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アトムの時代とカリフォルニア・モダン・リビング

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 ミッド・センチュリーは核の時代でもある。アメリカと旧ソ連は1950~60年代を通じて、次々と核実験をエスカレートさせていた。
 
 カリフォルニアの明るい日差しのなかに、見えない核の恐怖が偏在していたのがこの時代の特徴だ。
 
 冷戦下における核の恐怖は1962年のキューバ危機で頂点に達する。1964年に公開されたスタンリー・キューブリックの映画『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』は、核軍拡の破滅的な結末を皮肉たっぷりにみせてくれる。
 
 カリフォルニア・モダン・リビングもその先端的で享楽的なイメージにふさわしい核の時代に対応した住宅を生み出している。
 
 ポール・ラースローは「リッチ・マンズ・アーキテクト」と呼ばれたセレブ御用達の建築家でハリウッドスターやオイルマネーによる大富豪たちのための邸宅を数多く作った人物だ。ケーリー・グラント、エリザベス・テイラー、バーバラ・スタンウィック、ロバート・テイラー、バーバラ・ハットン、ウィリアム・ワイラーなどハリウッド・セレブがクライアントに名を連ねている。
 
 《アトム・ヴィル・USA》はポール・ラースローが1950年に提案した核の時代のための近未来の住宅コミュニティだ
MidCentury Architectureというサイトに掲載されている雑誌POPULAR MECHNICSの記事)。


ポール・ラースロー_アトム・ヴィル・USA
                                        (Paul László 1950より)
         
 住宅は大きなカーブを描いた人工地盤の下に設けられ、移動用のヘリコプターのための個人用ヘリポートが地表に設けらている。地下とはいいながら大きなライトウェルから採光が降り注ぎ、最新の設備とプールまで備えられている優雅な住まいだ。

 当時、パット・ブーンやグルーチョ・マルクスやダイナ・ショアなどが精巧な核シエルターを建てていたそうだ。(『カリフォルニア・デザイン 1930-1965 -モダン・リヴィングの起源-』 2013)
      

 ポール・ラースローも核シエルターを提案しているが、なんといってもユニークなのがハル・ハイエスによってハリウッド・ヒルに建てられた大豪邸に設けられた核シェルターだ(MODERN MECHANIXというサイトに掲載されている雑誌POPULAR MECHNICSの記事)。

 ハル・ハイエスは、建設業で財を成した富豪で、ハリウッド女優と浮名を流す独身のプレイボーイとして名を馳せていた人物だ。

 ハルは6層分の大豪邸そのものを核爆弾の衝撃に耐えられる頑丈な造りにしたことに加え、スイミング・プールを経由する贅沢な地下核シェルターを作った。大きなソファや居心地の良さそうなラウンジチェアが置かれ、壁にはアートがかけられ、酸素ボトルが完備されている。水着姿の男女はまるでリゾートハウスで寛いでいるようだ。ハル・ハイエスはプールの水によって核の放射能が除洗されると信じていたそうだ。

ハル・ハイアス_核シェルター
                          (POPULAR MECHNICS August 1953より)
             
             
       
 核戦争への恐怖感と奇妙な明るさが一体になったような、核の時代を意識したパラノイアックな住宅は、カリフォルニア・モダン・リビングの持っているある種の「過剰さ」(岸和郎)をよく表している。

 そして、こうしたイメージがその後の007シリーズにおけるドクター・ノウやスペクターによる誇大妄想的な地下基地や、『サンダー・バード』における世界中の少年を虜にしたトレーシー・アイランドの秘密基地の元ネタになっていったのに違いない。
    
         
 
*初出:zeitgeist site


     

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『秋刀魚の味』小津安二郎監督(1962)

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 父は笠智衆、娘は岩下志摩という配役。いつものようにほのぼのとしたセリフ回しと妙にうきうきさせる音楽とともに極めて冷徹な現実認識が披露される。ヒョウタンこと恩師の東野英治郎のとうの立った娘杉村春子が涙を流すシーンは人生の取り返しのなさを感じさせて残酷だし、一方、娘岩下志摩が不本意な結婚に甘んじるというのも別の意味で残酷だ。ままならぬ人生、さらに父笠智衆には老いの孤独も迫り来る。平山家の誰もいない廊下や娘の部屋の空ショットがそれを象徴しているようだ。家族が不在の家が影の主人公のような映画でもある。小津安二郎は翌年60歳で死去。本作が遺作となった。

秋刀魚の味
     


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レイモンド・チャンドラー『ザ・ロング・グッドバイ』精読 Chapter17

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 ロジャー・ウェイドが残した手がかりの「ドクターV」の候補の残りの二人を訪ねるかどうか逡巡しているマーロウの姿から始まる第17章。

 無駄骨になりそうな予感がして気が乗らない様子のマーロウ。
 
 You waste tires, gasoline, words, and nervous energy in a game with no pay-off. You're not even betting table limit four ways on Black 28. With three names that started with V. I had as much chance of paging my man as I had of breaking Nick the Greek in a crap game.
 
 2つめのセンテンスのYou're not even betting table limit four way on Black 28というところがよく分からない。
 
 Black 28とはなんのことだろうか?ブラック・ジャックの別名が21というように、なにかカード・ゲームの一種かと思って調べてみたが、どうもそうではないらしい。いろいろ悩んだ揚句、ギャンブルの世界で「黒の28」といえば、やはりルーレットかな、と思い至った。ルーレットではある数字を対象にいろんな方法で賭けることができるので、ここでいうfour way on Black 28とは「黒の28に対して4通りのやり方で」賭けたということではないか。table limitとは最低限の金額で、ということだろう。
 
 直訳すると「(このゲームにおいては、ルーレットのように)黒の28に最低額で4通りのやり方で張って、当たらずとも遠からずの場合にも賭け金がいくばくか戻ってくるようなことすらかなわないのだ」という感じだろうか。つまり「この仕事はロジャー・ウェイドと関係するドクターVを見つけなければ、Vで始まる医師を何人訪ねてもまったく無意味なのだ」ということを言いたいのだろう。
 
 村上訳では「出るあてのない目にせっせと金を張っているようなものだ」となっているが、今ひとつ原文のニュアンスとは異なっている。清水訳ではこのセンテンス自体が省略されてしまっている。
 
 次のセンテンスのpagingとは人を探すの意。crap gameとはさいころゲームのこと。有名なのは、ローバート・アルトマン監督の映画『カリフォルニア・スプリット』(1974)で我らがエリオット・グールドが最後に勝負をかけるシーンで登場するcrapsと呼ばれるゲームだ。そのシーンへのオマージュとしてポール・トーマス・アンダーソン監督の映画『ハード・エイト』(1996)でも登場していた。賭け手自らがさいころを振るゲームだ。

California Split
California Split ,source:Harverd Collage site
 
 そのセンテンスに出てくるNick the Greek(ギリシア人ニック)とは1940~50年代に名を馳せた伝説のギャンブラーのニコラス・アンドレアス・ダンドロスのことだろう。ポーカーで有名だが、さいころゲームもよくしたらしい。負けっぷりも豪快で一晩で160万ドル負けたというのは、crapsで負けた額の記録になっているそうだ(Poker Player Site)。
 
 乗り気がしないマーロウだが、根は真面目なのと、ファイルを見せてもらったカーン機関のジョージ・ピーターズになにか役に立つ情報を提供できるかもしれないということで、結局、残りの二人もつぶしておこうという結論に達して、取り合えず、近場のドクター・ヴュカニックを訪ねることにする。
 
 そこはアンティーク級の古いビルだ。
 
 It was an antique with a cigar counter in the entrance and a manually operated elevator that lurched and hated to level off.
 
 「シガー・カウンター」とはどんな感じなのだろうか、とググッてみた。下の写真はCandy and cigar counter, Furman Building lobbyと題された1930年代の写真だ。テキサスのコーパス・クリスティ Corpus Christyという都市のとあるビルにあったシガー・カウンターの写真だ(The University of Texas at Austinのサイトより)。おそらく昔のビルにはこのようなシガーや煙草やキャンディなどを扱っている売店がエントランスの片隅にあったのだろう。今からみると実に優雅だ。

Candy and cigar counter
         
 ドクター・ヴュカニックはHe was a thin-faced man with an uninteresting pallor. He looked like a tubercular white rat.と描かれる。
 
 tubercularは結核のこと。「結核の白ネズミ」とは、これまたため息がでるような比喩だ。uninterestingを村上春樹は「不気味なほど」と訳している。清水役では省略されている。
 
 マーロウはかまをかけてロジャー・ウェイドの行方を問い詰めるが、どうもドクター・ヴュカニックはドクターVではないらしい。逆にドクター・ヴュカニックに「たった500ドルであんたの骨を何本か折って病院送りにすることもできる」と凄まれる。chudはクスクス笑う、Hilariousはおもしろい、という意。
 
 He chudded. "You know something, Mr. Marlowe? We live in extraordinary times. For a mere five hundred dollars I could have you put in the hospital with several broken bones. Comical, isn't it?"
 "Hilarious," I said, "Shoot yourself in the vein, don't you, Doc? Boy, do you brighten up!"
 
 急に元気になって啖呵を切るドクター・ヴュカニックに「静脈に一発打ってきたんじゃないのか」と強烈な一撃をかまして退散するマーロウ。
 
 予想通り、二人目のドクターVは無駄骨に終わった。


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バウハウスができあがるまで

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 モダンデザインの源流となったバウハウスだが、モダンデザイン誕生の歴史には想像以上に紆余曲折があった。
 
 バウハウスのルーツは19世紀末のイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に求めることができる。アーツ・アンド・クラフツというと、機械文明を否定したジョン・ラスキンの思想やウイリアム・モリスによる中世の手仕事に回帰したような植物文様などの装飾性の高い壁紙が思い起こされる。
 
 これらはバウハウスのイメージとは俄かには結びつきがたいが、アーツ・アンド・クラフツ運動の背景には、産業革命によって生まれた低質な工業製品への異議申し立てがあり、生活と芸術の統一によって、新たに生まれつつあった大衆社会にふさわしい造形を創造するという理念があった。
 
 こうした理念と工芸分野で成功を収めているイギリスの状況に関心を寄せたプロイセン政府は、「文化スパイ」としてヘルマン・ムテジウスを6年間イギリスに滞在させ、その成功の要因を研究させている。その実践の場として1907年にドイツ工作連盟が設立され、近代社会にふさわしい芸術と産業の統一が構想された。ドイツ工作連盟の活動はインダストリアルデザインの始まりといわれ、その理念はヴァルター・グロピウスによる1919年のバウハウス設立に大きな影響を与えた。

ヴァルター・グロピウス
(ヴァルター・グロピウス 『バウハウス』 マグダレーナ・ドロステ 1992より)
 
 初期のワイマール・バウハウスは、ヨハン・イッテンをはじめとする芸術家らの個性が主導する、いわゆる表現主義的な教育が中心であった。初期バウハウスの「表現主義のごった煮」状況を大きく転換させるきっかけとなったのが、オランダでピート・モンドリアンと一緒に芸術家団体デ・ステイルを結成したテオ・ファン・ドゥースブルフが1921年にワイマールを訪れ、デ・ステイル講座を開いたことだ。
     
 水平と垂直と直角、三原色と黒と白とグレーを基本的な表現手段としたデ・ステイルの理念は、個人による表現主義的な造形を越えた、より理念的で統合的な造形のヒントになり、ラスロ・モホリ=ナギ、パウル・クレー、ヴァシリー・カンディンスキー、ジョゼフ・アルバースらのマイスターによってモダンデザインの具体的イメージへと導かれていった。
  
 「新たなる建築芸術」。バウハウス設立の目的を初代校長ヴァルター・グロピウスはこう宣言している。建築こそ、すべての造形活動とすべての芸術および技術を包括する総合芸術であると規定していた。しかしながら初期のバウハウスでは建築部門は設けられていなかった。建築部門が設けられたのは、バウハウスがデッサウの地に移って一年後の1927年のことだ。
 
 新しい時代にふさわしい建築のイメージを模索していたグロピウスらに具体的なヒントを与えたのが、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトが1910年にドイツのヴァスムート社から刊行した作品集だった。
 
 その作品集は、グロピウスの事務所では「ハウス・バイブル(住宅に関する聖書)」と呼ばれ、ミース・ファン・デル・ローエは「これはわれわれにとってある種啓示であった」と評したという。(バウハウス・アーカイブ美術館 マグダレーナ・ドロステ博士の言葉 『バウハウスとノールデザイン』 井筒明夫1992)
 
 壁を取り払い、内外を融合させ、流れるような空間を実現するというライトの建築が、それまでのクラシシズムによる建築を乗り越えるインスピレーションとなった。その結果、今日、モダン建築の原型として知られているグロピウスによる1926年のバウハウスのデッサウ校舎やマイスター宿舎が生まれ、さらには三代目の校長だったミースによるモダン建築の傑作バルセロナ・パビリオン(1929年)へとつながってゆく。

バウハウスデッサウ校

(バウハウスデッサウ校舎 『バウハウス』 マグダレーナ・ドロステ 1992より)

マイスター宿舎
(マイスター宿舎 『バウハウス』 マグダレーナ・ドロステ 1992より)
   
 モダン建築のヒントになったといわれるフランク・ロイド・ライトによる流動する空間には、実はさらなるルーツがあった。それは1893年に開催されたシカゴ万博に出展された日本館鳳凰殿である。この宇治の平等院鳳凰堂を原型として建てられた建物で、ライトは初めて実物の日本建築と出会い、つぶさに研究し、それまでの堅固な造りの箱形の欧米建築にはない空間の着想を得たといわれている。
 
 第一次大戦に敗れたドイツ産業の再興を期して始まったバウハウス。その後のモダンデザインのルーツとなったといわれるバウハウスだが、実は、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ、オランダのデ・ステイル、新大陸アメリカの建築家フランク・ロイド・ライト、さらには極東の日本建築などからの直接、間接の影響を受けて生まれたものだった。
 
 シンプルさ、ミニマルさなどを特徴とするモダンデザインだが、それが生まれた歴史は、決して単純でも直線的でもないことがわかる。




*初出:zeitgeist site             

 
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フランク・ロイド・ライトとモダンデザイン

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 43歳のフランク・ロイド・ライトは、妻子を捨て、施主の妻だったメイマ・チェニーとヨーロッパに駆け落ちする。1910年、明治43年のことだ。
 
 やむにやまれぬ情熱とともに、冷静な計算高さもあわせ持っていたライトは、ヨーロッパの地で自らの作品集を刊行し、逃避先での仕事確保を目論む。
 
 ドイツのヴァスムート社が刊行した図面集『フランク・ロイド・ライト作品集』である。

 息子のロイドと事務所のドラフトマンをドイツに呼び寄せ、いわゆるプレイリースタイルと呼ばれるライト初期の住宅の図面を中心に、すべて一から書き直した。それら100枚の図面を42×65cmという横長大判のリトグラフにしてポートフォリオに収めた超豪華版だ。(神谷武夫「古書の愉しみ」
     
 1998年にヴァスムート社が60%に縮小した横綴じ本として復刻させており、下に載せたものは、それをRIZZOLI社がアメリカで出版したものである。カヴァーに載せられたパースはライトが独立して最初の作品ウィリアム・ウィンズロウ邸(1984年)である。

ヴァスムート1
STUDIES AND EXECUTED BUILDINGS BY FRANK LLOYD WRIGHT,RIZZOLI,1998))
 
 サイズが縮小されてはいるものの、ファクシミリ版によって、細かい線はもちろん、書体やレイアウトなども忠実に再現されており、当時のオリジナルの雰囲気が伝わってくる。
 
 ひとつひとつ丁寧に描き直された手書きの平面図やパースが実に美しい。プランに落とし込まれた空間の関係性やパースで表現された凝った意匠など細部を追い始めると、ついつい見入ってしまい、時間がたつのも忘れてしまいそうだ。

ヴァスムート2
(Ward W.Willitt’s Villa,STUDIES AND EXECUTED BUILDINGS BY FRANK LLOYD WRIGHTより)

ヴァスムート3
(Thomas P.Hardy house,STUDIES AND EXECUTED BUILDINGS BY FRANK LLOYD WRIGHTより)
           
 その印象は、画集と呼んだ方が近いかもしれない。ここまでのこだわりは、もちろんライト本人の意向によるもので、費用の大半も負担した。
 
 この豪華な作品集を出すことで、逃避先で仕事を受注するというライトの目論みは、残念ながら実現しなかった。ライトの建築はヨーロッパにはひとつもない。
 
 しかしながら、このヴァスムート版『フランク・ロイド・ライト作品集』は、ライトの思惑とは全く別の意味で、建築史に名を残す存在となった。
 
 ライトのプレイリースタイルの住宅は、水平の直線的なフォルム、壁の少ない流れるような平面、大きな開口を介して外部空間と連続する空間構成などを特徴としている。

ヴァスムート4

(Concrete house for Ladies’ Home Journal,STUDIES AND EXECUTED BUILDINGS BY FRANK LLOYD WRIGHTより)
           
 ヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエなどバウハウスの建築家たちは、こうしたライトの建築に、当時、ヨーロッパはもちろん、アメリカにおいても伝統とされていたボザールスタイルの建築とは全く異なる、簡潔で、自由で、開放的な空間が実現されていることを見て取り、衝撃を受ける。
 
 「ある種の啓示であった」とのミース・ファン・デル・ローエの言葉どおり、このライトの図面集がききっかけになり、ヴァルター・グロピウスによってデッサウのバウハウス校舎とマイスター宿舎が建てられ、いわゆるインターナショナルスタイルのモダニズム建築が誕生した。
        
        
 ジャポニズム(日本趣味)は1850年代中葉、ヨーロッパで流行し、世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカでも注目を集めるようになる。
  
 1887年、フランク・ロイド・ライトは大学を中退し、シカゴのジョゼフ・ライマン・シルスビーの建築事務所に就職する。ライトはこのシルスビーを介して日本文化、とりわけ浮世絵に魅了されていく。
 
 シルスビー自身が東洋美術の蒐集家でもあったが、より重要なのは、シルスビーがアーネスト・フェノロサの従兄だったことだろう。フェノロサは、明治期に日本美術をアメリカに紹介したキーマンであり、日本から帰国後はボストン美術館東洋部長を勤めた人物である。ライトが最初に手に入れた浮世絵はフェノロサからのものだったらしい(『フランク・ロイド・ライトと日本文化』 ケヴィン・ニュート 1997)。
 
 このフェノロサと東京帝国大学での同僚だったのがエドワード・モースであり、そしてフェノロサの弟子だったのが岡倉天心だ。モースは日本の住宅研究の嚆矢といわれる『日本のすまい 内と外』(原題 Japanese homes and their surroundings 1886)の著者であり、岡倉天心は日本文化の精神をはじめて英語で語った『茶の本』(原題 The book of tea 1906)を書いている。
 
 ライトは、当時のアメリカの日本研究の第一線の人物のサークルのなかにいた。ライトは浮世絵蒐集家、そして名うての浮世絵でディーラーとして名を馳せていく。
 
 「現在、合衆国にあるほとんどの浮世絵は、かつて私の所蔵したものか、私が精力的に買い集めたものである」と豪語するライトの言葉はあながち誇張ではなかった。(『フランク・ロイド・ライトの日本』 谷川正巳 2004)
 
 そんなライトが実物の日本建築を始めて見るのが1893年のシカゴ万博で建てられた日本館鳳凰殿である。

日本館鳳凰殿
(シカゴ万博 日本館鳳凰殿,1893年)
   
 鳳凰殿は、宇治の平等院鳳凰堂を模した建築で、すべての材料を日本から持ち込み、日本の職人に手で建てられたものだ。日本建築の伝統をアピールするためか、様式的には藤原、足利、徳川の三つの様式が盛り込まれていた。パンフレットは岡倉天心が書いている。
 
 シカゴ万博では、ライトが当時、勤務していたルイス・サリヴァンの事務所も交通館を設計していた。その設計監理を担当していたライトは、鳳凰殿と出会い、その工事の一部始終を観察し、完成後も足しげく鳳凰殿を訪れていたという。(『フランク・ロイド・ライトとは誰か』 谷川正巳 2001)
 
 日本の魅力にどっぷり浸っていたライト。
 
 そんな目で改めてヴァスムート版『フランク・ロイド・ライト作品集』を眺めてみると、前掲書においてケヴィン・ニュートが指摘しているように、ウィンズロウ邸のファサード構成やヴォリューム感は、鳳凰殿そっくりだし、そのパースの構図は、柳の枝葉を内部フレームに設えた歌川(安藤)広重の「八つ見の橋」(『名所江戸百景』 1856)にそっくりなのだ。

鳳凰堂vsウィンズロウ邸
(鳳凰殿立面図(左)vsウィンズロウ邸立面図(右),『フランク・ロイド・ライトと日本文化』,ケヴィン・ニュートより)

八ツ見の橋
(「八つ見の橋」,歌川広重,『名所江戸百景』より)
          
 さらには、ライトのほかの作品、例えばプレイリースタイルの代表作ロビー邸の極端に長く延びた二重屋根は、東本願寺の重層入母屋造の屋根を思い起こさせ、また、生涯の最高傑作として有名な落水邸(カウフマン邸)の流れ落ちる水は、葛飾北斎が描いた浮世絵のなかの滝を否が応でも連想させる。

ロビー邸
(ロビー邸,FRANK LLOYD WRIGHT MASTERBUILDER,UNIVERSE PUBLISHING,1997より)

カウフマン邸
(カウフマン邸,FRANK LLOYD WRIGHT MASTERBUILDER,UNIVERSE PUBLISHING,1997より)
   
      

 ライトの建築を見た時の、不思議な既視感は、こうした理由によるものだったのだ。
 
 ライトは日本美術に心酔していたことは認めているが、浮世絵や日本の建築からの影響は頑なに否定している。
 
 「私の作品に、外国のものと、土着のものを問わず、外部からの影響は、決してなかったことを述べておきたい。(中略)現在に至るまで、いかなるヨーロッパの建築家の作品も、私には全然影響を与えなかったことを付け加えたい。(中略)インカ、マヤそして日本のものについていえば ― すべてこれ、私にとって素晴らしい確認であった」(『ライトの遺言』 フランク・ロイド・ライト 1961)
 
 巧妙な戦略家でもあったライトらしいというべきか、あるいは、肯綮(こうけい)に中る指摘に対する過剰反応とみるべきか。
 
 今日、インターナショナル・スタイルとして世界に普及しているモダニズムデザインが誕生した背景には、伝統的な日本文化からの影響があった。そして、日本文化に内包された価値が、モダニズムへと昇華されるためには、フランク・ロイド・ライトの天才性が不可欠だったことを忘れてはならない。


*初出:zeitgeist site             

 
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2016年花見大賞発表

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 2016年の花見大賞はこの句(中央)に決定!
 
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  おじさんもこの時期には感傷的になるのダヨ、きみ。
     

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花嫁修行中の日本人女性がバウハウスに入学したら ~『バウハウスと茶の湯』を読んで~

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 女学校を出て花嫁修業をしていた、デザインとも建築とも無縁な、もちろんバウハウスも知らなかった、そんな明治生まれの20歳の日本人女性がバウハウスに入学したら。
 
 著者の山脇道子は1930年(昭和5年)、夫の建築家山脇巌とともにデッサウのバウハウスに入学し、1932年にナチスによって廃校に追い込まれるまでの2年余りをバウハウスで学んでいる。
 
 山脇道子は1910年(明治43年)、祖父の代で資産を成した山脇家の長女として築地に生まれる。父は裏千家の老分(おいぶんとは長老格の役職のこと)を勤めるなど茶人でもあった。18歳の年に12歳年上の建築家藤田巌と結婚。山脇家の分家の跡を継がなければならなかった道子の婿養子になる条件として、巌が申し出たのがバウハウスへの留学だった。最初は夫についていくだけのいつもりが、いつの間にか夫婦一緒にバウハウスに入学することになる。
 
 「山脇家のおしゃまな総領として育ち、恐いもの知らずでバウハウスに入学した」との本人の言葉どおり、物怖じしない好奇心にあふれる20歳の女性が体験した、いきいきとしたバウハウスが伝わってくるの痛快な書だ。青春の書、思わずそんなふうに呼んでみたくなる。
 
 随所に載せられた写真の山脇道子が実に魅力的だ。表紙に載せられているのはバウハウスの学生証の写真だ。富裕な出自を偲ばせる上品な顔立ちのなかにも、上目遣いで見据えるような眼差しと少し力を込めて結ばれた口元が、世界を見てやろうという秘められた意思を訴えかけてくる。

バウハウスと茶の湯
          
 ヨゼフ・アルベルス(アーティストとしては英語読みのジョゼフ・アルバースの方が有名だろう)やヴァシリー・カンディンスキーによる授業風景はこんな風だったそうだ。
 
 「アルベルスにしてもカンディンスキーにしても、そしてシュミットにしても、「こうしろ、ああしろ」と手取り足取り教えるのではなく、学生に自分の頭で判断させる点では共通していました。(中略)学生自身がいかに体得するかがすべてでした。デザインに基本を習うということはこういうことなんだと、強く感じました」
 
 バウハウスでは、教師の模倣ではなく学生に自分自身の手法を見つけさせる、という初代校長のヴァルター・グロピウスが語った言葉を思い起こさせる。
 
 デッサウでの日常生活も詳しく描かれる。道子自身が食いしんぼうだったのだろう、食べ物に関する話が面白い。
 
 下宿の朝食、バウハウスの食堂のメニュー、イタリア米にハムとチーズを乗せて、日本から持っていった海苔をかけたドイツ風(?)のお茶漬けの話、日本から取り寄せた虎屋の羊羹にべらぼうな税金がかけられたこと(当時は貴重品の砂糖が大量に使われていたかららしい)、カンディンスキー夫妻とアルベルスと学長のミースを下宿に招いてすき焼きで持てなしたことなどなど。
 
 あのミース・ファン・デル・ローエがすき焼きを食べている!はたしてミースはどんな感想を持ったのだろうか?
 
 山脇夫妻の優雅な暮らしぶりにも目をみはらされる。渡航の荷物はトランク七個にもなったこと、途中経由のニューヨークでファッションに魅せれれて、結局、洋服をすべて新調したこと、ところがドイツにいってみると、今度は男物のテーラードのカチッとした洋服に惹かれてオーダーしてしまったこと、デッサウのほかにベルリンにも下宿を借りていて毎週末は舞台芸術の研究を兼ねて観劇にいそしんだことなど、戦前の富裕層は今とは桁違いだ。
 
 バウハウスには貧しい学生も多く、日本からの仕送りで不自由しない夫妻がカフェで食事をしている姿をやっかむ者も現れ、それ以降は自重したことなど、大恐慌直後の当時の経済情勢をしのばせるエピソードも披露される。
 
 帰国後、山脇巌が設計して1935年に完成した駒場のアトリエ付き自宅の写真が載っている。シンプルでミニマルな空間に、ミースやマルセル・ブロイヤーにカンチレバーのチェアが置けれた空間は、モダンなセンスでノベーションされた最新のマンションといわれても納得してしまうような、まったく古さを感じさせない空間だ。

山脇邸リビング
(『バウハウスと茶の湯』より)
    
 「私は茶の湯の世界に生まれ育った人間です。そんな私が、何もしらないまっさらな頭でバウハウスに学びはじめて、あっと思ったことがありました。それは、バウハウスと茶の湯はとても似ているということです。突拍子もないことに聞こえるかもしれませんが、いずれの世界にも共通しているのは、シンプルかつ機能的であることを良しとし、材質の特性をできるだけそのまま生かそうとする姿勢です。このことに気づいた時、バウハウスでやっていけると初めて自信を持てたような気がしました」
 
 バウハウスと茶の湯を語ったこの山脇道子の言葉は、双方の実践者の言葉として重みを放っている。
 
 原研哉はこういっている。「日本は西洋モダニズムに先駆けること数百年、室町時代中期に、既に簡素さに美を見出す価値観を生み出していた」。それは茶の湯の美意識に端を発すると。(『白』原研哉 2008)
  

 

*初出zeitgeist site

 
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レイモンド・チャンドラー『ザ・ロング・グッドバイ』精読 Chapter18

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 第18章では、ロジャー・ウェイドが残した手がかりのドクターV候補の最後の一人をマーロウが訪ねる。
 
 三人目のドクター・エイモス・ヴァーリーは、大きな古い屋敷で、寝たきりの金持ちの老人相手の施設をやっている。頭の禿げ上がった大柄の男が気さくな笑顔でマーロウの前に現れる。condescend to~は、気さくに~するという意。
 
 A nurse in crisp white took my card and after a wait Dr. Amos Varley condescended to see me.
 
 crispは、カリカリ、パリパリ、さくさくのような食感を表すほかに、パリパリ音がしそうな、手の切れるような、すがすがしい、こざっぱりとした、という意味でも使われるのだそうだ。ちなみにwhiteは単独で白衣を意味する。「パリッと音がしそうなほど糊のきいた白衣」が脳裏に浮かんでくるようだ。
 
 マーロウのドクター・ヴァーリーの評。armourは甲冑の意。
 
 "What can I do for you, Mr. Marlowe?" He had a rich soft voice to soothe the pain and comfort the anxious heart. Doctor is here, there is nothing to worry about, everything will be fine.He had that bedside manner, thick, honeyed layers of it. He was wonderful-and he was as tough as armour plate.
 
 後半のthick, honeyed layersという比喩の意味がわかりにくが、読み進むうちに、「何層もある柔和で慇懃にみえるうわべ」が少しづつ剥がれてくるというその後の展開のなかで、自ずとその言葉を使った比喩の効果が発揮されるという仕掛けになっている。
 
 以前、あなたが当局と麻薬でいざこざを起こしたと、あるリストに載っていたのだがと探りを入れるマーロウ。
 
 "And how did you hear it, Mr. Marlowe?" He was still giving me the full treatment with his smile and his mellow tones.
 
 「どのようにお聞きになられたのでしょうか。ミスター・マーロウ?」。この段階ではドクター・ヴァーレーは、微笑みとメローな口調の慇懃な物腰を崩していないが、マーロウが問い詰めていくと、魅力ある人物にみせていたレイヤーが徐々に剥げ落ちていく。
  
 
 リストの出所のカーン協会の名前を聞き出そうとするドクター・ヴァーレー。
  
 "His name?" The sun had set in Dr. Varley's manner. It was getting to be a chilly evening.

 "Confidential, Doctor. But don't give it a thought. All in the day's work.Name of Wade doesn't ring a bell at all, huh?"

 "I believe you know your way out, Mr. Marlowe."
 
 The sun had set in Dr. Varley's manner. It was getting to be a chilly evening.というのもチャンドラーならではの気がきいた表現だ。「ドクター・ヴァーレーの態度においては、すでに日は沈んでしまっていた。冷え冷えする夕暮れが訪れ始めた」。
  
 村上訳は「ドクター・ヴァーレーの物腰は一変していた。温かみはすでにその地平線に没し、ひややかな宵闇が姿を現していた」。
   
 清水訳はこうだ。「ヴァーリー医師の周囲を照らしていた太陽が沈んだ。冷たい夜になった」。
 
 「態度において日が沈む」という日本語にならない箇所を上手く補足した一文を加え、ややセンチメンタルな比喩を使った村上訳とやや強引な比喩だが、原文の畳み込むような短いセンテンスの感じを極力活かそうとした清水訳。どちらの味わいも捨てがたい。
   
 don't give it a thoughtは、「深く考える必要はありません」、「気になさらなくて結構です」という慣用句。All in the day's workも「よくあることです」という慣用句。憶えておくと便利そうだ。
 
 「帰れ」といわれても、なかなか引っ込まないマーロウ。相変わらずの減らず口によって、ついにドクター・ヴァーリーの装う甘い最後のレイヤーが剥がれ落ちてしまう。
 
 "Okay by me, Doctor. Thanks for the time. Nice little dying-in home you got here."
 
 "What was that?" He took a step towards me and peeled off the remaining layers of honey. The soft lines of his face set themselves into hard ridges.
 
 Okay by meが出てきて、ロバート・アルトマン監督の映画『ロング・グッドバイ』のエリオット・グールド扮するマーロウの口癖”It’s OK with me”を思い起こしてしまった。もしかしたら、脚本のリー・ブラケットはここから、あの秀逸な台詞を発想したのかもしれない。もっとも映画の台詞はエリオット・グールドの独り言として口にされるもので、ままならぬ状況をしぶしぶ自分に納得させる、というニュアンスであり、そのちょっぴりやるせない感じの台詞回しは、リー・ブラケットの創造だろう。

Chapter18_elliott gould
            
 原作でのニュアンスは、一連のことを自分として納得したという意味で「わかりました、ドクター」(村上訳)ということだろう。とはいえ「わかりました」と言っておいて、「素敵な死に場所というわけですね」とまたまた減らず口を付け足すところをみると、 「まあ、わかりましたと言っておきましょう」というしぶしぶのニュアンスは、やはりここでも含意されているようだが。

 立ち去る際のマーロウの決め台詞。本作での名文句の一つであろう。
 
 When my job makes me feel dirty I'll think of you. It will cheer me up no end."
 
 「自分の稼業が卑しく思える時、あなたを思い出すことにしよう。少しは慰められるかもしれない」。
 
 no endは文字どおりであれば、「限りなく」、「非常に」という意味だが、ここではシニカルな自己認識を伴った反語的なニュアンスでそういっているような気がする。
 
 最後は例によって鮮やかな幕切れの一文。おとなしく引き下がったドクター・ヴァーレーをマーロウはこう描写する。
 
 He had a job to do, putting back the layers of honey.
 
 「彼にはやるべき仕事があったのだ。甘く蜜のように柔和に見せかけるレイヤーをまとい直すという仕事が」と。



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『ホール・アース・カタログ』断章~カウンターカルチャーの時代~

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 『ホール・アース・カタログ』 Whole Earth Catalog(WEC)は1960年代後半から70年代にかけて、世界の多くの人々に多大な影響を与えた伝説のアメリカ雑誌だ。

WEC1968

(Whole Earth Catalog Fall 1968,source: http://www.wholeearth.com/index.php

 
 2005年にスティーブ・ジョブスがスタンフォード大学での講演でWECに言及し、「それはまるでグーグルのペーパーバック版」のようなものだったと賞賛し、ふたたび注目を集めた。
   
 今回は、その『ホール・アース・カタログ』を断章風に紹介してみよう(WECは1989年にweb版が出ている)。

 

スチュアート・ブランド
 
 WECの創始者。1938年生まれ。スタンフォード大卒。当時アメリカで増えていた自給自足のコミューンでの生活者ための情報カタログとしてWECを1968年に創刊。access to toolsというサブタイトルどおりに、DIYに必要な情報と具体的な入手方法を網羅して紙面が後に「紙のグーグル」と呼ばれた所以だ。現在78歳。今もサン・フランンシスコで廃船(タグボート)に住んでいる。

WEC1968_P48-P49
 
(Whole Earth Catalog Fall 1968 page48-49,source: http://www.cca.qc.ca/en/study-centre/1783-informal-utopias
 
 

バックミンスター・フラー
 
 スチュアート・ブランドがWECを思いついたきっかけが、1966年に聞いたバックミンスター・フラーの講演だった。バックミンスター・フラーは「20世紀のレオナルド・ダビンチ」とも称される思想家、建築家、発明家、デザイナーなど様々な肩書きをもつ異能多才な人物。WECにはフラーが「宇宙船地球号」と呼んだ地球の有限性を前提にどう生きるべきか、という問題意識が根底に流れている。ちなみにWECの表紙の宇宙に浮かぶ地球という象徴的な写真は、ブランドの運動によりNASAが公開に踏み切ったものである。

 
  

L.L.ビーン
 
 具体的なWECの紙面は、L.L.ビーンのカタログがその元になっているといわれている。ブランドの父はカタログマニアだった。WECに象徴的に使われているwindsorという書体は、L.L.ビーンのカタログに使われていたものだ(L.L.Beanの1969年のカタログがA Continuous Leanというサイトに掲載されている)。

 
  

ヒッピー、ドラッグ、カウンターカルチャー
 
 スチュアート・ブランド本人はヒッピーではなかったが、当時合法だったLSD実験の体験、ケン・キージー(『カッコーの巣の上で』の原作者)によるメアリー・プランクスターズ(ドラッグ&ミュージックによるサイケデリック・バスツアー)への参加、ビート世代と呼ばれたアレン・ギンズバーグやウィリアム・バロウズとの交流など、カウンターカルチャーに深くコミットしており、ブランドは当時、その中心にいた人物だった。

 
  

「すべてヒッピーのおかげ」
 
 スチューアート・ブランドは、スタンフォード研究所のダグラス・エンゲルバートが、マウス、ハイパーテキスト、グラフィカル・ユーザー・インターフェイスなど、今のパソコンの原型となる技術を提示したといわれる1968年12月の伝説的なデモンストレーション(「すべてのデモの母」と呼ばれている)の手伝いなど、人間の意識の拡張や新しいネートワーク社会の可能性としてのコンピューターの存在にも早くから注目していた。ブランドは「すべてはヒッピーのおかげ」というエッセイで「カウンターカルチャーが中央の権威に対して持つ軽蔑が、リーダーのいないインターネットばかりか、すべてのパーソナル・コンピューター革命の哲学的基礎となった」と書いている(”We Owe It All to The Hippies,” Times, special issue, spring 1995)。


 

『遊』、『宝島』、『POPEYE
  
 『Made in U.S.A. Catalog』(1975)、『別冊宝島 全都市カタログ』(1976)など、70年代の日本で出版されたカタログ系のムックや雑誌の多くがWECの影響を受けている。『遊』、『宝島』、『POPEYE』など、その後の日本の主要サブカルチャー系雑誌のルーツのほとんどはWECにあるといっても過言ではない。
     
 
“Stay hungry, Stay foolish”
   
 “Stay hungry, Stay foolish”(ハングリーであれ、フーリッシュであれ)。スティーブ・ジョブスが先のスタンフォードでの講演で卒業生に送ったこの言葉もWECに書かれていた言葉だった(『ホール・アース・エピローグ』1974の裏表紙掲載)。

 
 今、世界の全員がこの言葉に深くうなずき、勇気づけられ、耳にするたびに思いを新たする時、1960年代~70年代のカウンターカルチャーの影響、そしてその象徴であったWECの存在の大きさに改めて感慨を覚えざるを得ない。

 

*参考文献

『ホール・アース・カタログ<前編>』 spectator 2013 vo.29
『ホール・アース・カタログ<後編>』 spectator 2014 vo.30
『パソコン創生』「第3の神話」』 ジョン・マルコフ 2007

*初出zeitgeist site

        



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バックミンスター・フラー ~宇宙との調和の意思~

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 「失敗をしなくなった時にはじめて、成功するのだ」
 
 バックミンスター・フラーは、ブラック・マウンテン・カレッジで教えていた学生に対してこう助言した。
           
 ブラック・マウンテン・カレッジとは1933年にノース・キャロライナに作られた、ヴァルター・グロピウス、ジョゼフ・アルバース、マルセル・ブロイヤーなどバウハウスからアメリカに渡った建築家やデザイナー、マース・カニングハム、ジョン・ケージ、ロバート・ラウシェンバーグなどの現代アートの巨匠らが講師を務めていた伝説の美術学校だ。
 
 壮大な失敗の連続。バックミンスター・フラーの生涯はそう定義することもできる。
     
 バックミンスター・フラーが唯一商業的に成功したのは、後にフラー・ドームとして有名になる正二十面体を曲面に近似して作ったジオデシック・ドームだけである。
 
 バックミンスター・フラーの最初の失敗は、ストッケードと呼ばれるセメントとかんな屑から作った建築用のブロックを製造する会社が破綻したことだ。
 
 苦しい生活と最初の娘を亡くした自責が重なり、32歳のフラーはミシガン湖のほとりをさまよいながら、自殺を考える。最終的に自殺を思いとどまったフラーはこう考える。もう一度自分自身の言葉と経験でこの宇宙と対峙してみよう、と。
 
 自殺する代わりに、自分自身のコスモロジーを構築するために生きる決心をする。バックミンスター・フラーの余人には想像できない天才性を象徴するようなエピソードだ。
 
 フラーは自らを「実験としての生涯」あるいは「モルモットB」と呼び、人類が宇宙と調和して生きるすべを発見することに生涯をかけた。
 
 「自然は人間に成功させようとしている。自然は人間に重要な役割を担うための準備をさせているのだ」。諦めを知らない不屈の精神は、まるで聖書のなかの神に試された存在ヨブのようだ。
 
 今の世界がうまくいっていないのは、そのやり方が不適切で、宇宙との調和、宇宙の普遍へと至っていたいからだ、フラーはそう考えた。
 
 例えば、フラーはこう主張した。全世界の機械の稼働率は5%にすぎず、これを倍にするだけで地球のエネルギー問題、ひいては、環境汚染、人口爆発、資源戦争などはすべて解決する、と。
 
 「Less is more」ならぬ「More for less」をスローガンに、最小の資源で最大の効果を達成するという発想で数々の発明にチャレンジする。
 
 無用な装飾に心血を注ぎ、閉鎖的な業界技術に依存して作られていた当時の住宅を、資源の浪費と切り捨てた衝撃的な<ダイマクション・ハウス>。
 
1
(*ダイマクション・ハウスのモデルとバックミンスター・フラー,source: http://www.dwell.com/profiles/article/design-icon-8-works-buckminster-fuller)
   
 馬車の意匠を模して製造されていた当時の自動車のなかにあって、合理的な移動体としての究極の姿を、鳥や飛行機に求めた革命的な<ダイマクション・カー>。

2
(*ダイマクション・カーとバックミンスター・フラー,source: https://www.behance.net/gallery/6302667/Richard-Buckminster-Fullers-Dymaxion-Car)
       
 住宅産業は、建設産業ではなく、電話のようなシステムとしての産業としてあるべきだとしてダイマクション・ハウスを発展させた量産型住宅プロトタイプ<ウィチタ>。
  
3
(*ウイチタ,source:https://www.linkedin.com/pulse/richard-buckminster-fuller-multitalented-utopist-marcel-krenz)
  
 最小で最強の構造を探求した<テンセグリティ構造>や<ジオデシック構造>などバックミンスター・フラーの発明は、すべて、宇宙との調和を求め、宇宙の普遍に至る道程だといえる。

4
(*テンセグリティ構造体とバックミンスター・フラー,source: http://theredlist.com/wiki-2-19-879-605-285216-view-buckminster-fuller-richard-profile--1.html )

5
(*ジオデシック・ドームとバックミンスター・フラー,source: http://theredlist.com/wiki-2-19-879-605-285216-view-buckminster-fuller-richard-profile--1.html)
       
 権力闘争や戦争は、人類が宇宙や地球との調和を見出せない段階で、生き残りや独占を求める未熟な発想から生まれたもので、人類が宇宙との調和の手段を発見できれば、政治は不用だ、として政治や権威を嫌悪した。
  
 「生き残りではなく包摂を」、「攻撃ではなく陳腐化による更新を」、「剣を鍬の刃に」。こうしたフラーの態度は、既存の組織や業界やアカデミズムから徹底的に無視される結果を生んだ。
 
 しかしながら、意外にもというべきか、やはりというべきか、こうした権威に頼らないフラーの独立不羈の姿勢や地球規模の構えの大きい発想は、1960年代のカウンター・カルチャーの時代になって大いに注目を集める。
 
 カウンター・カルチャーのバイブル的存在の雑誌『ホール・アースカタログ』は、スチュアート・ブランドが、バックミンスター・フラーの講演を聴いたことがきっかけになって作られている。
 
 フラーはなぜ失敗し続けたのか。それは人類が宇宙との調和など真剣に必要としていなかったから、とも言えるかもしれない。
 
 「政治はいつも最終的には軍備に頼ることになる」、「原子爆弾の次にもっとも危険なのは、組織化された宗教である」、「所有はしだいに負担になり、不経済になり、それゆえ時代遅れになりつつある」。
 
 こうしたバックミンスター・フラーの言葉が、死後三十年以上たった今、かつて以上に抜き差しならない調子を帯びて響くということは、どういうことなのかを、われわれは深く考えてみる必要がある。




*初出 zeitgeist site

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坂倉準三のモダニズム~神奈川県立近代美術館が閉館~

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 鎌倉近代美術館の名で親しまれた神奈川県立近代美術館が2016年1月31日で閉館した。

 坂倉準三の設計による日本におけるモダニズム建築の至宝だ。

 鶴岡八幡宮の森のなかに、たった今、舞い降りたような端正な白いヴォリュームは、何度見ても、その清新な印象に、思わずはっとさせられる。

神奈川県立近代美術館1
  
 歩みとともに内から外へ、外から内へと視線が移動し、風景が変わる一階の空間。平家池に張り出すように設けられた居心地の良いテラス。I型鋼で支えられた白い軒には池の水で反射した光が踊っている。

神奈川官立近代美術館2

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 東京帝国大学文学部美学美術史学科を出た坂倉準三は、建築家になりたい、どうしてもル・コルビュジエの下で建築を学びたいと思い、パリに向かう。1929年(昭和4)のことだ。1931年にル・コルビュジエの事務所に入所して、一時帰国をはさんで約8年間、ル・コルビュジエの事務所に在籍した。
 
 坂倉準三の処女作は1937年のパリ万博の日本館だ。再渡仏してル・コルビュジエの事務所で設計したものだ。その年の建築コンクールでグランプリを受賞している。このパリ万博日本館こそ、坂倉生涯の最高傑作といわれ、かつ、その後の世界のモダニズム建築に多大な影響を与えたといわれている歴史的作品だ。

パリ万博日本館
(1937年パリ万博日本館) 
  
 建築史家の藤森照信はこう指摘している。パリ万博日本館の垂直の柱と水平の梁による表現が、その後のミース・ファンデル・ローエによる、鉄とガラスの超高層ビルのプロトタイプとなった鉄の柱と梁の機能美のルーツではないかと。(坂倉準三の木造モダニズム 『建築家坂倉準三 モダニズムを住む』 2010より) 
 
 軸組構造による日本建築の持つ軽さや簡素さをモダンズムデザインと融合させた簡潔で清楚な建築が、周囲の地形や樹木に寄り添うような姿に世界は目を見張った。

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(1937年パリ万博日本館模型,sourece:http://blog.goo.ne.jp/kyao2/e/5dd4efcae08068ffa3b1b2be679e223f)
 
 板倉準三は、戦後も神奈川県立近代美術館(1951)をはじめ、東京日仏学院(1951)、国際文化会館(前川國男、吉村順三との共同設計 1955)など端正なモダニズム建築を作っていく。日本におけるル・コルビュジエの唯一の作品である国立西洋美術館(1959)の詳細設計を担当したのも坂倉だ。
 
 1950年半ば以降、坂倉準三は、都市設計とでも呼ぶべき分野でも活躍していく。おりしもの高度経済成長を背景に都市は大きく変貌していた。
 
 東急会館(1954)、東急文化会館(1956)、京王線連絡通路(1961)などの一連の渋谷計画、小田急新宿西口本屋ビル(1967)と新宿西口広場による新宿西口計画など、私たちがいつも目にしている渋谷や新宿のターミナルの風景は、坂倉の手によるものだ。

渋谷駅

(渋谷駅周辺,source:http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20120524/569534/)

新宿西口
(新宿駅西口)
     
 これらの作品は、初期の繊細で端正なイメージの建築像とはやや異なった印象を与える。それは既存の施設や周囲の建物と調和し、都市の機能を破綻なく支える一要素としての日常としての建築であった。
 
 坂倉自身は、作家性の追求より、さまざまな都市機能をうまく整合させていく、こうしたリアリズムの建築や匿名性の高い都市設計に、むしろこれからの建築家の役割を積極的に見出していた。
 
 「わたしは現代のような社会で、私企業と四つに取り組むのは建築家として本当のことだとおもいっています」坂倉はこう述べている。
 
 坂倉にとって作家性よりも重要だったのは、師であったル・コルビジュエの『輝ける都市』の実現、人間のための新しい都市の建設、「大建設事業の時代」における都市計画の実践だった。
 
 しかしながら、作家性の後退と日常性の前景化の背景にあった最大の要因は、消費社会の勃興だ。
 
 戦前のパリ万博日本館は、戦前におけるこれからの日本の建築像をめぐる激しいせめぎあいのなかで生まれ、戦後すぐの神奈川県立近代美術館は、厳しい予算や限られた材料という大きな制約のなかで実現した作品だった。モダニズムが社会の理想や民衆の幸福や自由を語り、現実の変革を目指した時代だ。
 
 その後、理想や幸福や自由は大量のモノを媒介にした消費社会のなかで実感されてゆく。建築に理想や自由を求める時代は終わり、都市は人々の欲望を反映したさまざまな意匠をまとい増殖していく。
 
 坂倉準三の匿名性のモダニズム、日常性のモダニズムは、無限定に増殖していくその後の都市への彼なりの回答だったのかもしれない。
 
 1969年7月、坂倉の作った新宿西口広場は、警察の指導で西口通路として改称されるようになる。前年の新宿騒乱事件以後に毎週末に西口広場で開かれていたヴェトナム戦争に反対する反戦フォークゲリラなどを排除するためだ。

新宿西口_山田脩ニ
(新宿駅西口広場,1969年撮影:山田脩二)
  
 この広場の最後を見届けるかのように、坂倉準三は1969年9月1日に死去する。
    
 坂倉の一連の渋谷計画もすでに一部は新たな建物に建て替わり、理想を求めたモダニズムの残り香を漂わせた建物もまもなく失われ、いずれはすべてが消え去る予定だ。
 
 あれから50年を経過し、日本はあらゆるところで消費社会の行き詰まりを感じている。
 
 坂倉準三の神奈川県立近代美術館は、モダニズムが理想と幸福と自由を語った時代を象徴するように、今も清新な美を放って、そこに佇んでいる。


*神奈川県立近代美術館の建物は、今後、鶴岡八幡宮の管理の下、保存されることになっている。




*初出 zeitgeist site

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国立西洋美術館~ル・コルビュジエからの日本への贈りもの~

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 ル・コルビュジエの日本における唯一の作品が東京上野にある国立西洋美術館だ。2016年7月17日にユネスコの世界遺産に登録されることが決定したとの報道があった。国立西洋美術館は、巨匠ル・コルビュジエの建築の持っている特徴を余すところなく伝えてくれる。

モデュロールで作られた美しいフォルム

 薄い横長の箱がピロティで地上から持ち上げられているような建物だ。そのバランスが美しい。国立西洋美術館は、平面が一辺が41.1メートルの正方形で高さは9.83メートルである。

1
   
 前庭はちょうど国立西洋美術館と同じ奥行きを持っている。十分な引きを設けて、立面を一望できる視点をきちんと設けているところなど、ル・コルビュジエの古典主義的な作風が垣間見られる。

 フォルムのバランスの美しさは、モデュロール(ル・コルビュジエが考案した人体寸法と黄金比を基にした寸法体系)による寸法設定が行われているからだ。

 ちなみに、右手の手前から奥に伸びる低い壁は、当初計画の前庭(建物と同じ正方形2つ分の面積があった)を南北方向に2分し、かつ国立西洋美術館の立面を黄金比に分割する点に向かう位置に設けられている。

ピュリスムの絵画のように配置された窓や階段

 正面には大きなガラス開口とオブジェのようなRC造の階段が設けられている。建物本体の立面とアンシンメトリーな位置に設けらたこれらのエレメントの秩序感は、まるでコルビュジエの描くピュリスムの絵画のようだ。
       

2

     
 ル・コルビュジエは、もともと画家志望であり、建築で名をあげたあとも、午前中は必ずカンヴァスに向かう生活を続けていた。絵画はコルビュジエの創造の源泉だった。

 型枠の木の跡がきれいに転写されたRCの壁柱。ユニテ・ダビダシオンなどのピロティ柱に通じるコルビュジエらしい造形だ。側面から持ち出された手摺も見どころのひとつだ。ル・コルビュジエにとって階段や手摺は空間に配置されたひとつのオブジェだった。
    

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 外壁に使われているのは石植えパネルと呼ばれている、青みがかった小石を埋め込んだPC板で、見る距離や角度、太陽の光の具合などによって、さまざまな表情を見せる。窓のない、ある意味単調な立面に独特の表情を与えている。ちょっと日本の玉石洗い出しにも似ており、この建物にどことなく日本風の赴きが感じられるのは、このあたり由来するのかもしれない。 
       

4
        
ピロティなど新しい建築の5原則
 

 ル・コルビュジエの代名詞となっているピロティ。竣工時はピロティ空間の奥行きはもっと深く、現在のチケットカウンターあたりまでが外部だったそうだ(*)。
      

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 ル・コルビュジエは、<ピロティ>、<屋上庭園>、<自由な間取り>、<水平連続窓>、<自由な立面>を新しい建築の5つの原則として提唱する。 

 国立西洋美術館では、この5原則のうち、<水平連続窓>以外が実現されている。美術館では窓はいらないので<水平連続窓>は実現されていないが、そもそも<水平連続窓>は<自由な立面>によって実現可能になるアイテムであることを考えれば、5原則の本質はすべて実現されているといってもよい。ちなみに屋上に関しては、開館当初は利用されていたようだが、今は使われていない。

19世紀ホール。「えもいわれぬ空間」の可能性

 常設展示スペースへの導入部は、中央に設けられた、大きな吹き抜けの空間であり、コルビュジエによって19世紀ホールと命名された。高い三角形の天窓から、柔らかく微かな光が降り注ぐ様子は、ル・コルビュジエの言う「えもいわれぬ空間」(エスパース・アンディシーブル)の片鱗を感じさせる。
        

6

           
 ル・コルビジュエは、この壁面を19世紀を象徴する写真壁画で飾るつもりでいた。その下絵まで描いていたが実現しなかった。19世紀ホールのやや物足りない印象はそうした理由によるものだ。実現していたら、光、建築、絵画、彫刻が一体化した、まさに「えもいわれぬ空間」が日本で実現していたかもしれない。
 

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「建築的プロムナード」を体感するスロープ

 上階の展示室へは折り返しのスロープを登ってたどり着くようになっている。
    

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  こうした主体者の動きとともに変化する建築空間を、ル・コルビュジエは「建築的プロムナード」(プロムナード・アルシテクテュラル)と呼んだ。ラ・ロシュ=ジャンヌレ邸、サヴォア邸、クルチェット邸などの代表的な住宅作品でもスロープが設けられている。

ル・コルビュジエの夢「無限成長美術館」

 展示室は回廊型の空間で構成されている。

 ル・コルビュジエはこうした回廊型空間による増殖可能な美術館を「無限成長美術館」と呼んで、1920年代から数多くの計画案を作って実現を夢みてきた。現実に建築されたのは、インドの2箇所とここ国立西洋美術館の計3箇所のみである。

 高い天井(4m95cm)と低い天井(2m26cm)の2種類の天井の空間、19世紀ホールに開かれたバルコニー、宙に浮いたような中3階のバルコニーなどが組み合わされた、空間が縦横に変化し、流動する入り組んだ空間が迷路のようで好奇心をくすぐる。
 

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 当初は中3階の照明ギャラリーから自然光を取り入れた照明計画とされていたが、上手くいかず、現在は完全な人工照明となっている。

 黒に塗られた低い方の天井と光沢のある黒い床が、展示室を静謐な印象の空間にしている。


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 中3階のバルコニーへ続く階段。ここでも階段や手摺は空間に配されたオブジェである。
 

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日本の風土に根をおろしたコルビュジエ建築

 ル・コルビュジエは1955年に建設地の視察を兼ねて訪日して以来、設計中、建設中は一度も現場を訪れていない。

 ル・コルビュジエの基本計画(1957年に日本に到着した成果物は、図面3枚と説明用のポートフォリオのみで、図面には寸法の記載はなかったそうだ)を基に基本設計、実施設計を行い、現場を監理しながら建築として実現させたのが、前川國男、板倉準三、吉阪隆正の3人の日本弟子達だった。
 

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(左から前川國男、板倉準三、吉阪隆正。『ル・コルビュジエの国立西洋美術館』 藤木忠善 より)
 

 ル・コルビュジエの海外での作品の作り方は、こうした方法が当たり前で、作品によってはコルビュジエ本人が一度も現地を見ないで出来上がる作品もあった。

 こうしてル・コルビュジエ的でありながら、かつ、その建築が建つ国の風土的でもある、という作品が出来上がる。国立西洋美術館を見たときに感じるどこか日本的なコルビュジエ建築は、こうしたプロセスで生み出されたものだったのだ。

かなわなかった再来日。

 1959年、国立西洋美術館は竣工する。ル・コルビュジエは坂倉準三が送った竣工写真を見て「美術館の仕上がりは完璧で、私は満足だ」と返信している。

国立西洋美術館

(*ル・コルビュジエによるスケッチ。国立西洋美術館は中庭を囲む文化センターの一部として計画されていた。)
 

 当時72歳のル・コルビュジエは、また、こんなメッセージも寄せている。「開館式には行けないが、近々、中央ホールに19世紀を讃えた写真壁画がをかかげるために日本にいきたい。この美術館は文化センターの一部であり、電子の時代にふさわしい実験劇場を加えて完全な姿になる」と。
 

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 その希望は実現せず、ル・コルビュジエは5年後の1965年に亡くなる。終生、愛した海に帰るような最期だった。
    
        

         
        
  
(*)当初ピロティだった部分を室内化しているほか、前庭に作られた日本庭園、内装の変更、ファサードに設けられた律動ルーバーの撤去、自然光による照明計画の中止など、現在の国立西洋美術館は、ル・コルビュジエによる当初の設計から少なくない箇所が変更されている。ユネスコの諮問機関は、2016年5月に公表した事前審査の報告で、こうした変更箇所を元の状態に戻すことが望ましいとの専門家の意見があることを公表している。(2016年7月27日 日本経済新聞夕刊)

*参考文献 : 『建築をめざして』(ル・コルビュジエ 吉阪隆正訳 鹿島出版会 1967)
        『ル・コルビュジエの国立西洋美術館』 (藤木忠善 鹿島出版会 2011)
          『ル・コルビュジエ展カタログ』 (セゾン美術館 毎日出版社 1996)

*初出:zeitgeist site


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シネマディクト・ログ~2015年に観た208本の映画(下)~

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 遅れてきたシネマディクトの記録。2015年7月~12月に観た映画102本です。劇場とDVDまた2回目、3回目の鑑賞などゴチャ混ぜです。(上)上期の106本の記録はこちらを


107.ムーンライズ・キングダム/ウェス・アンダーソン(2012)
 
 両親や兄弟と馴染めない、仲間はずれの毎日など、変わり者としての孤独感や疎外感と、冒険と決闘と友情、キャンプ、台風の日、砂浜でのゴーゴーダンス、ミニスカートから伸びたスレンダーな脚、パンチラ、初めてのキス、理解ある大人などのイノセントな幸福感をミックスした世界は、ウェス・アンダーソン監督の理想の世界。いつもの絵画的な構図、カラフルな画面、ジオラマ的画質が楽しい。女の子との逃避行は『小さな恋のメロディ』(1971)を思い起こさせる。<7月2日>
 
108.重犯罪特捜班 ザ・セブン・アップス/フィリップ・ダントーニ(1973)

 原作は『フレンチ・コネクション』(1971)のポパイ刑事のモデル エディ・イーガンの相棒だったソニー・グロッソ。監督は『ブリット』(1968)と『フレンチ・コネクション』の製作者。そのスタッフが再結集して作られた本作が面白くないはずはない。NYの市街地を一般車に混じってのカーチエイスがすごい迫力。最後にロイ・シャイダーの車がトラックに激突してトップがまるまる吹っ飛んで止まる、というすさまじさ。カースタントはこれまた前二作のビル・ヒックスマン。主人公の刑事ロイ・シャイダーは一匹狼ではなくてチームで仕事をしており、そのメンバーとのなにげない会話や地元の幼馴染とのちょとした交流がいい。「昔はイースト・リバーで泳げたもんだ」。黒のタートルに5ポケットのベルボトム。白いジャンパーの下にはアップサイド・ダウンのショルダーホルスターというロイ・シャイダーの姿は今見てもカッコいい。まだ薄汚れていた時代の寒々とした冬のNYも必見。<7月5日>

TheSevenUps
 
109.貸間あり/川島雄三(1959)
 
 大阪の通天閣を望む高台に建つボロ屋敷に間借りする住人たちを描く群像喜劇。「八方美人で出来損ないのゲテモノ」と自らを定義するよろず屋フランキー堺にこんにゃく屋の桂小金治、おしかけ女房の淡島千景がからむ。小沢昭一、音羽信子、山茶花究、藤木悠、清川虹子、浪速千栄子、益田喜頓など、癖ありすぎの面々のとっ散らかったエピソードの数々に呆れながらも引き込まれてしまう。「花に嵐のたとえもあるさ。さよなららだけが人生だ」との川島哲学が全開だが、ドタバタがもう少し整理されたら、虚無的な厭世観が漂うと『幕末太陽伝』と並ぶ傑作になっただろう。<7月7日>
 
110.イチかバチか/川島雄三(1963)

 川島雄三の遺作。公開五日後に亡くなる。南海製鋼が鉄鋼業の再起をかけて全財産をつぎ込んだ新工場建設をめぐる喜劇。原作は山城三郎。シブチン社長の伴淳三郎と誘致に名乗りを上げるいかにもハッタリ政治家のハナ肇の余人に代えがたい配役が最高。強引、厚顔、押しの強さ、ギラギラ感全開のハナ肇が最後の最後に、実はその印象とは全く異なる人物だった、というオチは見事。プロセスのみに情熱を感じ、結果(出世)を拒否する高島忠夫のニヒリズムもなかなか。主人公の三人とも、どこか世を捨てているような雰囲気を漂わせているところが実に川島雄三らしい。<7月7日>
 
111.NO/パブロ・ラライン(2012)
 
 1988年15年間軍事政権を率いてきたチリのピノチェット将軍は政権信任のための国民投票を実施する。妻に離婚された幼い子連れのノンポリ広告マンが、仕事で始めたNO派(反ピノチェット側)の宣伝活動に次第にのめり込んでゆく。ガエル・ガルシア・ベルナルがナイーブで一途な広告マンを演じる。NO側が勝ったのは宣伝の効果というよりも、すでに政権が見放されていたということなのだが、CMで世界は変わらないが、仕事によって個人は変わる、これは確かだ。<7月7日>
 
112.マダム・マロリーと魔法のスパイス/ラッセ・ハルストレム(2014)
 
 南仏の一つ星のマダム・マロリーの店の前にインドから来た一家がインド料理を開店することになり、ドタバタとロマンスが始まる。ストーリーはいかにもディズニー的予定調和だが、ヨーロッパの移民問題やミシュラン至上主義のレストラン産業への皮肉などスパイスが効いて飽きさせない。旨そうな料理が白押しだが、インド人シェフがマダムを唸らせるハーブとスパイスたっぷりのオムレツが白眉。「料理とは食材の命と霊をいただくものだ」とは、インド人シェフの母親の言葉。マダム役ヘレン・ミレンの髪型とファッションのモデルはアンドレ・プットマンか。<7月9日>
 
113.シカゴ・コネクション 夢みて走れ/ピーター・ハイアムズ(1986)
 
 シカゴ警察の刑事コンビによるポリス・アクション・コメディ。高架線の線路を使ったカーチェイス(実際に線路の上をガタガタいいながら車が突っ走るのだ)やイリノイ州立センターのあの巨大な吹き抜けを舞台にした銃撃戦など、ハイアムズならではのど派手なアクションが見もの。刑事に嫌気がさして休暇先のキーウエストでバーを買って、二人で退職しようとするなど、やる気がなさそうなグレゴリー・ハインズとビリー・クリスタルのコンビが可笑しい。<7月13日>
  
114.狼は天使の匂い/ルネ・クレマン(1973)
 
 当時のフランス映画はかくもカッコいいという見本のような作品。「われわれもまた眠る時間がきたのに嫌がっている年老いた子供にすぎない」というナレーションが全てを言い表している。大人の永遠の寓話。有名な両切りタバコを3本立てるゲームは、賭けることがくだらなければくだらないほど、その行為の純粋さが際立つ、という本作のテーマを象徴する名シーン。最後、ジャン・ルイ・トランティニャンが戻ってきたのを見て、照れくさそうに微笑むロバート・ライアンの表情が忘れられない。二人は襲ってくる敵をそっちのけで、「チェシャ亭」と書かれた看板をどちらが先に撃ち落せるかにビー玉を賭けることに夢中になる。男女4人組のブラックタイでの襲撃シーンも忘れがたい。撮影時から癌を患っていたロバート・ライアンは本作が遺作となった。脚本はセバスチャン・ジャプリゾ。音楽はフランシス・レイ。<7月16日>
 
115.アンソニーのハッピーモーテル/ウェス・アンダーソン(1996)
 
 オリジナルの13分の短編作品が認められてハリウッドで映画化された作品。当時日本未公開。頑張っているがずれてしまうやつ、自信の持てない気のいいやつなど、善悪や正邪ではうまく言い表せない微妙なニュアンスの性格設定やしょぼい連中とまぬけな計画と深刻な状況(ex.精神を病んでいる、失業、コンプレックス)のコントラストなど、すでにウェス・アンダーソンらしさが全開だ。最後にオーエン・ウイルソンが医療刑務所で「ある意味、作戦成功」とうそぶくあたりのなんとも言えない哀愁やいかに。ナイーブで自己中心的な登場人物はサリンジャーを思わせる。<7月18日>
 
116.雪の轍/ヌリ・ビルゲ・ジェイラン(2014)
 
 同監督ならではの重量級の傑作。カッパドキアでホテルを経営しながら、親譲りの資産で暮らす元俳優の主人公。劇批評などもこなすインテリであり、理解のある優しい夫でもある。一方そんな夫を重荷に感じ、その影響力から逃れようともがいている妻。賃借人である貧しいイスラム家族の家賃滞納とその取り立て問題に端を発し、主人公たちの、裕福さや知性の持つ傲慢さ、無作為という残酷さ、善意に潜む偽善などが露呈されてゆく。チェーホフの作品が題材になっているそうだが、人間の奥底に潜む闇を抉り出すところなどは、むしろドフトエフスキーだ。イスラム家族の家長が妻の申し出を拒否する衝撃的なシーンは思わず息を飲む。上っ面だけの主人公の内面をあぶりだす、出戻りのシニカルな妹の存在も利いている。登場人物の心象とシンクロしているようなカッパドキアの風景も同監督ならではの魅力だ。<7月19日>

雪の轍

117.真夜中の刑事/アラン・コルノー(1976)
 
 暗い情念が横溢するフレンチ・ノワール。主人公の独り者の刑事イヴ・モンタンは、フライドエッグを作りながら357マグナム弾を手作りするなど、いかにも孤独でストイックな刑事を期待させるが、実際は、若い女にメロメロになり、ストーカーまがいの行為を働いたり、そのせいで自らが捜査する殺人事件の容疑者になってしまい、揚句の果てに真犯人を思わず撃ち殺してしまうなど、ストイックさとは無縁の展開となるのが凄い。清濁併せ呑む最後はいかにもフランス。<7月21日>
 
118.バニシング・ポイント/リチャード・サラフィアン(1971)
 
 全編に漂う乾いた空虚さに70年代のアメリカがよみがえるアメリカン・ニューシネマの傑作。街道にブルドーザーやパトカーが徐々に集まってくる不穏な雰囲気をとらえた冒頭の映像から引き込まれる。車の陸送屋の主人公が白のダッジ・チャレンジャーをデンバーからサンフランシスコまで15時間以内で運ぶ賭けをする。たわいもないことや偶然をよりどころとし、死に場所を探すような、主人公コワルスキーの生き方が大いなる共感を呼んだ背景には、泥沼化したヴェトナム戦争をかかえたアメリカ社会があった。主人公もヴェトナム帰還兵という設定だ。全編で轟くV8 7ℓ ヘミヘッドOHV 4バルブの唸るモーター音のようなエギゾースト・ノイズが耳から離れない人も多いのでは。ヒッピーコロニーなど当時の風俗も記録される。トラックのステージで歌うのはデラニー&ボーン&フレンズ。ラストの衝撃は忘れられない。監督はロバート・アルトマンの友人でその助手からスタートした人。<7月22日>
 
119.ゴーン・ガール/デヴィッド・フィンチャー(2014)
 
 五度目の結婚記念日の朝に妻エイミーが失踪する。夫に妻殺しの容疑がかかり、同時に妻の失踪の意図とその正体が徐々に明らかになってゆく。妻は母親の書いた『完璧なエイミー』にふさわしくない自分の実人生を呪い、ふがいない経済状況と浮気をしている夫にその原因を求め、妻殺しの容疑をかけて復讐するために失踪したのだった。これだけで終わらないのが本作の凄いところ。あることで足元をすくわれた、この恐るべきサイコパス妻が、生き残りをかけて、なりふり構わぬ勝負にでる。寄りを戻し、妊娠した妻の「結婚とはそういうものでしょう」との言葉がすべてを象徴している。女は恐い。<7月24日>
 
120.悪童日記/ヤーノシュ・サース(2013)
 
 戦時下のハンガリー。娘をメス犬と呼び虐待する祖母、出征した父を裏切り、別の男とくっついている母、ナチスに共感を寄せる教会の女中、堕落した神父、少年愛のナチス将校、ソ連兵に犯されて命を落とす兎口の少女など、双子の兄弟の目の前には過酷な現実しかない。兄弟は母からの手紙を焼き払い、断食やムチ打ちの訓練に耐え、人間らしい感情を封印することによって「強さ」を身につけ、過酷な現実から身を守ろうとする。祖母の卒中と服毒自殺、母の自殺など、いまや「悪童」と化した兄弟の呪いのように、禍々しい出来事が起こる。帰還した父は、国境の地雷原を越えて越境しようとする。冷淡に見送る兄弟。案の定、父は爆死し、一人はその屍を目印に地雷を避けて国境を越え、もう一人は、それらの行為すべてを無視するかのようにきびすを返す。兄弟という最後の拠りどころすら弱さと認識して捨て去るラストが、兄弟の体験した現実の過酷さを裏付けているようだ。<7月25日>
 
121.コンテイジョン/スティーブン・ソダーバーグ(2011)
 
 接触感染で死に至る強力な新型ウイルスが世界中に広がるパニック群像劇。苦悩する責任者のドクター、子供の免疫の有無に不安な日々を過ごす父親、体を張って活躍する女性医師たち、パンデミックをこれ幸いと一儲けや売名を狙う人間など、群像劇による語りが臨場感を盛り上げてゆく。ドアノブ、手摺、カード支払、コップ、握手、子供への食べさせなど、日常のごく普通のものや行動が恐怖になっていく。わがエリオット・グールドも政府の方針を無視して、独自にワクチン開発の手がかりを発見するドクターとして登場していた。最後、原因が明かされるが、発端は人間による森林などの環境破壊だった、というオチ。<7月28日>
 
122.卒業/マイク・ニコルズ(1967)
 
 アメリカン・ニューシネマの嚆矢たる名作。空港の動く歩道に乗るダスティン・ホフマンの不安そうな横顔を横移動で撮ったファーストシーン、教会からキャサリン・ロスを奪ってバスの後部座席に座った二人の表情から高揚が徐々に失われてゆくラストシーン。微妙にアレンジを変えた『サウンド・オブ・サイレンス』が被さるこの二つのシーンは、音楽と映像が深いところで一体化したまれに見る映画的傑作シーンだ。何回見ても戦慄を禁じえない。ちなみにS&G以外の音楽はデイブ・グルーシンが担当し、プロデュースはテオ・マセロという豪華布陣。堕落した大人を象徴しているかのようなシニカルなアン・バンクロフトが、かつては大学でアートを専攻していたと思わず口にしてしまい、表情を曇らせるシーンも、若さや純粋さの挫折を物語っており、本作のテーマを暗示する見逃せない名シーンだ。<7月30日>
 
124.マシンガン・パニック 笑う警官/スチュアート・ローゼンバーグ(1973)
 
 スウェーデンの警察物マルティン・ベックシリーズの舞台をサン・フランシスコに移して映画化された作品。思わせぶりな人物がいろいろ登場して、誰が悪党か分からないなか、突然惨劇が起こるという冒頭は引き込まれる。ただし、その後の捜査の展開は、脈絡のなさとご都合主義で失速してしまう。ウォルター・マッソーとブルース・ダーンの癖のある二人の絡みも期待したほどではなかった。<8月1日>
 
125.合衆国最後の日/ロバート・アルドリッチ(1977)
 
 国家意思の冷徹さを見せつけるアルドリッチならではの骨太の一本。ヴェトナム帰還兵の元大佐(バート・ランカスター)らによって、モンタナの核ミサイル基地が占拠される。犯人たちは大統領を人質にした国外逃亡と国家機密のNSC文書の公開を要求。NSC文書に記されたヴェトナム戦争の目的は、ソ連との全面核戦争を回避するためのアメリカの確固たる意思の表明であり、ヴェトナムで戦う兵士が犬死になっても止むを得ないという驚くべきものだった。文書の公開の是非をめぐって対立するホワイトハウス。犯人の要求を飲むふりをして、射殺の機会をうかがう作戦に出るが、事件は人質となった大統領も含めて全員を射殺してあっけなく幕が下りる。死ぬ間際、約束どおりに自分の死と引換えに文書の公開を求める大統領(チャールズ・ダーニング)。返事をしないまま大統領の元から離れ去る国防長官をカメラはロングで追い続ける。狙撃隊の武器がM16だったのは、最初から全員を一気に射殺する計画だった証拠だ。「大統領なんて国家の前では使い捨てさ」と犯人の何気ないつぶやきが真実をついていたという恐ろしさ。出て来る戦車がチープでがっかりするが、それは映画の内容を理由に米軍が協力を拒んだから。NSC文書のエピソードは原作にはなく、監督の強い要望で加わったものだそうだ。<8月4日>
 
126.ロンゲスト・ヤード/ロバート・アルドリッチ(1974)
 
 刑務所内でのアメフト試合というキワモノを題材に、心の自由の素晴らしさを描いたアルドリッチらしい快作。バート・レイノルズが八百長で追放された過去を持つ元アメフトのスター選手を演じる。ヒモ生活に嫌気がさして自暴自棄の違法運転で収監されている。アメフト好きで専制君主の所長(エディ・アルバート)の肝いりで看守チームと囚人チームが試合を行う。負けを請け負っていた囚人チームのキャプテンのバート・レイノズルが、脅されながらも最後の最後、所長を裏切って、本気に転じ、囚人チームが実力で勝ってしまう。アメフトと自分自身に嫌気がさしているレイノルズ(かつての八百長は盲目の父親の老後資金のためだった)がいやいやながら乗り出した素人試合で自分を取り戻し、所長の言いなりだった高圧的な看守長が実力で負けたことがきっかけで個に目覚めるとところなど、ひとひねりした人間の描き方が上手い。フィールドに一人取り残される所長。もはや権力は地に落ちたことを暗示するラストの余韻が秀逸だ。<8月7日>
 
127.アイズ・ワイズ・シャット/スタンリー・キューブリック(1999)
 
 キューブリックの遺作にして撮影期間最長記録(400日)の作品でもある。夫(トム・クルーズ)の「君に嫉妬したことなどない。妻として母として信頼している」との一言がきっかけで、妻(ニコール・キッドマン)が思わぬ衝動的な性的願望を告白する。激しい嫉妬心に駆られた夫は、疑心暗鬼と妄想に捕らわれ、妻に復讐するかのように、娼家に赴いたり、怪しい仮装乱交パーティーに潜入したりするようになる。夫が深夜のNYをさまようのは『2001年宇宙の旅』、あるいはオデュセイアのアナロジーだ。男女の日常の蔭には、思いもかけない修羅が潜んでおり、決してそれを見ようとしてはならない(eyes shut)ということだ。<8月10日>
 
128.白熱/ジョゼフ・サージェント(1973)
 
 郡を牛耳る悪徳保安官に弟を殺されたバート・レイノルズの復讐劇。あまり緊張感がなく進むストーリーよりも、密造酒作りで生計を立てる人々、町の腐敗、ヒッピーや学生運動に悪態をつく保安官、玄関前のポーチでの団欒、汗まみれの登場人物、埃を舞い上げながらの田舎道のカーチェイス、など70年代のアメリカ南部の風景が印象に残る。『サブ・ウェイパニック』の監督。<2月5日>
 
129.殺し屋たちの挽歌/スティーブン・フリアーズ(1984)
 
 ギャング仲間を裏切ってスペインに隠遁していた男(テレンス・スタンプ)、男を連れ帰るように命じられた殺し屋(ジョン・ハート)、その手下(ティム・ロス)、目撃者として拉致された女、この4人が一台の車に同乗してスペインからパリまで向かう。どこか憂い顔の殺し屋、お調子者の手下、妙に落ち着いている人質らしくない男、徐々に変貌する女など、らしさから微妙に外れた面々が醸し出す奇妙な味わいが魅力だ。「死は誰にでも訪れる。恐れるのは手際の悪い殺し屋に殺されることだ」と嘯いていた男が、いざとなったら命乞いを始め、逆に殺し屋の方が驚いてしまうなど、一筋縄で進まない展開も味わい深い。ロジャー・ウォーターズ、エリック・クラプトン、パコ・デ・ルシアなど音楽も贅沢。<8月13日>
 
130.荒野のダッチワイフ/大和屋竺(1967)
 
 ピンク映画のジャンルを借りたハードボイルドカルトムービー。御殿場の荒野をロングで撮ったモノクロ映像に山下洋輔カルテットの演奏とお経のような呪文がかぶさる冒頭シーンは、当時のアングラシーンに漂っていた、けだるい情熱のようなものを感じさせ、一見の価値あり。敵が急襲する後のシーンは、主人公が死ぬ間際にみた願望なのだろうが、無念さなどが一切描かれておらずやや拍子抜け。脚本家として活躍した監督らしい台詞で引っ張る作品。具流八郎名義で脚本を担当した『殺しの烙印』も同年の作品。<2月7日>
 
131.ルック・オブ・サイレンス/ジュシュア・オッペンハイマー(2014)
 
 死者は50万人とも300万人とも言われる20世紀最大の虐殺のひとつインドネシアのスハルト政権下での共産主義者虐殺の実際の加害者を捕らえた驚愕のドキュメンタリー。スタッフたちは命がけで、兄を虐殺された弟と一緒に当時の加害者を訪ねフィルムに収める。嬉々として虐殺の一部始終を語る加害者たち。悪びれるどころか、英雄と思っているのだ。生き延びた人々も過去は忘れろという。日本を始め、世界は何もしてこなかった。インドネシアでは現在も共産党は非合法であり、虐殺事件は今もタブーである。加害者側からの視点の前作『アウト・オブ・キリング』も必見。<8月16日>
 
132.非情の標的/セルジオ・ソリーマ(1973)
 
 若い妻を誘拐され、ひとりの囚人を密かに脱獄させろと要求される元刑事の刑務所長。ひそかに脱獄させた囚人を伴って妻を救出するためパリに向かう。組織と警察に追われ、生死を共にするなかで、友情が芽生え始める二人。囚人は国家ぐるみの暗殺事件の秘密を握る人物であり、脱獄させたのは口封じのために抹殺するためだと分かる。囚人を引渡さないと、妻を犯人に仕立てると脅され、板ばさみで苦悩に歪む表情のこわもての巨漢オリバー・リードが暗くいて重い。正義に目覚めて告発しようとする囚人を撃ち殺してしまうという、なんとも後味の悪い結末。救出された妻さえも、真相を知らないがゆえにオリバー・リードを遠ざけてしまうラストなど、その後味の悪さは徹底している。<8月17日>
 
133.エディー・コイルの友人たち/ピーター・イエーツ(1972)
 
 密造酒の元締めの名を明かさなかったばっかりに、密売の罪で捕まって公判を待つエディー・コイル。生活苦から武器密売の仲介などに手を染めている世帯やつれした中年男をローバート・ミッチャムがまさにはまり役で演じる。追い詰められたロバート・ミッチャムは、小ずるい刑事の口車に乗って、仲間を売って公判を有利にしようとするが・・・。登場人物の誰もが心を許さず、殺伐とした日常を生きている寒々とした空気が全編に漂う。普段は風采の上がらない食堂のウェイターだが、実は密造者の元締めで、ギャングと警察の両方に通じているコウモリのような男ピーター・ボイルの存在が恐い。罪を被った人物が、庇ってやった人物からはめられて、さらにはその手にかけられて殺されてしまうという結末はやるせなさすぎ。音楽はデイヴ・グルーシン。<8月19日>
  
134.ヤング・ゼネレーション/ピーター・イエーツ(1979)
 
 舞台は地場産業の石切が衰退し閉塞感が漂うインディアナポリスの田舎町。主人公たち4人は高校を卒業して何をするでもなく、石切場跡にたむろしたり、自転車レースに夢中になったりしながら、ぶらぶらしている。自分と時間をもて余している様子、日常のささいな幸福感、淡い恋、何者でもないことに対する不安感や焦燥感など、思わずそうだったよなーと共感を呼ぶ青春像を鮮やかな語り口で描く。かつて花形の石切工だった父親は今では中古車販売をやっている。この父親と母親が頑固で素朴で優しくてなかなかよいのだ。<8月22日>
 
135.大列車強盗団/ピーター・イエーツ(1967)
 
 各方面の専門家15人を集めて企てられた大掛かりな列車強盗を描いた一本。冒頭からジャガーMK同士のど派手なカーチェイスで目を見張らされる。轢かれそうになった警官が警棒でフロントグラスを割る、走る車から飛び降りて他の車の下に隠れる、小学生の集団に車が突っ込むなど、今まで見たこともないカーアクションは必見。本作のカーアクションが後の『ブリット』の監督として名を上げるきっかけとなったそうだ。冒頭の派手なアクションとは一転して、準備から逃亡までの強盗計画が、仲間集めの苦労や奥さんとの確執なども交えながら、淡々と丁寧に描かれるところも好印象。主人公(スタンリー・ベーカー)以外の存在が地味過ぎるのがやや難点。<8月25日>
 
136.刑事マディガン/ドン・シーゲル(1968)
 
 拳銃強奪の犯人逮捕をめぐり、NY市警の現場刑事リチャード・ウィドマークと本部長ヘンリー・フォンダの確執を描く。派手な店に出入りし、情報屋と懇意にし、一見ダーティそうなリチャード・ウィドマークが、実はクリーンで正義を貫き、ルール重視の理想主義者のエリート ヘンリー・フォンダが、実は元同僚の汚職に目をつぶり、陰で浮気をしているような人物だったという、本来の役どころを演じているようにみえる二人の善悪が実は逆転しているという設定が妙味を生んでる。惜しむらくは二人の性格付けをもっと際立たせると物語りの輪郭がより明瞭になった。現場の薄給に耐えかねて切れる奥さん役のイーガン・スティーブンスは明るい色っぽさを漂わせた北欧美人。30歳台で薬物自殺したそうだ。<8月28日>
 
137.ジョンとメリー/ピーター・イエーツ(1969)
 
 勢いと成り行きで一夜を共にした男女がお互いに魅かれ合っていく一日を描く。演じるのはダスティン・ホフマンとミア・ファロー。プライドの鎧の下に繊細なナイーブさを隠したニューヨーカーの心の探りあいを巧者二人が演じる。クラシックの薀蓄、螺旋階段の上にアトリエがあるモダンな住まい、有機卵や鱒料理、コーヒーはケメックスで淹れ、スフレの皿は予めオーブンで温めておかなければならない、などダスティン・ホフマンの痛いまでのこだわりが可笑しい。過剰な自意識は不安の裏返しなのだ。当時のミア・ファローの壊れそうなキュートさがたまらない。60年代のどこかのんびりしたNYの街の雰囲気もGOOD。<8月30日>
 
138.ライフ・アクアティック/ウェス・アンダーソン(2004)
   
 離れていた子供と再会する父親、擬似家族的関係など、前作『ザ・ロイヤルテネンバウム』と同様のテーマが今回は海洋調査(ジャック・イヴ・クストーへのオマージュ)を舞台に描かれる。ビル・マーレイをはじめ、あまりやる気が感じられない登場人物やゆるい語り口も相変わらず。劇中、いつもセウ・ジョルジがギターの弾き語りでデヴィッド・ボウイの曲をポルトガル語で歌っているという音楽センスも出色だ。オリジナルの”Queen Bitch”をバックに埠頭を歩くビル・マーレイの許に皆が集まってくるラストシーも文句なくカッコイイ。<9月1日>
 
139.北国の帝王/ロバート・アルドリッチ(1973)
 
 大恐慌時代のアメリカ、働く場を求めて列車のタダ乗りで移動する人々はホーボーと呼ばれていた。ホーボーのヒーローのリー・マービンとタダ乗りを阻止しようとする強面車掌アーネスト・ボーグナインの男と男の闘いの物語。リー・マービンは決闘相手が貨車から落ちかかると、手を差し伸べて貨車に上げ、ふたたび戦いを続けるなど、プライドと気骨の人物。つきまとっていたちゃらい若造(デヴィッド・キャラダイン)を最後、列車から川に投げ捨てるなど、若者に媚びない姿は、いかにも昔の男の映画だ。目を剥いたボーグナインの顔が脳裏から離れない。主人公のモデルは『放浪記』を書いたジャック・ロンドンがいっしょにホーボーをしていた人物だそうだ。<9月3日>
 
140.殺人者たち/ドン・シーゲル(1964)
 
 ヘミングウェイの『殺人者』を下敷きに、何故男は逃げもせずに殺されたのか、という原作には書かれていない謎を解き明かすというストーリー。殺し屋自身が殺しの依頼に疑問を持ち、背後にある強奪された金の行方を探っていく課程で、徐々に謎が解けてゆくという展開が良くできている。リー・マービンとクルー・ギャラガーの殺し屋二人のプロに徹した静かな物腰が恐い。殺される男はジョン・カサヴェテス、ファムファタルはアンジー・ディッキンソン。最高にクールな名ラストシーン。腹に一発食らいながら必死で逃げようとするリー・マービン。近づく警官に発砲しようとするも、最後はもんどりうって後にひっくり返る。手にしていたアタッシェが開き、芝生に散乱する紙幣。カメラは芝生の住宅街を俯瞰するアングルへと引いてゆく。元になった『殺人者』(ロバート・シオドマク1946)も必見。<9月5日>
 
141.ここに幸あり/オタール・イオセリアーニ(2006)
 
 政敵から大臣を解任された中年男が昔の仲間のところに戻り、しょぼいが気のおけない第二の人生を謳歌するという物語。最後、政敵の男も大臣を解任され、彼と一緒に公園のベンチでタバコをふかして感慨にふけるのだった。不法占拠で追い出した黒人家族と橋の下でいつの間にか酒盛りを始めているなど、監督らしい寛容さが暖かい。仲間が集まるとギターやピアノをさり気なく披露するところなどヨーロッパの教養主義を感じさせる。前二作に比べ苦さが効いていないのは、エリートからの脱落というテーマがもはやめずらしくないからということか。<9月7日>
 
142.カリフォルニア・スプリット/ロバート・アルトマン(1974)
 
 ギャンブル好きの二人が借金漬けの生活から逃れるために最後の大勝負にでる。賭け手自らがサイコロを振るクラップスというゲームが出てくる。口から生まれてきたかのような男をエリオット・グールドが快演。ボクシングを見ていても競馬を見ていても、いつの間にか周りの人と賭けを始めている、強盗相手に値切りの交渉をしてしまうなど、片時もギャンブルから離れられないキャラクターが可笑しい。当初、距離を置いていたジョージ・シーガルが徐々にのめり込んでハイになっゆく様子や大もうけした高揚から冷めた後のシニカルな様子も良かった。8トラックサウンドシステムを使ったオーバーラッピングダイアローグを始めて試みた作品。<9月8日>

California Split
 
143.汽車はふたたび故郷へ/オタール・イオセリアーニ(2010)
 
 監督の分身のような若者がソ連時代の故郷グルジア(監督はこのロシア式発音を拒否してあくまでゲオルギアを使う)で表現の自由に悩み、パリでは映画業界の商業主義に苦悩する。故郷に戻るシーンで映し出される高層マンション群は、変わり果てた故郷の姿の象徴だ。「故郷を再び見出そうとしてもそこに戻っていくことは不可能なのです」とは監督の言葉。今までの作品にあった諦観の果ての辿りついた日常のありふれた幸福感というテーマが遠のいて、自嘲、ペシミズム、寂寥感が漂う。黒人の人魚と沼の底に消えるラストはどこにも居場所のない「役立たず」(原題”chantrapas”の意)を象徴しているかのようだ。<9月10日>
 
144.いずれ絶望という名の闇/ジル・ベア(2009)
 
 オリヴィエ・マルシャルが脚本と汚職に走る麻薬捜査官役を演じるネオ・フレンチ・ノワール。監督を手掛けた、同じような日本語題名が付けられた前ニ作「あるいは(2004)」、「いずれ(2008)」に比べ、なんで?という突っ込みどころが多く、ストリー展開も分かりにくい。警察上層へと出世している麻薬捜査官ジェラール・ド・パルデューの元妻。実は麻薬組織の手先となっている。元妻からの協力の誘いを断って何故やった?と問うパルデュー。「あなたとわたしのためよ」と元妻。この辺は実にネオ・フレンチ・ノワール的な雰囲気が漂う。ジェラール・ド・パルデューはいくらなんでも太りすぎ。コンビだった女警官アーシア・アージェント良し。<9月11日>
 
145.殺しのテクニック/フランク・シャイン(1966)
 
 伊仏合作のマカロニ・ノワールの傑作。冒頭のNYのビルの屋上からの淡々とした狙撃シーンは必見。その後、数々の映画や『ゴルゴ13』などの元ネタになったといわれている。銃(ボトルアクションではなくレミントンM742ウッズマスターというセミオートライフルを使ったのは長距離の狙撃で確実に射殺するため)の組み立ての手際よさ、新聞紙を落下させて風向きを確かめる、片目にアイパッチをつける、狙撃に成功した瞬間、緊張からへたり込む、など細部のリアリティに痺れる。一旦足を洗おうとした殺し屋が、殺された兄の敵を討つため殺しの依頼を請け、パリに飛ぶ。スナイパーを演じるのはブルース・ウエッバー。屈強な肉体にどこか悲しい陰を漂わせた男。夜明けのNYのビル群、壁全面にジョゼフ・アルバースの「マンハッタン」が飾られたかつてのメットライフ・ビルなど、60年代のNYも見ものだ。<9月3日>

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146.狼の挽歌/セルジオ・ソリーマ(1970)
 
 さしずめマカロニ・ハードボイルドとでもいうべき一本。プロの殺し屋チャールズ・ブロンソンが悪女ジル・アイアランドにはまる。タイトルバックのカメラショットを挿入したヴァージン諸島でのバカンスシーンがカッコイイ。悪の組織の実態が良く分からない、悪女のはずのアイアランドが場当たり的だなどの欠点を差し引いても、狭い道でのマスタングによるカーチェイス、レースカーの狙撃シーン、シースルーEVでの無音の狙撃シーンなどアクションシーンは見る価値あり。最後、ブロンソンが逃げもせずに、おどおどする新米警官に撃たれるのはアイアランドと心中ということだ。乗りの良い音楽はエンニオ・モリコーネ。<9月14日>
 
147.終りなき夏(エンドレス・サマー)/ブルース・ブラウン(1966)
 
 当時28歳の監督がカリフォルニアの若者と3人で夏と波を求めてアフリカ、オーストリア、タヒチ、ハワイを旅するドキュメンタリー。撮影に3年6ヶ月かかったそうだ。南アフリカのケープ・セント・フランシスで出会う「究極の波」。かなりの長さに渡って綺麗にブレイクしてゆくこの波は本当に美しい。純粋で邪気のない若者とアメリカ。輝かしい60年代のイコンのような作品だ。必要なのはボードとワックスとトランクス、そしていい波という、究極のシンプルさがサーフィンのかっこよさだ。<9月18日>
 
148.マジェスティック/リチャード・フライシャー(1974)
 
 チャールズ・ブロンソンは、過去から逃れるように、スイカ農園で生計を立てている人物。金や権威におもねらない筋を通す性格が、ギャングの反発や恨みを買い事件に巻き込まれてしまう。ブロンソンがこだわっているのはスイカの取り入れ。やっと収穫したスイカをマシンガンで粉々にされたブロンソンがついにギャングとの対決に立ち上がる。田舎道で埃をもうもうと上げながらのカーチェイスがすごい。フォードのピックアップトラックがあわやフロントから着地しそうなほどジャンプするシーンは圧巻。最後の銃撃戦での親分を追い詰めていくブロンソンの計略も見もの。脚本はエルモア・レナード。<3月6日>
    
149.いちご白書/スチュアート・ハグマン(1970)
 
 ノンポリ学生が学生運動のリーダー女性に惹かれて徐々に運動にのめり込んでゆく。最後、講堂に立てこもって”Give peace a chance”を歌う学生たちを州兵が力づくで排除してゆくシーンがきちんと時間をかけて描かれる。パフィー・セント・メリーの「サークル・ゲーム」の優しいメロディが流れ、無力さが際立つラスト。安田講堂など日本の学生運動の最後の方の過激さをイメージして観るとやや拍子抜け。CSN&Y、ニール・ヤング、ジョニー・ミッチェルなど音楽の素晴らしさは文句なし。原作はジェームズ・クネンのコロンビア大学での経験を描いたノンフィクション。<9月20日>
 
150.ハード・エイト/ポール・トーマス・アンダーソン(1996)
 
 PTAのデビュー作。ダイナーの入口で座り込んでいるジョン・C・ライリーにフィリップ・ベーカー・ホールが声をかけるシーン。冒頭からミステリアスな雰囲気全開で引き込んゆく。何故、P・B・ホールが親切なのか?を唯一の謎として引っ張るストリー作りも上手い。慇懃さの陰に底知れぬ裏の世界の凄みを感じさせるP・B・ホールの存在感が圧倒的だ。自分だけを頼りに生きてきた男の背景を最小限の挿話で語るスタイルが実にハードボイルド。シャツの袖口に着いた血糊をジャケットの袖口を引っ張ってそっと隠すラストも見事。題名はクラップス(さいころゲーム)における4のゾロ目のこと。クラップスのシーンはアルトマンの『カリフォルニア・スプリット』へのオマージュだ。<9月21日>
 
151.2010年/ピーター・ハイアムズ(1984)
 
 『2001年宇宙の旅』の続編。2001年の木星探査の失敗の原因を米ソ合同で調査するという筋書き。宇宙に取り残されたディスカバリー号に乗り込みHAL9000を再起動させる。HALの故障は、人間に協力すべきAIとしてのプログラムとモノリス探索を隊員に秘密にするようプログラミングされた内容が相反して、いわば「統合失調症」に陥ったことが原因だったのだ。再びモノリスが出現し、ボーマン船長も姿を現し「素晴らしいことが起こる」と告げる。木星が第二の太陽となり、地球に夜がなくなり、衛星エウロパに海が生まれ生命の誕生が予感される。地球に戻るため、ディスカバリー号とともにHALを遺棄せざる得なくなった博士(ロイ・シャイダー)は、HALに真実を告げ、HALはそれを受け入れるという泣かせるラスト。『2001年』は謎のまま終わる映画。こちらは謎を解く映画。謎は謎のままの方が楽しめる場合もるようだ。<9月22日>
 
152.ブレス/キム・ギドク(2007)
 
 裕福な夫婦の妻が夫の浮気をきっかけに、自殺願望のある妻子殺しの死刑囚に面会に行くようになる。面会室を季節の壁紙で飾り、その季節の格好で季節の歌を歌うという奇妙なやり方で死刑囚を喜ばすことに懸命になる女。常識はずれの面会を許可し、モニターで監視し続ける課長(監督自身)。女は幼いころの水中で息を止めていて、少しの間死んでいた幼いころの経験を話す。二人は面会室でセックスをし、女は男の息を止めようとするが果たせない。その後、女は父親と子供と三人で雪合戦に興じ、夫婦は危機を乗り越えたことが暗示される。エロスとタナトスが交錯する奇想天外な物語を生み出す想像力は確かに稀有だが、奇想を狙って作っているという感じも見え隠れする。妻と死刑囚がセックスをしている時、タナトスからの妻の帰還を予測しているかのように、刑務所の外で夫が家族3人の雪だるまを作っているシーンは確かに凄い。<9月24日>
 
153.OK牧場の決斗/ジョン・スタージェス(1957)
 
 本作の最大の見所はドク・ホリデイのキャラクター。元インテリ(歯医者)だが今は賭博師として名を馳せている。身だしなみにこだわり、髪型を気にするしゃれ者だが、その割には肝心な生に対してどこか投げやりで厭世的な雰囲気を漂わせている。結核を患っていつも咳をしているが、それを忘れたがっているかのようにウィスキーを煽る。腐れ縁でつながっている女(ジョー・ヴァン・フリート)は、ドクが死に場所を探していることを薄々気がついている。そんな自己を韜晦するならず者をカーク・ダグラスが実に魅力的に演じる。それに比べ主役の生真面目な保安官ワイアット・アープ(バート・ランカスター)は地味な役回りで終わる。原題のOK Corralのコラルとは牛の囲い場のこと。音楽はディミトリオ・ティオムキン。<9月25日>
 
154.ハロルドとモード 少年は虹を渡る/ハル・アシュビー(1971)
 
 ハロルド(バッド・コート)は裕福な家の狂言自殺の常習犯の19歳の少年。モード(ルース・ゴードン)はオーストリア=ハンガリー帝国出自の79歳の老女。チラッと映される腕の刺青から強制収容所で過ごした過去が暗示される。二人は他人の葬式に参列するという共通の趣味の場で出会う。天衣無縫のはじけた生き方のモードと生の意味を見出せないでいるハロルドの交流を見守るようなタッチで描く。モードはハロルドと結ばれた80歳の誕生日に服毒自殺をする。自暴自棄になったハロルドは愛用のジャガー(ジャガーXKEを霊柩車に改造している)で暴走し、車は崖から転落する。死の間際、ハロルドは崖の上に残った。ハロルドはモードから送られたバンジョーを奏でながら軽やかなステップで丘を歩いていくのだった。死をきっかけに自らの生の意味に気づいた瞬間を描くラストが秀逸。一度、死を覗き、生を謳歌したモードとそのモードの生と死から自ら生の意味を取り戻したハロルド。こんな気の効いた台詞も。モードはハロルドから送られた指輪を海に投げ込んでこう言う。「こうしておけばどこに置いたか忘れないでしょう」。音楽はキャット・スティーブンス。<9月28日>
 
155.シークレット・チルドレン/中島央(2014)
 
 人口減少の対策として作られたクローンが政権交代による独裁者の登場で社会の悪として廃絶されることになる。一夜にして運命が変わってしまったクローンたちの悲劇をオムニバス形式で描く。クローンたちは殺される運命に従う無抵抗の弱い存在として描かれる。それは独裁権力下における民衆の無力さの象徴か。あるいは創造者の前での被創造者の絶対的弱さの象徴か。その無抵抗の弱さは残酷すぎるほど徹底している。クローンからクローンを作って生き延びるというラストのオチは、複製可能なクローンだがら一回きりの生に執着が薄く、死に物狂いの抵抗をする者がいない、という風に見えてしまい、肝心のテーマがあいまいになってしまう。クローンとは挿し木のこと。<9月30日>
 
156.アウト・オブ・サイト/スティーブン・ソダーバーグ(1998)
 
 胡散臭い二枚目の銀行強盗(ジュージ・クルーニー)と気の強い美人捜査官(ジェニファー・ロペス)が恋に落ちる。ひっつめ髪のJ・ロペスが美しい。恋に落ちるきっかになったのが車のトランクの中での映画談義。『コンドル』の主人公二人があんな風に親しくなるのはありえない、というJ・ロペスの台詞に映画ファンは納得。J・ロペスはJ・クルーニーの脚を撃って逮捕する。刑務所への移送時に脱獄常習犯を同乗させるように密かに仕組むというラストが楽しい。時間軸の入れ替え、都市のイメージに合わせた画面カラーなどその後のソダーバーグ作品ではお馴染みになった技法が本作でも登場。原作はエルモア・レナード。<10月2日>
 
157.荒野の七人/ジョン・スタージェス(1960)
 
 黒澤明の『七人の侍』のリメイク。軽妙なスティーブ・マックイーン、愛想がないが朴訥で子供に慕われるチャールズ・ブロンソン、寡黙なナイフ使いジェームズ・コバーン、村にはやはり大金があるとの嘘を聞かされ安心した顔で死んでゆくブラッド・デクスター、どこか憎めない悪役イーライ・ウォックなど西部劇らしいキャラクターが楽しい。腕の衰えを感じ始めた皮肉屋の賞金稼ぎロバート・ヴォーン。最後、自らの早撃ちの腕を確認するように一旦、銃をホルスターに戻し、村人が捕らえられている部屋に単独突入するシーンは記憶に残る。途中で農民の裏切りなどがあり、オリジナルと同じ「勝ったのは農民だ」とのユル・ブリンナーの最後の決め台詞がいまいち効いていない。いかにも西部劇という勇壮なテーマはエルマー・バーンスタイン。<10月6日>

ロバート・ヴォン_荒野の七人
  
158.3時10分、決断のとき/ジェームズ・マンゴールド(2007)
 
 南北戦争で片足を失くし、借金にあえぎ、いつしか家族からの信頼や尊敬も失いつつある牧場主(クルスチャン・ベール)が、賞金目当てでならず者の移送の警護を申し出る。絵を嗜み、聖書の言葉をそらんじ、巧みに女を魅了するならず者(ラッセル・クロウ)は、「生きている方が地獄だ」とうそぶく、どこか虚無に捕らわれた男。ならず者の仲間の執拗な攻撃のなか、最後まで孤軍奮闘するC・ベールの行動の裏には、長男に父親の男としての姿を見せたいとの心情が横たわっていた。それを知ってR・クロウは心が動かされてゆく。無法者は父母に捨てられて過去をもっていた。なにも誇ることがない人生を覆したい男。その賭けに自分にない生き方を見た男。捕らわれた者が捕らえる者を救うという逆転の構図の鮮やかさ。最後の最後まで魅せる終わり方にも唸らされる。原作はエルモア・レナード。『決断の3時10分』(1957)のリメイク。<10月7日>
 
159.ジャッキー・ブラウン/クエンティン・タランティーノ(1997)
 
 メキシコの三流航空会社のCAで前科のある中年女ジャッキー・ブラウン(パム・グリア)は生活苦から武器商人(サミュエル・L・ジャクソン)の資金の運び屋をやっている。捜査官から逮捕され、捜査への協力を持ちかけられる。これを逆手にとり、中年男の保釈屋(ロバート・フォスター)と組んで武器商人の金を掠め取って、さえない人生から抜け出そうと画策する。往年のセクシーさに疲れが見え始めた中年女と忍び寄る老いを感じ始めたさえない中年男、そんな二人の間に生まれる強い信頼と淡い恋心。P・グリアからスペインへの高跳びを誘われるも、逡巡する様子を後姿で演じるR・フォスターが上手い。とろい殺し屋役のロバート・デ・ニーロも見もの。ボビー・ウーマックワーの”Across 110th street”をはじめ、音楽のセンスが抜群。冒頭の空港の動く歩道の横移動撮影は『卒業』へのオマージュなど、さまざまな映画へのオマージュがちりばめられている。原作はエルモア・レナードの『ラム・パンチ』。<10月9日>
 
160.やがて復讐という名の雨/オリヴィエ・マルシャル(2008)
 
 『あるいは裏切りという名の犬』(2004)に続いてフランス警察の内幕を描いたネオ・フレンチ・ノワール。舞台はマルセイユ。ぼさぼさの髪、無精ひげ、薄汚れたコート姿、ワインは一滴も登場せず、ひたすらJ&Bを瓶ごと煽るなど、『あるいは』に続き、ダニエル・オートゥイユのやさぐれフランスオヤジぶりが嬉しい。娘を事故で失くし、妻は植物人間になり、本人はアルコールに溺れ、一線からはずされる。最後は腐敗しきった警察内部の連中に復讐を果たし、自らの罪に決着をつけるべく妻と一緒に心中するという、ひたすら暗く重いストーリー。改心を装って釈放される無期懲役の殺人犯の話は不要だった。カトリーヌ・マルシャルは相変わらず魅力的。原題のMR73とはマニュ-リン社製の357マグナム拳銃のこと。<10月11日>
 
161.祇園囃子/溝口健二(1953)
 
 花街を成り立たせている権力関係を残酷に見せつけながら、そこに漂う独特の情緒や女たちの色香を同時に描く溝口の視点。男たちはお茶屋の女主人を通じ、言いなりにならない芸妓小暮美千代と若尾文子をお座敷から締め出し、その権力を思い知らせる。花街の力関係に精通し、男たちの権力を媒介しながら、底辺の女たちをじわじわと追い詰める女主人浪速千栄子が圧巻だ。一方で小暮に邪険にされる落ちぶれた馴染み客(田中春男)、娘の若尾を舞妓に出しながら金の無心をする病いと老いが忍び寄るしたたかな父親(近藤英太郎)など、その力関係の網の目は、一筋縄ではいかない。小暮や若尾の和服姿の目を見張るような美しさは、悲哀や悲惨と表裏一体の前近代ならではの情緒なのだ。<10月12日>
 
162.ビューティフル・マインド/ロン・ハワード(2001)
 
 ノーベル経済学賞を受賞した天才数学者ジョン・ナッシュの半生を描く。大学時代から統合失調症を患い、ソ連の暗号解読の極秘任務に就いているとの妄想に取り付かれている。妄想の出来事や人物が現実の一部であると思わせるサスペンスフルな展開が巧みだ。この天才と狂気の人物を演じるのはラッセル・クロウ。上手い。原作では本人のとんでもない事実(ex.学生時代に妊娠させた女性と子供を捨てた)も書かれているそうだが、映画ではこうしたドロドロしたところが省かれ、変わり者だが共感を得られる人物として描かれる。ナッシュ夫妻は2015年5月に事故でタクシーから投げ出されて死亡。最後まで破天荒な人生だった。<10月13日>
 
163.荒野の決闘/ジョン・フォード(1946)
 
 ワイアット・アープ役のヘンリー・フォンダの不器用で生真面目で土臭さを感じさせる西部男ぶりがなかなかいい。ヴィクター・マチュアのドク・ホリデイは少し堅すぎ。西部の町のちょとした日常の描き方が上手い。馬から下りて埃だらけの顔と手を洗うシーン、ヘンリー・フォンダがポーチのロキングチェアに座って、片足で柱を蹴るようにのけぞった格好で所在無げに過ごしているシーン、床屋の帰りにガラスに映して髪形を気にするシーン、教会の完成を祝う日曜日のダンスシーンなどなど。悪役クレイトンの親玉を演じるのはウォルター・ブレナイン。この人が演じると悪役でもどこか憎めない。<10月14日>
 
164.許されざる者/李相日(2013)
 
 オリジナルは西部劇という映画空間で描かれてきた暴力や善悪や罪の問題を「賞金稼ぎ」のクリント・イーストウッドが問い直したアカデミー賞受賞作品。リメイクの本作はオリジナルとはまた別の魅力を放つ力作。舞台を明治初期の蝦夷(北海道)に移し、逆賊として明治政府から追われる旧幕臣の人切り十兵衛(渡辺謙)を主人公に、賊軍やアイヌや女郎など、負けた立場の者、虐げられた者が犯さざるを得なかった罪を問う。己が討たれるまで雪原さまようしかない十兵衛のラストは、まさに許されざる者を象徴している。賞金稼ぎに復帰するきっかけの説得性の弱さとハッピーエンディングの納まりの悪さというオリジナルの持っていた弱点も上手く乗り越えられている。逆に佐藤浩一演じる警察署所長に奥行きがない。むしろ國村隼演じる今や賞金稼ぎに身を落としている、新政府になじめない長州武士が単純に割り切れない、維新をめぐる武士の思いを感じさせる。<10月15日>
 
165.フランキー&アリス/ジェフリー・サックス(2010)
 
 黒人ストリッパーのフランキーのなか存在する凶暴な白人の人種差別主義者のアリスという人格。二つの人格を持った解離性同一性障害の主人公の苦悩をハル・バリーが演じる。アリスの存在のきっかけとなった不幸な過去が明らかになり、最後は共存の道が選ばれる。それはアリスの不幸な出自をフランキーが認知することでアリスがおとなしくなった、あるいはフランキーがアリスを制御することができるようになったということなのか?実話ということだが、なかなか難しい結末だ。<10月16日>
 
166.レザボア・ドッグス/クエンティン・タランティーノ(1992)
 
 自主製作版を観たハーヴェイ・カイテルが気に入って、ハリウッド作品としてリメイクしたタランティーノ監督のデビュー作。とっぽいギャング5人+ボスが宝石強盗に失敗し、仲間割れしていく物語。心理や感情描写の欠如、錯綜する時間、大胆な省略(肝心の強盗シーンがない)、即物的、過剰さ、残虐シーンなど早くも個性全開だ。ジョージ・ベイカー・セレクションの「リトル・グリーン・バック」の音楽にあわせて黒づくめの男たちをスローで撮った冒頭シーンのかっこ良さは伝説的だ。スティーブ・ブシェミが全力疾走で逃げるシーンも大迫力。元ネタは『血とダイヤモンド』(福田純1964)とのこと。こちらも是非観たい。<10月17日>
 
167.アウトロー/クリント・イーストウッド(1976)
 
 南北戦争の末期、北軍の名を借りたならず者に妻子を殺されたクリント・イーストウッドがひとり北軍に投降することを拒否して、追っ手が迫るなか復讐を果たす物語。インディアン、夫をなくした妻子、ゴーストタウンと化した街の住民など、戦争の弱者たちがイーストウッドの逃避行に加わって、擬似家族のような様相を呈し始めるというのが面白い。ジョン・ヴァーノン演じる北軍に投降した南軍ゲリラが、負けた者の悲哀と矜持を感じさせる。ヴァーノンは北軍にはめられて部下を失った自責の念に駆られている。イーストウッドを討つことを命じられ、追っ手に加わりながらも、逆にイーストウッドから撃たれて死ぬのを望んでいた。ヴァーノン以外の追っ手を撃ち殺した後にイーストウッドはヴァーノンに言う。“I gess we all died a little in the damn war”。お互いが味わった喪失感とともに「もう死ななくてもいいんだ」といっているのだ。<4月6日>
 
168.拳銃王/ヘンリー・キング(1950)
 
 拳銃の腕を上げれば上げるほど、自分を倒して名を上げようとする若者や復讐しようとする者から狙われるという、腕の立つガンマンの孤独な宿命を描いた西部劇。グレゴリー・ペックが、競争に疲れ、足を洗いたがっているNo1の拳銃使いと噂されるジミー・リンゴを演じる。リンゴは出直そうと妻子に会いに来ているのだが、妻子はなかな決心がつかず、リンゴに復讐しようとする敵方が迫ってくるという時間との戦いを組み込んだ良く練られた脚本。「35歳なのに時計も持っていない」など台詞も気が利いている。最後、若造に後から撃たれれたG・ペックは、自分が先に抜いたことにしてくれ、といって拳銃王という生き地獄から解放され安心して事切れる。右側のホルスターに逆向きに拳銃を差して左手で抜くクロスオーバー・ドローと呼ばれる拳銃捌きが見られる。<10月20日>
 
169.ア・ホーマンス/松田優作(1986)
 
 最後まで観るのがつらい、目を覆いたくなる作品。実験的な試みは独りよがりに終わっており、ミニマルな語り口は効果を上げていない。凡庸なアクション、これみよがしな音楽、人物造形は魅力を感じさせない。風(ふう)と呼ばれ謎の主人公(松田優作)がロボットだったという最後には思わず失笑してしまう。<10月22日>
 
170.ワーロック/エドワード・ドミトリク(1959)
 
 ならず者で困っている町が執行官として腕利きの流れ者を雇う。町は平定されるが、その力づくのやり方が徐々に恐れと反発を生み、よそ者として疎まれ始める。赤狩りと転向で苦悩したE・ドミトリクらしい、人の善悪とは、民意の危うさ、弱さゆえの罪などを内包する異色西部劇。力を信じる自信家のヘンリー・フォンダ。その相棒のギャンブラーのアンソニー・クイン。ならず者の一味だったが、悪事に倦んで副保安官となったリチャード・ウィドマークの三人を巡る一筋縄ではいかない展開が見どころだ。A・クインは足が悪く、そのせいかH・フォンダに依存(同性愛的な感じも)する屈折した性格の難しい役を巧みに演じる。H・フォンダが結婚して引退しようとしていること知ると、その遠因となったR・ウィドマークを狙ったり、最後はH・フォンダの引退を阻止しようとして対決になり、わざと撃たれて殺される。A・クインを撃ったことで自責の念から自暴自棄になって町に火を放つH・フォンダ。町を出て行けというR・ウィドマークと対決になり、勝負では2丁拳銃で圧倒するも、銃を投げ捨て女とも別れて町を去る。物語とともに善悪が入れ替わっていくような人物造形も類を見ない。E・ドミトリクはロシアからのウクライナ移民。赤狩りで証言を拒否。RKOを解雇され逮捕される。出所後、転向してジュールズ・ダッシンを共産党員だと証言した過去を持つ。<10月23日>

171.実録 連合赤軍あさま山荘への道程/若松孝司(2007)
  
 彼らはいったいなにを求めていたのか?新左翼運動の行き詰まりから、内向きの権力闘争が激化した結果の悲劇といわれているが、今からみると稚拙としか思えない思想や愚かとしか思えない総括の本当の理由は、映画を観てもさっぱり分からない。ということは、今では理解不能な、あの時代にあの立場にいた者が陥っていたなんらかの陥穽があったということか。1972年2月19日あさま山荘たてこもり、2月28日機動隊突入。<4月12日>
 
172.現金に体を張れ/スタンリー・キューブリック(1956)
 
 キューブリックが27歳で撮ったハリウッド第一作にして傑作。それぞれに癖のある5人が競馬場での現金強奪をたくらむ。時間軸を戻しながら、同じ場面を異なった視点から繰り返し描くことにより、徐々に真相が明らかにゆくという展開によって、不安な宙吊り感とぞくぞくするようなサスペンス感が生み出される。繰返しインサートされる競馬馬の疾走シーンやドキュメンタリータッチによる張り詰めた緊張感も見事。かろうじて生き残ったスタンリー・ヘイドンは恋人と一緒に高跳びしようとする。飛行機に積み込まれる寸前でトランクが落下し、鍵が開き、滑走路に現金が散乱する。それを見ていた二人はそ知らぬ顔で空港から逃げ出そうとするが、タクシーがなかなか捕まらず、気がついた警官がこちらに向かってくるショットにTHE ENDがかぶさる。観る者に犯罪の成功を望むように仕組まれたシナリオとその期待を一瞬で裏切るこのラストの切れ味には唸らされる。<4月18日>
 
173.パルプ・フィクション/クエンティン・タランティーノ(1994)
 
 タイトル通り、通俗的な犯罪映画のクリシェをモチーフにしたオムニバス的群像劇。映画はテーマではなくて語り口とドライブ感だとでも言いたげなタランティーノ監督ならではの、映画の歴史のなかに身を置きながら、映画の可能性を拡張する渾身の作品。ストーリーに無関係だが不思議と魅力的な台詞のオンパレードが、有名俳優演じるヘンテコキャラクターに息を吹き込み、彼らの人生が動き出す。それにしてもジョン・トラボルタのツイストはイカしすぎ。相変わらずのセンス抜群の音楽。The Lively Onesが演奏する”Surf Riders”のサックスが昔風の気分を盛り上げる。時間の流れがシャッフルされた展開の元ネタは『現金に体を張れ』あたりか。<4月19日>
 
174.たそがれ酒場/内田吐夢(1955)
 
 戦争の陰が落ちる大衆酒場を舞台にした一夜の群像劇。酒場は2階にあり、中2階の舞台があるという空間構成が面白い。それを移動長回しで店内を舐めるように見せる冒頭のカメラワークが斬新だ。戦争画を描いていたことを理由に筆を折った老画家(小杉勇)の演技とは思えないようなトツトツとした語りが狂言回しとなって、戦争の影を引きずる登場人物たちの群像劇が展開する。窓外から流れる「歩兵の本領」に元軍人が思わず唱和するが、実はメーデーのデモだったというあたりがなかなか上手い。過去のわだかまりを捨て老人と経験者が若者の将来の礎になるというラストに戦後の未来志向が感じられる。<10月30日>
 
175.ケイン号の叛乱/エドワード・ドミトリク(1954)
 
 下士官たちの叛乱罪を問う軍法裁判で、クイーグ艦長の精神異常を暴き、無罪を勝ち取った弁護士のフォセ・フェラーが、祝賀の席に現れ兵士たちに言う。「俺は罪悪感で気分が悪い。俺や君たちがなに不自由なくこの国で暮らしていた時、それを守るため前線で戦っていたのはクイーグ船長のような人物だった」と。根底に横たわっているのは、赤狩りで挫折と屈辱を甘受せざるを得なかった監督自らが抱く、アメリカのエリートや民衆への複雑な思いだ。フォセ・フェラーはユダヤ人という設定であり、ドミトリク自身はロシアからのウクライナ移民だ。艦長役のハンフリー・ボガートの演技は必見。<11月1日>
 
176.ハーツ・アンド・マインズ/ピーター・デイヴィス(1974)
 
 日本では劇場公開が見送られ、初公開が2010年というヴェトナム戦争を扱った必見の衝撃ドキュメンタリー。時系列的に語るのではなく、総体としての映像によって見る者にヴェトナム戦争のイメージを喚起するように編集されている。マクナマラ国防長官、W.W.ロストウなど、当時の「ベスト&ブライテスト」の本人たちがが直接語る映像のインパクトは大きい。例えば、ウェストモーランド将軍は不可解そうな表情でこう言う。「東洋人は命を軽く考えている」と。東洋人は自分たちとは異なる生物だとも言いたげなこの映像は、彼らのなかにあったアジア人蔑視の思想を浮かび上がらせる。ドミノ理論やテイクオフ理論など当時席巻していた理論やイデオロギーのあまりの空疎さにやるせなさを禁じえない。ある帰還兵の「自由を求める人々に戦術やテクノロジーでは勝てない」とヴェトナム人の「ヴェトナム人は食う米がある限り戦い続けるだろう」とは同じことを言っているのだ。プロデュースはバート・シュナイダー。<11月2日>
 
177.アンドレイ・ルブリョフ/アンドレイ・タルコフスキー(1967)
 
 イコン作家の創造の苦悩をいくつかのエピソードで象徴的に描く。巨大な鐘作りのエピソードは感動的で忘れがたい。父親からの秘伝を受け継いだという鋳物師の息子の少年が大公の命の鐘作りを請け負う。命をかけた鐘作りに成功して泣き崩れる少年。実は死んだ父親は何も秘伝などは残さなかったとルブリョフに告白する。嘘をつきながらでも現実にしがみついて生き残ろうとする生。殺人の罪を償うために筆を折って無言の行で世界の傍観者となっていたルブリョフは、これをきっかけに、再び筆を執ることを決意する。「人間は現実を生きることによって、有限性を克服する可能性を得るのだ」。エピローグで映し出されるイコンは、色彩豊かで豊穣さと幸福感にあふれている。映画本編の苦悩に満ちたイメージとは正反対というところが面白い。<11月3日>
 
178.アメリカン・スナイパー/クリント・イーストウッド(2014)
 
 イラク戦争で160人を射殺したことでアメリカのヒーローとなった実在する伝説のスナイパーの物語。冒頭の少年と母親を射殺するシーンが衝撃を呼んだ。4回の従軍とその後PTSDで苦しむ姿が抑えたタッチで描かれる。最期は同じPTSDで苦しむ人物から銃撃されて死亡するという非業の死を遂げる。葬儀は帯びただしい数の星条旗で埋め尽くされる。使命感に燃えたヒーローの活躍と悲劇は、特別な国アメリカの挫折と終焉を描いたようにも見えるし、そうした尊い血であがなわれ続けるアメリカの神話を描いたようにも見える。<11月4日>
 
179.シェフ 三ツ星フードトラック始めました/ジョン・ファヴロー(2014)
 
 製作・脚本・監督・主演とひとり4役で作った作品。ロスの離婚暦のある中年シェフが、マンネリ料理を求めるオーナーとグルメブロガーの酷評に切れて、レストランを首になり、フードトラックで一からやり直す。マイアミ~ニューオリンズ~テキサス~カリフォルニアとアメリカ西南部を縦断しながらのご当地旨い物紹介を兼ねたロードムービー仕立てというアイディアが秀逸だ。フードトラック開業に駆けつける元部下のラテン系ジョン・レグイザモと息子との3人の泣き笑い道中が見どころ。キューバサンドを筆頭に旨そうな料理のオンパレードにも目が離せない。なかでも主人公が息子のために作るグリルド・チーズサンドは絶品。わがチキテオでも実作を試みております。ブロガーやSNSが力を持っているという今風の構図なども押さた脚本もなかなか。エスニック色と地方色がミックスしたアメリカのもう一つの魅力を見せてくれる。物語のモデルでもある屋台で成功した韓国系元シェフのロイ・チョイが料理指導している。<11月5日>
 
180.帰らざる河/オットー・プレミンジャー(1954)
 
 マリリン・モンローがセクシーさに頼らない役を初めて演じた作品。紆余曲折の後、夫を失ったマリリン・モンローは、酒場歌手に戻って客の前でRiver No Returnを歌っている。直前の魅力的なジーンズ姿と濃い化粧で着飾った痛々しい姿が対比される。今観ると、最後までセックス・シンボルとしてしか認められなかったモンロー自身の運命とどうしてもダブって見えてきてしまう。別れたはずのロバート・ミッチャムが現れ、モンローを抱きかかえ酒場を抜け出し家路へ向かう。路上には脱ぎ捨てられた赤いハイヒールが残されていた。このラストの情感もやはりM・モンローが演じたからこそ。筏での川くだりは迫力あり。<11月7日>
 
181.ウィンチェスター銃’73/アンソニー・マン(1950)
 
 父を殺した兄への復讐劇と西部を征服した銃として名高い名銃M1873をめぐる数奇な運命劇を92分にぎゅっと詰め込んだ名脚本。ジェームズ・スチュアートは、一見優男っぽいが、芯の強さと誠実さが上手くバランスして、意外に西部劇に合っている。いつもJ・スチュアートから提案を否定される相棒ミラード・ミッチェルがいい味出している。煙を上げる馬車の車輪、ブリキのコップで旨そうにコーヒーを飲むシーン、岩をかすめる弾丸のリアルな描写など西部劇はディテールがしっかりしていると面白さが倍化する。<11月10日>
 
182.アルマジロ/ヤヌス・メッツ(2010)
 
 ISAF(国際治安支援部隊)のアフガニスタンのアルマジロ基地に駐留するデンマーク軍の若い兵士たちの軍務に密着したドキュメンタリー作品。人を殺した直後の若い兵士が興奮した様子が生々しい。また、腕を打たれたショックで呆然自失の兵士の表情もリアルだ。戦場の兵士は平和な本国から孤立して、殺さなければ殺されるという戦場の論理に落ち込んでゆく。兵士を責めることはできない。多くの兵士が再び戦場へと帰ってゆくのは、平和な地に居場所がなくなってしまうということか。軍に不都合なエピソードも映像化されており、ここまでリアルな取材ができたのは、軍内にISAFに反対する勢力があったことを窺わせる。<11月11日>
 
183.ミリオンダラー・ベイビーズ/クリント・イーストウッド(2004)
 
 悔恨に悩み苦しみながらも自らの頑なさから抜け出せない三人の人間。そうした男と女の痛いばかりの孤独とぎりぎりでの友情や愛情を描いた秀作。慎重な方針を頑なに守るために有望選手が離れてしまうボクシングジムの老オーナー(クリント・イーストウッド)。その頑固さ故か娘とは音信不通になっている。影のように傍に寄り添うジムの雑役夫は、過去にペアを組んだことのある老ボクサー(モーガン・フリーマン)。老ボクサーはイーストウッドの忠告を無視して戦い続け、片目を失明し負けた過去を持つ。悲惨な生い立ちから抜け出そうとボクサーを志願しジムの扉を叩く31歳のウエイトレス(ヒラリー・スワンク)。ボクシングにのめり込むしかない女の孤独を知ったイーストウッドは、女はつわものボクサーに育てていく。必死で自分に食らいついてくるH・スワンクに娘の姿が重なってくる。皮肉なことに、タイトルマッチで卑怯な相手の反則行為でH・スワンクは全身麻痺の重症を負ってボクサーをあきらめざるを得なくなる。H・スワンクは何度も自殺を試み、安楽死を望むようになる。頑固なH・スワンクの思いが分かるイーストウッドは、ついに信仰(アイリシュ・カトリック)を裏切り、H・スワンクのチューブにアドレナリンを注入して街から姿を消す。頑固さゆえにお互いに孤立しながら、それでもどこかで信頼しあっている孤独な人々の描き方がいい。例えば、イーストウッドからの給金をわざと賭け事に浪費し、いつも穴の開いた靴下を履いているM・フリーマン。イーストウッドの好意を拒否し、なけなしの賃金から懸命に小銭を貯め自らのスピードボールを手に入れるH・スワンクの頑固さも筋金入りだ。安楽死をかなえてやるラストは、倫理や信仰の問題以上に、人のどうしようもない頑なさと孤独に由来すると見るべきだ。<11月12日>

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184.捜索者/ジョン・フォード(1956)
 
 インディアンが兄一家を惨殺し、末娘(ナタリー・ウッド)をさらってゆく。弟のジョン・ウエインは、兄一家に引き取られていたインディアンの血が入った若者と末娘を奪還すべくコマンチ族を追う。J・ウエインは、南軍くずれ、兄嫁をめぐる兄との確執、インディアンに偏見を持ち残忍な仕打ちも辞さないなど、屈折した孤独な人物として描かれる。この役柄をJ・ウェインはことのほか気に入っていたとのこと。ワイドスクリーンのカラーで撮られたモニュメント・ヴァレーの風景が美しい。雪が舞い散るシーンがある西部劇というのも新鮮。平穏が戻った家庭に居場所がないJ・ウエインは、再び荒野の彼方に去ってゆくラストの余韻が忘れがたい。<11月14日>
 
185.KAFKA/迷宮の悪夢/スティーブン・ソダーバーグ(1991)
 
 世間から隠遁するように生きていた作家カフカが友人の死をきっかけに反権力活動に関わってゆく。ドイツ表現主義的な光と影のモノクロ映像で描かれる、どこか中世の面影が残るプラハの佇まいが暗く美しい。神経質そうで顔面蒼白眼光鋭利なジェレミー・アイアンズのカフカはなかなか。冒頭の友人が謀殺されるシーンは恐い。権力を前に自分を誤魔化して生きることにしたカフカは、結核による咳のなか、確執のあった亡き父に向けてあなたをようやく理解できた旨の手紙をしたためるラスト。これは権力に対するフランツ・カフカのペシミズムを象徴しているのか。<11月16日>
 
186.昭和残侠伝/佐伯清(1965)
 
 昔ながらのテキヤと振興ヤクザの間のマーケット建設をめぐる争いに端を発して、最後、止むに止まれず高倉健と客人の池辺良が相手方に殴り込みをかけるという展開。流れるのは健さん歌う『唐獅子牡丹』。このお定まりの展開に何度みても酔えるのは、その根底に、権力VS民衆、滅び行く旧世界VS勃興する資本主義システム、法治VS任侠(自己犠牲による正義の完遂)という、今だに乗り越えられていない日本の近代の矛盾が横たわっているからだ。ご隠居役の三遊亭圓生の型にはまった立ち振る舞いと言葉遣い。この人が登場すると画面の空気が昔かたぎに一変する。<11月19日>
 
187.紳士協定/エリア・カザン(1947)
 
 紳士協定とはコネチカットの住宅地におけるユダヤ人排斥のための暗黙の了解のこと。記者のグレゴリー・ペックは、ユダヤ人のふりをして、そこで始めて見えてくる差別の実態を記事にして告発しようとする。クリスチャンと偽っているユダヤ人の秘書が、現実的な生き方ができない同僚のユダヤ人を毛嫌いしているなど、一筋縄ではいかない現実が描かれる。編集長の娘で、そもそも反ユダヤ主義の記事の発案者だったリベラルなドロシー・マクガイアが、自らに影響が及びそうになると途端に事なかれ主義に変わるところなども、実に上手く描かれている。G・ペックの友人のユダヤ人役ジョン・ガーフィールドは差別発言を聞き流すことは差別に加担していることと同じだと主張する。J・ガーフィールドは赤狩りがもとで39歳で早世している。脚本のモス・ハートはユダヤ人。日本初公開は40年後の1987年。何故?<11月20日>
 
188.あのころペニーレインと/キャメロン・クロウ(2000)
 
 15歳でローリング・ストーンズ誌の記者になった監督の自伝的作品。ロックファンにはたまらないネタが満載の一本。「ベッドの下に自由を見つけて」と言い残して家出する姉の言葉で、主人公はベッドの下からロックアルバムを見つけロックに目覚める。おなじみのロックの名盤が現れるところなど感涙ものだ。親子の確執、独立、自由の希求、出会い、友情、恋、仲間割れ、和解、再会、自殺など思春期の出来事を余すところなく描いた青春ものでもある。不仲になったバンドメンバーがエルトン・ジョンの「タイニー・ダンサー」を全員で歌って和解するシーンは泣かせる名シーン。そのバンド「スティル・ウォーター」のモデルはオールマン・ブラザース・バンドだそうだ。技術指導は監督と友人のピーター・フランプトン。主人公の師匠的存在としてレスター・バングスという反骨の評論家が登場する。パンクという概念を作った実在の人物で「偉大な芸術家は罪悪感や憧れから生まれる」、「評論で成功したかったら正直になれ。手厳しくいくんだ」など名アドバイスをくれる。フリップ・シーモア・ホフマンがはまり役で演じている。<11月23日>
 
189.渡り鳥いつ帰る/久松静児(1955)
 
 永井荷風の『にぎりめし』、『春情鳩の街』、『渡り鳥いつ帰る』の3篇を久保田万太郎が構成した荷風初映画化作品。荷風らしい作品に仕上がっている。空襲の際に妻と行き別れ、今は娼家の女将(田中絹代)のヒモに身を落としているダメ男に森繁久彌。煮え切らない、小うるさい、ずるい、鼻の下が長いなど相変わらずのダメ男ぶりが見事だ。娼婦の淡路恵子は、病気の同僚に冷酷な女将に復讐するかのように、森繁を誘惑し行方をくらます。飼っていた小鳥が死んでいるのを発見した森繁はコートのポケットに死骸をそっと忍ばせる。そんな死骸に執着している森繁に淡路は呆れ返り、もともとその気もなかったこともあり、森繁を捨て失踪してしまう。死んだ小鳥は真っ当な暮らしをしていた戦前をあきらめ切れない森繁のナイーブな心情と不甲斐なさを象徴しているのだ。戦後に馴染めない男と新しい時代を生きる女を対比させた鮮やかなエピソード。小鳥の死骸を水葬するといって堀切橋(まだ木造だ)から転落して命を落とすラストは哀れを誘う。淡路恵子の気性の激しいモダンな色っぽさを漂わせた娼婦役も必見。<11月25日>
 
190.7月4日に生まれて/オリバー・ストーン(1989)
 
 人は自らの過ちを自らのなかで定位させることが最も難しい。その過ちによる負が大きければ大きいほど。トム・クルーズは自ら信じて志願したベトナム戦争で負傷して若くして半身不随の身になる。映画は自らの過ちと犠牲が無駄だったことを納得し、では、自分はどう生きるべきかを確立するに至る葛藤のプロセスをじっくり描く。腫れ物をさわるような態度の家族や恋人への悪態、安穏な場所からの反戦運動への嫌悪、不具になったことへの呪い、英雄気取りの戦友たちとの対立、酒への逃避etc。ベトナム戦争の場合、帰還兵が祖国の英雄どころか、ある時点から社会のやっかいもの扱いされたというところが痛ましさを増幅している。メキシコにある戦傷者向けの娼婦街で出会った同じ戦傷者のウィレム・デフォーとの確執を通じて、自暴自棄になり自堕落から抜け出せない負傷兵たちの悲惨さに気がつき、ベトナム反戦運動への参加を自らの生きる道として選ぶ。民主党大会の演説を壮大なクライマックスとして演出したラストは、オリバー・ストーンにありがちな過剰ぎみな印象が否めない。反戦歌としての『あのジョニーはもういない』(Johnny I Hardly Knew Ye)が、南北戦争に由来する凱旋歌『ジョニーが凱旋するとき』(When Johnny Comes Marching Home)と同じメロディーというところに戦争という現実に対峙した時の民衆の本音を想像させて止まない。<11月26日>
 
191.昭和残侠伝 死んで貰います/マキノ雅弘(1970)
 
 シリーズ第七作。高倉健は料亭の先代の息子。父が後妻を娶ったのをきっかけに渡世の道に入るが、父の死を知って戻ってくる。亡くなった義妹の嫁婿が料亭の二代目となっている。先代からの板前の池部良の勧めもあり、高倉健は息子だということを隠し料理人として奉公することになる。盲目の義母は高倉健の料理を口にして、息子だと気がつくが、気がつかないふりをする。変わってしまった現実を前に、立ちすくむ母と息子。その背後にある不在の父。嫁婿が博打の借金のかたに店を抵当に取られたことに端を発し、先代への恩義から池部良が相手方への殴り込みに向かい、高倉健も実質の跡取りの責任としてそれに加わる。「ご一緒願います」の池部良の名台詞が有名。待つ女藤純子、コメディリリーフ長門裕之など脇役の充実も見逃せない。<11月27日>
 
192.アニー・ホール/ウッディ・アレン(1977)

 引用される「自分が入れるようなクラブには入りたくない」“I would never wanna belong to only club that would have sonemone like me for a menber”とのグーチョ・マルクスの言葉どおり、自己韜晦、自己愛、自己嫌悪のアマルガムの果てのひねくれが極まった自らの性格の滑稽さを客観的に笑い飛ばした作品。こうした語り口が共感を得ているのは、ユダヤ人なのにユダヤ人嫌い、インテリなのにインテリ嫌いのチビでハゲのウッディ・アレンだからこそ。本物のマーシャル・マクルーハン、トルーマン・カポーティ、ポール・サイモンが出ているのをお見逃しなく。<11月29日>
 
193.悪魔のはらわた/サム・ペキンパー(1997)
 
 ドイツ軍の視点から東部戦線を描くという希少な設定の一本。ドイツ軍兵士のジェームス・コバーンは、軍隊にもヒットラーにも不服従を貫き通しているような兵士。彼が戦うのは唯一戦友のためだ。そんな兵士が存在したのか?という疑問はあるが、戦争という圧倒的現実に巻き込まれたなかで、何を拠り所として生きていけばいいのかという思考実験と考えればにわかに現実味を帯びる。ソ連の戦車T-34(ユーゴ軍のものだそうだ)を相手に退却しながら地雷をキャタピラーに巻き込ませて潰しにかかる戦い方は痛快だ。ラストのJ・コバーンの高笑いが耳に残る。ジェームズ・メイスン、マキシミリアン・シェルがドイツ軍将校を演じている。迫力ある戦闘シーンから発想したと思われる日本語タイトがきわもの的イメージを流布してしまったのが残念。ちなみに原題は”Cross of iron”(鉄十字章)。<12月1日>
 
194.蝶の舌/ホセ・ルイス・クエルダ(1999)
 
 1936年スペインは総選挙で人民戦線(共和党+社会主義者)が勝利する、同年、本土およびスペイン領モロッコでフランコ率いる軍が叛乱を起こし、王党派とカトリック教会が支持し、スペインは内戦に突入する。共和党派は王党派によって拘束されることとなる。主人公の初老のグレゴリオ先生(フェルナンド・フェルナン・ゴメス)の姿もその中にあった。驚く主人公のモンチョ少年。少年の家族は、父親の転向をアピールするため、連行される先生に「アテオ(無神論者)!赤!」という言葉を投げつけ、少年も石もて追う。少年の言葉に衝撃を受け、なんともいえない悲しい表情をする先生。自由や教育に対する希望を打ち砕くような残酷極まりないラスト。スペインのその後の重苦しく長い歴史を暗示してかのようだ。前半のクリッとした奥目の好奇心にあふれたモンチョ少年と先生の無垢な交流が最後の残酷さを際立たせるという構成が見事だ。<12月3日>
 
195.黒部の太陽/熊井啓(1968)
 
 60年代の土建国家日本の記録のような映画。独立プロの三船プロと石原プロが五社協定に阻まれるなか、本作品を作った意義は大きいが、その見返りが電力会社とゼネコンがスポンサーとなって国が推薦した映画となった、ということも忘れてはならない。逆にいえば、そうしたテーマを選んで作ったともいえる。映画人としては、トンネル内に水が溢れパニックになるあの大迫力の事故シーンを撮りたかっただけなのかもしれないが。黒四では犠牲を出さないと再三、繰り返され、結局は映画のなかでは明示されないまま終わるが、実際は171名もの犠牲者を出している。土方を人間と思わない旧世代の親方(辰巳柳太郎。川島雄三『わが町』のベンゲットのターやんへのオマージュだ)を笑えない杜撰さだ。三船も裕次郎もやっぱりサラリーマン役ではどこか不完全燃焼の感じだ。三船敏郎の娘の日色ともゑの死は、死んでいった土方の鎮魂のための生贄なのだろう。<12月6日>
 
196.西部戦線異常なし/ルイス・マイルストン(1930)
 
 第一次大戦が舞台の物語だが、およそ戦争というものの実態のすべてが描かれている傑作。愛国心を発揮して志願しろと説く教師、戦時下の人々の高揚した気分、汚く寒く空腹の前線、シェルショック(砲弾神経症)による精神や神経の錯乱、銃後の社会の無理解と兵士の孤独。ゆがむ顔、落ち着かない目、震える手、痙攣が止まらない身体など、絶え間ない砲撃の恐怖とショックで徐々に錯乱していく若い兵士たちの描写がリアルだ。塹壕を水平移動で撮ったカメラワークや塹壕の中から仰ぎ見るように撮られた構図など、その臨場感は、今、観てもまったく古さを感じさせない。砲撃が収まり静寂が戻った塹壕のなか、主人公ポール(リュー・エアーズ)が飛来した蝶に手を伸ばした一瞬、フランス兵に狙撃されて命を落とすという、静と動が鮮やかに対比されたラストも秀逸だ。<12月10日>
 
197.放浪の画家ピロスマニ/ギオルギ・シェンゲラヤ(1969)
 
 37年ぶりのリバイバル上映。グルジア(ジョージア)はワイン発祥の地。8,000年の歴史があるそうだ。ドゥカンと呼ばれてい食堂のような居酒屋がよく登場する。ピロスマニはこうしたドゥカンでのワインと食事と引換えに絵を描いて放浪生活をしていた。他の客に誘われても合流することはなく、店主から滞在を持ちかけられても「鎖を付けられることは嫌いだ」と断る。ピロスマニの絵は素朴だが、静かな力強さや、どこかシュールな孤独を感じさせる絵だ。映画の人物像も映像もまさにこのピロスマニの孤高の絵画的世界を映像化している作品となっている。絶妙な色彩や構図が見事だ。<12月13日>
 
198.プライベート・ライアン/スティーブン・スピルバーグ(1998)
 
 本物の音源による銃声や銃弾による風切り音、腕が飛び、脚がなくなり、内臓が飛び出す負傷兵の描写、ヘルメットを貫通する銃弾、血に染まる海辺など、冒頭20分のリアルな戦闘が話題になった。ドイツ戦線からライアン二等兵を探し出す任務を負ったミラー大尉(トム・ハンクス)以下、8人の部下の行動が決め細かく描かれる。戦闘経験がないアパム伍長が恐怖で動けなくなり仲間を見殺しにし、安全だとわかった途端、手を上げているドイツ兵を射殺するなどのエピソードも今までの戦争映画にはなかったつっこんだ描写だ。ライアン救出作戦に意味があったのか?と問いたくなるが、重要なのは救出部隊とライアンたちが一緒になって橋を巡る攻防に立ち向かったこと、ということだろう。戦争に意味などない、一旦、戦場に駆りだされたら仲間と一緒に戦うことしかできない。<12月14日>
 
199.青べか物語/川島雄三(1962)
 
 東京に倦んだ作家の森繁久彌は橋を渡り、昔の漁師町の暮らしが残る浦粕の下宿に隠れるように住み始める。浦粕の人々との交流と群像が描かれる。浦粕の人々は、全く無垢なところなどなく、無遠慮で猥雑で無神経で押しつけがましく、しかし正直でエネルギッシュというのが川島雄三らしい。「ここではないどこか」への願望とその見事な挫折。とはいえやはりそこは「ここ」ではない「ユートピア」だった。係留船での老船長左朴全の悲恋の昔話に聞き入るところなど名シーンだ。森繁のややぶっきらぼうな抑えた演技に疲れた都会人の味わいが漂う。東野英治郎と加藤武のバカ笑いの二重奏、市原悦子のずうずずうしさ、左幸子のあっけらかんとした色気、山茶花究は珍しくドスの効いた元ヤクザ者を演じる。ひっきりなしに埋め立ての土砂を運ぶトラックが行き交うなか、森繁は再び橋を渡り東京へと帰る。「ユートピア」の消滅が暗示されるラスト。浦粕=浦安は埋め立てられ、ディズニーランドとなった。原作は山本周五郎の自伝的作品。<12月16日>
 
200.シン・レッドライン/テレンス・マリック(1999)
 
 太平洋戦争の激戦地だったガダルカナル島を舞台に、戦争のリアル感をかつてない映像的想像力を駆使して描く傑作。戦争の日常の中にも、戦闘や軍隊生活とは全く無縁に、さまざまな思いが去来するひとの心の「世界」があり、美しく生命力にあふれた自然の「世界」が存在している。それらは同じ時空のなかにありながら決して交わらない。その交わらなさの感触こそが、人が戦争に抱くリアルな現実感なのではないか、そんな風に思わせる作品。ジム・ガヴィーゼルは、捕虜になることを拒み、日本兵に射殺される。まるで交わらない違和感を抱いたままの最期だ。シン・レッドライン(薄い赤い線)とは第一次大戦のクリミア半島戦線でイギリス歩兵が2列横隊でロシアの突撃を撃退した際のイギリス歩兵の制服が緋色だったことに由来し、転じて堅固な守りや少数の勇敢な人々のことを意味するのだそうだ。たぶんに反語的な意味で使われているのだ。<12月18日>
 
201.理由なき反抗/ニコラス・レイ(1955)
 
 戦後のアメリカの絵に描いたような幸福な中流家庭にもすでに新たな不幸(貧しさでなく豊かさからくる不幸)が潜んでいることを語った先駆けの一本。ジェームス・ディーンは当時23歳。その独特のナイーブな存在感は今日まで唯一無二だ。プロモーション映像に登場する本人は、はにかんだような、すねたような、それでいて自由気ままな、映画の主人公以上に魅力的だ。アメ車、ジーンズ、大きな牛乳瓶、タイトな赤いジャンパーなどが公開当時に放っていた輝きは、今ではもう理解できない彼方まできてしまった。とはいえ、マグレガー社のナイロンアンチフリーズは今なおカッコいい。<12月19日>
 
202.わが青春に悔いなし/黒澤明(1946)
 
 前半の滝川事件とゾルゲ事件を下敷きにしたという軍国主義下の政治的エピソードは深みがなく、原節子の魅力もイマイチ。恋人がスパイ容疑で逮捕・獄死してからの後半は、自らの選択の正当性の証のように、あるいは世界に復讐するかのように、恋人の実家の村に身を寄せてスパイの陰口を叩かれながら、百姓女になって信念を貫く原節子が俄然輝いてくる。黙々と田植えをするラストシーンは迫力あり。男っぽい顔立ちの原は、こういう役の方がむしろ色気が際立つ。村で疎外される様子を村人の顔のモンタージョで表現したシーンやピクニックの駆けっこを望遠のスローモーションで捉えたシーンなど意欲的な映像が見られる。<6月9日>
 
203.マンハッタン/ウディ・アレン(1979)
 
 ウディ・アレンの独創性は、1)しょぼくれたインテリ男の視点から描く普通の人が暮らすNYの素晴らしさ。2)自身の性格を客観的に話題する面白さ。前妻役メリル・ストリープ曰く「ユダヤ的進歩主義者。男性優位主義。自己陶酔。人間不信者」。3)容姿や性格とは正反対の性的マッチョという可笑しさ。モノクロのマンハッタンが美しい。<12月25日>
 
204.シド・アンド・ナンシー/アレックス・コックス(1986)
 
 悲惨で哀しく美しい、不思議な愛の物語り。現実はどうかはともかく、ゲイリー・オールドマン演じるシド・ヴィシャスはその可能性のひとつを垣間見させてくれる。パンクとは現実の気分的否定だ。ラストでシドがラジオを持った子供たちといっしょにマンハッタンの対岸の空き地で踊るシーンはポエジーを感じさせる名シーン。『マイ・ウエイ』を初めとする劇中に登場するセックス・ピストルズの曲はすべてG・オールドマンが歌ったのだそうだ。雰囲気あり。ナンシー・スパンゲン役のクロエ・ウェブがあまりにおばさんぽいのがつらい。<12月26日>
 
205.波止場/エリア・カザン(1954)
 
 八百長に手を染めてボクサーを諦めたマーロン・ブランドは波止場の悪徳ボスの片腕の兄のコネで仕事にありついているものの、投げやりな生を送っている。八百長は兄の計画だった。屋上でひとり鳩と戯れるシーンが孤独感を物語る。そんなM・ブランドが、ボスに兄を殺されたエヴァ・マリー・セイントとの出会い、孤軍奮闘する神父の姿、仲間の死、兄との確執などを経ながら、徐々に正義に目覚めてゆくプロセスをじっくりと描く。ボスとの身体を張った一対一の決闘で、瀕死になりながらも立ち上がるM・ブランドの姿に、見て見ぬふりをしていた労働者たちがついにボスを見限る行動に出るラストは感動的だ。悪徳ボスはこの手の役では余人に代え難いリー・J・コッブ。その迫真の演技は必見。公聴会でボスの不正を証言するマーロン・ブランドの姿に重なるのは、エリア・カザン本人の赤狩りでの密告証言への贖罪の意識か、はたまた自己弁護か。<12月27日>
 
206.情婦/ウイリアム・ワイラー(1958)
 
 意外な展開、どんでん返し、さらにそれが覆される、という展開が見事な一本。老女殺害の容疑で裁判にかけられる失業者タイロン・パワー。無実を信じ弁護を引き受ける弁護士チャールス・ロートン。意外にも妻マレーネ・ディートリヒが検察側の証人として夫の有罪を証言する。コックニー訛りの下品な女が現れ、妻の証言の「嘘」を弁護士に明かす。女は実は変装した妻ディートリッヒなのだが、何度見ても判別できない見事な変装に脱帽。妻のアイバイ証言は採用されないことを逆手に取った夫婦による策略だったが・・・・。病み上がりながら禁じられている葉巻や酒をこっそりやろうとするなどC・ロートンが茶目っ気のある頑固な重鎮弁護士を演じる。対する口うるさく世話を焼くお目付け役の看護婦エルザ・ランチェスター。実際に夫婦だった二人の息の合った掛け合いが本作に人間味のある雰囲気をもたらしている。原作はアガサ・クリスティ。<12月28日>
  
207.ゴーストタウンの決闘/ジョン・スタージェス(1958)
 
 保安官ロバート・テイラーがリチャード・ウィドマークを獄中から助け出す。二人は南軍くずれの強盗仲間だった。南軍くずれのひねくれ感、怨念を抱えた人物をR・ウィドマ-クがはまり役で演じる。拳銃を向けられても、いつものニヤニヤ顔で悠然と佇む不敵な姿は真骨頂。Gジャンにスカーフという軽快ないでたちもカッコいい。今は敵対する立場にいながら昔の仲間との腐れ縁も捨てきれない南軍くずれの連中の複雑な心境が伝わってくる。異常性格者ヘンリー・シルヴァ、人の良さが残るロバート・ミドルレンなど脇役も充実。主人公のR・テイラーは完全に食われてしまっている。ラストの対決のあっけない幕切れはやや不満が残る。<12月29日>
 
208.日曜日には鼠を殺せ/フレッド・ジンネマン(1964)
 
 ファシスト政権に投降せずに、隣国フランスの田舎で無聊をかこつ、もはや老境に入ったスペイン共和派のゲリラのグレゴリー・ペック。その許に旧知の仲間から母危篤の手紙が届けられる。ファシスト政権の警察署長アンソンー・クインはこの機を利用して帰国するであろうG・ペックの逮捕を目論む。政権への裏切り行為になることに悩みながらも「罠だから帰ってくるな」との母からの遺言を伝える役目を引き受ける王党派に属するカトリック神父のオマー・シャリフ。「強盗(かつてゲリラ戦でファシスト派の財産の強奪をしていた自らのこと)と裏切り者(手紙を届けた者)は生き延びる」と自らの身をシニカルに評するG・ペックの言葉に「本当にそうだろうか」と疑問を呈するO・シャリフ。神父を厄介払いしながらも、署長の罠にあえてはまるようにG・ペックはスペインに帰り、手紙を届けた旧知の仲間を射殺し、母の病院に突入し憤死する。「何故、罠だと知って帰ってきた?」と署長。帰らない場合に窮地に陥る神父のため、自らの信条の限界を誤魔化して生きてきた生き方に終止符を打つため、死に場所を求めて母の許に戻った、署長と裏切り者のどちらを先に撃つかと迷った揚句に何故、裏切り者を撃ったのか、など観る者に老ゲリラの心中へと想いをめぐらせ、さまざまな感慨を刻み込むラスト。まるでマリオ・ジャコメッリのようなコントラストの強いモノクロ映像で映し出されるフレンチバスクの風景が美しい。映画原題は「蒼ざめた馬を見よ」、日本題名は原作のKilling a mouse on Sundayから採られている。「安息日に鼠を捕った猫は月曜には吊るされる」というピューリタンの戒律の厳しさを揶揄した昔の戯詩からきているそうだ。教条主義化する政治や宗教を含意しているのか。<12月30日>

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ミース・ファン・デル・ローエのガソリンスタンド

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 ミース・ファン・デル・ローエは、最晩年にカナダのモントリオールでガソリンスタンドの設計をしている。ナン島にあるエッソのガソリンスタンドだ。

 このガソリンスタンドはDVD『ミース・ファン・デル・ローエ』(ジョゼフ・ヒレル監督)で観ることができる。

 低く地を這うように伸びた黒のルーフがクールだ。こんなガソリンスタンドが日本にあれば、どんなにか給油の時間が待ち遠しくなるだろう。

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 (https://en.wikipedia.org/wiki/Nuns%27_Island_gas_station
        

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https://www.flickr.com/photos/alain_quevillon/17650427868
 

 DVDでは、レイクショア・ドライブ・アパートメント、シーグラムビル、イリノイ工科大学クラウンホールなど、ミースの主要な作品が関係者の証言とともに登場する。

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(レイクションドライブ・アパートメント: http://www.archdaily.com/59487/ad-classics-860-880-lake-shore-drive-mies-van-der-rohe

 

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(シーグラムビル:http://www.375parkavenue.com/History

   

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(イリノイ工科大学クラウンホー:http://www.gafferphotography.com/prints/ko8tacthygx15eu85vxo526nlypmr1

 

 巨人ミース・ファン・デル・ローエの足跡と作品を辿る映像としては、やや物足りない気もするが、ミースの傑作のいくつかがクールなjAZZのサウンドととも映し出されるのを観るのは、それはそれで楽しい。

 ガラスカーテンウォールに映し出されるシカゴやニューヨークの都市風景、シャープなスカイラインに雲が流れるコマ落しで撮られたシーン、薄暮に浮かび上がるガラスのオブジェのような光の建築。ミースの建築の持っている、クールで研ぎ澄まされた都市の詩情とでもいうべき特徴がよく現れている。

 ナチスの権力が拡大し、ミース・ファン・デル・ローエが3代目の校長を務めていたバウハウスが1933年に閉鎖される。1938年、ミースはアメリカに移住することを決意し、シカゴのアーマー工科大学(後のイリノイ工科大学)の建築学科で教鞭を執ることになる。

 あの巨匠ミースがガソリンスタンドを設計していたことは意外に思えるかもしれないが、ガソリンスタンドを設計している有名建築家は少なくない。

 アルネ・ヤコブセンや坂倉準三など錚々たる建築家がガソリンスタンドを設計している。ヤコブセンのガソリンスタンドは今も使われているそうだ。

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(アルネ・ヤコブセンのよるテキサコのサービスステーション:http://noranordland.tumblr.com/post/64569972655/skovshoved-petrol-station-by-arne-jacobsen-from

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 (坂倉準三によるアポロのガソリンスタンド:https://twitter.com/kosho_yamasemi/status/634211323023233026
  

 車やガソリンスタンドはモダンエイジになってから誕生したアイテムだ。モダニズムの建築家たちは、こうした新たな機能に興味を示し、自らの手で新時代にふさわしい造形を与えようとした。

 ナン島のガソリンスタンドは2008年に営業を停止して放置されていたが、2011年にカナダの建築事務所FABGの手によってコンバージョンされ、現在は高齢者と若者のためのアクティビティセンターとして再生されている。

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http://www.domusweb.it/en/news/2012/02/22/mies-van-der-rohe-gas-station-reconversion.html


 再生後の姿もウルトラ・クールだ。

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(http://www.openculture.com/2015/04/the-modernist-gas-stations-of-frank-lloyd-wright-and-mies-van-der-rohe.html)

 
 優れたデザインは都市の資産であるとの好例だ。

 ミースはこのガソリンスタンドの完成を見ずに1969年8月17日に死去する。

 ミースは最晩年にこう言っている。「建築は文法の規律を持った言語である。言語は、散文のような通常の目的のために使われ得る。そして本当に良ければ、詩人となれるのだ」

(Architecutural Record 146 1969年9月に掲載 『建築文化1998年1月号 ミース・ファン・デル・ローエvol.1』 彰国社より)

 凡百の建築は散文だが、自らの建築は詩だ、との静かな自負が伝わってくる。

 ミースはいつもじっと窓の外を眺めならが思索に耽っていたという。

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 研ぎ澄まされプロポーションを、極限までそぎ落としたディテールを、素材の持っている究極の本質を考え続けたミース・ファン・デル・ローエ。

 DVDの証言者の多くが語っている。同じガラスの建築でもミースの作品は、ほかの者の手になるミース風のものとは決定的に違っている、未だミースを超えられないと。

 それは、いわば実用書と詩の違いだ。優れたデザインは、都市に埋め込まれたポエジーなのだ。




*参考文献等 : DVD『MIES VAN DER ROHE』(ジョゼフ・ヒレル監督 2004 発売元IMAGICA)
        「建築文化1998年1月号 ミース・ファン・デル・ローエvol.1」(彰国社)
         『評伝ミース・ファン・デル・ローエ』(フランク・シュルツ 鹿島出版会 2006)

*初出 zeitgeist site


    
 

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民藝とモダンデザイン~日本民藝館を訪ねて~

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 洋風の住宅や低層マンションが建ち並ぶ東京・駒場の静かな住宅街のなかに、独特の和様式の建物が忽然と姿を現す。柳宗悦が創設した日本民藝館だ。

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 本館と道路を隔てた向かいには、旧柳宗悦邸の西館がある。ファサード部分は、栃木県から移築した1880年に建造された長屋門が設えられている。大谷石の石屋根が珍しい。

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 2つの建物の設計は、柳自身が手掛けている。漆喰なまこ壁、瓦屋根、連子子(れんじこ)が設けられた窓など、本館の意匠は、西館の長屋門に合わせたものだ。 
 

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 柳宗悦はそれまで省みられることがなかった普段使いの素朴な品々に美を見出し、そうした無銘の美を生み出した手仕事による工芸品を民藝と呼んで、朝鮮半島や日本各地から蒐集した。 
 
 日本民藝館は柳が蒐集した民藝の収蔵・展示の場として、1936年(昭和11年)に創設されたものだ。陶磁・染織・木漆器・絵画・金工・石工・編組など約17,000点が集められている。
 

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 その日は「沖縄の工芸」と題して、当時は文化的に遅れていて、貧しい地域としか思われていなっかった戦前の沖縄で柳宗悦が「発見」した展示されていた。

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 柳は「用の美」、「無心の美」、「健全な美」、「他力の美」を提唱し、全国の同士とともに民藝の生産・流通を目指した民藝運動を展開する。
     

柳宗悦
(*『柳宗理エッセイ』より) 
 
 柳が民藝論を唱える約40年前、同じように、手工芸への回帰、生活と芸術との統一を訴えた運動が、イギリスで起こっている。ウイリアム・モリスらによるアーツ・アンド・クラフツである。
 
 民藝もアーツ・アンド・クラフツも、その根底には19世紀末に始まった産業革命により、低質な工業製品が出回ったことへの異議申し立てがあった。
 
 柳はモリスに共感を覚えていたが、同時に、モリスは「正しき工藝的な美を知らなかった」、「彼自らが試み、彼が他人にも勧めたのは工藝ではなく、美術であった。いわば美意識に惑わされた工藝である。私たちが脱却しなければならぬと思うものを、彼は試みようとしたのである」(『民藝四十年』 柳宗悦)と述べて、最後は高価な「貴族的工藝」(『民藝とは何か』 柳宗悦)に行き着いてしまったアーツ・アンド・クラフツ運動を批判した。
 
 そうした矛盾を自覚していたからか、晩年のウイリアム・モリスは、デザインを離れ、社会主義運動にのめり込んでゆく。
 
 一方、工業生産を否定しながら、手仕事による日常の美の量産を目指した柳らの民藝運動も、その作家性の否定がいつの間にか教条主義の陥穽にはまり、モノ自体の力が失われてゆく。
 
 「民芸運動は陶工に一つの理論を与えた。彼等はその理論の上にあぐらをかいて銘々の作品を失ったのである。これを私は抽象的になったと言いたい」(『青山二郎全文集 上』 青山二郎)。
 
 青山二郎や白洲正子など当初の仲間は柳のもとを離れていった。
 
 しかしながら、アーツ・アンド・クラフツ運動の矛盾や民藝運動の自家撞着の責が、モリスや柳自身にあったとは必ずしもいえない。真の原因は、近代化とその後、世界を席巻する資本主義システムにあった。
 
 資本主義システムのなかでは、誰もが効率化や市場化の流れを避けて通ることはできず、一方では、個人主義や理性主義以前のイノセントなアンコンシャス・ビューティ(Unconscious Beauty)に戻ることは不可能なのだ。
 
 そうしたなか、手仕事へのこだわりは、不可避的にコストアップにつながり、民衆のなかにあった無意識の美の希求は、知らず知らずのうちに手の強張りを生んでしまう。
 
 その隘路を乗り越えようとする試みが、バウハウスであり、バウハウスを始祖として生まれたモダンデザインだといえる。バウハウスの本質は、産業時代を前提としながら、人と社会につながったデザインを目指す運動だったといえる。
 
 1919年のバウハウス設立からもうすぐ100年。はたしてモダンデザインは隘路を乗り越えられたのか。
 
 資本主義システムのなか、デザインは常に効率化、市場化の圧力の下に置かれている。社会との接点を希求したはずのモダンデザインが、いつの間にか産業と市場のためのデザインに堕してしまう。売れるデサインが良いデザインであり、モデルチェンジのための陳腐化戦略がとられ、キャッチーなスタイリングが喜ばれる。
 
 デザインは100年後も相変わらず、そんな危うい断崖を歩むような行為だ。
 
 あるべき姿を見失いがちになった時、そんな時は日本民藝館を訪れてみよう。
 
 モダンデザインが勃興する前夜の無銘の美に浸ってみよう。なんの衒いもなくモノが社会とつながっていたといえる時代のモノのエネルギーを感じてみよう。作為という言葉すらなかった時代に人間の手が生み出した簡潔な色と形に触れてみよう。

白磁壷

(*白磁壺 金沙里窯 朝鮮時代〔朝鮮半島〕17世紀末期~18世紀初期 53.8 x 43.3cm,source: http://www.mingeikan.or.jp/collection/korea01.html) 

 
 「ペリアンはたびたび民藝館にやってきた。ブルーノ・タウトもグロピウスもイームズ夫妻もコルビュジエも民藝館にやって来て、陳列してある民藝品を見て感激していた」(『柳宗理エッセイ』 柳宗理 2011)
 
 日本民藝館に置かれたモノは、モダンデザインの永遠の参照項なのである。


 
*参考文献 : 『民藝四十年』 柳宗悦(岩波書店)
          『民藝とは何か』 柳宗悦(講談社学術文庫)
          『柳宗理エッセイ』 柳宗理(平凡社ライブラリー)
          『青山二郎全文集 上』 青山二郎(ちくま学芸文庫)

*初出 zeitgeist site


      


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レイモンド・チャンドラー『ザ・ロング・グッドバイ』精読 Chapter19

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 第19章。マーロウはロジャー・ウェイドを発見する。
 
 無駄足になった三人のドクターVへの訪問からハリウッドに戻るマーロウは、自らのことをこう形容する。

 I drove back to Hollywood feeling like a short length of chewed string.

 like a short length(pieceとも)of chewed stringは「くたびれて弱くなった」という意味の口語。

 手がかりが得られぬまま時間だけが流れるマーロウのオフィス。
 
 An hour crawled by like a sick cockroach. I was a grain of sand on the desert of oblivion. I was a two-gun cowpoke fresh out of bullets. Three shots, three misses. I hate it when they come in threes. You call on Mr. A. Nothing. You call on Mr. B. Nothing. You call on Mr. C. More of the same. A week later you find out it should have been Mr. D. Only you didn't know he existed and by the time you found out the client had changed his mind and killed the investigation.

 「病んだゴキブリのように時間が過ぎる」、「私は忘却という砂漠のなかの一粒の砂だ」など、チャンドラーならではの比喩が並ぶ。疑わしいドクターVは他にいるのではないか、マーロウは疑心にとらわれる。

 あれこれ考えた揚句、今日は店じまいにしてラ・シェナガ・ブルバードにある「ルディーズ・バーベキュー」というレストランで食事をとるマーロウ。
 
 I closed for the day too, and drove over to La Cienaga to Rudy's Bar.B-Q, gave my name to the master of-ceremonies, and waited for the big moment on a bar stool with a whiskey sour in front of me and Marek Weber's waltz music in my ears. After a while I got in past the velvet rope and ate one of Rudy's "world-famous" Salisbury steaks, which is hamburger on a slab of burnt wood, ringed with browned-over mashed potato, supported by fried onion rings and one of those mixed up salads which men will eat with complete docility in restaurants, although they would probably start yelling if their wives tried to feed them one at home.
 
 バーでウイスキー・サワーを一杯やり、ルディーの「世界的に有名な」なソールズベリー・ステーキを食べる。焼けた木の板に乗ったハンバーガーステーキだそうだ。奥さんが作ったら怒鳴り出しそうなミックスサラダでもお店ではみんな従順に平らげる、と評するマーロウ。わざわざ食べに出向いた店の料理にも一言言わないとすまないマーロウの、いろんなことが気になってしかたがない性格を良く表している。
 
 サイドに添えられたbrowned-over mashed potatoとは、きっと普通のマッシュポテトよりもコクのある焦がしバターで和えたbrown butter mashed potatoのことだろう。

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(*brown butter mashed potatos ,source : http://www.lauriemarchhome.com/5-quick-winter-comfort-food-recipes/)
      
 家に帰ると、オフィスからかけた時には留守だったアイリーン・ウェイドから電話が入る。ヴェリンジャーの名前に心当たりがあるか尋ねるマーロウ。

 "Does the name Verringer mean anything to you, Mrs. Wade?"

 "No, I'm afraid not. Should it?"

 I'm afraid notは、I'm afraid (that) the name Verringer does not mean anything to me.の省略形でI'm afraid~は語気を和らげるニュアンス。Should it?も同様にShould the name Verringer mean anything to me? の省略形。村上訳では「私が知っているはずの人ですか?」となっている。
  
 以前、ロジャー・ウェイドをつれて帰ってきた若いカウボーイ服の男と、マーロウが報告するアールの服装が一致したことが大きな手がかりになりそうに思え、アイリーン・ウェイドは喜ぶ。
 
 "That's wonderful," she said warmly. "Don't you feel that you're on the right track?"

 "I could be wetter than a drowned kitten.
 
 kittenとは子猫のこと。直訳すると「溺れた子猫以上に濡れている」。砂漠が発祥といわれる猫はもともと水に濡れるのが苦手だ。水に溺れた猫は最悪の状態にあるということで、さらそれよりも濡れているということは、自分はそれ以上に最悪の状態かもしれない、とアイリーンの希望に水を差すマーロウ。村上訳では「まったく見込み違いだったということになるかもしれません」と意訳している。
 
 電話を切って即、ヴェリンジャーのセパルヴェダ・キャニオンに取って返すマーロウ。ただし今度は銃を持参だ。
 
 The gun was a tough little short-barreled .32 with flat-point cartridges.
 
 小型の32口径の短い銃身(いわゆるスナブノーズsnabnozed、しし鼻の意)の拳銃は、おそらくコルト・ポリス・ポジティブの2~2.5インチ銃身のものではないかと思われる。さらにフラット・ポイント弾頭ということは、銃弾も.32ニューポリスと呼んでいたコルト社製のものだったのだろう。ちなみにS&W社製の32口径銃弾.32S&Wロングはラウンド弾頭だ。

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(*Colt Police Positive 2inch, source :http://www.coltforum.com/forums/photos-area/33644-colt-new-police-police-positive-police-positive-special-photo-thread.html )
 
 ドクター・ヴェリンジャーのランチに潜り込むマーロウ。アールはカウボーイの格好をして母屋の裏口に現れる。投光器の明りの中でひとりカウボーイのまねをしてロープを回したり、想像上の敵を相手に銃を抜いたりしている。
 
 そんなアールの様子をチャンドラーは「二挺拳銃のアール。コーチーズ郡の恐怖」 Two-Gun Earl, the Terror of Cochise County と呼んで仔細に描写している。
 
 カウボーイごっこにも飽きたのか、アールは銃をホルスターに戻し、ロープを拾い上げ、母屋の中に戻り、投光器の明りも消える。
 
 He slipped his guns back in the holsters, picked up the rope and gathered it loosely, went back into the house. The light went off, and so did I.
 
 最後に2度登場するgo off(過去形でwent offとなっている)は、いろんな意味がある成句でやっかいだ。最初の意味は電気や明かりなどが消えるという意味で使われてる。2番目のso did Iは、人が立ち去るという意味のgo offと解釈すると清水訳の「私もそこから姿を消した」という風になるだろうし、電気が消える、つまりある活動が止まるという最初のニュアンスにこだわると村上訳の「私も身体の力を抜いた」という風になるだろう。さて、チャンドラーの意図はどちらに近いのだろうか。
 
 マーロウは丘の斜面の明りが灯った小さなキャビンでベッドに横たわっている大男を発見する。
 
 He looked big. His face was partly shadowed, but I could see that he was pale and that he needed a shave and had needed one for just about the right length of time.
 
 「彼は髭を剃る必要があった。ちょうど(家から姿を消した)正確な日数分だけの髭を剃る必要があった」。髭の剃る必要があった状態が続いていたことを過去完了形を使って表現し、その大男が4日前に姿を消したウェイドらしいことを匂わせる、いかにもチャンドラーらしいひねった表現だ。
 
 アロハシャツのドクター・ヴェリンジャーが入ってきて大男に呼びかける。大男はやはりウェイドだった。5,000ドルを要求するヴェリンジャー。650ドルと小銭を渡しただろう、とウェイド。激しい罵り合いが続く。奥さんに居所をばらしたな詰問するヴェインジャー。
 
 "She could have brought Candy, our houseboy. Candy would cut your Blue Boy into thin strips while Blue Boy was making up his mind what picture he was starring in today."
 
 Blue Boyとは、イギリスの画家トマス・ゲンズバラの描いたThe Blue Boy(青衣の少年)のことだろう。カリフォルニアのサン・マリノのハンチントン・ライブラリーに所蔵されている。アールの格好がマーロウに1770年に描かれた、クラシックな衣服を纏うこの少年を思い起こさせたのだろう。

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(*The Blue Boy, 1770 by Thomas Gainsborough, source :http://huntington.org/webassets/templates/general.aspx?id=14392)
       
 アールの存在を不気味がるウェイド。それに対して「アールは私にとっては無害だよ、操る方法はいくらでもある」と諭すようにいうヴェリンジャー。いつの間にかアールがキャビンに入っくる。3人の緊迫した会話でサイコ青年アールの異常さを浮き彫りにするチャンドラー。少し長いが引用しよう。
 
 "To me Earl is quite harmless, Mr. Wade. I have ways of controlling him."

 "Name one," a new voice said, and Earl came through the door in his Roy Rogers outfit. Dr. Vet-ringer turned smiling..

 "Keep that psycho away from me," Wade yelled, showing fear for the first time.

 Earl put his hands on his ornamented belt. His face was deadpan. A light whistling noise came from between his teeth. He moved slowly into the room.

 "You shouldn't have said that," Dr. Verringer said quickly, and turned towards Earl. "All right, Earl. I'll handle Mr. Wade myself. I'll help him get dressed while you bring the car up here as close to the cabin as possible. Mr. Wade is quite weak."

 "And he's going to be a lot weaker," Earl said in a whistling kind of voice. "Out of my way, fatso."

 "Now, Earl-" he reached out and grabbed the handsome young man's arm-"you don't want to go back to Camarillo, do you? One word from me and-"

 That was as far as he got. Earl jerked his arm loose and his right hand came up with a flash of metal. The armored fist crashed against Dr. Verringer's jaw. He went down as if shot through the heart. The fall shook the cabin. I started running.
 
 Name oneのnameは挙げる、という意味。ヴェリンジャーの前言にある自分を操る方法があるなら「ひとつ挙げてみろ」とアールは言っているのだ。このぶっきらぼうな一言に不機嫌な雰囲気を漂わせていつの間にかアールが戸口に現れているという描写はスリリングだ。
 
 サイコ呼ばわりするウェイドに殺気立つアール。無表情な様子から既に頭の中は別の世界へと行ってしまっていることがうかがえる。「カマリロには戻りたくないだろう?」とのヴェリンジャーの一言が引き金になり、止めに入るヴェインジャーをアールはブラス・ナックルで殴り倒す。
 
 カマリロとはカリフォルニア州立精神病院を指している。ジャズファンなら麻薬中毒でこの病院に入院していたチャーリー・パーカーが作曲した"Relaxin' at Camarillo"という曲名でお馴染みだろう。現在は閉鎖されている。
  
 いくらでもコントロールできると嘯いていたヴェリンジャーが先に殴られてしまうという皮肉な展開。露骨に嫌悪感を表す第三者以上に、身内の一言の方がグサリと心に刺さる、というのもリアルで恐い。
 
 マーロウが乗り込み、窓に威嚇射撃をし、ようやく我に帰るアール。
 
 "Sorry, Doc. I must have just let fly without seeing who it was."
 
 let flyとは感情をほとばしらせる、という意味。
 
 アールの持っていたにせものの拳銃はstange money、cap gunと表現されているが、なぜstage gunではなくて、stange moneyなのだろう。
     
 マーロウは首尾よくウェイドを連れ戻すことになる。自分が面倒を見ていたアールに殴られてしまうヴェリンジャーが哀れだ。マーロウは同情の意を口にして部屋を出る。kick sb in the teethとは、sbにひどい仕打ちをする、という意味。
 
 Dr. Vetringer was leaning against the wall, massaging his jaw. "I'll help him," he said thickly. "All I do is help people and all they do is kick me in the teeth."

 "I know just how you feel," I said.

 I went out and left them to work at it.

                                                                                         to be cotinued



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メタボリズム・レトロスペクティブ~歴史になったアヴァンギャルド~

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  メタボリズムはもともとは新陳代謝を意味する言葉で1960年代に日本におこった建築運動のことである。日本発の唯一の建築運動と言ってもよいだろう。
 
 当時、高度経済成長下にあった日本における最大の問題は、人口の流入、混雑を極める交通、不十分なインフラ、不足する住宅やオフィスなど、急速に拡大する都市への対応だった。
 
 そうした都市の膨張圧力に対して、メタボリズムは生物のように増殖してゆく都市像を対置させた。
 
 その象徴がメタボリズム誕生の起源として位置付けらる丹下健三による「東京計画1960」だ。
 
東京計画1960_東京人
(*「
東京計画1960」と丹下健三 『東京人』2013年11号より 写真:川澄明男)
 
 それまで主流だった放射状の都市構造を否定し、丸の内から東京湾を横断し木更津へと延びるリニアな海上都市を建設することで拡大する東京に対応しようとする壮大な計画である。リニアな都市軸に沿って増殖してゆく都市のイメージは、有機体生命の脊椎の構造から発想されている。
 
 予測可能な未来、操作可能な未来を前提に、タブラ・ラサ(白紙)に描かれる都市の理想像という図式は、永遠に続く成長、理性や計画への信頼など、近代都市計画を推し進めてきた理念が見て取れる。
 
 一方で、西欧的な意味での堅固で明確な構造や秩序を持たない日本の都市や住まいをベースにしているが故に発想し得たと思われる、容易に更新可能で、永遠に過渡期にあり、永久に新しい都市像は、日本オリジナルの都市イメージといえる。
  
 こうしたメタボリズム運動に垣間見られる、近代×日本という構図に、八束はじめは、戦前から続く「国家-民族の建設の企て」(ネイション・ビルディング)の延長の姿を見て取り、メタボリズムは、建築的あるいは都市的「近代の超克」であったと評している。(「メタボリズム連鎖(ネクサス)という「近代の超克」」 『メタボリズムの未来都市』 カタログ 2011)
 
 メタボリズムとは、建築や都市計画が国家や時代と一体化していた、日本の建設の時代におけるアヴァンギャルドなプロパガンダであった。
 
 メタボリズムの思想とイメージを余すところなく体現した建築が東京の都心に残っている。
 
 メタボリズム運動の代表的な建築家であり、当時のスター建築家だった黒川記章による中銀カプセルタワー(1972)だ。
 
 プレファブリケーションによって作られた交換可能な最小限住居のカプセルが、ランダムに組み合わされて作られた建物は、まさにメタボリズムの思想を明快にイメージ化したものだ。もちろんカプセル建築は世界初。その特異な存在は、今見てもインパクトを失っていない。
 
中銀カプセルタワー1972
(*
竣工時の中銀カプセルタワー 『メタボリズムの未来都市』カタログより 写真:大橋富夫)

外観
(source:http://www.nakagincapsuletower.com/
 
 交換可能なカプセルは、まさに新陳代謝される有機体の細胞のアナロジーだ。カプセルが次々に更新され、永遠に新しくなっていく。メタボリズムが描いた輝かしい未来の建物。
 
 ところが、今に至るまでカプセルは一度も交換されたことはないのだ。大規模修繕工事すらも一度もなされておらず、現状のカプセルは、セントラルのエアコンが壊れ、空調が止まり、給湯管が破裂し、お湯が止まり、雨漏りも起こるという、普通に言えば欠陥住宅状態なのだそうだ。

 こうした老朽化の現実を前に、2000年ぐらいから、取り壊しの話が出始め、幾度か管理組合による建て替え決議もなされているが、進展はなく、老朽化が進むまま、現在に至ってる。

 新陳代謝どころか、老朽化で立ち往生してしまった輝かしいはずの未来の建築。
 
 丹下健三をはじめ磯崎新など、メタボリズムに関係した建築家が参画した国家的イベントだった大阪万博が終わり、1970年代に入るとそれまでの成長神話にかげりが見え始める。公害や過密など成長のマイナス面が言われ始め、1973年のオイルショックを契機に日本の高度経済成長は終焉する。
 
 建築をつくるような全能感で都市を発想し、成長する都市のように永遠に生まれ変わる建築を夢みたメタボリズム。
 
 永遠とも思われた都市の成長と拡大の時代は終わり、メタボリズムが掲げた理想都市の理念も現実味を失ってゆく。メタボリズムは急速にその輝きを喪失する。
 
 都市は建築ではなかったし、建築も都市ではなかったのだ。
 
 メタボリズムの光と影を象徴するような中銀カプセルタワーだが、実は今、カルト的な人気を誇っているのだそうだ。
 
 エアコンもなく、お湯も出ない、洗濯機もなく、「夏はサウナ、冬は冷蔵庫」になってしまうカプセルに実際に住み、保存・再生を夢見る人々が数多く存在しているのだ。
 
 世界中探しても他に類をみない、おそらくはこの先も二度と作られることはないであろう、その唯一無二の個性が、居住性の問題を超えて、40年後の今、人々を惹きつけている。

内観
(source:http://www.nakagincapsuletower.com/project
  
 歴史を否定するかのように、永遠に未完成で、永遠の新しさを目指した建築が、歴史の生き証人となってレトロな魅力を放っているという皮肉な現実。
 
 未来は予測不可能で、理性による計画的発想はどこかで裏切られ、思いもよらない世界が訪れる、というのが実に痛快ではないか。
 
 日本が輝かしい未来を信じていた時代のイコンとして、当時のぴかぴかの未来像の象徴として、そして日本発のアヴァンギャルド建築運動の証言者として、中銀カプセルタワーは永久保存に値する建築である。



 

*参考文献 : 『メタボリズムの未来都市』カタログ(2011)
        『中銀カプセルタワー 銀座の白い箱舟』中銀カプセルタワービル保存・再生
        プロジェクト編著(青月社2015)
        本書は中銀カプセルタワーの保存・再生のために企画された書籍で印税は
                    そのために活用される)

        中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト(代表・前田達之)
                   :http://www.nakagincapsuletower.com/

*初出 zeitgeist site

    
    

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ジュリアス・シュルマン~メディアとしての建築写真~

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 「よいデザインが受け入れられることはめったにない。だから売り込まなければならないのだ」。建築写真家のジュリアス・シュルマンの言葉だ。
 
 ジュリアス・シュルマンの写真で最も有名なのは、ケーススタディ・ハウス#22を撮った一枚だろう。ハリウッドヒルズに建つ、建築家ピエール・コーニングが設計したスタール邸(1960)である。一目見たら絶対に忘れられないスペクタクルな一枚だ。
 
CSH#22
(*『カリフォルニア・デザイン1930-1965』 新建築社 2013より)
   
 この一枚は世界中に配信され、世界で最もよく知られたれモダニズム建築のアイコンと評された。
 
 夜景を望む崖の上に張り出すように設けられたガラスのリビングルーム。そこでは、床の下には奈落のような暗闇の崖が広がっていることなど全く頓着しない様子で、女性たちが優雅に談笑している。部屋の隅々まで光が満ちあふれた、暗闇に浮かぶリビング空間は、カリフォルニアの暮らしの特権性を物語っているようだ。眼下に広がるハリウッドの夜景をその懐に収めるように画面全体を覆うフラットルーフがモダンデザインの勝利を宣言している。
 
 ケース・スタディハウスは、ジョン・エンテンザが主宰する「アーツ&アーキテクチャー」誌によるさまざまな建築家を起用したモダンデザインハウスの実験的試みだった。そのモダンなイメージは同誌を媒介に、批評家エスター・マッコイと建築写真家ジュリアス・シュルマンのコンビによって、アメリカの豊かさの象徴としてのカリフォルニア・デザインが世界中に発信されていく。
 
 50年代のロンドンの設計事務所のデザイナーの机の前には必ず「アーツ&アーキテクチュア」の切抜きがピンで留められていたとの逸話は、そのその影響力の大きさを物語る。
 
 自宅でくつろぐイームズ夫妻を捉えた一枚はケース・スタディハウス#8(イームズ邸 1949)とその設計者であるイームス夫妻の個性を余すところなく伝える写真に仕上がっている。

CSH#8
(*『カリフォルニア・デザイン1930-1965』 新建築社 2013より)
 
 黄昏時のリチャード・ノイトラのカウフマン邸(1947)を撮った一枚は、そのあまりにドラマチックなライティングによって、砂漠のなかに建つ建物という現実性を霞ませていると非難されるほどの幻想性を纏わされている。シュルマンは、建物とプールと背景をそれぞれに露出時間を変えて、45分間かけてこの一枚を撮ったそうだ。
 
KaufmanHouse
(*『カリフォルニア・デザイン1930-1965』 新建築社 2013より)
 
 ジュリアス・シュルマンは、1910年にブルックリンで生まれ、ロサンゼルスに移ってから、たまたま撮ったリチャード・ノイトラの作品の写真がノイトラ本人に気に入られ、建築写真の世界に入るきっかけをつかむ。
 
 ジュリアス・シュルマンは、アングルはもちろん、撮影用に家具や小物を入念に吟味し、人物をふさわしく配置し、凝ったライティングで、その建築にふさわしい決定的な一枚を撮ったといわれている。
 
 もっとも、シュルマン本人は、テクノロジーによる明るい未来やオプティミズムを象徴した写真と解釈されてきた前掲のケーススタディー・ハウス#22の写真について、たまたま外に出たら素晴らしい光景だったので、あわててカメラをプールの脇において撮った、とその周到な意図を煙に巻いているが。

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(*source : http://www.latimes.com/local/obituaries/la-me-julius-shulman17-2009jul17-story.html)

 生産が消費を刺激し、消費が生産をリードする。第二次大戦後のアメリカにおいて、消費をうながすメディアは経済発展の尖兵だった。メディアとしての建築写真がイメージ戦略の担い手となった。
 
 冒頭の言葉どおり、メディアとしての写真の機能を熟知していたジュリアス・シュルマンの写真によって、アメリカの豊かさとそれを象徴するカリフォルニア・デザインは、東海岸はもとより、ヨーロッパや日本など世界中に広まってゆく。
 
 こうしたイメージ戦略は産業界の意図を超えて、冷戦プロパガンダの重要な手段としての政治的役割を担ってゆく。
 
 1959年のソ連で開催されたアメリカ博覧会のキッチン展示場において、米副大統領リチャード・ニクソンがソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフに対して、「これはカリフォルニアの家にあるようなキッチンです」といってアメリカの生活の豊かさを自慢して論争になった話は「キッチン討論」としてつとに有名だ。

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(*source : http://learning.blogs.nytimes.com/2012/12/11/teaching-the-cold-war/?_r=0)
                       
 「豊かなアメリカ」のパブリシティが功を奏して、ひいては共産主義体制を崩壊に導いた、大げさに言えばそういうことになる。
  
 こうしたアメリカの戦略にも60年代後半から陰りが見え始める。長引くベトナム戦争がアメリカを疲弊させ、アメリカンウェイ・オブ・ライフの自信が揺らぎ始める。冷戦構造、産業化社会、人種問題など、未来を信じる楽観主義が覆い隠してきた矛盾が露呈する。
 
 建築界では、教条的になり画一性と効率性に走ったモダニズムが批判され、ポストモダニズムがもてはやされる時代を迎える。建築は復古的に、装飾的に、迎合的になってゆく。
 
 ポストモダン建築を嫌悪したジュルアス・シュルマンは、1980年代後半に自ら引退を宣言する。モダニズムの理想を体現しながら、同時にヒューマンな世界を感じさせる作品を信条としていたシュルマンらしい身の処し方だった。
 
 ポストモダンの嵐が収まった90年代、当時のカリフォルニア・デザインは、ミッドセンチュリー・デザインとして再評価され、大らかさや人間らしさや自然との親和性が感じられるモダンデザインのスタイルとして定着した。
 
 2001年、91歳のジュリアス・シュルマンは、若手のカメラマンをパートナーとして建築写真に復帰する。その後も、98歳で没するまで、フランク・O・ゲイリーなど、時代の先端のモダニズム建築を追いかけた。




*参考資料 : 
映画Visual Acoustics: The Modernism of Julius Shulman,
      Eric Bricker監督,2008
      建築文化 1999年9月号
                『カリフォルニア・デザイン1930-1965-モダン・リヴィングの起源―』
      新建築社,2013
                Andy Grundberg (July 17, 2009) Julius Shulman,
                Photographer of Modernist California Architecture, Dies at 98,
                New York Times,
available at 
                <
http://www.nytimes.com/2009/07/17/arts/design/17shulman.html>
 

*初出 zeitgeist site



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レイモンド・チャンドラー『ザ・ロング・グッドバイ』精読 Chapter20

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 マーロウが、ヴェリンジャー医師の許からロジャー・ウェイドを連れ帰る第20章。

 あくまで5,000ドルを要求するヴェリンジャーを罵って、帰途に着いたウェイドだったが、車中でこんな台詞をもらす。forecloseは抵当権を行使して物件の処分する、という意味。
 
 "Maybe I'll give it to him. He's broke. The property is foreclosed. He won't get a dime out of it. All on account of that psycho. Why does he do it?"
 
 「あいつに5,000ドルをやることになるかもしれない」。後ろめたさとともに気持ちが揺れるウェイド。当時(1953年)の5,000ドルは現在価値(2016年)で約45,000ドル相当だとThe Inflation Calculaterというサイトが教えてくれる。日本円では500万円ぐらいの感覚だろうか。
 
 マーロウはヴェリンジャーのランチのあるセパルヴェダ・キャニオンからハイウェイを北上しながら、途中、エンシノを通り、ウェイド家のあるアイドル・ヴァレー(モデルになったのはサンフェルナンド・ヴァレー)に向かう。マーロウはエンシノの住んでいたテリー・レノックスを想う。
 
 I turned over the pass and after a climb the lights of the valley spread out endlessly in front of us. We dipped down- to the highway north and west that goes to Ventura. After a while we passed through Encino. I stopped for a light and looked up towards the lights high on the hill where the big houses were. In one of them the Lennoxes had lived. We went on.
 
 I turned over the pass のところだが、turnは他動詞ではなく、自動詞で「進路を変える」という意味で、turned over the passは「峠道に向かって進路を変えた」というニュアンスだろう。ちなみに村上訳では「私は峠をゆっくり越えた」となっており、清水訳では省略されている。峠を登りきると家々の灯りがどこまでも続く広大な谷地が現れる。ロサンゼルス北部を東西に走るサンフェルナンド・ヴァレーの夜景だ。

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(*source : https://jp.pinterest.com/pin/343540277805750986/)
    
 マーロウの名前を聞いてウェイドはレノックス事件に関係した探偵かと問いただし、シルヴィア・レノックスを少しばかり知っていたいう。報酬の話に絡めながら感謝の意を表するウェイド。
 
"How much is she paying you?" he asked,

"We didn't discuss it."

"Whatever it is, it's not enough. I owe you a lot of thanks. You did a great job, chum. I wasn't worth the trouble."

"That's just the way you feel tonight."

He laughed. "You know something, Marlowe? I could get to like you. You're a bit of a bastard-like me."
 
 worth the troubleは「骨折りがいがある」という意。You know something?は「知ってるかい?」「ちょっと聞いてよ」というニュアンスの話を始めるときの決まり文句。"That's just the way you feel tonight."(今晩はそう感じただけだろう)は、村上訳では「夜があければまた考えが変わるさ」と皮肉っぽいニュアンスが込められたこなれた日本語に訳されている。マーロウの皮肉っぽい言い方が気に入るウェイド。
 
 ウェイド邸はこう描写される。
 
 We reached the house. It was a two-story over-all shingle house with a small pillared portico and a long lawn from the entrance to a thick row of shrubs inside the white fence. There was a light in the portico. I pulled into the driveway and stopped close to the garage.
 
 over-all shingle house with a small pillared porticoとは屋根と壁面が同じシングル(こけら板)で葺かれた家のことで、ポルティコと呼ばれる小さな玄関ポーチが設けられデザインの家だ。こんなイメージに近いだろうか。

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(*source:http://www.digsdigs.com/shingle-style-family-vacation-retreat-house/)
  
 ウェィドが中に入ったからしばらくしてアイリーン・ウェイドが玄関に現れマーロウを呼び止める。
 
アイリーンのどことなくマーロウを引き止めたがっている様子とそれを察しつつ、アイリーンの誘いに乗りながら、「あなたが私を雇いたがった理由は、レノックス事件に関係していたからなのですか?」とストレートに疑問をぶつけるマーロウ。小道具のタバコの使い方が見事だ。drink in は吸い込むという意味。またdraw on というのもタバコを吸い込むという意味。
 
 "You must be tired. Don't you want a drink yourself?"

 I lit a cigarette. It seemed like a couple of weeks since I had tasted tobacco. I drank in the smoke.

 "May I have just one puff?"

 "Sure. Ithrought you didn’t somke"

 "I don’t often." She came close to me and I handed her the cigarette. She drew on it and coughed. She handed it back laughing. "Strictly an amateur, as you see."

 "So you knew Sylvia Lennox," I said. "Was that why you wanted to hire me?"

 "I knew who?" She sounded puzzled.

 "Sylvia Lennox." I had the cigarette back now. I was eating it pretty fast.

 "Oh," she said, startled. "That girl that was-murdered. No, I didn't know her personally. I knew who she was. Didn't I tell you that?"

 "Sorry, I'd forgotten just what you did tell me."
 
 狼狽したような態度のアイリーンに対してマーロウは思い切った行動にでる。charm into~は「~に引き込まれる」、「魅せられる」という意味。
 
 "I'll leave this with you," I said.

 I took hold of her and pulled her towards me and tilted her head back. I kissed her hard on the lips. She didn't fight me and she, didn't respond. She pulled herself away quietly and stood there looking at me.

 "You shouldn't have done that," she said. "That was wrong. You're too nice a person."

 "Sure. Very wrong," I agreed. "But I've been such a nice faithful well-behaved gun dog all day long, I got charmed into one of the silliest ventures I ever tackled, and damned if it didn't turn out just as though somebody had written a script for it. You know something? I believe you knew where he was all along-or at least knew the name of Dr. Verringer. You just wanted to get me involved with him, tangled up with him so I'd feel a sense of responsibility to look after him. Or am I crazy?"
          
 「あなたのこれを残していきましょう」と言って、アイリーンの身体を抱き寄せて、強く口づけするマーロウ。
 
 and damned以下がやや意味が取りにくいが、I'm damned if not~という表現は「~でないことなんてありえない」つまり「間違いなく~だ」という意味。turn out~は「事態が~となる」というニュアンス。(I got)damned if it didn't turn out just as though somebody had written a script for it.は「誰かが書いた台本の通りになったのは間違いない」という感じ。
   
 もちろん台本を書いたのはアイリーン・ウェイドだ。それと知りつつ、あえて深みに足を踏み入れるような行動をとるマーロウ。シニカルな仮面の陰から一瞬だけナイーブな感情がほとばしる。読者はその瞬間に、レイモンド・チャンドラーが創造したフィリップ・マーロウという存在の不思議なリアリティと共感を感じるに違いない。
 
 "am I crazy?"というマーロウの問いに"Of course you're crazy,"と答えながら同時に、"thank you so very much for almost everything."と意味深な一言を残してアイリーン・ウェイドは扉の中に姿を消し、ポーチの電気が消される。マーロウは虚空に手を振り、車を出す。
 
 アイリーンの言うalmostには先ほどのキスも含まれているのは間違いない。



                             to be continued



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晴海は「輝ける都市」の夢を見るか~前川國男の晴海高層アパート~

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 ル・コルビュジエは、自らの理想都市「輝ける都市」の実現化をいくつかのユニテ・ダビダシオンで試みた。建物を高層化し、太陽と緑を享受するというビジョンの住宅版だ。マルセイユのユニテ・ダビタシオン(1952)が有名だ。
    
 日本にもコルビュジエの理想都市を志した集合住宅があった。コルビュジエに師事した前川國男による日本住宅公団の晴海高層アパート(1957)である。
 

晴海1
(*『現代集合住宅』 ロジャー・シャーウッド編 エー・アンド・ユー 1975より) 
 
 1955年に発足した日本住宅公団が、それまでの郊外立地、3~5階建て、2戸1階段室型、南面並行配置という基本フォーマットを捨てて挑戦した公団初のエレベーターつき10階建の高層集合住宅だ。戦後の住宅不足は深刻で、当時でも270万戸の不足といわれ、高層化は住宅量産の切り札だった。
           
 コンクリートによるマッシブなヴォリューム感のなかに、バルコニーからやや飛び出して納まる小梁、格子のようにみえるRC手摺、足許で裾広がりとなる柱などに、前川らしいどこか民族的で土着的な雰囲気を宿した建物だ。
  
 
晴海2
(*『現代集合住宅』 ロジャー・シャーウッド編 エー・アンド・ユー 1975より)
           
 建物をピロティで地盤から持ち上げ大地からの解放を宣言し、コンクリートの構造体を人工の土地に見立てて、縦に積み上がってゆく都市を構想する。屋上は空中の庭として住民に開放された。縦の「輝ける都市」であるユニテ・ダビタシオンのコンセプトである。
 

ユニテ_モノクロ
(*マルセイユのユニテ・ダビタシオン セゾン美術館『ル・コルビュジエ展カタログ』 毎日新聞社 1996より)
    
 残念ながら晴海では、設計当初にあったピロティは途中で住戸化されてなくなってしまい、屋上も開放されることはなかったが、人工土地の発想に基づく、将来の可変性や自由度の担保に関しては、はるかに先進的だった。
  
 晴海高層アパートでは、メガストラクチャーと命名された3層ごとのSRCの構造体のなかに、3層×2スパン計6住戸が嵌め込まれる構成になっており、横方向はもちろん縦方向へのユニットの変更が可能になっている。さらにブロック積みの戸境壁や室内に露出した配管など、空間の可変性と将来の更新性を強く意識した設計がなされている。
  
 こうした空間と時間の更新性をインストールした建築という、後のメタボリズムにつながる発想が既に具現化されているのが驚きだ。
  
 晴海高層アパートは1997年に解体されてしまったが、その一部がUR都市機構の集合住宅歴史館に移築・保存されている。
 
 模型を見ると、部分写真をみて漠然と抱いていたイメージよりも、はるかに横長でかつ奥行きが薄い建物だ。奥行きの薄さはユニット面積の小ささを反映してのことだ。
  

R00501871
(*集合住宅歴史館に置かれた晴海高層アパートの模型) 
   
 ユニテでは3層ごとの架構のなかに2層のメゾネットが噛みあうように2住戸組み合わされているが、ユニット面積が小さい日本の住宅ではメゾネット住戸は間取りのロスが大きく、事実上不可能なため(晴海のユニットは35㎡と44㎡の2DK)、3層毎に設けられた廊下から共用の階段を登り降りして、それぞれ上と下のフラット住戸にアクセスする方法(スキップアクセス)が考案されている。3層毎の廊下はコミュニティを意識して空中路地のような設えがなされている。
  
 フラットな型枠による左官仕事の軽減、工業化されたプレキャスト部材の導入、日本初のプレス加工のステンレス流し台の採用、伝統的な寸法にとらわれない畳(約850×2,400)、モジュールを合わせた木製サッシュと障子、天井高いっぱいまで開口としたガラスの欄間など、晴海高層アパートには随所に、合理的な発想と住宅の量産化への先駆的な試みがなされている。モダニズムの倫理性や社会性にこだわった前川國男の意気込みが感じられる。
  
 バルコニー側からみた非廊下階住戸(44㎡・2DK)の室内。居室はDK以外は畳の続き間になっている。畳は伝統的な寸法を無視した縦長サイズ。引き戸とガラスの欄間により、動線の回遊性と天井までの抜け感があり、今どきのリノベマンションのような開放感があるのに驚かされる。
 
R00502215
 
 手前左にあるのが日本初のステンレスキッチン。手前右に露出の配管がみえる。さすがに排水音は気になったらしい。 
 

R00502122
   
 モジュールをあわせた障子と木製サッシュがモダンな印象だ。構造の柱・梁がないため、開口面積が大きく室内はとても明るい。奥にプレキャストのバルコニー手摺が見える。縦の部材は連子子(れんじこ)のような菱形の断面をしている。
 

R00502336
 
 3層おきに設けられた廊下は幅約2m。高層住宅においても住民同士が交流できる場を身近に設けるというアイディアであり、実際に立ち話や子供の遊び場になっていたそうだが、床の下は下階の住戸の専有のため、音の問題があり、遊び方などを制限したそうだ。廊下階の住戸の玄関扉は開けた扉が廊下に飛び出さないように引き戸となっている。 
  

R00502628
 
 
 晴海高層アパートが晴海の埋立地に建てられたことは偶然だったのだろうか。
 
 当時の晴海は、下町でもなく山の手でもない、都心でもなく郊外でもない、いずれにもあてはまらない場所だった。埋め立てによる人工の土地は、モダニズムの理想を作るには打ってつけの、まさに色のついていないタブラ・ラサだった。
 
 当時の晴海の様子が同時代に作られた日本映画の名作に記録されている。
 
 『秋立ちぬ』(成瀬巳喜男監督 1960)の不幸な境遇の幼い男女が都心の家を飛び出して「ここではないどこか」を求めて向かうのが晴海埠頭だ。海が青くないことにがっかりしながらも、砂浜(このころの晴海には砂浜が残っていた!)で波と戯れ、茫漠たる埋立地をさまよう二人にとって、晴海は不幸な日常から逃れる一瞬のアジールだった。
 
 『しとやかな獣』(川島雄三監督 1962)は、高度成長が生み出した、したたかでニヒリスティックな拝金主義の家族を描いたブラックコメディの傑作。その舞台として晴海団地が選ばれる。家族は晴海高層アパートを高値の華だと羨みながら、丁々発止で世間の「善」と渡り合う。都市が生み出した破天荒な家族に似合うのは、人工土地による東京のフロンティアとしての晴海だったのだろう。
 
 土地や家族のしがらみとは無縁に、なにもない代わりになんでもありで都市を生き抜いてゆく、そんな人々にとって晴海はアジールであり、フロンティアであった。たとえそれが人工の土地による束の間のそれであったとしても。
 
 まさに「輝ける都市」にふさわしい場所ではないか。
 
 晴海高層アパートがあった晴海団地は、市街地再開発により、今はオフィスタワーとUR都市機構によるマンションなどからなる晴海トリトンスクエアとなっている。
 
 晴海高層アパートも、メガストラクチャーによる更新性や可変性のアイディアは一度も試されることなくあっけなく築後39年で取り壊された。
      
 束の間のアジールやフロンティアは日常になり、晴海は都心に至近のWANGANエリアとして不動産市場に組み込まれてゆく。今や晴海はタワーマンションのメッカとして巨大建築がひしめく街として名を馳せている。
 

  R00504721

R00503951
   
 手つかずのまま残されていた晴海埠頭の南西部の晴海五丁目でも、現在、槌音が響き渡っている。2020年の東京オリンピックの選手村の建設現場だ。 
 

R00503301
   
 タワーマンションが林立する今の晴海は、はたしてル・コルビュジエや前川國男が思い描いた「輝ける都市」が実現された姿なのだろうか。
    
 そうもみえるし、そうでないようにもみえる。




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