったのだろうか。電通本社ビルにかすかに宿るイメージの片鱗で終ってしまったのか。
  
 50年後の今になってようやくわかる。丹下健三の先見の明が描いた都市が世界中で実現していることを。
 
 ただし、孤独な「オーガニゼーション・マン」が求めたのは、現実のアーキテクチャーのなかのコミュニケーションではなく、ネットワーク空間を創出するアーキテクチャーのなかでのコミュニケーションだったのだと。
 
 「築地再開発計画」の模型写真が、現実の建築や都市というよりは、コンピューターの筐体に納められた電子部品の連結や増殖するサーバー群のように見えてくるのは、丹下健三の天才的なイメージ力によるものなのか、あるは、単なる偶然なのか。
 
 では実際の都市空間はどうなったのか。
 
 ある種の父性や暴力性を背景に、頼まれもしないのに他人の敷地を勝手に取り込んで、なんらの金銭的メリットもないのに、このように大胆な都市の未来を描いてみせるような人物は、残念ながら丹下健三以降、日本には誰もいない。
 

築地再開発計画部分
(*「築地再開発計画」模型(部分) 右側の手前の建物が電通本社ビルのもともとのイメージ 丹下健三・藤森照信『丹下健三』より 写真:村井修)





*参考文献 : 丹下健三,『人間と建築』,1970,彰国社
        丹下健三・藤森照信,『丹下健三』,2002,新建築社
                    『メタボリズムの未来都市』展覧会カタログ,2011
                   豊川斎赫,『丹下健三とTANGE KENZO』,2013,オーム社
                   『東京人』2013年11月号,「丹下健三とオリンピック」,都市出版

*初出 zeitgeist site

 

 

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ジョゼフ・アルバース『配色の設計』のすすめ

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 ジョゼフ・アルバース著『配色の設計』 (Interaction of Color 1963)は、すでに色彩理論の古典的位置づけにあるが、実践を重んじるその内容は、バウハウスの教えを今に伝え、古びるところがない。
 

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 ジョゼフ・アルバース Josef Albers(ドイツ語読みではヨゼフ・アルベルス)は1888年にドイツに生まれ、1920年に32歳でワイマールのバウハウスに入学、同校の主導者の一人だったヨハン・イッテンの許で学び、イッテンの後を受けて1923年に同校の教員となる。

Josef_Albers

(*Josef Albers, source : https://en.wikipedia.org/wiki/Josef_Albers)
 
 デッサウに移ったバウハウスがナチスによって1933年に閉鎖に追い込まれると、アメリカに渡り、ブラック・マウンテン・カレッジで教鞭をとる。
 
 ブラック・マウンテン・カレッジは、ノースカロライナに作られたアートスクールで、バックミンスター・フラーのジオデシック・ドームが考案され、マース・カニングハムの舞踏団が結成されたことで有名な伝説的な存在だ。ジョゼフ・アルバースの許からは、ロバート・ラウシェンバーグやサイ・トゥオンブリーなどアメリカ現代アートの大御所が輩出している。
 
 その後アルバースは1950年にイェール大学に移り、デザイン学科のチェアマンとして58年に退職するまで教鞭を取り続けた。本書『配色の設計』は、その当時の授業の成果に基づいている。
 
 ジョゼフ・アルバースは美術教育者と同時にアーティストとしても様々な作品を発表している。シリーズ「正方形賛歌」 Homage of Squareや本書が出版された同じ年に竣工したパンナムビル(現メットライフビル)のロビーに設けられた壁画「マンハンタン」 Manhattanが有名だ。

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(*Josef Albers Homage to the Square, 1951:source:http://www.albersfoundation.org/art/josef-albers/paintings/homages-to-the-square/#slide13)
 
 パンナムビルはバウハウスの創始者で当時ハーバード大学院のデザイン学科で教鞭を取っていたワルター・グロピウスの設計であり、旧パンナムビルのロビーは、バウハウスにルーツを持つ巨人二人がコラボレーションした空間として夙に名高い(壁画は2000年以降、撤去されており、その復活が望まれている)。

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(*Josef Albers Manhattan, 1963 source:http://www.albersfoundation.org/art/josef-albers/architecture/#slide7)
 
 『配色の設計』の類書にない最もユニークなところは、色彩を語るのに理論やマニュアルから説き起こしたり、科学的解析を根拠にするのではなく、実際に色を使ってやってみようという実験と実践の書であるというところだ。この実際にやってみよう、というスタンスは実にバウハウス的だといえる。
 
 バウハウスで実際にアルバースの下で学んだ山脇道子は「アルベルスにしてもカンディンスキーにしても、そしてシュミットにしても、「こうしろ、ああしろ」と手取り足取り教えるのではなく、学生に自分の頭で判断させる点では共通していました。(中略)学生自身がいかに体得するかがすべてでした。デザインの基本を習うということはこういうことなんだと、強く感じました」と証言している。(『バウハウスと茶の湯』 山脇道子 1995)
 
 そして色彩に関するその実践の中身が実にスリリングなのだ。
 
 例えば
 
 3色を2色に見せる。中の小さな正方形は反対側の地色の茶色と紫色に見えるが、実は別の第3の色。

1
(*ジョゼフ・アルバース『配色の設計』より) 
 
 同じ平面の色でも色相の違いによって立体的に見えてくる。下段は黒が上にあり、上段はクリームが上にあるようにみえる(透明性と空間錯覚)。

2
(*ジョゼフ・アルバース『配色の設計』より) 

 隣り合った色が混ざり合っているように見える(光学的混色あるいはベツォルト現象)。上下の赤は同じ色だが、上の赤は下の赤より明るく見える。

3

(*ジョゼフ・アルバース『配色の設計』より)
 
 色を絵画や音楽や演劇との関連で語るところも、類書にない面白さだ。
 
 セザンヌの絵画の立体感は色の相互作用の認識から導かれたものであり、また多くの印象派の画家たちの表現は光学的混色を狙った結果だ、とアルバースは解説してくれる。
 
 音は波長で正確に測れる。したがって音楽は音符という図式的な方法で記述することが可能である。一方、色彩に関しては、投射された色は波長で測れるが、反射色、つまり我々がもっとも馴染んでいる絵の具や顔料の色を正確に測るのは難しい。反射色を電子分光器で測ったとしても、すべての色彩を含んでいるのだそうだ。さらに色彩は、形や大きさ、反復や配置によって変わってくるという特性もあり、こうしたことが、色彩がダイアグラム的な記述を本質的に受け付けない理由なのだという。
 
 逆に、色は演技者のように、自分自身を捨て去り、互いに影響を与え合い、互いを変える。「私たちの知覚上で、色は絶えず相互作用を繰り返しているのだ」とも言っている。
 
 アルバースはこう断言する。
 
 「(調和)配色図に従った、インテリア、外装、家具、テキスタイルの装飾、そしてDIYのための「商業化された色の提案」に注意しなければならない。結論はこうだ。補色、隣接補色、トライアド、テトラードといったようなおおざっぱなやり方は、しばらく忘れてもいい。それらは使いものにならない。」
 
 「いい絵やいいカラーリングは、おいしい料理にたとえることができる。いかにレシピに従ってつくっても、調理中に繰返し味見することが必要である。そして最高の味見は、依然として「肥えた舌」次第なのだ。」
   
 芸術を生活に併置し、具体を通じ、見ること、「目を開くこと(to open eyes)」に徹底的にこだわったジョゼフ・アルバースならではの言葉だ。
 
 デザインの実践者はもちろん、デザインやアートの鑑賞者にとっても有益な一冊である。



*参考文献等 : ジョゼフ・アルバース『配色の設計』,ピー・エヌ・エヌ新社,2016
         ジョ
ゼフ・アルバースの色彩理論がインタラクティブに学べるipadアプリが発売されて
         いる。詳しくはこちらから https://mag.torumade.nu/?p=12772



*初出 zeitgeist site




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モダンデザインのレガシーを追って<前編>~東京オリンピック1964の遺産~

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 今から53年前の1964年の東京オリンピックによって東京の街は様変わりする。

 当時の日本が威信をかけたモダンデザインのレガシー(遺産)、その光と影を今の東京に追った。<前編>では青山、代々木エリアに東京オリンピック1964のレガシーを訪ねる。
 
           
<現在、建て替え中の国立競技場。消え去りつつある周囲に残る昭和の痕跡>
   
 最初に1964年10月10に開会式が開かれた旧国立競技場跡地を訪ねてみた。旧国立競技場は2020年の東京オリンピックに向けて建て替えが決まり、既に解体されている。

国立競技場
 (*source: http://net-research.org/trendnews/)
 
 当初のコンペで当選したザハ・ハディッドの計画案を巡って一大論争が巻き起こったことは記憶に新しい。モダンデザインはその象徴性や機能性に優れていれば建築単独で評価できるのか、あるいは、モダンデザインと言えども、そこで育まれてきた地域の文脈や歴史性を考慮すべきなのか、論争はモダンデザインの本質とも関わりながら沸騰した。
         
 国立競技場を巡る論争は、コストとスケジュールという、いつもながらの土建的要因が前景化するなかで霧消し、結果的にコンペのやり直しが行われ、隈研吾のデザインで新たに新国立競技場として建設することで決着となった。跡地では2020年に向けて急ピッチで工事が進んでいる。

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 槌音が響く旧国立競技場跡地に隣接した二つの集合住宅も1964年の東京オリンピックと関連が深い建物だ。
 
 明治公園の南側にあった都営霞ヶ丘アパートは、もともとあった長屋形式の都営住宅を、東京オリンピックを機に建て替えたものだ。明治公園や首都高などオリンピックにあわせた開発で立ち退きを余儀なくされた人の住まいにもなったそうだ。敷地が旧国立競技場の建て替えの際の開発エリアに組み込まれ、現在は解体されている。
 
 児童公園にはもう誰も姿もなく遊具だけが取り残されている。当時は都心にも子供が溢れていたのだ(写真は解体中の2016年のもの)。

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 都営霞ヶ丘アパートの南側に建つ外苑ハウスは、もともとはオリンピックのためのプレス宿舎として日本住宅公団が作り、後に分譲されてマンションとなった建物だ。こちらも既に建て替えが決まっている。集合住宅の黎明期を忍ばせるシンプルで潔いデザインの建物ももうすぐ姿を消す。

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<レガシーの代表。丹下健三による類まれなる傑作国立代々木競技場>
 
 なんといっても東京オリンピック1964のレガシーの代表といえば、世界のタンゲの傑作国立代々木競技場(代々木第一体育館、代々木第二体育館)だ。

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 天地の間に潜む巨大な力学を一瞬のうちに空中で凍結させたような、この類まれなダイナミズムは、吊り屋根方式によるものだ。
 

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 吊り屋根で大空間作った建物は、当時すでに先行事例があった。マシュー・ノヴィッキーのノースカロライナ・アリーナやエーロ・サーリネンのイェール大学アイスホッケー場だ。丹下はこれらの事例を参考にしながら、吊り屋根の弱点だった、造形面の単純さ(吊り屋根はアーチ状の構造材にワイヤーを吊って屋根を架けるため、どうしてもその形が重力に応じた単純なものになりがちだ)や規模の限界を乗り越える。
    
 平面をずらして巴形にすることにより円や楕円の単純な形状から抜け出すとともに、ワイヤーと吊り鉄骨を併用したセミ・リジッド構造により、屋根が徐々に競りあがりながら天に向かって飛翔するような独特の屋根フォルムを実現する。それはコンクリート造のスタンド部分が、あたかも巨大な翼をもたげるようにしながら大地から離れ、天に伸びる垂直な壁柱に成り行く造形とあわせて、今まで誰も想像したことがない力の造形が出現した。

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 代々木第一体育館が類まれなる傑作なのは、モダニズム思想を徹底した純粋ジオメトリック(幾何学)なフォルムでありながら、例えば、法隆寺伽藍の金堂と五重塔の屋根稜線が重なる風景や唐招提寺金堂の屋根の緩やかな流れなど、日本建築における大屋根によるモニュメンタルな建築を、見るものすべてに自然と想起させるところにある。
 
 
 それは理性の勝利、モダニズムデザインの到達点として、オリンピックという祭典の高揚感を具現化するとともに、当時の日本の悲願であった、一流国の仲間入りにふさわしい象徴として昇華させた国民建築だった。
  
 こちらは同じ丹下健三による代々木第二体育館。第一体育館に比べ規模が小さいためか、あまり注目されないが、円の求心性を渦巻状に造形化したデザインは秀逸だ。

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<代々木公園に残る旧ワシントンハイツの遺構>
   
 代々木会場のこのあたりは米軍宿舎の旧ワシントン・ハイツのあった場所。その前身は陸軍代々木錬兵場だった。東京オリンピックが契機になり、旧ワシントンハイツがアメリカから全面返還され、米軍宿舎の建物が選手村として使われた。代々木公園の一画に選手宿舎として使われた旧米軍住宅が一棟だけ残っている。ゆったりとした平屋住宅は、「フェンスの向こうのアメリカ」の豊かさに目を見張っていた当時の日本の姿を想像させる。

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 旧ワシントンハイツ跡地は、その後、代々木公園として整備され、憩いとスポーツのメッカとなって現在に至っている。
 

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<表参道の歴史を映し出しながら佇む、その名もコープオリンピア>
     
 今日では当たり前になったマンションとよばれる都市型集合住宅が本格的に普及していくのも東京オリンピックの時期だ。1962年に「建物の区分所有等に関する法律」が制定され、第一次マンションブームが興る。

 原宿駅前の五輪橋の袂に建つのが、今やヴィンテージマンションの代名詞となったコープオリンピア。オリンピック翌年の1965年の竣工だ。当時の価格で一億円を越える日本初の億ションとしても有名になった。設計は清水建設の鉾之原捷夫。三島由紀夫の自邸の設計者として知られている人物だ。

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 オリンピックの前に近くに越してきた小林信彦は、そのころの表参道は「郊外みたいなところ」だと印象を述べている(『私説東京繁盛記』 小林信彦 1984)。
 
 同潤会の青山アパートはあったものの、当時の表参道はオリエンタル・バザールやキディ・ランドなど駐留軍家族向けの店か、やはり駐留軍関係の貿易商などが居住するセントラル・アパートなどしか目ぼしい建物はなく、行き来する人も少なく閑散とした雰囲気だったという。
 
 今日の表参道の繁栄のきっかけもやはり1964年の東京オリンピックだった。旧ワシントンハイツの返還を機に、駐留軍家族に代わって、時代の先端を求める日本人たちが、点在するアメリカ文化の香りに惹かれて集まってくる。その後の表参道のハイカラなイメージはこうして始まった。
     
 雁行するガラスのファサードに当時からの表参道の歴史を映し出しながら、コープオリンピアは50年前と同じようにケヤキ並木を前に静かに佇んでいる。

                                <中編に続く>




*参考文献 : 
片木篤,『オリンピック・シティ東京1940-1964』,2010,河出書房新社
        竹内正浩,『地図で読み解く東京五輪』,2014,ベスト新書
        丹下健三・藤森照信,『丹下健三』,2002,新建築社       
        豊川斎赫,『丹下健三とTANGE KENZO』,2013,オーム社
 

      

  

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レイモンド・チャンドラー『ザ・ロング・グッドバイ』精読 Chapter22

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 第22章ではマーロウが<ヴィクターズ>で運命の人リンダ・ローリングに出会う。第3章と呼応するかたちでギムレット談義が登場するチャプターでもある。
 
 「中に入ると温度が下がる音さえ聞こえそう」な静かな店内。冒頭からチャンドラーの比喩が冴えわたる。
 
 It was so quiet in Victor's that you almost heard the temperature drop as you came in at the door.
 
 バー・スツールに座っている女性をこう描写する。
 
 She had that fine-drawn intense look that is sometimes neurotic, sometimes sex-hungry, and sometimes just the result of drastic dieting.
 
 fine-drawn intense lookのfine-drawnは文字通り、細く引き伸ばされたという意味だが、体重を落とした、洗練された、という意味もある。後にdrastic dietingという表現があるので、痩せているというニュアンスが込められているのだろう。fine-drawn intense lookで「細っそりとしてどこか張り詰めたような印象の顔立ち」という感じか。村上訳では「細部までくっきり引き締まった」、清水訳では「しずんだ魅力のある」という訳になっている。
 
 "A gimlet," I said. "No bitters."とマーロウはレノックスから頼まれていたギムレットをオーダーする。No bittersとしたのは、以下の第3章に登場するレノックスによるギムレットに関する講釈どおりに注文したからだ。
 
 "They don't know how to make them here," he said. "What they call a gimlet is just some lime or lemon juice and gin with a dash of sugar and bitters. A real gimlet is half gin and half Rose's Lime Juice and nothing else. It beats martinis hollow."
 
 そしてバーテンダーもそれに呼応するように「この前の夜のお友達とのお話に出ていたローズのライム・ジュースを入手した」と嬉しそうに言う。
   
 "You know something," he said in a pleased voice. "I heard you and your friend talking one night and I got me in a bottle of that Rose's Lime Juice. Then you didn't come back any more and I only opened it tonight."
 
 テリー・レノックスは第3章でこう言っていた。「本物のギムレットはジンとローズのライムジュースが半々でほかにはなにも加えない。これを前にしたらマティーニなんか味気ないものだ」と(レイモンド・チャンドラー『ザ・ロング・グッドバイ』精読Chapter3)。
       
 We sat in a corner of the bar at Victor's and drank gimlets. "They don't know how to make them here," he said. "What they call a gimlet is just some lime or lemon juice and gin with a dash of sugar and bitters. A real gimlet is half gin and half Rose's Lime Juice and nothing else. It beats martinis hollow."
 
 マーロウがバーテンダーの気遣いに感謝し、ローズのライムジュースを使ったダブルのギムレットを注文すると、バーの女性が「この辺ではそんなものを頼む人はあまりいないようね」(村上訳)と独り言のように言い、ギムレット談義が始まる。
        
 "A fellow taught me to like them," I said.
 "He must be English."
 "Why?"
 "The lime juice. It's as English as boiled fish with that awful anchovy sauce that looks as if the cook had bled into it. That's how they got called limeys. The English-not the fish."
    
 18世紀以降、イギリス海軍では航海中の船員の壊血病予防のためにレモンやライムのジュースが船員たちに支給されていた。イギリス水兵(ひいてはイギリス人)をlimeyライミーと呼ぶのは、このことに由来している。
 
 1867年、スコットランドの港町リースのロシュラン・ローズ Lauchlin Roseは、人気がなかった生のライムジュース(当時は保存のために15%のラム加えられていたそうだが)の代わりに加糖によって保存性を高めたコーディアル・ライムジュースの特許を取得する。
       
 折りしもイギリスでは1867年の商船法によりすべての外洋船にライムジュースを常備することが義務づけられ、ローズ社のコーディアル・ライムジュースは爆発的に需要が伸びる。

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(*source : 
https://www.pinterest.jp/pin/500884789778348644/)
  
 Gimletギムレットの名前の由来は、ジンを飲むときにコーディアル・ライムジュースをミックスして飲むことを水兵たちに勧めたイギリス軍軍医のSir Thomas Gimlette(1857-1943)に由来するとか、あるいは突き刺すような鋭いその味わいからgimlet(錐)と名づけられたなど諸説ある。
   
 「本物の」ギムレットを味わったマーロウの感想はこうだ。
        
 The bartender set the drink in front of me. With the lime juice it has a sort of pale greenish yellowish misty look. I tasted it. It was both sweet and sharp at the same time.
 
 「甘さと鋭さが両方同時にくる」。それもそのはず、このレシピによるギムレットは相当に甘く感じるずだ。
        
 最近のギムレットはフレッシュライムジュースを使って、もっとドライに作られるのが普通だ。ジン45ml+フレッシュライムジュース15mlをシェイクして、これでは酸っぱすぎるということで、+シュガーシロップ1tbsで甘さを与えるというところが一般的なレシピか(★1)。
       
 テリー・レノックスが「本物の」と主張する50:50の甘いギムレットは、はたして本当に本物なのか。これが、あながち酔っ払いテリーの与太話ではなさそうなところが難しい。
           
 このジンとローズのライムジュースを半々というレシピはロンドンのサヴォイホテルのアメリカン・バーのチーフ・バーテンダーだったハリー・クラドックが1930年に出版したカクテルの権威書といわれる『サヴォイ・カクテルブック』にも下のように記載されており、当時の英国では、一般的に普及していたレシピのようだ。<レイモンド・チャンドラーの世界>というサイトの「本物のギムレットを求めて」というページに詳しく紹介されている。
   
 1/2 Burrough’s Plymouth Gin(★2),
 1/2 Rose’s Lime Juice Cordial.
 Stir,and serve in same glass.
 Can be iced if desired.
  
 「バローのプリマスジン1/2、ローズのライムジュース(コーディアル)1/2、ステアしてグラスへ、必要に応じて氷」
    
 ちなみにプリマス・ジンは『サヴォイ・カクテルブック』に先立って1925年に最初のカクテル・ブックレットを出している。そこにはギムレットのレシピも掲載されていたそうだが、それが、現在のプリマスジンのサイトに掲載されているレシピ(プリマスジン3に対してローズ・ライムジュース1というどちらかというと今日的なもの)と同一のものかどうかは分からない。
 
 さてテリー・レノックスが主張して止まない「本物の」ギムレットのことだが、たぶんこういうことなのではないだろうか。
  
 氷さえも必須ではないこの50:50のギムレットのレシピは、氷や冷蔵技術がなかった時代のイギリス海軍の船上で生まれたこのカクテルの始原に対するオマージュなのではなかったのか。
 
 それは都会的な洗練とか、甘いか甘くないかなどとは、まったく無縁なところで成り立っている、古の英国ネイヴィーのプライドを記憶に留めるレシピだったのではなかったか。
 
 ワイルドでストレートすぎる感が否めないこのレシピに、マティーニをドライに進化させ、シンガポールスリングを洗練させたといわれるハリー・クラドックが手をつけなかったのも、たぶん同じ理由なのではなかったか(★3)。

Harry-Craddock

(*souirce : https://sipsmith.com/around-world-50-classic-cocktails-white-lady/)
          
 テリー・レノックスにとって「本物の」ギムレットとは、イギリスの記憶であり、イギリス的なものの象徴だったのだろう。
  
 何故、テリーはイギリス的なものにこだわるのか。「本物の」ギムレットにまつわる談義が、単なるエピソードに留まらずに、謎解きの核心に関連しているというのも本作の奥深い魅力といえる。
          
 そして、テリーのこだわりは、すなわちチャンドラーのこだわりでもある。チャンドラーはハリー・クラドックとは逆に、シカゴに生まれ12歳で母とイギリスに渡った。英国海軍でも職を得ており、その後、24歳でアメリカに戻り、第一次大戦で再び、イギリスに渡っている。
    
 第二次大戦前のイギリスを経由した眼差しによって描かれる戦後のアメリカ西海岸の都市の風景、というのが『ザ・ロング・グッドバイ』のトポスだ。
 
 本文に戻ると、先の文でバーテンダーがローズのライムジュースを「今日、開けたところでした」と言っているのは、バー・スツールに座っている女性が飲んでいたのも、テリー・レノックスがこだわった50:50のギムレットということになる。
 
 この女性は、ライムジュースにこだわるマーロウの友達はきっとライミー(イギリス人)だと言い、レノックスのことを知りすぎていたくらいに知っていたと言う。
 
 "I said I knew him rather too well. Too well to think it mattered much what happened to him. He had a rich wife who gave him all the luxuries. All she asked in return was to be let alone."
 
 女性はリンダ・ローリングと名乗る。殺されたシルヴィア・レノクスの姉で富豪ハーラン・ポッターの長女だった。
 
 彼女はレノックスが<ヴィクターズ>でギムレットを飲んでいたことを知っており、さらには、そこでマーロウと一緒だったこともたことも知っており、偶然を装ってマーロウとの邂逅を目論んでいた、ということになる。
 
 父親のハーラン・ポッターは、テリーが好きで、テリーのことをこう言っていたという。
 
 He liked Terry. He said Terry was a gentleman twenty-four hours a day instead of for the fifteen minutes between the time the guests arrive and the time they feel their first cocktail."
 
 「パーティーに到着してから、最初のカクテルを味わうまでの間の15分間だけしか紳士でいられない連中とは違い、テリーは24時間ずっと紳士だった」と。50年代のアメリカのパーティーシーンが眼に浮かぶようなチャンドラーの比喩。
 
 さらにハーラン・ポッターは、シルヴィアにとうの昔に見切りをつけていたと言う。bluntは直截な、write offは、見限る、死んだものとみなす、hagは鬼婆、frightfulはひどく醜い、dregはくずという意味。
 
 "This is going to sound pretty blunt, I'm afraid. Father had written my sister off long ago. When they met he barely spoke to her. If he expressed himself, which he hasn't and won't, I feel sure he would be just as doubtful about Terry as you are. But once Terry was dead, what did it matter? They could have been killed in a plane crash or a fire or a highway accident. If she had to die, it was the best possible time for her to die. In another ten years she would have been a sex-ridden hag like some of these frightful women you see at Hollywood parties, or used to a few years back. The dregs of the international set."
 
 international setは今で言うとjet setぐらいのニュアンスだろう。「あと十年も生きていればハリウッドのパーティーでよく見かけるような色情狂の鬼婆、社交界のくずのような存在になっていたでしょう」とは、辛らつ過ぎるほど正直な妹への評価だ。
 
 リンダ・ローリングは、こうなったこと、つまり、シルヴィアが死んで、その犯人と目されるレノックスも自殺して、裁判ざたや新聞ネタにならずにすべてが闇の中に葬られたことは、結果的に一番良かったのではないかと言う。
 
 身内の死にまつわる事件に対してのあまりに冷静でしかも整然としたリンダの解釈に急に腹立たしくなるマーロウ。ハーラン・ポッターが、その巨額の財産や政治的影響力や自分の組織を使って、レノックス事件を表に出さないように動かなかったとは到底信じられないとまくし立てる。
 
 "You're a fool," she said angrily. "I've had enough of you."
 
 「馬鹿な話だ」と一蹴するリンダ。後半のI've had enough of youは「あなたの話は十分だ」という意味。「もうたくさんですわ」というのが清水役、「聞きに堪えません」が村上訳。
 
 レノックスの自殺は、一族のスキャンダルを嫌ったハーラン・ポッターの求め応じた結果だったのではないのか、となおも引き下がらないマーロウ。ハーラン・ポッターは電話をかけてきたテリーに以下のように話してメキシコへの逃亡と自殺を迫ったのではないか。テリー、死体置き場で会おうじゃないか、と。have it ~は~の境遇にある、という意味。check outは死ぬという意味。
 
 "You've had it soft and now is the time you pay back. What we want is to keep the fair Potter name as sweet as mountain lilac. She married you because she needed a front, She needs it worse than ever now she's dead. And you're it. If you can get lost and stay lost, fine. But if you get found, you check out. See you in the morgue."
  
 そんなことを言いふらしたらあなたのキャリアは終わりを告げる、と警告を発するリンダ。
  
 手を引けとの警告はこれで三度目だとうそぶくマーロウに対して、"Three gimlets. Doubles. Perhaps you're drunk."の言葉を残してリンダ・ローリングはその場を立ち去る。
 
 He touched his cap and went off and came back with a flossy Cadillac limousine. He opened the door and Mrs. Loring got in. He shut the door as though he was putting down the lid of a jewel box.
 
 a flossy Cadillac limousineのflossyとは一体どんなニュンスか。flossyは立派な、しゃれた、派手な、などの意で良い意味でも悪い意味でも使われるようだ。1950年代のキャディラックのリムジン(シリーズ75)はこんな感じだ。圧倒的な存在感を放っていた、アメ車が最もアメ車らしい時代の車。flossyとは、豪華で優雅で大げさな、まさにこのイメージを表現していたのだろう。「宝石箱の蓋を閉めるように車のドアを閉める初老の黒人のショーファー」というのも実にチャンドラーらしい人物形容だ。

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(*source : https://www.flickr.com/photos/autohistorian/3751503722)
      
 別れ際、リンダ・ローリングは、アイドルヴァレーに住んでおり、ロジャー・ウェイドを知っているという。亡きレノックスに関連する人物が次々にマーロウのもとに現れ、不思議な連関をなし始める。
  
 <ヴィクターズ>のバーのカウンターで二人の様子を窺っていた、メンディ・メンネンデスの子分のチック・アゴスティーノが、バーにやってきた風紀取締役の巨漢ビッグ・ウィリー・マルーンにこてんぱんにされて22章は幕を閉じる。
 
 In Hollywood anything can happen, anything at all.




     
 
(★1) ちなみにTokyo Culture Addictionオリジナルのギムレットは、料理blog<チキテオ>に掲載中。コーディアル・ライムジュースの代わりに、手づくりのライムシロップとフレッシュライムの合せ技により、切れと甘さと酸味のバランスを図ったギムレットです。もちろんジンはプリマス・ジンで。
  
(★2) 何故、Burrough’s Plymouth Ginという表現になっているのか、長い間不可解だったが、たぶん以下のような事情があったと推測される。Plymouth Gin Historyというサイトに、プリマス・ジンを作っていたCoates&Co.社が1933年にBurrough’s社(Beefeater Ginの会社)に対して、同社がプリマス・ジンと称して販売する商品に関する裁判に勝利して、以降はプリマスの旧城壁に囲まれた地域の中で蒸溜されたジンのみがプリマス・ジンと称することができる、いわゆる原産地名称表示制度が生まれたとの記載がある。ここから推測するに、ハリー・クラドックがこのカクテル・ブックを書いた時には、バロー社などからもプリマス・ジンと称した商品が販売されており、このBurrough’s Plymouth Ginという表現になったのだと思われる。何故、ハリー・クラドックがバロー社のものを選んだのかは不明。一般的だったのか、あるいは、個人的な好みだったのか。ちなみに、プリマス・ジンはイギリスで唯一原産地表示制度が適用されたジンであり、ロンドン・ジンはロンドンで蒸溜しなくてもロンドン・ジンと表示することが出来るそうだ(<稲富博士のスコッチノート>というサイトより)。
 
(★3) ドライ志向の現在からみると、当時のレシピは、ギムレットに限らず総じて甘かったという事情もあるだろう。ちなみに『サヴォイ・カクテルブック』のドライ・マティーニのレシピは、ジンとドライヴェルモットが50:50、オレンジ・ビターズをたらしてシェイクして供するとなっている。

                              to be continued
     


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空間をめぐる権力~マーク・ロスコのシーグラム壁画はなぜザ・フォーシーズンズに飾られなかったのか~

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 ニューヨークの伝説の高級レストラン、シーグラムビルにあるザ・フォーシーズンズThe Four Seasons が2016年7月16日で閉鎖し、パークアヴェニューの新たな場所に移転することが報じられた。ひとつの時代の終わりを象徴する出来事として、多数のニューヨーカーから惜しむ声が上がった。
     
 シーグラムビルはミース・ファン・デル・ローエが設計したニューヨークで唯一の建物だ(1959年竣工)。

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(*source:http://www.archaic-mag.com/classics-seagram-building-mies-van-der-rohe-philip-johnson/)
  
 ミース・ファン・デル・ローエの起用を推薦したのが、フィリス・ランバート(旧姓フィリス・ブロンフマン)。初代シーグラム社社長であったユダヤ人の大立者フィリップ・ブロンフマンの娘であり、イェール大学で建築を学んだ人物だ。
 
 フィリスから建築家の選定段階で相談を受けていた、当時MOMAの建築部門責任者に返り咲いていたフィリップ・ジョンソンが共同で設計することになる。フィリップ・ジョンソンはミースをアメリカに紹介した人物でもあり、旧知の仲だ。

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(*Phyllis Lambert and Mies van der Rohe with a model of the Seagram Building, source: https://www.knoll.com/knollnewsdetail/remembering-the-four-seasons)

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(*Mies van der Rohe and philip Jhonson with a model of the Seagram Building, source: http://mostlymies.tumblr.com/post/47990066977)
 
 ザ・フォーシーズンズの内装はフィリップ・ジョンソン自らが手がけた。高い天井の空間をフレンチ・ウォールナットのウッドパネルで被い、窓にはビーズの優雅なカーテンをかけ、大理石やトラバーチンやブロンズが惜しみなく使われた。費用は現在の貨幣価値で4,000万ドル(40億円超!)と言われている。
  
 天井から吊るされたリチャード・リッポルドのブロンズを使ったアートがひときわ目をひくザ・バー、段差を巧みに利用してコージーな居心地を作ったザ・グリル・ルーム、中央に置かれた水盤と大きなツリーによる開放感あふれるザ・プール・ルームなど、フロアーは、それぞれ異なった雰囲気と魅力を持った空間として作り込まれていた。

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 (*The Bar at The Four Seasons source:https://jp.pinterest.com/pin/131659989079653787/)

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(*The Grill Room at The Four Seasons 2015 ,source:
http://www.grubstreet.com/2015/12/the-end-of-the-four-seasons.html

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(*The Pool Room at The Four Seasons 1959, source:https://www.knoll.com/knollnewsdetail/remembering-the-four-seasons)
 
 ミースのブルノ・チェア、ハンス・J・ウェグナーのザ・チェア、エーロ・サーリネンのチューリップ・チェア、ノールオリジナルのバー・スツール、そしてフィリップ・ジョンソン自らがデザインしたオリジナルの造り付け家具など、取り揃えられたモダニズム家具も垂涎ものだ。
 
 モダニズム建築のマイスターとアメリカ建築界のドンという二人の巨匠の手になるザ・フォーシーズンズは、モダニズムが最も輝いていた時代を象徴する高級レストランとして数々の伝説で彩られている。
 
 パワー・ランチという言葉はここザ・フォーシズンズで生まれた。J.F.ケネディ大統領が45回目の誕生日をザ・グリル・ルームで祝い、ジャクリーン・ケネディはここを「大聖堂」と呼んだ。ヘンリー・キッシンジャーは「ザ・フォーシーズンズはレストランではなく、ひとつのinstitution (社会的な組織、施設、機関の意)だ」と評し、セレブリティたちがバレーのような足取りでバー・ホッピングに勤み、いつもの席でフォアグラとネグローニのランチを楽しむ御大フィリップ・ジョンソンの姿がしばしば目にされた。
 
 最高のモダニズム建築に最高のモダンアートを合わせるべくフィリップ・ジョンソンが、ザ・フォーシーズンズのための壁画作製のアーティストとして白羽の矢をあてたのがマーク・ロスコだった。

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(*Mark Rothko, source: https://tophomexxx.com/2015/03/12/mark-rothko/)
 
 マーク・ロスコは約30点(40点ともいわれている)の大型の絵画を完成させた。後にシーグラム壁画(Seagram Murals)と呼ばれる連作だ。
  
 しかしながら、それらの作品はザ・フォーシーズンズを飾ることはなかった。
 
 理由は、完成間際のレストランを見たマーク・ロスコが契約を一方的に破棄して、受け取り金を返し、作品を引き渡すことを拒否したからだ。ロスコは、その勿体ぶったインテリアが自らの作品を展示するにはふさわしくないと考え、契約を破棄したと言われている。「食事に5ドル以上もかかるなんて犯罪だ」と激怒したとも言われている。
 
 一方、マーク・ロスコは事前に壁画作製の真意を「高級レストランで食事をするようなクズども全員の食欲を台無しにする代物を描く」のだと漏らしていた。
 
 そんな確信犯のロスコが、いかにも高級そうな金がかかった空間という、予想しえたはずの現実に直面して何故、態度を豹変させたのか。

 
                                                                                             <後編>に続く


*参考文献等:

Willam Grimes,Four Seasons, Lunch Spot for Manhattan’s Prime Movers, Moves On,Available at<https://www.nytimes.com/2016/07/10/nyregion/four-seasons-lunch-spot-for-manhattans-prime-movers-moves-on.html?_r=1>

Holly Peterson,A Brief History of the Most Important Restaurant In New York, Available at <http://www.townandcountrymag.com/society/money-and-power/a5671/four-seasons-restaurant-history>

The End of The Fourseasons, Available at <http://www.grubstreet.com/2015/12/the-end-of-the-four-seasons.html>

Remembering The Four Seasons,Available at< https://www.knoll.com/knollnewsdetail/remembering-the-four-seasons >

Mark Rothko,Wikipedia,Available at<https://en.wikipedia.org/wiki/Mark_Rothko>

Dan Howarth,Critics slam "painful" auction of items from Philip Johnson's The Four Seasons restaurant,Available at<https://www.dezeen.com/2016/06/15/critics-slam-painful-wright-auction-philip-johnson-four-seasons-restaurant-seagram-building-interior-new-york/>



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モダンデザインのレガシーを追って<中編>~東京オリンピック1964の遺産~

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 今から53年前の1964年の東京オリンピックによって東京の街は様変わりする。
       
 当時の日本が威信をかけたモダンデザインのレガシー(遺産)とその光と影を今の東京に追った。<中編>では渋谷エリアに東京オリンピック1964のレガシーを訪ねる。
     
シブヤ文化が生まれるきっかけになった東京オリンピック
  
 1964年の東京オリンピックで最も変貌した街の筆頭は渋谷だ。
 
 渋谷は、代々木や世田谷にあった練兵場の軍関係者を相手にした道玄坂や円山町界隈の歓楽街にルーツを持ち、関東大震災と戦災を契機とする住宅の郊外化を支えた郊外電車のターミナルとして発展してきた街だ。
               
 1934年(昭和9年)に渋谷駅と一体となった東横百貨店(後の東急百貨店東横店東館)が作られる。東急の五島慶太が、阪急の小林一三の梅田駅に倣って作った関東発のターミナルデパートだ。戦争をはさみ、東急会館(1954年 現在の東急百貨店東横店西館)、東急文化会館(1956年)が建てられる。
               
 駅周辺の商業集積は進んだものの、当時の渋谷は、まだまだ郊外電車の乗り換え駅というイメージが強く、面的な広がりや発展性は希薄だった。銀座はもちろん、新宿や池袋などに比べても繁華街としての知名度や集客力は劣っていた。
           
 変貌のきっかけは、1964年の東京オリンピックだった。
           
 現在の神南二丁目にあるNHK放送センターの前身はオリンピックの時に作られた東京オリンピック放送センターだ。NHKは1973年に本部機能もここに移転させる。マスコミ最大のメディアが内幸町から渋谷へ移転したことは、その後の渋谷の発展、ひいては東京文化の西進に大きく寄与する。

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(*NHK放送センター 2016)
        
 NHK放送センターと通りを挟んで、同じ旧ワシントンハイツ跡地に、旧渋谷公会堂(1964年)と旧渋谷区役所(1965年)が建てられる。
                
 渋谷公会堂は東京オリンピックの重量上げの会場に使われた、その後はクラシックのコンサートや当時の人気テレビ番組『8時だョ!全員集合』(TBS)や『ザ・トップテン』(日本テレビ)の公開生放送の会場として名を馳せる。
                 
 オリンピック選手村は代々木公園として整備され、渋谷は隣接に広大な都市公園や理想的なアスリート環境を有した恵まれた立地条件に格上げされる。同時に駅前中心だった渋谷の街に広がりが生まれ、おしゃれなイメージの原宿や表参道との連続性が強まってくる。
           
 1968年に西武百貨店渋谷店がオープンし、1973年には当時「区役所通り」と呼ばれていた通りに渋谷パルコがオープンする。セゾングループの進出は、東急の牙城だった渋谷のコンサバなイメージを大きく塗り替える。「区役所通り」という地味な名称はおしゃれで欧米風の「公園通り」と呼び名を変え、坂や小さな通りが個性的なストリートに生まれ変わり、大小資本によるさまざまなカジュアルファッションやサブカルチャーが混在する活気ある混沌が生まれ、流行に敏感な若者が集まってくる。
     
 渋谷は、銀座や新宿にはない独自の文化<シブヤ文化>を発信する個性と魅力を有した街へと変貌を遂げる。
         
 放送、情報、公園、スポーツ、おしゃれ、ストリート、カジュアル、カルチャーなど、70年代以降の消費の主流を担った若者を惹きつけるこうしたイメージのすべては、1964年の東京オリンピックの開催を契機とした旧ワシントンハイツ跡地の開発とそれに連なる一連の街の変貌が背景にあったことがわかる。
              
 今の渋谷は、すべては東京オリンピックから始まった、そう断言しても決して言い過ぎとはいえない。
              
青山通り、六本木通り。東京オリンピックは渋谷の風景を大きく変えた
 
 現在、慣れ親しんだ青山から渋谷にかけての風景や雰囲気も、東京オリンピック1964のレガシーのひとつといえる。
                  
 国立競技場がある神宮外苑と駒沢会場を連絡する道路として、青山通りが拡幅され、幅員22mの道路が40mとなる。平屋の商店が建ち並ぶ、のんびりとした風情の通りが一変する。

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(*南青山三丁目付近の青山通り 2017)
 
          
 拡幅後の沿道には、当時、ゲタバキアパートと呼ばれた1階に店舗が入った住宅やオフィスビルが建ち並んだ。現在、ブルックス・ブラザースが入る、住宅公団が建てた青朋ビルなどがその代表だ。

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(*北青山三丁目の青朋ビル 2017)
 
       
 それは確かに、静謐さとつつましさを湛えた低層の街とコミュニティを破壊した「町殺し」(小林信彦が『私設東京繁昌記』で引用した建築家石山修武の言葉)であったことは否定できない。
                  
 一方で、拡幅後に建てられた、こうした沿道建物には、ゲタバキと称されながらも、当時、アイビーファッションで日本の服飾業界を変革させたVANジャケットによるVAN本館やVAN356別館(現ブルックス・ブラザースのビル)、日本初の深夜営業の輸入食品スーパーのユアーズ(1982年閉店)ができるなど、アメリカナイズされたファッションや垢抜けたライフスタイルの街としての、その後の青山のイメージを創り出したショップが誕生する。
    
 <前編>で言及した表参道とあわせて、青山・表参道エリアが東京随一の高感度なファッションタウンとなったきっかけは、やはり東京オリンピックにあったといえる。
       
 六本木通りはオリンピックを機に作られた道路だ。都心方面から渋谷を経由して駒沢会場への連絡路として機能した。同時に首都高速3号線の渋谷四丁目暫定出入口~渋谷口までの区間が整備されたことにより、渋谷駅とクロスする箇所(渋谷南立体交差)は、下から玉川通り(六本木通りは渋谷署前以西は名称が玉川通りに変わる)、JR山手線(当時は東急東横線も)、首都高速3号渋谷線が3層に積み重なるという極めて珍しい都市景観を生み出した。

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(*東横線の地上ホームがあった頃の渋谷南立体交差 2013)
 
  
 駅舎が谷底に設けられている渋谷ならではとはいえ、地上3階の空中を走り、旧東横百貨店の建物の中に吸い込まれていく地下鉄銀座線(1937年開通)の存在とあわせて、当時の渋谷の風景は、明るい未来を信じていた時代の近未来都市のイメージそのものだった。

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(*東急百貨店東横店東館があったころの銀座線 2013)
 
あれから半世紀。消え去りつつある東京オリンピックの風景
                   
 1964年の東京オリンピックは、東京に残っていた終戦後の痕跡を消滅させ、現在につながる風景を作った。そしてその風景も半世紀を経た今、再び消え去ろうとしている。

 渋谷公会堂と渋谷区役所は、既に建て替えのために取り壊されている。そしてNHK放送センターも2020年の建て替えが決定している。さらには、渋谷パルコも建て替えのために2016年8月にクローズした。

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(*渋谷区役所、渋谷公会堂跡地 2016)
 

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(*解体前の渋谷パルコ 2016)
 
            
 渋谷駅とその周辺も急ピッチで建て替えが進んでいる。2012年に東急文化会館がヒカリエに建て替わり、2013年には東横線渋谷駅が地下化され、かまぼこ屋根のユニークな地上ホームがなくなり、ターミナルビルも東急百貨店東横店東館もは既に解体されている。

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(*かつての東横線地上ホームと東急百貨店東横店 2013)
 
               
 現在、残っている東急百貨店東横店西館および南館(1970年)も今後、解体予定であり、東急の五島慶太が構想し、渡辺仁や坂倉準三が形にした戦後のモダニズムの香りが宿る渋谷駅の一連のターミナルビル群が姿を消すのも時間の問題だ。

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(*ヒカリエから見た渋谷駅周辺 2017)
 
      
 高度経済成長を背景に、1964年の東京オリンピックをきっかけに大きく変わった渋谷のまちは、半世紀を経た今、再び変貌の時期を迎えている。
         
 永遠の新しさを求めて止まない日本の都市のダイナミズム。今度の渋谷の街は何を得て、何を失うのだろうか。

                                                                                             <後編に続く>


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モダンデザインのレガシーを追って<後編>~東京オリンピック1964の遺産~

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 今から53年前の1964年の東京オリンピックによって東京の街は様変わりする。

 当時の日本が威信をかけたモダンデザインのレガシー(遺産)とその光と影を今の東京に追った。<後編>では東京都心と駒沢エリアに東京オリンピック1964のレガシーを訪ねる。
    
     
新幹線、モノレール、首都高、すべてオリンピックに向けて整備された
 
 1964年の東京オリンピックは東京の交通網も激変させた。
     
 1964年10月10日のオリンピックの開会に間に合わせるべく整備されたのが、東海道新幹線(1964年10月開業)とモノレール羽田線(1964年9月開業)と首都高速道路(一号線、二号線、三号線、四号線分岐1964年10月開通)だ。
   
 なかでも東京の風景を一変させたのが首都高速道路。羽田空港から代々木の選手村および競技会場間の輸送が整備の目的だった。
 
 車は首都高速四号線の赤坂トンネルの暗がりを抜け、正面の高層ビルや左側に現れる弁慶濠の水景を眼下に見ながら、赤坂見附へと向けて緩やかな左旋回で進む。アンドレイ・タルコフスキー監督のSF映画『惑星ソラリス』(1972)のワンシーンだ。

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(*弁慶壕と首都高速四号線,2017)
 
 大都市の地下と空中を自在に行き来し、高層ビル群の間を縫うように高速道路が続いていく風景は、世界のどこにもない近未来都市のイメージとして稀代の映像作家の想像力を刺激した。
 
 首都高速の建設に当たっては、限られた予算と工期のなさを理由に、建設が容易な運河や河川の上が利用されることとなり、その結果、都心に残っていた江戸以来の水のまち東京の景観は、決定的なダメージを受ける。首都高速四号線分岐線が、多くの反対を押し切って日本橋の上を跨ぐように作られたことにより、江戸の五街道の基点である日本橋(妻木頼黄設計,1911年竣工)は、コンクリートの塊に押しつぶされそうな姿で今日に至っている。これを日本近代ならではのシュールな景観といって喜んでばかりいてもいいものかどうか。

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(*日本橋と首都高速四号線分岐線,2017)
 
 

日本のホテルで実現されたバックミンスター・フラーの発想
      
 都市ホテルの整備も東京オリンピック1964が契機となった。1959年のオリンピック誘致決定後に開業した主なホテルは、ホテルニュージャパン(1960)、銀座東急ホテル(1960)、パレスホテル(1961)、ホテルオークラ(1962)、東京ヒルトンホテル(1963)、ホテル高輪、東京プリンスホテル、ホテルニューオータニ、羽田東急ホテル(1964)など、帝国ホテル以外の日系都市ホテルのほとんどはこの時期に開業した。
         
 なかでも開会直前の1964年9月1日に開業したホテルニューオータニは、客室数1,085室の威容を誇り、都市ホテルの大型化やラグジュアリー化の先駆けとなった。工期17ヶ月という超突貫工事を完遂するため、世界で始めてユニットバス(現在のTOTOが開発)が採用された。もともとバスルームのユニット化という発想はバックミンスター・フラーの「ダイマクション・バスユニット」(1938年特許出願)に由来する。日本とフラーの浅からぬ因縁を感じさせるエピソードだ。

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(*ホテルニューオータニ本館,2017)
 

 

オリンピックレガシーを駆け抜ける007ジェームズ・ボンド
 
 ホテルニューオータニの本館は、映画007シリーズの『007は二度死ぬ』(ルイス・ギルバート監督1967)で、敵方の「大里化学工業」の本社ビルとして登場する。当時、最高層の17階建、独特のY字型プラン、そのてっぺんに円形の回転ラウンジが乗ったこのユニークな建物は、当時はさぞかし未来感が漂っていたのだろう。
 
 MI6のエージェントであるジェームズ・ボンドが放つ英国流のスノッブな雰囲気とともに、世界各地にロケーションを展開し、豪華な旅行気分とエキゾチズムを売り物としたこのハリウッドの娯楽大作が描いたのは、相撲や忍者や和服の美女と近未来モダンデザインが平気で共存している不思議な都市東京の姿だった。

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(*『007は二度死ぬ』の来日記者会見。1966年7月29日。左から浜美枝、ショーン・コネリー、若林映子,source: http://www.jiji.com/jc/d4?p=bdg012&d=d4_ent)
 
 
 我がボンドガール若林映子はショーン・コネリーを乗せた白のトヨタ2000GTを駆って、ここホテルニューオータニから、代々木の国立競技場を経て、駒沢オリンピック競技場の前を駆け抜ける。我々も東京オリンピックのレガシーを縫うように疾走するジェームズ・ボンドを追って駒沢に向かおう。

 
駒沢オリンピック公園の前身は名門ゴルフ場だった
 
 玉川通りの駒沢交差点から駒沢公園通りに入った左側に小さな石碑が残されている。石碑には東京ゴルフ倶楽部跡と記されている。

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(*駒沢ゴルフ場跡地の碑,2016)
 
 駒沢オリンピック公園は、元々は東京ゴルフ倶楽部というゴルフコースだった。昭和天皇が皇太子だった時代、1922年(大正11年)4月にイギリスのエドワード皇太子(後のウィンザー公)と一緒にコースを廻った名門ゴルフコースだ。

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(*駒沢ゴルフクラブでの昭和天皇とエドワード皇太子)
   
 実はこの東京ゴルフ倶楽部の跡地は、幻のオリンピックといわれている1940年のオリンピック(日中戦争が勃発し開催を返上した)でもメイン会場として予定されていた場所だった。

 
どこまでも広がる水平性。稀有な空間体験ができる中央広場
    
 丹下健三によるシンボリックな巨大建築がそびえる代々木の会場とは異なり、駒沢オリンピック公園は、周辺の環境に寄り添うような巧みなマスタープランが特徴だ。日本都市計画の創始者である高山英華が全体計画を手掛けた。
     
 競技施設群を中央広場周囲に集め、その外側に環状道路とフィールド運動場を配し、外周は緑の植栽が取り囲むように計画されている。駒沢通りから幅100メートルの大階段を登った先に広がるのが中央広場。あえて緑などは一切設けず、空間そのものの広がりとダイナミズムで魅せる造りとなっている。周囲の建物の高さが低く抑えられ、幾何学パターンの床がどこまでも広がっていくようなイメージを一層、強調している。

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(*駒沢オリンピック公園中央広場,2016)
 
 駒沢オリンピック公園のシンボルとなっているのが、中央広場の北側中央に建つオリンピック記念塔。地上12階、高さ50メートルのモダンな五重塔を思わせる意匠は、フラットな中央広場にあって、ひときわ垂直性が強調されて印象的だ。水盤の中に建っているというのもどこか日本建築を思わせる。設計は芦原義信。

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(*駒沢オリンピック公園オリンピック記念塔,2016)
 
 
 中央広場西側の八角形の建物は、ホッケーの試合が行われた体育館。八角形のその姿は、法隆寺夢殿を思わせることで有名だ。建物ヴォリュームの大半をサンクンガーデン内に沈めることにより中央広場レベルからの高さを低く抑え、HPシェルにより屋根が大きく反り返る様子は、寺院建築の反った大屋根を思わせる。設計は芦原義信。

9
(*駒沢オリンピック公園体育館,2016)
 
 
 中央広場の東側におかれた陸上競技場ではサッカーの試合が行われた。巨大な爪で覆われた宇宙船を思わせるデザインは一目見たら忘れられない。こちらも地盤面の高低差を巧みに利用して、中央広場から見たときの高さが抑えられ、中央のオリンピック記念塔の垂直性を際立たせている。設計は村田政真。

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(*駒沢オリンピック公園陸上競技場,2016)
 

調和の秘密は伽藍配置にあった
     
 駒沢オリンピック公園の中央広場における、日本の空間秩序を逸脱したようなスケール感や近未来感とともに、既視感を伴ったどこか日本的な雰囲気を感じるさせる不思議な空間体験の理由は、その建築意匠もさることながら、空間構成そのものにあった。
 
 広場の広がりを背景に、オリンピック記念塔の垂直性と両サイドの建物の水平性をアンシンメトリーに配置した絶妙なバランスは、法隆寺などに見られる、日本建築における伽藍配置が参考にされたと言われている。

11
(*source:
http://www.kajima.co.jp/news/digest/nov_1999/100nen/index-j.htm)
 
 代々木が、モダニズムとして昇華された日本建築のエッセンスのシンボリックな実現だとするならば、駒沢は、マスタープランとして表現された日本的空間構成のモダニズム的実現だ、といってもよいかもしれない。

 
駒沢は「五輪の聖地」と呼ぶにふさわしい東京オリンピックのレガシー
 
 中央広場に印象的な床パターンに使われている石材は、当時、順次廃止されつつあった都電の軌道の敷石を利用して作られている。ここ駒沢には、1964年の東京オリンピック前後に消え去った東京の記憶の断片が埋め込まれているのだ。
 
 体育館の地下には東京オリンピックメモリアルギャラリーが設けられており、往時の懐かしい写真や記念の品々が展示されている。ここ駒沢公園オリンピック公園は、2020の東京オリンピックでも、練習会場として利用されるそうだ。
   
 三度のオリンピックに関わることになる駒沢公園オリンピック公園は、まさに「五輪の聖地」と呼ぶにふさわしい、東京オリンピックのレガシーの代表といえる。


                                                                                        

 
 


*初出 zeigeist site



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空間をめぐる権力~マーク・ロスコのシーグラム壁画はなぜザ・フォーシーズンズに飾られなかったのか~

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 マーク・ロスコのシーグラム壁画(Manhattan Mural)は、シーグラムビルの高級レストラン ザ・フォー・シーズンズの壁を飾ることはなかった。
 
 ロスコが一方的に契約を破棄して、作品の引渡しを拒否したからだ。何故、ロスコは態度を豹変させたのか。
    
 ロスコはその心変わりの真の理由を説明してはない。真相は霧のなかだ。単なる気まぐれだったのかもしれない。

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(*source: https://theculturetrip.com/europe/the-netherlands/articles/10-things-you-should-know-about-mark-rothko/)
  
 「もともとロスコには7作品を飾るぐらいのスペースしか提供されていなかった」あるいは「小さい方のダイニングルームに飾る500~600平方フィート(46~55㎡)分の絵画が発注された」と伝えられている。
 
 出来上がりつつあるザ・フォー・シーズンズの空間を実際に見て、ロスコはこう思ったのかもしれない。与えられたスペースに作品を展示しても、レストラン全体の雰囲気に飲み込まれてしまい、自らの作品が高級レストランの添え物としてしか認識されない、とロスコは気づく。これでは高級レストランに通うようなクズども(son of a bitch)の鼻を明かしてやることなどは到底無理だと。本物の空間の広がりや質感を目の当たりにして、最初からわかりそうなことを、いまさらながら気がついた自分に苛立つロスコ。(*1)
          
 絵画製作中にマーク・ロスコは、フィレンツェのサン・ロレンツォ教会の一画にあるラウレンティアーナ図書館を訪れている。ミケランジェロの手になる入口ホール(Vestibule)の空間を、マーク・ロスコはこう語っている。「そこは、訪れた人に、壁に配置された閉め切られたドアと窓によって捕らえられているかのような感覚を与える空間だ。それこそ私が求めていた空間感覚だ」。(*2)

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(*Laurentian Library Vestibule, source: https://jp.pinterest.com/pin/51791464435724790/
 
 シーグラム壁画はダークな赤や暗褐色による油絵だ。暗鬱な色を背景にして、繰返し変奏される四角形のモチーフは窓やドアに見えなくはない。

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(*Mark Rothko Untitled 1958,Kawamura Memorial Museum of Art, Sakura © Kate Rothko Prizel and Christopher Rothko/DACS 1998, source:http://www.tate.org.uk/whats-on/exhibition/rothko/room-guide/room-3-seagram-murals)
       
 ミケランジェロの空間の体験にまつわるエピソードは、シーグラム壁画の契約破棄事件に別の視座を与えてくれる。ロスコはこう考えたのではなかったか。ブルジョア連中の鼻を明かしてやるような姑息な考えはもはやどうでも良い。やるべきことは本来の自らの芸術とその使命を真っ当することだ。それは空間丸ごとで表現される芸術、観る者の全身に訴えかける全空間芸術である、と。
 
 マーク・ロスコは実作を諦めかけた不遇の40年代に、自らの美術理論についての文章を残している。その中で芸術と装飾の違いについて語っている。
      
 「芸術作品が装飾目的で使われ得たからといって、それが偉大な芸術でなくなるわけではない。(中略)この両者には何のつながりもないということは言っておきたい。芸術の装飾性は、根本的な諸法則に則り、それを証したてるような、精神的で哲学的なものだ。(中略)装飾とはつまり趣味の良さの表現なのだ。一枚の絵画が、趣味の良さを真っ向から踏みにじることもある。装飾は芸術にひとつの教訓を与えているとも考えられよう。つまり、外形のみを追求していけば、精神の存在は完全に抹殺されてしまう、という教訓をである」(『ロスコ 芸術家のリアリティ』)
  
 「自己表現は退屈だ」、「悲劇、忘我、運命といった人間の基本的な感情を表現することだけに関心がある」とも述べている。
  
 人間存在の宿命的な悲劇性。このロスコが追い求めた主題を観る者に伝えるためには、ミケランジェロによるラウレンティアーナ図書館のような、アートと空間が一体となって観る者の精神に深く訴えかけ、全身で感得させるような没入空間が不可欠だと思い至ったのではなかったか。
 
 高級レストランを飾るために作品を売り渡すこと自体が、もはや自らの芸術への決定的な裏切り行為だった。
     
 マーク・ロスコの手元には約30点の連作絵画が残った。シーグラム壁画は現在、ロンドンのテート・モダン、ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー・オブ・アート、そして日本の千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館の3箇所に収蔵されている。ロスコの意向を尊重するように、テート・モダンとDIC川村記念美術館では、ロスコ・ルームと呼ばれる専用の展示空間が用意されている。
    
 DIC川村記念美術館のロスコ・ルームには、シーグラム壁画7点が展示されている。

Kawamura-DIC-Rothko-room

(*source:http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.en/2015/12/colour-and-comfort-by-chemistry.html
   
 晩年のマーク・ロスコは、1964年にヒューストンのセント・トマス大学構内の無宗教の礼拝堂のための絵画作成を依頼される。作品と環境が一体となった「場」を求めるという、自らの理想を実現するライフワークとなった「ロスコ・チャペル」の建設である。設計はザ・フォー・シーズンズで確執のあったフィリップ・ジョンソン。二人は光の取り入れ方でまたしても衝突する。結局、設計者が変わり「ロスコ・チャペル」は1971年に完成する。
 
 マーク・ロスコが大量の抗うつ剤を服用し、剃刀の刃で自らを腕を滅多切りして66歳で自死する翌年だった。
              
 同じバウハウス出身のワルター・グロピウスが設計したメットライフビル(旧パンナムビル)では、建築とジョゼフ・アルバースによるアートが幸福な関係を奏でた。シーグラムビルとマーク・ロスコの場合は、それとは正反対に建築とアートが激しく対立した。
 
 建築とアート。空間をめぐる二つの権力は、時には蜜月を演じ、時には死闘を演じる。



                                                                                             <前編>に戻る



(*1)ロスコは作品がレストランではなくて、ロビーや重役会議室など、もっと権威のある場所に架けられると勘違いしていたと伝える情報もある。
 
(*2)ロスコは同時期に訪れたポンペイのヴィッラ・ディ・ミステリ(Villa dei Misteri)の壁画からシーグラム壁画で使った暗い赤のインスピレーションを得たといわれている。

 

 

 

  

*参考文献等 : 

Mark Rothko,Wikipedia,Available at<https://en.wikipedia.org/wiki/Mark_Rothko>

マーク・ロスコ,『ロスコ 芸術家のリアリティ』,みすず書房(2009年)

マーク・ロスコの<シーグラム壁画>,DIC川村美術館,Available at
<http://kawamura-museum.dic.co.jp/collection/mark_rothko.html>

Dan Howarth,Critics slam "painful" auction of items from Philip Johnson's The Four Seasons restaurant,
Available at
<https://www.dezeen.com/2016/06/15/critics-slam-painful-wright-auction-philip-johnson-four-seasons-restaurant-seagram-building-interior-new-york/>

Mark Rothko Seagram Murals,National gallery of Art U.S.A.,Available at
<https://www.nga.gov/collection/rothko.shtm>

 

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わびさびとモダニズム~レナード・コーレン『わびさびを読み解く』を読んで~

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 「日本は西洋のモダニズムに先駆けること数百年、室町時代の中期に、既に簡素に美を見出す価値観を生み出していた」(原研哉 『白』 2008)
        
 簡素さを尊ぶ日本の価値観とモダニズムの類似性は、近代を輸入し、モダニズムを輸入した日本にとって、永遠に気になるテーマだ。
       
 外からの目を気にする、というのもやはり、明治期に近代を受け入れ、追いつき追い越せで頑張ってきた日本人が、容易には払拭できない心性といえる。
             
 「桂離宮に示された原理こそ、絶対に現代的であり、また今日のいかなる建築にも完全に妥当するのである」(ブルーノ・タウト 『日本の美の再発見』 1939)
            
 ブルーノ・タウトのこの言葉は、伝統と近代の狭間で悩む昭和初期の建築家を大いに勇気づけたに違いない。
           
 レナード・コーレン著『わびさびを読み解く』(2014)も、外からの目が気になる日本人にとって興味が尽きない書である。
  
 本書は、原著が1994年にアメリカで出版され、90年代に”Wabi-Sabi”ブームを引き起こした書籍の日本語訳だ。

わびさびを読み解く1
        
 日本人にとって馴染み深いわびさびを、平易に解説する類書が、今までなかった理由を著者はこう解説する。
   
 日本においては「歴史を通じて、わびさびを頭で理解することは、意図的に阻害されてきた」。その背景には、文字や言葉を介さない理解という禅の思想の影響、言葉に置き換えられない価値こそがわびさび独自の価値だとする美的曖昧主義、家元制度による独占の歴史があると。
        
 長らくこうした影響下にあり、感覚的には解るが、うまく言葉にできない日本人に代わり、外国人ならではの立ち位置から果敢に言語化を試みたのが本書だ。そしてその試みは大いに成功している。
               
 モダニズムとの対比でその類似点と差異が説明されているところが興味深い。その差異を対比したものを抜粋してみた。

わびさびvsモダニスム
(*モダニズムとわびさびの差異 『わびさびを読み解く』から一部抜粋して作成)
           
 例えば「物質性」をめぐる両者の差異。「完璧な物質性」を理想とするモダニズムに対して、わびさびは逆に「完璧な非物質性」が理想だという。わびさびの概念の根底に流れるのは、「非実在性への憧れ」だとも述べられている。物質や実在、つまりモノや実際に「ある」ということは、わびさびを解する上で本質的なポイントだ。

わびさびを読み解く2
       
 隈研吾が『反オブジェクト』で語った次のような言葉が思い起こされる。
   
 「物質のミニマライゼーションとミニマリズムとは、別の概念である。ミニマリズムとは形態の単純化であり、抽象化であり、そこには物質そのものに対する嫌悪はない。そしてモダニズムの中にはミニマリズムはあっても、ミニマライゼーションは希薄である」(隈研吾 『反オブジェクト』 2000)。
       
 隈研吾は、石や木やセラミックなどの自然素材を使いながら、これまでの建築の常識を覆す寸法や断面を実現することによって、物質性のミニマライズを志向する建築を作ってきた。
      
 「物質は時間の凝集であり、物質の中に時間が内蔵され、壁(ひだ)のように折り畳まれている」、素材の「ヴォリュームを殺ぎ落とす事によって、物質が消去され、時間が露出されてゆく」。隈研吾は、自らの手法の意味を、ライプニッツとドゥルーズによる物質の定義を援用してこう説明する。
           
 物質性の消去は、隈研吾に限らず、モダンデザインの行き詰まりとその後のポストモダンによる表層の宴を経て、日本の建築デザインに共通した戦略でもあった。それは、本書に従えば、わびさびの価値観によるモダニズムの限界を乗り越える試みであるということができるだろう。
             
 モダニズムの隘路にはまり、完璧な物質性を求めて止まない近代以降の主体。永遠の新しさへの願望、効率的な都市計画や土地利用、ユニバーサルな空間、立派な建物などは、我々が求めてきた完璧な物質性の産物だ。
             
 物質性を極限までミニマライズしたとしても、、物質としての建築、実在としての建築は依然として残る。物質性の消去という戦略も所詮、モダニズムの手の内ということか。
             
 しかしながら、完璧な非物質性が存在しないように、完璧な物質性も存在しない。それらはともに「理想」であり「憧れ」の姿なのだ。
     
 「わびさびは、知覚とそれに対する態度が心の中で溶け合い、像を結んだ結果である」(同書)。
               
 わびさびは、オブジェクト(物)よりも、むしろサブジェクト(主体)側の問題といえる。オブジェクトレベルでの物質性の消去は、主体の気づきへの働きかけなのだ。主体が変われば、世界は変わる。わびさびはそう教える。
    

 今日、わびさびが重要な理由を、レナード・コーレンは以下のように説明する。
      
 「無限大の繊細さ」を表現するわびさびは、「0」と「1」に還元するデジタルでは表現できない。デジタルにおける「0」は不毛な空だが、わびさびの空は「存在への潜在的可能性を孕んだ」概念であると。
         
 わびさびは、「「実際の生活」の中に存在しているはずの微妙さ、精妙さを理解し、察知する能力」であり、これを失ってしまうと「私たちの世界が縮小」してしまうと危惧を表明する。
   
 わびさびには、物質性に偏向するモダニズムの行き詰まりから、われわれを解き放ってくれるヒントが詰まっている。
 

 最後に本書の著者レナード・コーレン氏についての余談を。
 
 同氏はUCLAで建築を学んだ後、70年代にアメリカ西海岸で『WETマガジン』というカウンター・カルチャーの雑誌を創刊した日本通のアメリカ人だそうだ。
  
 確証が取れないので、おそらくと言い添えておくが、著者は80年代前半に日本の雑誌BRUTUSで「西海岸共和国だより」というコラムを連載していた同姓同名の人物だと思われる。西海岸ではコカインを日本の茶道のしきたりで吸引するコカイン茶会が開かれているなど、ほんとか嘘かわからない、しかしながら、そこに漂う、60年代のカウンター・カルチャーの残り香を感じさせる西海岸の独特の雰囲気が印象的だった。

 本書が関心を寄せる
せる対象からそう推察して間違いなさそうだ。


 

      

 

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失われつつある「奥」を求めて~槇文彦『見えがくれする都市』とヒルサイドテラス<前編>~

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 見田宗介は、世界人口の増加率曲線は1970年前後に変曲点があり、1970年前後は、20世紀後半に起こった社会の爆発的拡大という時代が世界的に転換点を迎えた時期だと述べている。(見田宗介『社会学入門』 岩波新書 2006)。ローマ・クラブが『成長の限界』を発表したのが1972年であった。
  
 日本の都市は、高度経済成長期の地方からの人口の流入を背景に、建物の大規模化、高度化、高密度化が進み、市街地の無秩序な拡大、生活環境悪化、交通渋滞、住宅問題などさまざまな問題に直面していた。

拡大の時代の終わり。都市の深層構造に向かう眼差し

 槇文彦『見えがくれする都市』(鹿島出版会)は1976年から1978年にかけての共同研究の成果をまとめ、1980年に書籍として出版されている。

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 今にして思うと、それまでの都市問題に対する対症療法的なアプローチの空しさを指摘し、歴史と深層構造にさかのぼって都市を理解する必要がある、という本書の問題意識の根底には、近代以降の拡大の時代が終焉を迎えつつあるという時代の予感のようなものが横たわっていたことがわかる。
 
 おのずとその方法論は、文化人類学的発想や構造主義的手法に近づいていく。
 
 「見る対象としての形は、同時に、大げさにいうならば、都市社会に存在する文化的なコンテクストの中で、それぞれ何を意味しているかを知らなければ、本当の理解に達したとはいえない」

道、微地形、場所性、表層。そして「奥の思想」

 「道の構図」「微地形と場所性」「まちの表層」と名づけられた章ではそうした方法論による東京の構造分析がなされる。
         
 「道の構図」では、中心や全体という視点を欠きながら、その場その場で適合解を求めるかのように、敷地や街区の内部に路地や横町が通され、住宅街が形成されてゆくプロセスが明らかにされる。こうした構造は山の手と下町に共通するだけではなく、意外にも農村村落の道の構造と相同であると指摘される。
     
 微地形に注目して、江戸の都市構造は東京に忠実に引き継がれていることを語り、坂や崖などは都市の「しわ」や「ひだ」として、日本の都市に独特の場所性を生み出してきたことを論じた「微地形と場所性」。
  
 日本の住宅街のファサードをお屋敷型、町屋型、裏長屋型、郊外住宅型の四つに類型化し、「薄い面」の重層と「すき間」を日本の住宅地の形態的特質として抽出する「まちの表層」。
 
 こうした都市の構造分析にもまして興味深いのは、槇自身が筆をとった最終章の「奥の思想」でる。

2006-07-28
 

「奥―包む」という空間概念で作られてきた日本の都市
       
 「奥の思想」では、中心概念を欠き、全体への関心が希薄な日本の都市を特徴づけているものとして奥という概念が提示される。
 
 西欧では厳しく広大な環境のなかで「中心-区画」という空間概念によって都市を作り出してきた。一方、温暖で緑多い山あいなどに都市が作られてきた日本においては、「奥-包む」というまったく別の空間概念が支配してきた。
 
 この奥という概念は必ずしも都市分析から論理的に導きだされたわけではなさそうだ。奥はむしろ槇自身の身体的な空間体験から生まれてきた概念のようだ(実際「奥の思想」の章は1978年に独立した論考として先行して発表されたものである)。
  
山の手、下町、町屋の空間。奥の空間体験を語るスリリングな描写
 
 自らの空間体験に基づき、日本の都市の奥あるいは「奥性」の具体例を、槇は次のように記している。その正確でセンシティブな描写は、読む者に奥の持つどこか謎めいた感じや身体を包み込むような安堵感を覚えさせ、今、読んでもスリリングだ。
 
 たとえば、著者が当時住んでいた東京の山の手を象徴するような台地と谷が複雑に入り組んだ三田の町の描写。
 
 「小山台の標高はたがだか十五メートルであり、三田台にしても約二十五メートルの高さであるに過ぎない。にもかかわらず、道が狭く、屈折しているため、実際の高さ以上の到達感がある。さらに尾根の道から分岐して丘のひだに向かって入っていく細い道に沿って、往々にして外から想像もつかないようなひめやかな景観に遭遇する。道はきまったように屈折し、時に崖縁に沿って急激にUターンしたり、突然石階段に変貌したりする。車も人も入れないような細い道の両脇に群生する小家屋は、もちろん東京のここ数十年のすさまじい都市の高層化からも取り残され、あるいは取り残されたというよりもむしろ生き残ったというある種の開放感に息づいているようである」
 
 あるいは、著者の当時の事務所があった、江戸時代からの平坦な商業地(下町)の代表格の日本橋界隈の描写。
 
 「しかし一歩、大通りから街区の内側に入ると、ビルの谷間という表現がまさに適切なように、細い露地が発生し、その周辺に低層の家屋が群生している。家屋と家屋の間は実に細かく露地化し、せり出した二階のバルコニーには夏ともなるとすだれがおりていたりする。薄暗い室内は明るい外からはしるよしもないが、なにか蠢くものをふと垣間見たりすると、やはりそこに日本らしい空間のひだの存在を感じるのである」
 
 さらには、明石町に残る昔からの町屋の室内空間の描写。
 
 「数年前私は築地の明石町の小さな町屋に住む老婦人を訪問する機会があった。間口四尺満たない入口へ格子を引いて入ると上がりかまちは正面ではなく側面に設けられている。(中略)私が驚いたのは、この僅かに八坪に満たない小空間の中に展開する方向性の複雑さであり、座の重畳性であった。そして神棚、仏壇、床の間の存在によって、この小空間はさらに方向性を増し、奥性の存在を強化する」
 
 奥という概念の魅力とリアリティは、当代きってのモダニストであり、モダニズムの倫理性や都市のパブリック性を説いて止まなかった建築家自身の身体的な空間体験と直感に裏づけられているからだと言える。本書の色褪せない魅力もまさにこの点にある。

今も都市遊歩者を魅了して止まない日本の都市に潜む奥
 
 「かくして奥は都市(あるいは集落)の中に無数に発生する。(中略)都市は絶対的な中心をかかげ、蝟集(いしゅう)するところではなく、各々の奥をまもる社会集団の領域として発展してきた」
 
 日本の都市における「全体の中心性の欠落は、逆に場所性の存在によって補われてきた」
 
 駅前や表通りではとっくに失われている奥が、通りを一本入った界隈に今も息づいていることを感じる瞬間、あるいは建物は様変わりしながらも、今も残る狭い道や坂や崖や緑深い寺社の佇まいに時空を超越したものとの密かな交感を感じる瞬間、今日の都市遊歩者や都市徘徊者もまた、そんな瞬間に、東京における変わらないものとその尽きない魅力を感じているのだ。
 
 ブラタモリなどによる坂道人気、歴史地図や歴史散歩など江戸と東京への関心、暗渠マニアなどの東京の川へのマニアックな注目、東京スリバチ学会など地形萌えなど、下火にならない江戸東京ブームが、それをあらわしている。
 
 では、かつて以上に変貌著しい現代の都市において、奥や「奥性」は、今後、どうなっていくのか。
 
失われつつある奥。望ましい空間の質は深みにある
 
 奥は甚だ脆弱であり、都市開発のプレッシャーに対して無力であり容易に消失してきた。さらには1980年代のバブル時代の土地開発や2000年代以降の規制緩和が後押しする都心再開発などにより、ますます失われつつあるというのが現実だ。
 
 一方、奥は「少々のプレッシャーに対し、それは「中心」によって構造づけられた都市とは違って再分裂し続ける細胞のように飛散しながらも、小空間の中に様々な形で生息し続け、柔軟な構造原則としてポジティヴな、面をも維持しつづけてきた」とも指摘される。
 
 奥の今後に言及して実践者としての著者が書きつけたのが次のような言葉だ。
 
 「望ましき空間の質は単にひろがりにあるだけでなく深みの創造にあることを日本の都市の歴史は物語っている」
 
 失われつつある奥をモダニズムの建築言語を使って、自らの手によって再創造したのがヒルサイドテラスである。<中・後編>ではその「深みの創造」の実践を見るべく代官山にヒルサイドテラスを訪ねる。


                               <中篇に続く>





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失われつつある「奥」を求めて~槇文彦『見えがくれする都市』とヒルサイドテラス<中編>~

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 ハーバード大学のアーバンデザイン学科で教鞭を執っていた槇文彦が、日本に帰国して槇総合計画事務所を作るのが1965年。37歳の時だ。
 
 1967年、槇文彦はオーナーである朝倉家と出会い、ヒルサイドテラスの設計が始まる。

日本におけるアーバンデザインの到達点。ヒルサイドテラス
 
 ヒルサイドテラスは、代官山駅にほど近い旧山手通りの両側に、第一期のA・B棟の設計開始の1967年から、最終期となったヒルサイドウェストの1998年の竣工まで、計15棟の建物(アネックスとデンマーク大使館を含む)を31年かけて作った低・中層の複合集合住宅計画である。
 
 一人の建築家が30年以上に渡り、通りの両側の建物を手掛ける例は、東京はもちろん、日本、あるいは世界的にみても極めて稀有なことである。
 
 結果として、日本におけるアーバンデザインのひとつの到達点といえるヒューマンなストリートタウンが誕生した。
      
 ヒルサイドテラスの計画は、<前編>で言及した『見えがくれする都市』の調査・研究が行われた1976~1978年を間に挟みながら進められた。ヒルサイドテラスは、『見えがくれする都市』の論考の仮設構築のヒントの場、あるいは概念構築のための実験、実践の場だったことは想像に難くない。「奥の思想」はヒルサイドテラスをフィールドワークの場として生まれたのだ。

 <中編>ではヒルサイドテラスで実践された「奥の思想」を具体的に探ってみる。

1969年第一期完成。すべてはここから始まった
    
 建物群の南端の位置に第1期のA・B棟(1969年竣工)が作られ、ヒルサイドテラスの歴史はスタートする。すべてはここから始まった。

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 敷地南東の角にコーナープラザが設けられA棟へはコーナープラザを経由した隅入りとなっている。道なりに歩く動線と同じ方向性で建物への導入が図られ、正面入りやシンメトリーにはない、より親密なエントランスの雰囲気を作っている。隅入りの採用は、正面性を避け、あえてずれを設ける日本の屋敷の空間構成に由来している。この隅入りのヴォキャブラリーは、以降のヒルサイドテラスの基本フォーマットとして反復されてゆくことになる。

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 コーナープラザは低層のL型建物に抱かれるような設えになっており、シンボルツリーやテラス風の仕上げと合わせて、ヒルサイドテラスの持つヒューマンなスケール感を象徴している。道路面から僅かにステップダウンしてアクセスすることもプライベート性を強調している。
 
 
 ロビーでは、吹き抜け、大きなガラス開口、コーナーガラスなどにより、開放的で内外の空間や視線が響きあう空間体験が意識されている。
 
 内部に入ると、空間が屈曲しながらレベルがステップダウンし、奥へと導かれるような構成となっている。目黒川に向けて南西方向に下がってゆく土地の地形をなぞるように内部空間が作られており、A・B棟の間のB1階には緑を望むサンクンガーデンとレストランが設けられる。方向性やレベル差を巧みに変化させ、視線と身体に訴えかけながら、奥に設けられたアメニティのスポットに到る動線上の空間をオペレーションするという手法は、以降のヒルサイドテラスでも様々なバリエーションで展開されることになる。

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 サンクンガーデンは建物とレベル差によって道路からの視線がさえぎられ、プライベート性、奥性の高い空間となっている。フレンチレストランの老舗「パッション」(当初は「レンガ屋」がテナントだった)の樹下のアウトドアテーブルとして利用されている。

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 B棟の1階へアクセスするため道路面からステップアップしたぺデストリアンデッキが設けられ、その上には2・3階の通路とメゾネット住戸のヴォリュームがオーバーハングする。マッシブで個性的な印象のファサードだが、A棟のエントランスからサンクンガーデンへ到る動線に比べ、道路とのオープンな関係性やパブリックからプライベート(奥)へと誘われる空間のエキサイトメント性という点では、単調な印象が否めない。

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 建物はそっけないぐらいにシンプルなRC打ち放し塗装(後に吹付タイルに変更)による白のキューブ。要所に設けられた白い円柱がモダニズムを印象づけるアクセントとなっている。
 
中庭囲み型住棟によって生み出された新しい都市のパブリック性
    
 第ニ期のC棟(1973年竣工)は奥行きのある敷地形状を活かし、リニアな敷地のA・B棟では実現できなかった囲み形の住棟が実現されている。当初の計画は第一期のB棟のようなリニアな形状の住棟を連続させた計画だったが変更されている。変更は大いに成功だったといえる。
              
 第一期ではコーナープラザが外部のパブリック空間として設えられていたものの、店舗に絡んだ動線と賑わいの中心は内部空間に展開されていた。第二期は中庭を囲むようにショップが配置され、店舗の動線と賑わいが外部のパブリック空間と一体となって展開されているのが最大の特徴である。計画のパブリック性や都市性がより高まっており、建物が街並みへ参画する度合も増している。
 
 道路を歩いていると、ケヤキの高木が植えられた凹型の空間と長い階段状のフロアが現れる。ピロティとなって抜けた建物の先の道路面からやや上がった位置に中庭が見えがくれする。

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 ここでも中庭へは斜め方向からアプローチする隅入りの手法が採用され、歩行者を自然に招き入れる関係性が作られている。
       
 建物がセットバックして生み出された凹型空間、抜け感のある手摺や渡り廊下、樹木、階段状のアプローチ、ピロティ、中庭など、空間をトータルにオペレーションして、変化に富んだ表情豊かな都市のファサードが作り出されている。同時にそうした様々なエレメントが、空間の襞として重なり合い、奥への興味と誘いが巧みに演出されている。

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 中庭は北西方向(第三期敷地)へ抜けるような平面形状となっており、ここでも奥への誘いを意識した方向性と回遊性がデザインされている。
 
 開放的な中庭と天井高を抑えたピロティやコリドー状の軒下空間が、同じ外部空間ながら、異なる居心地を作っており、、中庭を囲む建物も、高さの変化、立面の抜け感、ルーフガーデンの緑など、なにげない視線の先の風景がきめ細かくデザインされている。
      
 
C棟建物への導入も隅入りが踏襲されており、ピロティ状の抱きのある空間が作られている。ここでは円柱のエレメントがエントランスを明示している。建物外壁は白の吹付タイル。

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 奥まった位置に隠れたるアメニティ・スポットを設けるというアイディアも踏襲されており、第一期と同じく西側の地下一階にサンクンガーデンとともにレストランが設けられている。

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 <後編>では第3期から最終期に当たるヒルサイドウエストを訪ねる。

 
<前編に戻る>                         <後編に続く>






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失われつつある「奥」を求めて~槇文彦『見えがくれする都市』とヒルサイドテラス<後編>~

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 <後編>ではヒルサイドテラス第3期から最終期に当たるヒルサイドウエストを訪ね、槇文彦によって実践された「奥の思想」を探ってみる。
 
古代の猿楽塚を取り込んだ、時を重ねるデザイン
 
 第3期にあたるD棟とE棟は、第2期のC棟と一体となり、3棟が猿楽塚を中央に抱くように配置される。猿楽塚は計画地に残されていた古代(古墳時代後期 6~7世紀)の遺跡だ。
 
 「建築とはリファレンス(引用者注:参考項)が多いほうが面白くなる」、「さらに言えばいえば、何もないところで自由にやるよりも、何らかのインターベンション(干渉)があるほうが、デザイン力が喚起される可能性が高いのです」(槇文彦編著『ヒルサイドテラス+ウエストの世界』)
   
 猿楽塚を核にした多様なルートの回遊動線、猿楽塚の形状やヴォリュームに呼応したD棟南東隅の円形状の壇状テラス、猿楽塚の地形に寄り添うようなD棟のフロアレベルなど、これらはすべて猿楽塚という非日常的な存在に対する建築側のリアクションなのだ。

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 ヒルサイドテラスのなかでD棟の外壁だけ、より抽象性の高いイメージのスクエアなタイル貼りが採用されている。周りとなじんだデザインが空間に豊かさをもたらすとは限らない。ここでは猿楽塚という歴史と自然を象徴する存在に、あえて抽象性の高いピュアなモダニズムのイメージを併置させことによって、思いがけない組み合わせによる緊張感やコントラストを味わえるという空間体験が生み出されている。
 

 
 猿楽塚の緑越しに敷地最奥に位置するE棟が見えがくれする。完成してから四十年の時が流れ、ケヤキの高木が見事に成長し、今や鬱蒼としたイメージの、まさに都市の奥の奥とでも呼ぶべき場所に成熟している。

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統一感と個性のバランスが生み出す心地よい街並み
     
 第6期にあたるF・G・H棟は、今までの第1期~第3期の敷地と旧山手通りをはさんだ向かい側に位置する。

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 都市計画の変更により第二種住専となったことを受けて、建物の高さが、これまでの3階建てから最高5階建てとなっている。旧山手通り沿いの軒高をA棟以来の高さに合わせるため、4・5階のヴォリュームをセットバックさせ、旧山手通りに対するスケール感を維持する工夫がなされている。
        
 F・G棟とも道路側のファサードは連続するガラスサッシュで構成される。F棟では贅沢にも1階の道路面がパブリックなスペースとして開放されるプランとなっており、内外の空間の相互浸透の効果は大きく、外からは内が窺われ、内からは外が望めるという、透明性を空間の襞として利用して奥性が生み出されている。

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 アプローチは隅入りが踏襲され、コーナーの開放性や抱きの空間性、白い円柱によるエントランスの明示など、これまでのヒルサイドテラスに配置されている記号性も両棟で反復・踏襲される。
      
 ただしその作り込みは、F棟はコーナーの2・3階がキャンティレバーによるフレームのみのヴォイド空間、G棟は2層分のコーナー吹き抜けと、それぞれに新たな意匠が開発されている。

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 開発の時期や敷地が変わっても、身体的なスケール感や象徴的な空間作法は反復・踏襲しならが、一方では個々の建物ごとに素材や意匠の差異化を図り、計画全体を通じて統一感と個性が高いレベルでバランスしたアーバンデザインが実現されている。
 
時代に対する批評性という矜持
    
 素材面においては外壁や庇にアルミが採用されている。これまでの棟にはない、工業製品特有の薄さを利用したシャープさや軽さが表現されている。モダニズムの建築言語をベースにしながら、時代によって異なる素材が選択されているところにも、時代の変遷や時間のレイヤーを意識したデザインが見てとれる。
    
 ヒルサイドテラスにおける素材選択は、時代に対する批評性の表明だったことを槇自身が明らかにしている。
           
 「80年代の高級マンションがつくり出したある種のデザイン、素材の与える無意味な贅沢さ、保守性に対するコメンタリィが第6期の表層構成の中で訴えられている」
      
 建築と都市の倫理性を訴えて止まない槇文彦ならでは矜持だ。
 
絶妙な囲まれ感、ヒューマンなスケール、奥への誘い
   
 F棟とG棟の間に設けれたプラザはヒルサイドテラスらしいパブリック性と居心地を象徴する広場だ。

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 低層の建物で囲まれた凹型の空間にシンボリツリーのケヤキの高木が植えられる。正面奥のF棟1階には、オープンなカフェが設けられ、プラザに開かれたガラスファサードは、カフェの奥へと視線を誘う。F棟のプラザ側の建物は高さを7mに抑えられており、ヒルサイドらしいヒューマンなスケール感が作り出されている。
        
 プラザの先のF棟とG棟の間を抜けて奥のH棟に向かう軸線は、旧山手通りに対してやや斜めの角度がつけられており、さらにF・G棟の雁行する建物によって空間が一旦絞られることによって、奥の小プラザへの距離感や到達感は実際以上に感じられる。動線は屈曲し、階段によってレベルを変えながら、回遊する楽しさを訴えてくる。ここでも奥性による豊かな空間体験が巧みに演出されている。

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 この居心地のよいパブリックな空間は、人が集まるには最適で、この日もプラザ、カフェ、奥の小プラサは食のイベントで賑わいをみせていた。
 
パッサージュによって象徴的に空間化された奥の概念
 
 ヒルサイドウエストは、ヒルサイドテラスの敷地から旧山手通りを約500m西に向かったところに建っている。旧山手通りに面した敷地と裏側の鉢山町の住宅街に面する敷地をつなげ、3棟の建物が配置されている。

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 ヒルサイドウエストは、敷地が小さく、間口も狭いため、これまでのヒルサイドテラスのように旧山手通り沿いにオープンなファサードを設え、その先に見えがくれや抜けや視線を受け止めるさまざまな襞を介して奥を設けるという空間構成は難しい。
 
      
 そのかわりヒルサイドウエストでは、奥という概念を道という手法を使って象徴的に空間化してみせてくれる。
         
 カラーを統一しながら素材や意匠を違え、緊張関係のなかでデザインされた3棟の建物を貫いて、表から裏へ、外部から内部へ、さらに内部から再び外部へと続くパッサージュ。ヒルサイドウエストには、旧山手通りの喧騒からは想像もつかない、パッサージュと名づけられた静かな路地空間がひっそり埋め込まれている。
 
 パッサージュは旧山手通りから、その北側の一本裏の鉢山町の住宅街の通りまで、3棟のあいだを縫うように通されており、この内外空間を貫通しながら展開するパッサージュは、通行自由なパブリックな空間として位置づけられている。
       
 吹き抜けの高い天井から低い天井へ、ブロックされる視線、屈折する動線、目の前に現れる小さな中庭、渡り廊下のような半屋外の軒下空間、段差や階段によってもたらされる視界の変化、アルミ・ウッドデッキ・打ち放しなど視線の先に展開するさまざまなマテリアル。

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 この狭く短いパッサージュを旅する間に体験する空間のバラエティとそのコンテクストの豊かさは、まさに都市の路地の体験そのものだ。
     
 「さらに尾根の道から分岐して丘のひだに向かって入っていく細い道に沿って、往々にして外から想像もつかないようなひめやかな景観に遭遇する。道はきまったように屈折し、時に崖縁に沿って急激にUターンしたり、突然石階段に変貌したりする」という『見えがくれする都市』のなかの槇の言葉がリフレインする。
 
ヒルサイドテラスは東京へのオマージュ
 
 空間が人の理性や感覚に訴えかけるとは一体どういうことなのだろうか、人が空間を感得するとは一体どういうことなのか。ヒルサイドテラスやヒルサイドウエストの空間に身を置くことは、いつもそう自問させる体験だ。それはほとんど、都市を感じ、東京を感じる体験と同義語だ。
     
 A棟の竣工から25年たった後、ヒルサイドテラスと共に歩んだ越し方を回想して槇文彦はこう言っている。それは「東京へのオマージュ」であったと。

                                     以上

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*参考文献 :  槇文彦+アトリエ・ヒルサイド編著 『ヒルサイドテラス白書』(住まいの図書出版局
                   1995)
        槇文彦編著 『ヒルサイドテラス+ウエストの世界』 (鹿島出版会 2006)



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ソール・バス映画タイトル名作8選

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 今では当たり前になった、本や雑誌の表紙、企業の広告やCIなどにおけるグラフックデザインの導入は、1950年代のアメリカで始まった。あこがれのライフスタイルやしゃれたイメージを視覚に訴えて、戦後の爆発的な経済発展を担った中間層の共感を得ようとする戦略だった。
 
 雑誌の表紙や企業広告など、印刷のフィールドに留まっていたグラフィックデザインを、動画の世界でいち早く展開したのがソール・バスだ。
 
 その舞台は黄金時代を迎えていたハリウッドだった。
       
 ソール・バスは、出演者やスタッフ紹介の機能に留まっていた映画のタイトルデザインを一変させ、独立して鑑賞に耐えうる作品のレベルにまで引き上げた。
 
 シンプルでミニマルな画面構成、実験的な映像、多彩なタイポグラフィー、文字と映像の一体化など、その作品には20世紀初頭のバウハウスにおけるコラージュやフォトモンタージュなどの手法とその大もとにあるシュルレアリスムからの影響が色濃く反映されている。
           
 今回は、映画におけるモダン・タイトルデザインの発明者としてハリウッドの歴史に名を刻んだソール・バスによる映画タイトルの名作8選を紹介しよう。
   
 下記ではそれぞれの映画名および画像をクリックするとタイトル作品をフルで見ることができるArt of the Titleというサイトにリンクします。
 
               
『黄金の腕』 Man with the Golden Arm/オットー・プレミンジャー(1955)

The Man With The Golden Arm
 

 ヘイズ・コードのもと当時のハリウッドではタブーだった麻薬中毒患者を主人公にした意欲作。

 ソール・バスをメジャーにした出世作。エルマー・バーンスタインのジャジーな音楽に合わせたアブストラクトなパターンのアニメーションが実にクール。注目を集めた折れ曲がった腕のイラストは麻薬中毒患者の苦悩する生を象徴している。キュビズムやシュルレアリスムの影響が色濃いデザインだ。ポスターなどと連動したメディアミックス戦略もそれまでになかったアイディアだった。
 

『悲しみよこんにちは』 Bonjour Tristesseオットー・プレミンジャー(1958)

Bonjour Tristesse
      
 フランソワーズ・サガンの原作をもとに南仏を舞台に若さの持つ儚さや残酷さを描いた香気あふれる一本。
 
 黒バックに花びらをモチーフにしたパターンが現れ、その姿をブルーの水滴に変化させながら流れ落ちる。その一滴が画面に静止したと思うと、ブラッシュワークによる少女の顔のイラストが描かれ、水滴は少女の流す涙にメタモルフォーゼする。この憂いをたたえた少女の顔のイラストが映画のイメージを決定づけたといっても過言ではない。タイトルデザインが本編のイメージを余すところなく物語っているというソール・バスの真骨頂。
 
  
『めまい』 Vertigo/アルフレッド・ヒッチコック(1958

Vertigo
                   
 美しい女、謎の死、深みにはまってゆく主人公など、ヒッチコックならではの日常に潜む恐怖を描く。高所恐怖症による「めまい」を表現するカメラワークが見もの。
    
 暗褐色の画面を背景にキム・ノヴァックの唇や眼を極端にクローズアップした映像に不穏な雰囲気が漂う。眼の奥からタイトル文字が浮かび上がってくるのも不気味だ。次々と回転しながら現れるスパイログラフ(2つの円を使って複雑な幾何学模様を描く。昔、日本でも流行った)を使ったパターンは「CGの父」といわれたジョン・ホイットニーによる。初めて映画にCGを使ったといわれている。シュールで実験的。
  
      
『北北西に進路をとれ』 Nort By Northwest/アルフレッド・ヒッチコック(1959)

North By Nortwest
     
 巻き込まれ型サスペンス映画の代表作。平原を複葉機に追われるシーンやラシュモア山の歴代大統領の顔が刻まれた断崖でのチェイスなど、はらはらどきどきの連続。
         
 ソール・バスのトレードマークともなったキネティック・タイポグラフィーを使った最初の作品。斜め右上と真上から平行線が何本も延びてきて、画面が斜めのグリッドで覆われ、ラインにあわせた斜めのタイトル文字が画面外から現れる。映像がオーバーラップしながら、この斜めのグリッドが実は高層ビルのガラスファサードであることが分かってくるところがスリリング。シーンはNYの雑踏に変わり、バスに乗り遅れる男としてヒッチコックがカメオ出演する。
 
   
『スパルタカス』 Spartacus/スタンリー・キューブリック(1960

Spartcus
  
 共和制ローマにおける剣闘士スパルタカスに率いられた奴隷たちの反乱を描いた歴史スペクタクル。
          
 重苦しいマーチにあわせてローマ時代の人体石像の部分がクローズアップされる。剣、指、刻印などが現れ、石像の顔の正面と横顔が二重写しで浮かび上がってくる。やがて石像の顔にはひびが走り、石が剥落していく様子は、ローマ帝国の瓦解を暗示しているようで、深いところで本編のテーマと響きあっている。映像が持つ強い象徴力が発揮されたタイトル。プロデューサー兼主演のカークダグラスの意向を受け、ソール・バスはビジュアルコンサルタントとして映画本編にもかかわっている。

『サイコ』 Psycho/アルフレッド・ヒッチコック(1960

Psycho
         
 サイコスリラーの嚆矢。窃盗事件のクライムサスペンスが徐々にサイコ的恐怖ストリーへと変化していくあたりの面白さはさすがヒッチコック。
    
 切羽詰ったような管弦楽にあわせて、黒バックに細い横ストライプが左右から急速度で登場してくるのがサスペンスフル。タイトル文字も同様な動きで現れ、最初は分断されて読めない文字が嵌め絵細工のように完成するところや、音楽にあわせてツイストするように分解される文字など、音楽とシンクロしたキネティック・タイポグラフィーの完成形といえる。ソール・バスはタイトル以外に、有名なシャワーシーンの絵コンテなどを手がけている。要素を極限までそぎ落としたミニマルデザイン。
 
  
『ウエスト・サイド物語』 West Side Story/ロバート・ワイズ・ジェローム・ロビンズ(1961

West Side Story
             

 マンハッタンを舞台にポーランド系不良グループ「ジェット」とプエルトリコ系不良グループ「シャークス」の対立を軸に若者たちの青春と死を描いたミュージカル。
 
 レナード・バーンスタインの序曲が終わり、満を持したようにマンハッタンのドローイングが実写にオーバーラップし、ビル群を俯瞰した無音の映像に切り替わる。カメラが街中にズームダウンしたと思うや否や不良少年たちのフィンガースナップが鳴り始めるという何回見てもゾクゾクするオープニング。映画の結末の余韻を残しながら、カメラが落書きされたレンガ壁をゆっくりとなめるように移動するなか、落書きの文字にズームすると実はスタッフクレジットだったという秀逸なアイディアによるエンドタイトル。どちらも甲乙つけがたい出来映えだ。
      
  
『グランプリ』 Grand Prix/ジョン・フランケンハイマー(1966

Grand Prix
             
 車載カメラや実レースでの撮影などリアルで迫力ある映像が話題になったF1グランプリもの。三船敏郎が本田宗一郎を思わせる役で出ている。
 
 忙しく立ち働くメカニック、緊張するドライバー、落ち着かない観客などを交互に捕らえながら、マルチスクリーンやストップモーションなどを駆使して、レーススタート直前の否が応でも高まる緊張感を映像化。望遠レンズによる被写界深度の浅いクローズアップのめまぐるしくカットバックが臨場感を高めている。プラグ、T型レンチ、タイヤゲージ、キャブレターなどのショットがプロフェッショナルな世界を感じさせる。マフラーを後ろから大写しした黒い円形にタイトルが現れ、エンジンがひひと吹きするカットも忘れがたい。
    
  
 ソール・バスはこのほかにも『七年目の浮気』(1955)、『大いなる西部』(1958)、『或る殺人』(1959)、『オーシャンズ11』(1960)、『荒野を歩け』(1962)、『枢機卿』(1963)、『勝利者』(1963)などにおいて印象に残る名タイトルを作っている。ノンクレジットながら『エイリアン』(1979)のタイトルも手がけるなどソール・バスが手がけた映画タイトルは60本に上っている。
 
 1960年台後半以降、ハリウッドにはアメリカン・ニューシネマの波が押し寄せ、映画のタイトルにおいても、斬新な映像美やアーティスティックなデザイン性よりも、そっけないぐらいのリアリティが求めれるようになり、ソール・バスも仕事の軸足を映画界から企業CIや短編映画などの分野に移すことになる。
 
 AT&T、ユナイテッド航空、コンチナンタル航空、ワーナー・コミュニケーションズ、ミノルタ、紀文、味の素、前田建設工業などの企業ロゴはソール・バスの手によるものだ。
 
 1990年代にマーティン・スコセッシが再評価するかたちでソール・バスの映画タイトルが久しぶりに映画界に登場する。

 『グッドフェローズ』(1990年)、『ケープ・フィアー』(1991年)、『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事』(1993年)、そして最後の映画タイトル作品となった『カジノ』(1995年)。その翌年の1996年にソール・バスは亡くなる。


 

 

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誰もデュシャンから逃れらない~《大ガラス》東京ヴァージョンを前にして~

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 今からちょうど100年前の1917年、後年20世紀美術史最大の事件として記憶されることとなる出来事が起る。
 
 ニューヨークで開催が予定されていた独立美術家協会の展覧会に、Fountain 《泉》と題された作品が参加費用とともに送られてきた。それは逆さにされた男性小便器であり、R.MUTT(R.マット)とサインがされていた。

Fountain

(*
Fountain photographed by Alfred Stieglitz,source:http://www.cabinetmagazine.org/issues/27/duchamp.php

      
 理事会は当然、展示を拒否し、理事の一人であったマルセル・デュシャンは即刻、これに抗議して理事を辞任する。その後、デュシャンは自らが発行する小冊子「ブラインド・マン」第二号に「リチャード・マット事件」と題する無署名記事を掲載する。
 
 もちろん《泉》の送り主はデュシャン本人である。
 
 アルフレッド・スティーグリッツが撮影した写真がかろうじて残されているものの、《泉》のオリジナルそのものは、その後行方が知れないこと(ゴミと一緒に廃棄された?)や後年、複製の申し出をデュシャン自身が快諾したことなど、《泉》をめぐる一連の出来事は、波紋を広げ、今では20世紀美術史最大の事件として記憶されることとなった。
 
 作ること(創造)は芸術に必須ではないのか、目利きは芸術家か、何らかの美的要素は不要なのか、作品のオリジナリティとは、芸術の主体性とは。マルセル・デュシャンは、芸術とはなにか?それを存立させている根本理由を問い正した。
 
 論争を呼びながら、《泉》は立派なアートとなり、デュシャンの影響は、絵画分野に留まらずに芸術全般に及び、その後、芸術はなんでもありといわれるぐらいに領域を拡大した。
 
 デュシャンの影響は芸術分野に限らない。デザインなどのクリエイティブな分野はもちろん、アートとはほど遠いビジネスの分野まで、世の中のすべてのフィールドはデュシャンの手の内といっても過言ではない。
     
 実態や機能よりコンセプトやコミュニケーションが尊ばれ、既存のものを組み合わせる編集は新たな価値を創造する手法として確固たる地位を占め、オリジナルと複製の差は、テクノロジーの進歩でますます曖昧になり、SNSや画像投稿サイトの登場でアーティストと観客という主体論も既に無意味なものに見えてきてしまっているのが、今の世の中だ。
 
 デュシャンは、《泉》のほかにも、量産される日用品(例えば、車輪やシャベルやコート掛け)を使った一連の作品やモナリザに髭を描いただけの《L.H.O.O.Q.》やパリで製造された中空のガラス容器に《パリの空気》と名づけた作品など、レディメイドと呼ばれる作品群により、芸術を問い直すような活動を続ける。なかでも生涯の大作とよばれているのが、《彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも》、通称《大ガラス》と呼ばれている作品だ。
 
 1915年-1923年の間に制作され、途中でガラスにひびが入って制作が放棄された作品だ。ちなみにデュシャンはガラスに入ったひびを歓迎したという。オリジナルはフィラデルフィア美術館に収蔵されている。

 デュシャンは同名の作品として詳細な資料を残しており(通称《グリーン・ボックス》(1934)と呼ばれる)、これに基づいて制作された複製が世界で4つ存在している。日本では、東京大学教養学部美術博物館に東京ヴァージョンの《大ガラス》(1980)が展示されている。

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 高さ227.5mm、幅175.0mmのこの作品は、2枚のガラスをあわせてその表面と内部に油彩、鉛、埃など施し、自立させたもので、《泉》とは正反対に、手の込んだ手仕事と難易度の高い制作方法で作られている。
 
 画面の大半は透明なガラスで占められ、視線は背後に容易に突き抜けてしまい、作品を見ているのか、背後の空間にあるものを見せられているのか、見るものは、いきなり宙吊りの状態に陥る。

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 普通の絵画とは異なり、裏側からも観賞できるが、興味本位で裏側に廻った者は、裏側からの観賞はほとんど意味をなさないことを痛感させられるだけである。

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 ある物語(作品下部の独身者たちの性欲が気化して上部の花嫁の脱衣を促すという性愛をめぐるストーリー)が描かれており、その解釈もさまざまになされているが、描かれているものにその象徴や必然性を見ようとしても、徒労感に襲われて終わるだけだ。さらにその物語の意味やタイトルにつけられた《さえも》の意味するところなどを考え始めると、さらなる迷宮の深みに陥る。

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 謎に包まれた内容、もちろん美的感興などは催させない、それでいてひどく手の込んだ作られ方をしているこのモノは、はたして芸術なのか。何のためにこんなに知力と労力と時間をかけて作られているのか。
 
 それは究極の無意味さを芸術と命名することに成功するための周到な企てとしか思えない。
 
 意味や目的や達成やあるいはその結果としての美的感興などは、まったく芸術とは関係ない、との宣言だ。人間の生に意味がないのと同じように、芸術にも意味がない。デュシャンはそう言いたげだ。
 
 本当にそうかどうかはわからない。作品の真意や意図を問われたデュシャンは決まって「わかりません」、「遊びでした」、「単なる気晴らしでした」「何も考えていませんでした」などの言葉で、相手を煙に巻いた。

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(*Marcel Duchamp, source:
http://www.theartblog.org/2009/09/michael-taylor-tells-all-a-talk-on-etant-donnes/)

 
 《大ガラス》以降、すっかり制作を放棄してしまったデュシャンは1968年に死去する。
 
 ところが、デュシャンの死後、遺作とされた作品が公開され、再び世間は驚愕する。生前に20年間に渡って秘密裏に制作されていた《与えられたとせよ1.落ちる水2.照明用ガス》と題された作品である。
 
 複製どころか、移動することも不可能な、そしてしっかりと作り込まれたこの大作は、これまでのデュシャンに貼られたすべてのレッテルを反転さるような反デュシャン的作品であると同時に、<作らないこと>と<作ること>という概念をも等価にしてみせたような、究極のデュシャン的作品だった。
 
 マルセル・デュシャンの最大の作品は、その人生だったといわれる所以である。




*参考文献 : マルセル・デュシャン、ピエール・カバンヌ、『デュシャンは語る』 (ちくま学芸文庫、1999)
       カルヴィン・トムキンズ、『マルセル・デュシャン』 (みずず書房、2003)
                展覧会カタログ、『マルセル・デュシャンと20世紀美術』 (朝日新聞社、2005)



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妄想バルセロナ・チェア

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 そこに置くだけで場の雰囲気が一変する椅子が存在する。ミース・ファン・デル・ローエによるバルセロナ・チェアはそうした椅子の代表だ。

 革新的な構造とフォルム、優雅にしてクール。モダンファニチャーの頂点ともいえるこの椅子は、どこか人を寄せつけないような冷たさ、さらに言えば、人が座ることを拒むような孤高さを漂わせている。

Silla Barcelona
(*Barcelona chair & stool,source:http://knittingandcrocheting-club.blogspot.jp/2012/06/mies-van-der-rohe-europa.html
 
 バルセルナ・チェアは1929年のバルセロナ国際博覧会のために建てられた、同じミースの手になるバルセロナ・パビリオンのために作られた椅子だ。
       
 それはバルセロナ・パビリオンに出御する予定のスペイン国王アルフォンソ13世とその王妃ビクトリア・エウヘニア(英語読みはウージェニー)夫妻のための玉座として作られ、そこに置かれたものだった。
        
 バルセロナ・チェアのイメージの原点は、古代ローマ時代の王や権力者の象徴でもあったクルール・チェア(Curule Chair)とよばれるX脚の椅子だったという、いかにも玉座にふさわしいエピソードが残されている(『評伝ミース・ファン・デル・ローエ』 フランツ・シュルツ 鹿島出版会 2006)。

Curule_chair _sella_curulis _Museo_Borbonico _vol._vi._tav._28

(*curule chair,source:https://en.wikipedia.org/wiki/Curule_seat
   
 アルフォンス13世は、ブルボン家出自のスペイン国王アルフォンソ12世を父とし、ハプスブルグ家から嫁いだ母マリア・クリスティーナとの間に生まれる。生まれる前に父アルフォンス12世が亡くなり、アルフォンス13世は、生まれた瞬間から王であり、王太后となったマリア・クリスティーナの摂政のもと、幼少から玉座に座った稀有な出自の人物である。
 
 バルセロナ・パビリオンの前でアルフォンソ13世と会話を交わす正装姿のミースが写真に収められている。

Mies y Alfonso XIII
(*バルセロナ・パビリオンでアルフォンソ13世と会話を交わすミース,source:http://knittingandcrocheting-club.blogspot.jp/2012/06/mies-van-der-rohe-europa.html)
 
 ミースの最高傑作といわれ、モダン建築の始祖として賞賛されるバルセロナ・パビリオンに、スペイン国王夫妻を迎え、博覧会開会の黄金勅書に署名がなされた1929年5月26日はミースにとってヨーロッパ時代の絶頂の瞬間だった。
 
 しかしながら、バルセロナ・パビリオンを訪れたアルフォンソ13世夫妻は、中庭のプールに面する透明ガラスを背にして置かれた白の子羊の皮革で作られた2脚のバルセロナ・チェアに座ることはついになかったという(★1)。
          
 その理由は、ミースがバルセロナ・パビリオンで実現した、後のユニバーサル・スペースにつながるような、「流れる空間」には、もはや王が座すにふさわしい空間のヒエラルキーが存在しなかったからだと言われている(『ミース・ファン・デル・ローエ 真理を求めて』 高山真實 鹿島出版会 2006)。

Frampton_barcelona_pavilion_interior_1060
(*Barcelona Pavilion,1929,source:https://www.knoll.com/knollnewsdetail/design-deconstructed-barcelona-chair
 
 あるいはこうも言えないだろうかと妄想が膨らむ。アルフォンソ13世は、バルセロナ・チェアが漂わせるどこか人を寄せつけないような雰囲気に何かしら不安なものを感じたからだと。
  
 幼少から玉座に座り、帝王学を学び、16歳から親政を執ったといわれている、生まれながらの王アルフォンス13世は、バルセロナ・チェアに隠されたミースのシニカルな意図を直感したのかもしれない。
         
 さあ、どうです。現代の玉座とはこんな感じでしょう。ただし、決してお座りになりませぬように。なぜなら、現代の玉座とは座るべき主の不在を象徴するために作られるわけですから。いやはや、お互い、いやな時代に生まれてきましたな。
     
 第一次大戦に参戦しなかったスペインは、戦争特需で工業化が進み経済発展が目覚しかったものの、一方で貧富の差が著しく拡大するなど、父アルフォンソ12世の時代には安定していた政治が揺らぎ始めていた。ビクトリア・ウージェニーとの結婚のパレードは無政府主義者の爆弾テロに見舞われ、その後も王党派と共和派が対立を繰り返し、アルフォンソ13世が在位している間だけでも2人の首相が暗殺されるなど、社会不安は深刻化し、結果的に王政の存在意義が失われていった。
 
 不安は的中したのかもしれない。アルフォンソ13世はその2年後の1931年、政治的な行き詰まりから亡命し、スペイン王政は廃止され、それが引き金となってスペイン内戦が勃発する。その後スペインは、内戦を制した大元帥フランシスコ・フランコ・バアモンデが国家元首となり、ながらく独裁政権が続くことになる。
          
 ミース・ファン・デル・ローエは、バルセロナ・パビリオンによって、空間のヒエラルキーを消滅させ、均質空間(ユニバーサル・スペース)を世界に普及させた。そして、そこに置かれたバルセロナ・チェアは、社会のヒエラルキーの消滅を象徴していた。大げさにはそんな風に言えるかもしれない。
     
 1975年、フランコの死去によりスペインは36年ぶりに王政復古し、ファン・カルロス一世が国王に即位する。フランコの操り人形とみられていた国王は、一転、フランコ時代の独裁政権を否定し、民主化を推進し、今日の立憲君主制のスペインが作られた。ファン・カロス一世はアルフォンス13世の孫にあたる。
   
 88年前、現代の玉座たるバルセロナ・チェアを前にしたアルフォンス13世の脳裏によぎったものは、遥かかなたに垣間見えた今日の民主スペインの姿だったのかもしれない。




(★1)そもそもバルセロナ・パビリオン自体が国王を迎えた1929年5月26日時点では完全には完成しておらず、バルセロナ・チェアも間に合わなかったとの説もある。確かに写真にはパビリオンの前しか写っていない。


   



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ミース的なもの、日本的なもの~清家清の斉藤助教授の家~

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 バウハウスの創始者ヴァルター・グロピウスは、1954年に来日した際、自らの希望により清家清が設計した斉藤助教授の家(1952年)を訪れ、「日本建築の伝統と近代技術の幸福な結婚」と賞賛した。グロピウスは清家を自らが主宰する協働設計事務所TACに招き、清家はTACでグロピウスと一緒に働いている。
 
 建築史家で建築家の藤森照信は、「斉藤邸は木でつくったファンスワース邸である」、「清家はミース的なものの体現によって戦前のモダニズムを突き抜けた」と評している(『昭和住宅物語』 藤森照信 新建築社 1990)。
 
 竹橋の東京国立近代美術館で開催されている「日本の家」展でこの斉藤助教授の家の原寸模型(部分)が展示されているので見に行ってみた。
 
 斉藤教授の家は、開口の幅が約9mに対して室内の奥行きが約4.8mメートルと開口面が大きく奥行きが薄い、まるで縁側やテラスのような開放感を持った住宅だ。

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 さらに、縁側と反対の奥の壁面もほとんどがガラス開口となっていることも、全体を居室空間というよりも奥行きのある縁側のように見せている要因だ(原寸模型では建具の一部が省略されている)。

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 この囲まれ感の希薄さを印象づけているもうひとつの要因が、フラットに納められた床と天井の造形だ。フラットでノイズの少ない空間を風や空気や気配が流れる。
 
 普通、日本家屋に入ると目に留まるはずの欄間や鴨居や長押や袖壁や垂壁や敷居が一切目につかない。

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 障子やガラス戸はすべて床から天井までのフルハイトの高さ(ちなみに天井高は2,375)で設けられており、建具を引けば、居室の床と天井の間に壁的なものはなにもない。鴨居や欄間障子が残された東側の和室(客間)と比較すると、その開放感がよくわかる。
 
 床は室内と縁側ともに同じ檜縁甲板張りとなっている。障子の敷居はチリ2mmで床埋め込みとなっており、室内と縁側の間の枠が目立たない納まりとなっており、障子を引いた際に居室と縁側が一体の連続した空間となって見える。外部との境に設けられた4枚引きのガラス戸の下のレールもほとんど目立たない。

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 居室と縁側の天井は明るいグレーの和紙が張られたフラットな仕上げになっている。3枚引きの障子の鴨居もチリ2mmで天井内に飲み込んで納められている。外部の軒裏は普通は垂木などで支えられて傾斜がついているが、ここも檜の小幅板を張ってフラットに仕上げられており、さらにガラス戸や雨戸の上枠も天井内に納められている。この徹底したフラットな造形と納まりへのこだわりによって、居室~縁側~軒裏が水平なフラット面で連続する、内と外に境が曖昧に感じられる空間体験を生み出している。

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 障子やガラス戸を引いた状態で居間に佇むと、まるで全体が床と天井の2枚の水平面だけで構成されたインナーテラスにいるような錯覚を覚える。
 
 この水平な広がり感や内外の一体感をより強調する重要なポイントが、間仕切り(この場合は建具)と柱を分離した設計だ。
 
 通常は柱と柱の間に建具を入れるが、ここでは柱と建具の位置をずらして、柱は水平な床と天井を支える細い丸柱として独立させ、建具はすべてを片側に引けるような設えとして、引いた時に大きな開口が生まれるようになっている。
 
 障子は3枚引き、ガラス戸は4枚引き、雨戸は4枚引きとなっており、ガラス戸と雨戸は両端にの壁の位置に納まるようになっており、すべてを引くと約9mの大開口が生み出される。
 
 間仕切りから独立して設けられた3本の丸柱(直径120mmの檜材)は、それぞれ、開口幅を等分に割った位置に立てられる。結果的に、外側の柱と内側の柱の位置が微妙にずれることになる。この位置がずれた3本の柱が、空間を可視化する一種の装置のようなものとして機能することになり、柱の存在が逆に空間の透明感や奥行き感をより強調する、という構成が見事である。

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 「ミース的なもの」という視点では、低く水平な建物全体のプロポーションや内外を流動する空間の透明性がミースのファンスワース邸(1952)との類似を思わせ、独立柱が空間の可視化の装置として機能しているところあたりが、ミースのバルセロナ・パビリオン(1929)やトゥーゲントハット邸(1930)を髣髴とさせるところだろう。
 
 しかしながら、実際の空間を体験してみると、実感は「ミース的なもの」とは異なる、しかも根本的に異なる、ようにも思える。
 
 ミースの建築から受ける印象は、「囲む」という意思だ。無限の広がりの空間を区画して人間のための内部をつくるという理性だ。画す手段が透明なガラスといえども、それは外界から区画して内部をつくるための壁だ。区画されてできた内部空間は外界から隔絶された空間だ。むしろ透明なガラスは、最小限のマテリアルによって自然と対峙できるという、人間の理性の勝利を物語っている。
 
 一方、斉藤助教授の家から受ける印象は、逆で、極力「囲まない」という態度だ。もちろん人の住む住宅なので物理的には囲んでいる。ただし、外界から内部を区画する手段は、雨戸、ガラス戸、障子などすべて開け放てる引き戸であり、壁は最小限だ。建具はすべて引き込める設えとなっており、立てた状態(閉鎖)よりも引いた状態(開放)がより意識されており、内外を流動する空間が常態とみなされている。
 
 比喩的に言えば、ミースが理性、合理、物質性、四角四面、箱的とすると、斉藤助教授の家は、感性、曖昧、非物質性、融通無碍、東屋的と言うことができるだろう。
 
 ミース・ファン・デル・ローエは、宇宙の一画を箱で囲み、閉鎖空間を作り自然と対峙した。清家清は庭の一画に最小限の床・天井・柱を設け、自然との境が曖昧な場を設えた。
 
 清家清は、この家をつくるに当たって心がけたことは?との問いに「日本語で<間>って言うでしょう。物体じゃなくて、物と物の間にあるもの。この家はその<間>をつくろうとしたのかナァー・・・・。どうだったんだろう」と答えている(前掲書)。
 
 ミースは「物」を主語した家であり、清家は「間」を主語にした家である。
 
 日本建築は、開放性、無限定な空間、簡素さなど、モダニズムの価値を先取りしていたといわれるが、現実はそう単純ではないことがわかる。一見似ているものの間には、大きな断層が横たわっているのだ。




 
*「日本の家」展は東京国立近代美術館にて2017年7月19日より2017年10月29日まで開催されている。1945年以降の建築と暮らしをテーマに、50人(組)を超える建築家による75の住宅建築を13の系譜に分類して展示されている。展示される模型・図面・写真・映像などは400点を超える。




  



*初出 zeigeist site


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レイモンド・チャンドラー『ザ・ロング・グッドバイ』精読 Chapter23

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 第23章の舞台は、第21章の終わりでマーロウがアイリーンから誘いを受けた、ウェイド家のカクテルパーティだ。
 
 チャンドラーは毎度おなじみのカクテルパーティーの様子をこう記す。

 
 It was the same old cocktail party, everybody talking too loud, nobody listening, everybody hanging on for dear life to a mug of the juice, eyes very bright, cheeks flushed or pale and sweaty according to the amount of alcohol consumed and the capacity of the individual to handle it.
 
 マーロウは書斎でロジャー・ウェイドに再会する。ウェイドはマーロウをsmall time operator in a small time businessと皮肉くりながら、同時に自らをも自嘲し卑下するひねくれ者だ。magoozlumとはコメディーなどで投げ合うカスタードパイのことを指すハリウッド・ジャーゴンらしく、転じてくだらないことの意だ。not worth the powder to blow itはほとんど価値がない、to hellは本当にという強調。
 
 "You're looking right at a small time operator in a small time business, Marlowe.All writers are punks and I am one of the punkest. I've written twelve best sellers, and if I ever finish that stack of magoozlum on the desk there I may possibly have- written thirteen. And not a damn one of them worth the powder to blow it to hell. I have a lovely home in a highly restricted residential neighborhood that belongs to a highly restricted multimillionaire. I have a lovely wife who loves me and a lovely publisher who loves me and I love me the best of all. I'm an egotistical son of a bitch, a literary prostitute or pimp-choose your own word-and an all-round heel. So what can you do for me?"
     
 「身勝手なクソ野郎であり、文学の娼婦であり、あるいは文学のポン引きだ。どちらでも君の好きな言葉を選んでくれればいいが。そしてan all-round heelだ」。an all-round heel(あらゆる面でのくず男)というのが面白い。村上訳では「お手軽な便利屋」となっている。
 
 簡単に挑発に乗らないマーロウを、ロジャー・ウェイドは気に入った様子で、みんながいるところに行って一杯飲もうの誘う。以下はそんなひねくれ者二人のやりとり。長いが、いかにもチャンドラーらしい会話なので引用しよう。lousyはけがらわしい、shove itは強い拒絶や反感の意、knock it offは騒ぎなどをやめろ、黙れという意味、take it out on sbは人にやつあたりするという意味。
 
 He stood up. "We don't have to drink in here. Let's go outside and glance at a choice selection of the sort of people you get to know when you make enough lousy money to live where they live."

 "Look," I said. "Shove it. Knock it off. They're no different from anybody else."

 "Yeah," he said tightly, "but they ought to be. If they're not, what use are they? They're the class of the county and they're no better than a bunch of truckdrivers full of cheap whiskey. Not as good."

 "Knock it off," I said again. "You want to get boiled, get boiled. But don't take it out on a crowd that can get boiled without having to lie up with Dr. Verringer or get loose in the head and throw their wives down the stairs."

 "Yeah," he said, and he was suddenly calm and thoughtful. "You pass the test, chum. How about coming to live here for a while? You could do me a lot of good just being here."
 
 "Let's go outside and”以下は、意味としては理解しやすいが、いかにも英語的な語順で、こなれた日本語にするとなると結構、難しい。
 
 清水訳は「金がたまると友だちのような顔をするお上品な連中のつらを拝見しようじゃないか」と原文の意を汲んだ訳となっており、村上訳は「もし君があぶく銭を稼いで、こういう場所に住めるようになったら、いったいどんな連中とお近づきになれるか、ひとつ下見をしてみようじゃないか」と極力、逐語的かつ日本語としての自然な言い回しを上手くバランスさせてた訳となっている。
 
 「彼らは違っているべきなんだ。そうじゃなかったら、彼らがいる意味がない。彼らはこの国の特権階級なんだ」とウェイドは続ける。ロジャー・ウェイドのシニカルな態度の陰に垣間見えるある倫理観。
 
 マーロウは「よさないか」と諌め、ウェイドの身勝手さをこう一撃する。「腹を立てるのは勝手だが、ほかのひとに人にやつあたりをしないことだ。ほかの人とは、いくら腹を立てても、ドクター・ヴェリンジャーのところに転がり込んだり、正気を失って奥さんを階段から突き落としたりしない人々のことだ」
 
 ロジャー・ウェイドにおける、身勝手さと倫理との奇妙な共存。だれかに似ている。そう、テリー・レノックスだ。チャンドラーの登場人物は、社会や都市の悪に染まりながら、同時にそれに抗うように倫理的であろうと試みる。身勝手さや一方的な幻滅は、悪による独善であり、自嘲やシニカルさは最後の砦としての倫理の表れだ。
 
 レノックスもウェイドもチャンドラーの分身といえる。彼らの態度は、チャンドラーの都市ロサンゼルスへの、そしてアメリカ社会そのものへのアンヴィバレントな思いを反映してたものといえる。嫌悪しながら惹かれ、唾棄すべき醜悪さと同時に美を見出してしまう。
 
 単純な善悪では割り切れない複雑化した事象が渦巻く都市や社会という認識は、優れて今日的な視点といえる。チャンドラーの登場人物が今でも生き生きとしているのは、あるいは、チャンドラーの作品が、今も色あせないのは、この悪と倫理のアンヴィバレントな共存にあるといってもよい。
 
 マーロウを試すように、身勝手な倫理を振りかざして悪態をつくウェイド。クライアントに媚びずに身勝手な態度を諌めるマーロウ。
 
 先のマーロウに目に映るカクテルパーティの描写からみて、マーロウもウェイドの倫理を共有してるのは明らかだ。
 
 ウェイドはマーロウという人間に、自分と同じ複雑な心性を感じ取り"You pass the test, chum."(君はテストに合格した)という。
 
 ウェイドはウェイドは自分が酒を飲むのは何かから逃避しようとしてるからであり、それを知る必要があるといい、その手助けとしてこの家にしばらく一緒に住んでくれとマーロウに申し出るが、酒を飲むのをやめさせることはできないと断るマーロウ。
 
 「友だちとして頼んでいる。君はレノックスにためには、もっと多くのことをしたじゃないか」とレノックス事件のことを持ち出すウェイド。up to hereは、ここまでいっぱいという意。
 
 I'm asking you as a friend. You did more than that for Lennox."

 I stood up and walked over dose to him and gave him a hard stare. "I got Lennox killed, mister. I got him killed."

 "Phooey. Don't go soft on me, Marlowe." He put the edge of his hand against his throat. "I'm up to here in the soft babies."

 "Soft?" I asked. "Or just kind?"

 最後の"Soft?" I asked. "Or just kind?"というマーロウの言葉に関して、村上訳では「甘やかす?」と私は尋ねた。「ただの親切心と取り違えちゃいないか?」となっているが、やや意味がとりにくい。”Soft?”は”Don't go soft on me”のsoftを指しており、後半は「(レノックスにしたことは)単なる親切心からだと思っているのか?」とのニュアンスの、レノックスとの関係を誤解していそうなウェイドへの抗議の意味あいの言葉だろう。
 
 ウェイドが知りたがっていること(酒で逃避していること)についての会話。
  
 "About who? Your wife?"

 He moved his lips one ever the other. "I think it's about me," he said. "Let's go get that drink."

 He walked to the door and threw it open and we went out.

 If he had been trying to make me uncomfortable, he had done a first-cass job.
 
 「もし彼が私のこころを落ち着かなくさせるのが目的だったとしたら、彼はそれを見事に成し遂げたことになる」(村上訳)と、いつもの通り、幕切れは、余韻を残す一文で締めくくられる。

Powers boothe philip marlowe 1_chapter23
(Powers Boothe as Phlip Marlowe in Phlip Marlowe,Private eye,
 
source: 
https://mythicalmonkey.blogspot.jp/2017/05/powers-boothe-1948-2017.html



                              to be continued
     

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