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インターナショナル・スタイルと抽象表現主義絵画~白い壁を飾るものは~

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 1932年(昭和7年)、ニューヨーク近代美術館(MOMA)で「モダン・アーキテクチャー:インターナショナル展覧会」Modern Architecture : International Exhibitionと題された建築展が開催される。館長アルフレッド・H・バー・Jr.のもと、MOMA初のこの建築展の企画にあたったのが建築史家のヘンリー=ラッセル・ヒッチコックと後にMOMAの建築部門チーフキュレーターとなるフィリップ・ジョンソンの二人だ。

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(*Modern Architecture : International Exhibition 1932,source:https://www.moma.org/calendar/exhibitions/2044
   
 同時に二人による『インターナショナル・スタイル ― 1922年以降の建築』という書籍が出版される。ヒッチコックとジョンソンは、この書籍でヴァルター・グロピウス、ル・コルビュジエ、J.J.P.アウト、ミース・ファン・デル・ローエなどのヨーロッパのモダニズム建築を取り上げ、これらにみられるデザイン的特徴がこれからの新しい建築のあり方だとして、デザインを類型化し、インターナショナル・スタイルというひとつの様式として原理化する。

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(*The International Style: Architecture since 1922,source:https://www.pinterest.jp/pin/450641506443458822/)
         
 1920年代のヨーロッパで起こったモダニスムは、もともとは市民社会の理想を実現する社会思想をベースに生まれた運動だ。1917年のロシア革命の影響も大きかった。
 
 ヒッチコックとジョンソンらは、ヨーロッパのモダニズムの背景にあった民衆のための正義という社会思想をきれいに捨象し、インターナショナル・スタイルというアメリカが太鼓判を押した意匠商品として仕立て上げる。政治力と経済力での勝利が明らかになっていた当時のアメリカが唯一必要としていたのはヨーロッパの文化だった。
 
 《ヴォリュームとしての建築》、《規則性》、《装飾付加の忌避》がインターナショナル・スタイルの三つの原理として提示される。
 
 書籍は建築展以上に話題になり、これをきっかけに、インターナショナル・スタイル(日本では国際様式と呼ばれていた)という言葉とイメージが世界中に普及してゆく。
 
 単純化されたフォルム、直線と面による構成、均質な空間など、今日、世界のいたるところでみられる、いわゆるモダニスム建築が世界を席巻していく。
 
 アメリカが主導的立場を確立したのは建築界だけではなく、美術界も同様だった。ファシズムが忍び寄るヨーロッパで「退廃芸術」として非難されていたダダやシュールレアリスムなどの前衛芸術家たちを受け入れ、時代にふさわしい芸術として賞賛したのもアメリカだ。自由の価値を尊ぶ新時代の文化リーダーはアメリカであるというわけだ。ソ連を意識した冷戦プロパガンダという意味合いも大きかった。
  
 大きな役割を果たしたのが、先の建築展を主催したMOMAの館長のアルフレッド・バーや美術批評家のクレメント・グリンバーグらだ。

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(*Philip Johnson & Alfred H. Barr Jr., source:http://www.architecturelab.net/alfred-h-barr-jr-and-philip-johnson-partners-in-design/
 
 アルフレッド・バーは、MOMAの展覧会「キュビスムと抽象芸術」(1939年)」で一枚のチャートを提示し、芸術は最終的にはすべて抽象芸術に向かうと主張する。
 
 さらに当時の美術評論界を牽引したクレメント・グリンバーグは、絵画にとって重要なのは、主題ではなく、キャンバスや絵の具そのものに語らせることだとのフォーマリズムの立場から抽象芸術の価値を説く。
 
 インターナショナル・スタイルとして普及したモダニズム建築と戦後のアメリカにおける抽象表現主義絵画の隆盛は無縁ではない。
 

 コルビュジエのドミノ・システムが示すように、モダニズム建築は、柱とスラブ(床)で加重を担い壁をフリーにした。自由な立面と自由な内部空間がモダニズムのスローガンとなる。

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(*ル・コルビュジエによるドミノ・システムのスケッチ,source:https://en.wikipedia.org/wiki/Dom-Ino_House)
  
 その結果、大きな白い壁に囲まれた均質な内部空間(ホワイトキューブ)が出現する。この抽象化された白い均質空間には、もはや、印象派はもちろんのこと、キュビズムすら似合わない。唯一ふさわしいのは抽象絵画であり、さらには、大きな壁面は、絵画を大型化させる。
 
 象徴的なエピソードがある。
   
 ペギー・グッゲンハイムは、ユダヤ人の富豪グッゲンハイム一族の出自で、1930年代のヨーロッパで、まるでスコット・フィッツジェラルドの小説の主人公のような人生を過ごし、パリやロンドンのアートシーンで名を馳せ(一時はマックス・エルンストの奥さんだった)、戦局が悪化してニューヨークに帰国した後は、現代アートのコレクター兼パトロンとなった人物。ニューヨークやビルバオにあるグッゲンハイム美術館を創設したソロモン・グッゲンハイムは叔父にあたる。ペギーが晩年に住んだヴェネチアの自邸も現在、グッゲンハイム美術館となっている。
 
 ペギー・グッゲンハイムが、自らのアパルトマンを改装した際の玄関ホールの大きな壁を飾る壁画を依頼したのが当時まだ無名のジャクソン・ポロックだ(★1)。

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(*《壁画》の前のペギー・グッゲンハイムとジャクソン・ポロック,source:
https://www.ggccaatt.net/2015/06/17/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3-%E3%83%9D%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF/)
 
 《壁画》 Mural(1943)と名づけられた幅6.05m×高さ2.47mという巨大な作品(★2)は、当時まだシュールレアリスムの影響下にあるような絵を描いていたポロックが、より抽象的な世界へと脱皮するきっかけとなった作品であり、かつ、ドリッピングやポーリング(絵の具を垂らしながら描く手法)やオール・オーヴァー(画面をくまなく埋め尽くす手法)など、後にポロックの作品を特徴づける手法の萌芽が認められるというまさに転換点となる作品だった。

Mural
(*《壁画》,source:
https://www.ggccaatt.net/2015/06/17/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3-%E3%83%9D%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF/)
 
 《壁画》をみたクレメント・グリンバーグは、「ひと目みて、ジャクソンがわが国が生んだ最も偉大な画家であることがわかった」と最大限に賛辞した。
 
 この作品がきっかけとなり、ペギー・グッゲンハイムが主宰する今世紀美術館やMOMAでの個展を開催され、子供のいたずら書きだ、まるで壁紙のようだ、と揶揄されながらも、ジャクソン・ポロックは、アメリカを代表する現代アートの旗手として注目を集めるようになる。
 
 画家仲間だった、ウィレム・デ・クーニンは、ジャクソン・ポロックへの注目と、その後のアメリカにおける現代アートの隆盛を「ジャクソン・ポロックが氷を割った」と表現した。
 
 量感や素材感や装飾を排除して、均質で単純な面や線で構成することを推奨したインターナショナル・スタイルによる建築の抽象化は、ホワイトキューブを生み、必然的に抽象表現絵画を呼び寄せた。
         
 後日譚は、お決まりの、そう、時代の変化というやつだ。どんな天才をもってしても時代に抗うことはできない。
 
 アメリカに移った後のグロピウスは都市や建築の非人間化を嘆き、ミースは高層ビルから距離を置き沈黙を守り、コルビュジエはロンシャンの礼拝堂(1955)のようなインターナショナル・スタイルとは程遠い作風に移行する。当のヒッチコックは60年代に入り、インターナショナル・スタイルの死を宣言し、建築家となったフィリップ・ジョンソンはいつの間にかポストモダンの旗手へと変貌する。
 
 美術界においても、60年代に登場したポップアートによって、、芸術は抽象芸術へ向かうというアルフレッド・バーによる芸術進化論は急激に色褪せ、大衆文化をキッチュとして下位に置くグリンバーグの言説は批判に晒されていった。
        
 その後、カウンターカルチャーは挫折し、ポップアートは下火になり、ポストモダンはすっかり流行遅れになり、世界はすっかり消費社会に覆われた。
 
 ミース風のガラスの箱で埋め尽くされた世界の都市の姿や現代アートがワンハンドレッド・ミリオンダラー(100億円)を超える価格で取引される現実を見る限る、われわれの住む世界は、自国オリジナルの文化を作ろうとしていた、あの頃のアメリカの夢と企てがすっかり実現した世界のようにみえる。





 (★1)ペギー・グッゲンハイムのアパルトマンはインターナショナル・スタイルで建てられた建物ではなくニューヨークによくみられるブラウンストーン外壁の建物だったそうだが、内部の壁を壊し大空間を作り、そこを飾るのに抽象アートが選ばれたことには変わりはない。
   
 (★2)実際は壁画ではなく大型のキャンバスに描かれた。ペギー・グッゲンハイムにキャンバスに描いてもらうように助言したのは、ヨーロッパ時代からの友人でニューヨークにアトリエを移していたマルセル・デュシャンだったそうだ。

 
*参考資料:

ヘンリー=ラッセル・ヒッチコック、フィリップ・ジョンソン 『インターナショナル・スタイル』 鹿島出版会 1978
ART TRACE PRESS 01 ART TRACE 2011
藤枝晃雄 『ジャクソン・ポロック』 スカイドア 1994
ペギー・グッゲンハイム 『20世紀の芸術を生きる』 みずず書房 1994
エド・ハリス監督 [映画] 『ポロック 二人のアトリエ』、2002
テレサ・グリフィス監督[ドキュメンタリー映像],「ポロック その愛と死」,1999
University of Iowa Museum of Art, Mural, available at
<
https://uima.uiowa.edu/collections/american-art-1900-1980/jackson-pollock/mural/>
Hans Namuth(Director),Jackson Pollock ’51[Motion Picture],1951. available at
<https://www.youtube.com/watch?v=KNwvUco146c>
Jackson Pollock’s MURAL [Motion Picture],available at
<https://www.youtube.com/watch?v=qY9leqZUMIk

Abigail Cain, The Myth of Jackson Pollock, Peggy Guggenheim, and the Masterpiece Created in One Night, available at
< https://www.artsy.net/article/artsy-editorial-story-pollock-guggenheim-masterpiece-created-one-night>




*初出 zeigeist site



copyrights (c) 2018 tokyo culture addiction all rights reserved. 無断転載禁止。


ものの輪郭を求めて~深澤直人のデザイン~

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 優れたデザインは、その行為が個人に由来するものでありながら、同時に他者に対して開かれた客観性のようなものを感じさせるものだ。
 
 深澤直人のデザインもそうしたオープンネスを感じさせるデザインだ。

 優れたデザインを語った言葉を読むのも興味深い。デザインという行為も、言語化という行為も、ともに抽象という行為を含んでいるからであろう。
 
 自分のデザインは、環境とものとの間の関係の輪郭線を決める行為だ、と深澤直人は語っている。その輪郭を見るのがデザイナーという存在であり、彼が見るものは、環境がものに要請している姿、そこに存在すべき姿、であると言っている。
 
 「私たちはデザインで詩を書こうとしている」、「俳句もデザインに似ている」とも語られる。
 
 アメリカのデザイン事務所に勤務していた時にたまたま読んだ、高浜虚子の『俳句への道』のなかの「客観写生」という言葉に衝撃を受ける。「自分を打ち出すだけの句は醜い。主観を消して、淡々と描写してこそ人びとの深い共感をよぶ」。そう書かれていた。「自分の存在を消してしまう。消したからこそ沸き立ってくる美の存在があるということが衝撃だった」と言う。
 
 詩は、誰でも知っている言葉を使いながら、それまで誰も知らなかった美を生み出す、俳句は、誰もが知っている日常を見ながら、それまで誰も気がつかなかった美を生み出す。いずれも個人に由来しながら、主体を超えたところでポエジーが読み手に感得される。ポエジーは本来そこに存在すべき美として、知らず知らず共感されていた美なのだ。だからこそ、詩や俳句は、創造や創作というよりも、生成や到来とニュアンスが近いのだろう。
 
 深澤直人が言う「輪郭」を決める、「輪郭」を見つけるということも、そういうことだ。
           
 AMBIENTと題された「深澤直人がデザインする生活の周囲展」(2017年7月8日~10月1日@パナソニック汐留ミュージアム)において、その見出された「輪郭」を改めて見てみた。

  AMBIENT展

 《壁掛式CDプレーヤー》(無印良品 1999)は、壁に掛けて紐を引っ張って再生する換気扇のようなデザインが衝撃的だった、深澤直人の名を世に知らしめた初期のプロダクト。ファンの回転とCDの回転、空気が流れ出すということと、音楽が流れ出すということ、この両者にイメージの類似性を感じる感性が軽やかだ。問題解決型ではない、まさにWithout thought(考えずに、思わず)や「行為に溶ける」というキーワードがぴったりの、ひとの無意識の行為や連想から見出されたような(Found object)デザインだ。

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 《加湿器》(プラスマイナスゼロ 2004)は、デザインレスな実用器具だった加湿器を、インテリアにマッチする家電製品としてデザインするという地平を通り越して、誰も見たことがないオブジェのレベルまで一気に昇華させたようなデザインの作品。内部にある水の存在を感じさせるような丸みを帯びたフォルムやシームレスに整形された作り込みは今見ても新鮮だ。

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 《シェルフ》(B&B ITALIA 2006)は、厚さ6ミリの人工大理石で作られた、その薄く華奢な存在感が目を見張らせたプロダクト。構造が要請する筋交という部材がきっかけとなり、透かし彫りや無造作に置かれた傾いた本など、日常生活の中のイメージの断片が浮かび上がってくるようなデザインに結実した。このプロダクトの出現によって、本棚はこれまでの重厚なイメージから浮遊し、壁を離れ、本棚の常識が変わった。

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 《サビア》(ボッフィ 2008)は、白の単純な形態であるバスタブというプロダクトに関して、光と影による微妙なグラデーションとその境に現れるエッジがデザインされ、まさに空間の中にあった本来の「輪郭」を見出したような作品。空間の中に置かれることによって、光と影が生まれ、ものが可視化されるとともに、同時に周りの空間も可視化されるという相互作用を誘発する企てでもある。

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 《グランデ・パピリオ》(B&B ITALIA 2009)と名づけられた、「作りながら自然にでき上がった形だから、二度とできない」と解説されているように、まさに手でものと空間との間の「輪郭」を探り出したかに思えるような造形のソファとオットマン。なにげなく作られたようなごく自然な雰囲気と置くだけで空間の雰囲気が一変する存在感を併せ持ったプロダクトだ。それを製品に仕上げたB&B ITALIAの技のすごさも漂っている。

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 《モディファイ・スフィア・ペンダント》(パナソニック株式会社 2012)は、球形型ペンダントを最初に発想した人のアイディアを、シェード上部も含めて完全な球体に見えるようにと敷衍させた製品。まさにジャスパー・モリソンのいう「スーパーノーマル」(究極のふつう)という表現がぴったりのプロダクトだ。ものが溢れるなか、「ふつう」を貫き通すこと、「ふつう」を作ることこそが難しいのだ。

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 《ベント・グラス・ベンチ》(グラス イタリア 2012)は、透明ガラスの一体成型で作られたベンチ。足元と座面に施された微妙なベント(曲げ)の造形だけで、オールガラスのプロダクトにありがちな冷たさを微塵も感じさせない雰囲気を生み出しているのが見事だ。ルーブル美術館に置かれているそうだ。

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 展示会のタイトルAMBIENTは、深澤直人によって「周囲」や「雰囲気」という意味に解されたコンセプトだそうだ。本来あるべき「輪郭」として環境から見い出されたものたちは、環境へと再び投じられることにより、環境と相互に作用し、その結果、ニュートラルな均質空間は、心地良さやいい雰囲気を伴った、ひとのための空間へと変貌する。
  
 深澤直人が自分のデザインの目的として語るところであり、優れたデザインの力を物語るエピソードだ。

 

  

*参考文献 : 深澤直人『デザインの輪郭』、TOTO出版、2005


  



*初出 zeigeist site





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アクション・ペインティングとフリー・ジャズ~ポロック作品をジャケットに使ったオーネット・コールマンの《フリー・ジャズ》

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 アナログレコードが人気だ。デジタルデータにはない厚みのある音もさることながら、「ジャケット愛」もその人気の理由だそうだ。

 LPレコードが主流だった時代、アルバムジャケットのアートワークはひとつの作品として存在感を持っていた。
 
 アーティストやデザイナーが手がけた優れたデザインのアルバムジャケットも少なくない。

 ジャズでは、タイポ・グラフィーとモノクロ写真を組み合わせたブルーノートのリード・マイルズ(例えば、ソニー・クラークの《クール・ストラッティン》)や雰囲気のあるイラストと大胆なカラーワークによるヴァーブのデヴィッド・ストーン・マーチン(例えば、スタン・ゲッツの《ウェストコースト・ジャズ》)などが知られている。

 ロックでは、《狂気》をはじめとする一連のピンク・フロイドの作品など、中身を凌駕するほどの強い印象を残す数々を手がけたピプノシスや抜群のセンスと衝撃的なアイディアのよる傑作を残したアンディー・ウォホール(例えば、ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコの《ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ》)などが有名だ。

 アーティストでは、キリコ、ダリなどのシュールレアリスムの大御所から池田万寿夫、横尾忠則、ロバート・メイプルソープなど現代アートの作家の作品も使われている。

 こうした有名デザイナーや有名アーティストによるアルバムジャケットのデザインが数多くあるなかで、中身の音楽と深い関連をもったジャケットのアートワークという例は稀だ。
 
 ジャクソン・ポロックの《白い光》を使った、オーネット・コールマンの《フリー・ジャズ》(1960)は、そんな稀有なアルバムだ。

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 ジャケットの表紙には、シンプルなロゴでアルバムタイトルなどが全面に展開され、文字がない右下寄りの部分が四角に切り抜かれており、そこからジャケット内側に載せられた《白い光》の一部が見える仕掛けになっている。
         
 《白い光》は、ジャクソン・ポロックの晩年に近い1954年の作品だ。

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(*White light,source : https://www.pinterest.jp/pin/282108364130121308/)
 
 オーネット・コールマンは、《フリー・ジャズ》の前年にリリースされた《世紀の転換》のライナーノーツで自分の音楽を「something like the painting of Jackson Pollack」と形容している。
          
 ジャクソン・ポロックの作品は、抽象性と全体性が音楽的だとよく言われるが、オーネット・コールは、自身の音楽をポロック的だと言っているわけだ。

Ornette Coleman
(*Ornette Coleman,source:

https://www.thewire.co.uk/in-writing/essays/ornette-coleman-1930-2015_robert-wyatt)

   
 オーネット・コールマンの《フリー・ジャズ》は、左右のチャンネルにそれぞれ別のカルテットを置いて、37分間連続で同時に即興で演奏をするという前代未聞の演奏方法をとる。
      
 各人のソロのパートの合い間にアンサンブルでテーマらしきものが演奏されるが、曲の起承転結はなく、決まったコード進行もなく、統一的なリズム展開もない。各人のソロの演奏の最中にも他の奏者がソロに呼応するように、あるいは、まったく関係ないように、即興で音を奏で、またバックのリズムも奔放に変化する。
             

 (*FREE JAZZ by Ornette Coleman) 

   
ジャクソン・ポロックの絵画は、領域の限界や画面内のヒエラルキーがないオールオーヴァーな画面、ひとつひとつのカラーやタッチは、あるモチーフを表象するために動員されるのではなく、単に並置されているという要素の等価性、即興性や偶発性を内包した表現手法などが特徴だ。
 

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(*Jackson Pollock, source:

http://www.artistrunwebsite.com/blog/1475/Studio+Sunday%3A+Jackson+Pollock)

 
 《フリー・ジャズ》も、どこから聞き始めてもよい、どこで終わってもよいような、まさにオールオーヴァーな構成であり、テーマ、アドリブ、テーマという起承転結による展開や音楽アルバムはせいぜい数分の長さからなる複数の楽曲で構成するものだという、それまでの常識からの逸脱が意図されている。
   
 《フリー・ジャズ》における、それぞれの楽器の音は、ポロック絵画の筆の一振りの絵の具の痕跡を思わせる。注目されるのは、それ以前では裏方だった、ドラムやベースのリズムセクションが、サックスやトランペットと等価に扱われていることだ。後にビル・エバンス・トリオにおけるインタープレイで有名になったスコット・ラファロがベースで参画している。
 
 もともと即興演奏はジャズの特徴のひとつであるが、ダブル・カルテットによる同時並行的な即興演奏は、ソロの重複や楽器間の不協音による思いもかけない効果や緊張感を生んでおり、アクション・ペインティングといわれたポロックの表現方法に内包されている即興性や偶発性を髣髴とさせる。
    
 両者に共通するのは、既存のフレームから自由になろうとする試みとその革新性である。
          
 オーネット・コールマンが始めたフリー・ジャズはジャズの主流にはならなかった。
 
 一方で、ハードバップを乗り越えようと苦闘するなか、ジョン・コルトレーンはレギュラー・カルテットに複数の管楽器とベースを加えた大編成バンドによる、フリーク・トーン(サックスによる悲鳴のような音)が横溢する集団即興演奏による問題作《アセンション》(1965)を世に問うた。
 
 モード(旋律)という発想によりビバップのコード進行を革新した帝王マイスル・デイヴィスは、フリー・ジャズを否定し、徹底的に無視した態度を貫いた。
   
 しかしながら、マイスル・デイヴィスの60年代後半におけるアコースティック期最後のセカンド・クインテット(ウェイン、ハービー、ロン、トニー)によるアブストラクトなソロや、ロスト・クインテット(ウェイン、チック、デイヴ、ジャック)のライブ音源におけるアヴァンギャルドな即興の応酬や、さらにはエレクトリック期における大人数バンドによる目くるめく同時即興演奏などを聞くかぎり、マイルスがフリー・ジャズから吸収したものは決して小さくはなかった。
       
 マイルスの嫌悪と無視は、オーネット・コールマンが始めたフリー・ジャズの持つ革命性を正確に認識していたが故のマイルス一流の反応だったのだろう。
    
 オーネット・コールマンは2006年にポロックの作品《グリーン・シルバー》を前にして「音楽に似ている。私の音楽だけではなくて」と語っている。
 
 ジャクソン・ポロックの絵画の持っている音楽的イメージは、オーネット・コールマンを経由してモダンジャズの革新につながっている。
     
 ポロックはジャズをアメリカが生んだ偉大な芸術と言っていた。ポロックが好んで聞いたのはニューオリンズ・ジャズやスイング・ジャズやビリー・ホリデイであり、モダンジャズではなかったそうだ。
 

*参考文献等

藤枝晃雄、『ジャクソン・ポロック』、スカイドア、1994
林道郎、「ポロックの余白に(1)」、ART TRACE PRESS 01(ART TRACE、2011)
Ornette Coleman and Jackson Pollock: Black Music, White Light,Available at<http://federaljazzpolicy.com/?p=369>
John Chiaverina,Ornette Coleman’s Jackson Pollock Connection,Available at<http://www.artnews.com/2015/06/11/ornette-colemans-jackson-pollock-connection/>

 

*初出 zeitgeist site 

 

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映画『ブレードランナー2049』~失われた大地と建築、都市、記憶~<前編>

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 「太陽・緑・空間」。CIAM(近代建築国際会議)が1933年にアテネ憲章として提唱した近代都市のスローガンだ。元ネタはル・コルビュジエの《輝く都市》のコンセプトである。
 
 このスローガンに既に欠落しているものがある。それは<大地>であると磯崎新は指摘する(『栖すみか十二』、住まいの図書館出版局、1999年)。
     
 建築の始まりは、「始原の小屋」 primitive hutと呼ばれる、森の中の四本の木(柱)に梁(エンタブレチュア)を渡し、三角形の屋根組(ペディメント)を組んだ簡素な小屋であるとされている。ロジェ神父による『建築試論』(1753年)に掲載された挿図だ。<建築>は<大地>の上に簡素な構造を組んで人が住まうことで始まった、というわけだ。
          
 近代とは、人が<大地>に住まうことが不可能になってしまった時代だ。その回復を企てたのが「血と大地」をスローガンにしたヒットラーであり、「大地派」のイデオロギーが第二次大戦で敗北したあとに残ったのが「空間派」だった。
   
 「空間派」の勝利に拍車をかけたのが大都市(メトロポリス)の出現であり、グローバリゼーションであると磯崎新は説く。
    
 <大地>の喪失と「空間派」の勝利を象徴する建物は、ル・コルビュジエではなくミース・ファン・デル・ローエによって実現される。《レイクショア・ドライブ・アパートメント》である。
 

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(*Lake Shore Drive Apartment,souce :https://www.archdaily.com/59487/ad-classics-860-880-lake-shore-drive-mies-van-der-rohe

  
 シカゴのミシガン湖畔に建つ26階建てのガラスのツインタワーは、<大地>から切り離され、場所性を失った立体格子である。どこでもなく、かつ、どこでもあるという固有性を失った場所で宙吊りになって暮らす。これが世界の都市の現実だというのが、20世紀の終わりに磯崎新が至った結論だった。
 
 映画『ブレードランナー2049』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、2017年)では、この「空間派」の勝利の先にやってくるであろう世界が描かれる。今回は『ブレードランナー2049』を都市論として読み解いてみよう。


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 先の「太陽・緑・空間」のスローガンにおいて、すでに<大地>は切り捨てられていたが、<大地>に降り注ぐ太陽と<大地>を覆う緑はまだ残っていた。
        
 『ブレードランナー2049』で描かれるのは、環境破壊と生態系崩壊が進行し、<大地>そのものに加え、太陽も緑も喪失した世界である。気候変動により、地球は常時、曇り空に覆われ、酸性雨が降りしきり、雪や嵐が常態化している。食糧は合成農場とよばれる工場のような施設で<大地>ではなく、培養液の中で栽培される。
       
 海面上昇で多くの土地が失われ、残った土地も生命の息吹を失った荒地となっている。舞台となるロサンゼルスの近郊のいくつかの都市はすでに遺棄されており、サンディエゴは廃棄物処分場のゴミの山と化し、ラスベガスは砂漠化した廃墟となっている。
          
 失われているのは<大地>や太陽や緑だけではない。<建築>もまたその輪郭を失っている。
         
 映画『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督、1982年)では、酸性雨が降り止まない、アジアンティックなカオスと化したロサンゼルスの未来像が衝撃を与えた。本作でもこの基本スタイルは引き継がれている。
     

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(*Blade Runner,source :
http://japanese.engadget.com/2016/10/06/blade-runner-2049-vr/

     
 ネオンの反射でかろうじて判別できる酸性雨に煙る建物、ファサードはすでに雑多な看板と電子広告に覆われている。香港や歌舞伎町あるいは中東のバザールを思わせるカオスの様相を呈する街角。あらゆる時代と場所の衣装を纏った人物が溢れかえるストリート。
        
 この懐古的な意匠をまとったカオスとしての未来都市というイメージは、リドリー・スコットがお気に入りだった、フランスのバンド・デシネ作家メビウス(ジョン・ジロー)の短編”The Long Tomorrow”に由来することは知られている。混沌とした未来都市でのフィリップ・マーロウ的探偵物語の作品だ。ちなみに”The Long Tomorrow”の原作者は映画『エイリアン』の脚本家であるダン・オバノンであり、この二人を結びつけるきっかけになったのが、アレハンドロ・ホドロフスキーの映画『デューン 砂の惑星』だった。
 

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(*The Long Tomorrow,source:https://mikecanex.wordpress.com/2012/03/10/r-i-p-jean-moebius-giraud-artist/

     
 リドリー・スコットが、そのイメージを具現化するために招聘したのが、フォード車などをデザインしていたシド・ミードだ。『ブレードランナー2049』でも後述する廃墟化したラスベガスのイメージはこの人が手がけている。
       
 ここでは20世紀の立体格子さえも、暗闇と酸性雨と広告に覆われて輪郭を失くしている。街を埋め尽くす太陽光パネルや巨大なダムのような防潮堤やビルの屋上を占拠するスピナー(飛行自動車)の発着所などの建造物が強烈なインパクトを放っているのに比べ、<建築>のイメージはあまりに希薄だ。<建築>はもはや<都市>を象徴する役割を下りているのだ。
 
 <建築>の喪失とは裏腹に入念に描かれ印象的なのがインテリアだ。
     
 冒頭に登場する、旧型レプリカントが隠れ住む合成農場は、即物的なシェルターのような建物だが、内部は昔からの農家の暮らしを思わせるようなインテリアに設えられている。年代ものの革張りのソファが置かれキッチンでは昔風の鉄鍋から湯気が立っている。
    
 主人公のK(ライアン・ゴズリング)の住むアパートは内部しか描かれない。素っ気ないインテリアのなか、マヤの意匠を模したキッチンの壁が映される。『ブレードランナー』でも登場した、フランク・ロイド・ライトのエニス・ブラウン邸で使われているコンクリート意匠ブロックだ。
                
 極めつきは、前作の主人公のリック・デッカード(ハリソン・フォード)が隠棲しているラスベガスのカジノホテルだ。爆心地(本作には2022年にレプリカントの反乱による高高度核爆弾が爆発したというプロローグがある)とされるラスベガスの街は、放射能で汚染され廃墟となり、オレンジの霞のようなものがかかった砂漠化した場所となっている。ホテルの外観はほとんど無視され(ガラスカーテンウォールのまさに立体格子のようなビルであることがかろうじてわかる)、描かれるのは、古典様式、アールデコなど過去の様式が折衷した懐古的なインテリアだ。デッカードのお気に入りだったとしてプレスリーやマリリン・モンローやフランク・シナトラのフォログラフィーなども意味ありげに登場する。
         
 未来は再帰的な過去である、というのは『ブレードランナー』から連続する基本コンセプトだが、懐古的なインテリアは一体なにを意味しているのだろうか。 
       

 

 

                                <後編>に続く

*初出 zeitgeist site 

 

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映画『ブレードランナー2049』 ~失われた大地と建築、都市、記憶~ <後編>

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(*Blade Runner 2049,source :https://www.nytimes.com/2017/10/08/movies/blade-runner-2049-box-office.html
              
 磯崎新はミース・ファン・デル・ローエの《レイクショア・ドライブ・アパートメント》に言及してこういっている(『栖すみか十二』、すまいの図書館出版局、1999年)。
  
 立体格子の地獄では、「あなた、という存在がその生活を容れる箱のなかに、自分自身の殻をつむぐことになる。だがら、メトロポリスにおいて可能なデザインは規模にかかわらずインテリアだけです」と。
  
 人のアイデンティティのよすがとなるのは、自らにまつわる過去の<記憶>であり、近代以降、激しい速度で変容していく<都市>のなかで、私たちがかろうじて自らの居場所を同定しながら暮らし続けられるのは、建物や街という<都市>の<記憶>が過去と現在をつないでいるからだ。
 
 <大地>が喪失し、<建築>が曖昧になった世界では、自らの身体を取り巻く室内空間やそこに置かれた写真やオブジェが個人の<記憶>の源泉となる。
 
 映画『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督、1982年)および映画『ブレードランナー2049』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、2017年)で描かれる懐古的なインテリアは、個人の<記憶>の象徴であり、再帰的な過去とは変奏された<記憶>のことである。
 
 前作のレプリカントたちは家族写真を飾り、本作の主人公K(ライアン・ゴズリング)は、いつも子供の頃の思い出である小さな木馬を持ち歩いている。インテリアの偏愛は自らの<記憶>の確認作業である。
 
 両作で描かれる未来都市の姿と通奏する<記憶>というテーマは、私たちに現実の<都市>の行く末を想像させて止まない。
 
 急速に変貌する<都市>の行き着く先は、<都市>すらも<記憶>のなかにしか存在しえない世界かもしれない。その時、はたして私たちは、<記憶>があれば喪失のなかでも生き延びられると言い切れるだろうか。
   

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(*Blade Runner 2049,source :https://www.linkedin.com/pulse/unsurprising-blade-runner-2049-flops-box-office-julian-meush
                
 『ブレードランナー2049』の物語を追ってみよう。
 
 LAPDのブレードランナーのKは、ネクサス9型と呼ばれる、人間に従順なように設計された新型レプリカントで、反乱予備軍の旧型レプリカントの解任(抹殺)を使命としている。物語の冒頭で、倒産したタイレル社は、密かに生殖能力を有したレプリカントの開発に成功しており、ひとりの女性のレプリカントが子供を出産していたという衝撃的な事実が明らかになる。
 
 物語は、旧型レプリカントの抹殺の使命を負ったKとレプリカントの生殖の情報を手に入れたい新型レプリカントを製造しているウォレス社とが、その秘密を握る前作の主人公である元ブレードランナーのリック・デッカード(ハリソン・フォード)と母から生まれた特別な存在としてのレプリカントを探す展開として進む。
 
 悪徳都市ロサンゼルスを舞台にした孤独な男のシーク&ファインドの物語。本作はチャンドラーの正当な嫡子なのだ。
 
 捜査を通じてKは自らの出自への疑念が膨らんでゆく。『ブレードランナー』ではデッカードがレプリカントかどうかが議論を呼んだが、『ブレードランナー2049』の主人公Kは、母から誕生した特別な存在なのか、それとも製造された人間の僕(しもべ)に過ぎないのか。事件の捜査がいつの間にか自分探しに変容していくところも、まさにハードボイルドだ。
  
 誕生か、製造か。その違いは、<記憶>が成長の過程で自然に蓄積された思い出なのか、あるいは、制作されたデータが埋め込まれたのかがポイントとなる。
 
 その鍵を握る人物アナ・ステリン博士はレプリカントのための記憶作家として登場する。人間の本物の<記憶>と制作され埋め込まれた<記憶>を見分けられる能力を持っている。
 
 「大切なのは本物らしいこと」。Kに向かって博士はこうつぶやく。
 

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(*Blade Runner 2049,source :https://www.rogerebert.com/reviews/blade-runner-2049-2017
         
 物語の要所で必ず描かれるのが<大地>のイメージだ。
 
 物語の発端となる、母となった後に死亡した旧型レプリカントの遺骨は、丁寧に箱に入れられ、枯れ木の根元の土の中に埋葬されていた。
   
 Kが初めて上司の命令を無視して、自らの<記憶>への疑問からアナ・ステリン博士と会うシーン。免疫不全のためガラスの無菌室内で暮らす博士は、自らが生成したホログラフィーによる森の中でそこに住む昆虫と戯れている。それは、全編に漂う陰鬱な終末イメージとは正反対の、太陽と緑と生命が溢れるユートピアとしての<大地>だ。
 
 それがいかに荒廃していようとも人間が最後に帰還する場所は<大地>以外にない、あるいは、失われてしまったからこそ、人はユートピアとしての<大地>を求めざるを得ない、たとえそれが創られたイメージとしての<大地>であろうとも、というメッセージだろう。
 

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(*Blade Runner 2049,source : http://japanese.engadget.com/2017/05/08/2049/
    
 そして、Kが救出したデッカードを博士のいる研究所に案内するラストシーン。
        
 ウォレス社の女レプリカントのラヴとの死闘で傷を負ったKは研究所の入り口の階段に崩れるように横たわる。<大地>の上には雪が降り積み、Kの上にも静かに雪が舞い落ちる。降り止まない雪は前作のラストシーンで降る激しい雨と同様に、死と再生のメタファーだ。
 
 自らの意思で外から与えられた存在の意味を否定し、自己という自由を獲得したKは満足そうにかすかに微笑んだような表情をみせる。それは<大地>に帰還した人間の安堵感以外のなにものでもないようにみえる。
  
 白く染まった<大地>に建っているのは研究所の低層の<建築>であった。



<前編>に戻る


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映画『2001年宇宙の旅』から半世紀の今を見据えるアート展<前編>~『1/2 Century Later.』 by THE EUGENE Studio~

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 今年2018年は1968年から50年、半世紀に当たる。
     
 1968年はスタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』が公開され、フィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』が発表された年だ。
    

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(*『2001年宇宙の旅』日本公開時(1968年)のポスター)
     
 これらの作品を、その後の科学とテクノロジーによる未来像を決定づけたエポックメイキングな作品(★1)として位置づけ、1968年から半世紀経た今を、さらにはその先を見据えようとするアート展が昨年末に資生堂ギャラリーで開催された。
           
 『1/2 Century Later.』と題されたこの展示は、寒川裕人(Eugene Kangawa)が率いるTHE EUGENE Studio(ザ・ユージーン・スタジオ)によるものだ。
       
 今回の展示の中核をなすのが”Beyond good and evil, make way toward the waste land”(邦題:『善悪の荒野』、直訳すると「善悪を超えて荒野に向かって進め」という意)と名づけられらた作品。
          
 幅8,900mm奥行き4,200mm高さ3,200mmのガラスのボックスの中に美しき廃墟が出現する。
      

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 フランス・ルイ王朝のロココ・スタイルで設えられた空間が、破壊され、朽ち果て、廃墟化した様子は、ひと目見て息を飲むような圧倒的なインパクトを有している。
      

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 焼け焦げ、灰まみれなったベッド。床には一面に残骸が散乱し、白い灰が厚く積もっている。絵画が架けられた壁は崩れかかり、そこでの暮らしを偲ばせるように、食器や書籍が無造作に放置されたままのテーブルも白い灰に覆われている。
   

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 この作品は、特撮などを撮影するセットで一旦組み立てたものを燃焼させ、その後解体し、再度、展示現場で組み立てて制作されている。一部は18世紀の家具や本物の大理石、オリジナルで描かれた絵画などが用いられているそうだ。
                
 この部屋は明らかに前掲の映画『2001年宇宙の旅』のラスト近くで、木星探査宇宙船ディスカバリー号のボーマン船長がモノリスと対峙する部屋をモデルとしている。
  

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(*source:http://www.filmsufi.com/2016/08/2001-space-odyssey-stanley-kubrick-1968_16.html


 ボーマン船長は、その後、急速に老化が進み、宇宙の彼方へ飛翔し、肉体を脱した精神のみのスターチャイルドへと生まれ変わり、人類の新たな進化が暗示されて映画は終わる。
        
 モノリスは、いわゆる人間が「神」と呼び習わしてきた人知を超えた存在、実は高度に進化した地球外生命体が作った高度なコンピューター(あるいは究極のAI)として登場する。映画の要所でモノリスは人類の進化を促す。
                 
 なぜSF映画に場違いな懐古的なインテリアの部屋が出現するのかは不明だが(★2)、人間の究極の場(生き死に≒進化)として、コンピューター(あるいはAI)が生成したのが懐古的な空間だったことは、人のイメージを裏切るかのように、あるいは人の潜在イメージを先取りするかのように働くコンピューター(あるいはAI)の意思を思わせ、えも言われない不気味さを覚えたことは記憶に残っている。
         
 と同時に、光る床の上に浮かぶように出現したその場違いな空間に、不思議な美しさを感じたことも忘れられない。
           
 「神」は人工物だった(人工といってもモノリスは、人ではなく地球外生命が作ったと想定されている訳だが)という物語も、ディスカバリー号の頭脳であるコンピューターHAL9000の反乱というエピソードも、『2001年宇宙の旅』で含意されているのは、科学とテクノロジーによって制御される未来像だ。
          
 1968年に発表されたもうひとつの作品『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』で描かれるディストピアとしての未来像も同様だ。フィリップ・K・ディックの描く地球は、<最終世界大戦>の後の、ほとんどの人間が他の星に移住してしまった、放射能灰が降りしきる地球だ(★3)。
    
 輝かしいユートピアを夢みる未来像も、あるいはその反転としてのディストピアとしての未来像も、いずれも科学とテクノロジーの優位を語る同じ言説といえる。
              
 インスタレーション『善悪の荒野』は、こうした半世紀前に提示された未来像の遺産化(死の宣言)が意図されている。『2001年宇宙の旅』のモノリスが生成したロココの部屋を焼きつくし、廃墟化させることでピリオドを打ち、その先の地平を見据える。
 
 鮮やかな反転。


 <後編に続く>

 

(★1)その後の未来像を画したエポックメイキングな作品として、フィリップ・K・ディックの小説を原作とした映画『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督 1982年)を加えてもよいかもしれない。

(★2)アーサー・C・クラークの同名の原作では、この部屋はモノリスが、地球のTV番組に登場したホテルの部屋の映像に基づいて作った張りぼての部屋であることが説明されている。「地球の大都市ならどこにあってもおかしくない、上品なホテル・ルーム」という表現や本棚、TV、雑誌、花をいけた花瓶などが置いてあるとの描写から、原作におけるイメージは映画のそれよりも、もっと普通のホテルの部屋のイメージに近いもののようだ。何故、ロココ調が選ばれたのかは依然として不明だが、映画では映像のインパクトを重視して、未来的なイメージの光る床と、それとは正反対の懐古的・装飾的なインテリアを組み合わせて、地球の時空とは異なる、不思議な浮遊感と荘厳さを演出した、というような解釈は可能だろう。このほかにも、個人空間の発祥をルイ王朝時代のインテリアに求めた、円環的時間の表現など、さまざまな解釈を考えることも本作を観る楽しみのひとつといえる。あるいは、未来のイメージは意外に懐古的かもしれない、という映画『ブレードランナー』で表明されたメッセージと同じものを読み取ることもできるかもしれない。

(★3)『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』においては、ディストピアとしての未来像と呼応するように、人間存在のアイデンティティが問われる。



*参考文献 : 
アーサー・C・クラーク 『2001年宇宙の旅』、ハヤカワ文庫、1977年
      フィリップ・K・ディック 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』、ハヤカワ文庫、1977年

 

*初出 zeitgeist site 

 

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映画『2001年宇宙の旅』から半世紀の今を見据えるアート展<後編>~『1/2 Century Later.』 by THE EUGENE Studio~

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 寒川裕人(Eugene Kangawa)が率いるTHE EUGENE Studio(ザ・ユージーン・スタジオ)は、現代美術の領域を社会のフィールドに拡張させながら、アクチュアルなテーマをさまざまなフォームで展開している、新しいアーティスト像として注目を集めている企業だ。
 
 例えば、”Agricultural Revolution3.0(邦題:農業革3.0と題されたプロジェクトでは、鶴岡市と共同で、国内外の研究機関の協力のもと、リサーチ、インスタレーション、カンファレンスなどを実施(2012年)、”After the War”という作品では「今日」と同じ日付で世界のどこかで起っていた戦争のフッテージ(映像)がwebサイト上で上映される。そのコンセプチャルな発想はどこかマルセル・デュシャンを思わせ、そのアクチュアルなスタンスはヨーゼフ・ボイスを髣髴とさせる。
                
 THE EUGENE Studioは自らを、「ポスト資本主義の価値観を創造し、世界の新たな見方を提示する」ことを目指す「特殊なシンクタンク」と名乗っている(宮津大輔『アート×テクノロジー』の時代、光文社新書、2017年)。
 
 過去の戦争のフッテージを集積させた作品が”After the War”と名づけられているように、破壊に終わらずにその後の再生のイメージが用意されているところにTHE EUGENE Studioのいう「世界の新たな見方」の提示というスタンスを感じることができる。
           
 今回の”Beyond good and evil, make way toward the waste land”(邦題:『善悪の荒野』)と名づけられたインスタレーションの場合は、映画『2001年宇宙の旅』ではボーマン船長の視線の先(モノリスがあった場所の先)に位置するところに置かれた”White Painting”という作品に破壊からの再生のイメージが託されている。
 
 なにも記されていないようにみえる真っ白なキャンバスは、アメリカ、メキシコ、台湾などの街頭に置かれ、街ゆく人100人程度に接吻をしてもらったキャンバスのひとつだ。その模様を写した動画がiPhoneで再生されている。

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(*White Painting in Mexico, THE EUGENE Studio 『1/2 Century Later.』展 配布資料から)
 
 普通の人々による国を超えた小さな共同作業、イコンへの接吻など祈りという行為への連想、キャンバスにかすかに残された唾液の中のヒトのDNA。現代美術のフィールドでいえば、ロバート・ラウシェンバーグの作品”White Paintings”への応答が思い起こされるかもしれない。
   
 はたしてこれが『善悪の荒野』に対峙する再生のイメージとして、ふさわしいかどうかはわからない。
 
 作者の意図するところを超えて、インスタレーション『善悪の荒野』は、まったく別のことを考えさせてくれる。
        
 『善悪の荒野』の破壊された部屋は、観る者に自ずと戦争や災害による破壊を連想させる。科学やテクノロジーの進歩によっても克服できていない人間の悪意の連鎖(ex.戦争やテロによる破壊)や人間を超えた自然の存在(ex.3.11などの自然災害よる破壊)などのイメージだ。
 
 一方で、朽ち果てたルイ王朝スタイルの部屋が一面白い灰で覆われた様子は、まがまがしいというよりは、むしろ穏やかで静謐さをともなったイメージを放っており、それは18世紀からゆっくりと徐々に廃墟化しながら時の埃を堆積させて今に至っている空間のようにも見える。

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 破壊と同時にそこにあるのは、近代が要請してきた、より前へ、より新しく、より純粋にという価値観へのアンチテーゼだ。

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 朽ち果てることすら善い、あるいは朽ち果てるからこそ善い、というおよそ近代の科学やテクノロジーにはなかった、コンピューターやAIには備わっていない、新しさの強迫観念と息苦しさから解放された価値値、とでもいおうか。
 
 この美しき廃墟そのものが、破壊と再生の両義的なイメージを語っているのではないか。
             
 それは一見、ネガティブなことですら善いという、危うさを伴いながらも、より大きな自由と包容力と多様性とを持った世界のイメージだ。英題の意味する「善悪を超えて荒野に向かって進め」という言葉が含意する意味は、きっとそうしたことに違いない(★1)。
 
 作品は時として作者の意図を超えて、時代の危機やそれを乗り越えるヒントを可視可する。芸術だけが唯一持つ価値であり、アートを観る醍醐味だ。
       
 寒川裕人はこうも発言している。「「未来は新しい」という志向は難しくなってくると思います。抜本的な新しさを求め続けるのは危険だと。なぜなら過激になっていく可能性を秘めているからです。アートはそれを抑える力、あるいは美しく過激になることが可能だと思います。」(美術手帖website Eugene Kangawa×長谷川新THE EUGENE Studioが見せる1968年からの「半世紀」
 
 近い将来、人間がAIにとって代わられるのではないかという疑念やAIに支配される未来像など、いわゆるシンギュラリティ(★2)への懸念が、最近、急速に高まっているのも、AIという存在が具体的に現前化してくるなかで、単線的に過激化(純粋化)する科学とテクノロジーへの不安の現れといえる。
         
 新しさより廃墟を、フラットさよりも荒野を。この美しき廃墟はそう語りかけている。
 
 1968年、パリ五月革命に端を発し、世界中で既存の価値や文化や体制への異議申し立てが始まった。1968年はそうした年としても歴史に刻まれている。



<前編に戻る>


(★1)”Beyond good and evil”はフリードリッヒ・ニーチェの『善悪の彼岸』の英語題名。ニーチェはそれまでの哲学の転換を試みた哲学者だ。また”waste land”はT.S.エリオットの『荒地』の英語原題。『荒地』では荒廃と希望が両義的なイメージで語られる。
         
(★2)「「シンギュラリティ」とは一言でいえば、開発者である人類の知能を越えるAI(人工知能)が2045年には登場し、それ以降、AI自らが開発・進化することで、人類に代わってあらゆる分野で中心的な役割を担っていく状態を指しています」(宮津大輔『アート×テクノロジーの時代』、光文社新書、2017年)。 

 



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クルツィオ・マラパルテと「私のような家」 ~ 《マラパルテ邸》 ~

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 息を飲む、まさにそんな光景。世界で最も美しい家と言われてきたマラパルテ邸(Casa Malaparte カーサ・マラパルテ 1939)である。

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(*source : http://lisaparigi.com/2016/07/casa-malaparte/)

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(*source :
http://lisaparigi.com/2016/07/casa-malaparte/) 
 
 マラパルト邸は、ナポリ湾に浮かぶカプリ島の東に突き出たマッスーロ岬の突端、切り立つ岩の上に身を伏せるように建っている。3方を海に囲まれた崖のてっぺんに、まるでどこからともなく舞い降りたような、そんな形容が似つかわしい家。
               
 北にティベリウス帝の別荘(ヴィラ・ジョビス)のある切り立った崖、その先のベスビオ火山、東にはソレント半島が眺められ、南西にはファランジーニの巨岩が真近に迫り、南東方向遥かに先にはポセイドン由来の古代ローマ遺跡の町パエストゥムを望む。ヨーロッパ文明の源流地ギリシャとローマを手中に収めるたような場所に、この家は建っている。
     
 テラコッタ・レッドの姿が地中海の海の青さ、空の青さと強烈なコントラストをなし、末広がりに拡大しながら屋上テラスに達する三角シェイプの階段は、誰もがひと目見たら忘れられない印象を残す。

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(*source :http://www.wallswithstories.com/architecture/casa-malaparte-the-story-behind-the-majestic-villa-from-godards-contempt.html)
 
 もともとの設計はアダルベルト・リベラ。ジュゼッペ・テラーニらとともにグルッポ7を結成、イタリア合理主義建築を提唱し、後にはムッソリーニの下、ファシズム時代を代表的建築家として活躍した。
               
 リベラの当初の設計は、箱を2段に重ねたごく普通のモダニズムイメージの建築であり、マラパルテ邸の最大の特徴である屋上テラスに達する三角形の階段はない。オーナーのマラパルテ自身が地元の石工と共同で作り上げたというのが定説になっている。この住宅はマラパルテ自身の作品なのだ。マラパルテは、この景色は私がデザインしたと、アフリカ戦線に赴く途中に立ち寄ったロンメル将軍に自慢している。
    
 マラパルト邸は、ジャン・リュック・ゴダールの映画『軽蔑』(1963年)の舞台となったことでも有名だ。
 
 『軽蔑』はこんなストーリーだ。

     
       
 ハリウッドから来た映画プロデューサー(ジャック・パランス)は、監督(フリッツ・ラング)の下、ホメロスの『オデュッセイア』を下敷きにした映画を撮ろうとしているが、もっと通俗的な内容にするためにシナリオ改変の書き手を探している。劇作家の夫(ミシェル・ピコリ)は、妻(ブリジッド・バルドー)との生活のために、この仕事を引き受け、夫婦で撮影現場であるカプリ島の別荘に赴く。何故か妻は夫を寄せ付けなくなり、軽蔑すると言い放つ。夫はその理由を問いただすが、妻は「あなたのせい」とだけしか言わない。
     
 男女二人のやりとりに、ゴダールが当時結婚していたアンナ・カリーナとの関係が反映されていると言われてもいるが、軽蔑の理由が最後まで不明なところ(理由などない?)など、映画のストーリーは原作に忠実だ。原作はアルベルト・モラヴィア。
 
 『オデュッセイア』は、イタケーの王である英雄オデュッセウスがトロイア戦争の勝利の後に、妻ペーネロペーの元に戻るまで10年間に渡って地中海エリアを漂流する物語である。
      
 マラパルテ邸は、まさにオデュッセウスが漂流した地中海(ティレニア海)を見下ろす場所に建っている。有名なエピソードであるセイレーンが住む島があったとされる場所も望める。
 
 当時29歳のブルジッド・バルドーは、その自慢の肢体を惜しげもなく晒して眼下の海で泳ぎ、屋上テラスで日光浴をする。妻の居場所を捜して、末広がりの階段を駆け上がるミシェル・ピコリは不安げな足取り。窓の外にファランジーニの巨岩が映されるリビングルームでは、登場人物たちの気まずい雰囲気の会話が続く。輝く太陽と眩い地中海とは正反対に、陳腐なイメージの劇中劇の撮影風景が白々しい。屋上テラスから見た海と空が溶け合う水平線がラストショットだ。
      
 マラパルテ邸を建てたクルツィオ・マラパルテ(Curzio Malaparte)という人物は、その家にもまして破天荒で危険な魅力を持った人物だ。

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(*source:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Curzio_Malaparte_alpino.jpg)

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(*source:http://www.lastampa.it/2008/02/06/cultura/la-conversione-di-malaparte-JWdKSlui2Mcmmvc0ymZrwI/pagina.html)
                        
 本名クルト・エーリッヒ・ズッケルト。1898年トスカーナに生まれたドイツ系イタリア人。当時の政治的・文学的英雄ガブリエーレ・ダンヌンツィオと同じ名門校チコニーニの出身だったことを生涯誇りにした。早熟な政治少年はイタリア参戦前から義勇兵として第一次大戦の前線に。ジャーナリストとして処女作は発禁処分。その後ファシスト党に入党。数々の雑誌を創刊、編集する。ファシストでありながらファシスト批判を繰り返す。ヒットラーを女のようだと痛罵したことで有名な『クーデターの技術』(1931)は左右両陣営から批判をあびる。度重なるムッソリーニ批判により、ついにはファシスト党員証を剥奪、逮捕、リーパリ島に流刑。第二次大戦ではイタリア軍の戦地特派員として再び前線に赴く。ドイツ戦線での体験に基づいた小説『壊れたヨーロッパ』(1944)は、ヨーロッパの戦場を描き衝撃を与える。敗戦後は反ファシストとファシストの両方の理由で逮捕と釈放が繰りかえされる。密かに共産党入党を申請し、ロシア、中国を訪れる。1957年、第一次大戦の戦場で受けた肺の損傷が遠因となり死去。死の床にあってイタリア共和党とイタリア共産党から党員証が届くが、最期はそれらを捨てて、プロテスタントからカトリックに改宗したと伝えられている。
    
 ペンネームのマラパルテとはイタリア語でバッドサイド、バッドパートという意味。ナポレオン・ボナパルトのボナパルテ(グッドサイド、グッドパート)を茶化したシニカルなおふざけの陰に、その向こうを張ろうとするヒロイックな自己意識も見え隠れする。
    
 作家、ジャーナリストであり編集者。あるいは、共和主義者であり、ファシストであり、共産主義者であり、キリスト教徒。ファシスト批判を繰り返すファシスト。権力志向と権力批判の奇妙な共存。
           
  英雄願望のニヒリスト。あらゆる価値の紊乱者にして生粋の非順応主義者。矛盾だらけのとっ散らかったエピソードの数々。
 
 マラパルテはその住宅を“A house like me” 「私のような家」(イタリア語でCasa come me)と呼んでいた。
      
 孤高であることと、ヒロイックでロマンチックな生を同時に求めるような、まるで観客のいない自己劇化のための舞台のような家。
 
 崖に張りついた堅固な要塞にして、同時に今にも海に向かって漕ぎ出そうとしている船舶のような自由な漂泊のイメージも漂う家。
 
 それが建つ、地中海の輝きとヨーロッパ栄光の地のイメージとは正反対の、どこか監獄や独房を思わせるような、暗く閉鎖的な雰囲気。

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(*source:http://www.arquiscopio.com/pensamiento/la-villa-malaparte/?lang=en)
 
 マラパルテ邸は、なんとそのオーナーの人生に似ていることか。
         
 「イタリア文化のギャングスター」(アントニオ・グラムシ)と呼ばれ、終生、胡散臭さがつきまとったマラパルテだが、窮地に陥った芸術家をその政治信条や宗教いかんにかかわらず寛大に援助するという美徳を持っていた。モラヴィアもその一人で、ブルジョワジー批判の危険な作家としてムッソリーニから睨まれていたモラヴィアをトリノの新聞の特派員としてロンドンとパリに脱出させたのもマラパルテだった。マラパルテ邸での二人のツーショットの写真が残されている。
       
 イタリアが生んだ20世紀屈指の詩人ウンベルト・サバもその一人だった。ユダヤ人迫害から逃れる逃亡の旅に疲れ、窮地に陥っていた詩人をマラパルテは助力している。イタリアの辺境トリエステに生きた、マラパルテとはおよそ正反対のイメージの叙情詩人は、ローマの病床でマラパルテにこう話しかけた。
          
 「きみは達者だ。じつに達者だ。しかし、きみのなかには、クルツィオ――わたしにはわかっているとも――謙虚なところ、と同時に善良なところといった気性が、隠されている。これは私の願いだが、きみがやがて老いて疲れはて、そして”成功”に飽き飽きしたときに、神様がきみの霊感を吹き込んで、彼がきみにあたえたもうた業でもって、きみの死のあとにはじめて出版される一冊の本を(したがって”成功”とはまったく無縁だ、この世のきみにとっては)きみに書かせてくれたらよいのだが」(『壊れたヨーロッパ』 古賀弘人の解説より)
  
 ヒロイックな生の願望の陰に隠されているナイーブな真性を射抜くような、サバの鋭くかつ愛情に満ちた言葉に、マラパルテはじっと耳を傾けていたそうだ。
 
 このエピソードに登場するマラパルテも、矛盾に満ちたクルツィオ・マラパルテの人生のなかのひとつの真実の姿であったことは間違いない。

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(*source :http://www.wallswithstories.com/architecture/casa-malaparte-the-story-behind-the-majestic-villa-from-godards-contempt.html


*参考文献 : クルツィオ・マラパルテ『壊れたヨーロッパ』、晶文社、1990
        クルツィオ・マラパルテ『クーデターの技術』、中公選書2015
        アルベルト・モラヴィア『軽蔑』、角川文庫1964
        映画『軽蔑』(監督ジャン・リュック・ゴダール、1963)   
        Michel McDonough MALAPALTE A HOUSE LIKE ME、Clakson Potter 1999

 

 

        




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装飾とデザインを考える~「装飾は流転する」展をきっかけに~

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装飾とは時代遅れの産物か?
 
 シンプルなモダンデザインが当たりまえになっている時代にあって、装飾は過去の因習や特権の象徴、時代遅れのスタイル、バッドセンスの意匠、と完全に悪者扱いである。
 
 ミュラー邸などモダンニズム建築の先駆的な作品を作った世紀末ウイーンの建築家アドルフ・ロースは、「装飾と犯罪」(1908)と題された論文で「文化の発展は日用品から装飾を削り落としていく過程に相当する」と定義し、装飾は犯罪だとまで言い切った(アドルフ・ロース『にもかかわらず、』みすず書房、2015)。
       
 劇作家で評論家の山崎正和は「人間の文明と文化の歴史のなかで、もっとも古い営みの一つが造形であることはほぼまちがいない」として、さらにその造形は、普遍性を志向する意志とそれに抗い個別性に固執する意志の二極への分化をはらんだ行為であるとし、前者をデザイン、後者を装飾と呼んだ(山崎正和『装飾とデザイン』、中公文庫、2015)。
   
 建築の世界を例にとり、世界の普遍性を希求する意志(つまりデザイン)の事例として、ル・コルビュジエの《サヴォア邸》やミース・ファン・デル・ローエの《シーグラム・ビル》が挙げられ、物の個別性に固執する意志(つまり装飾)の事例として、アントニオ・ガウディの《カサ・バトリョ》と《サグラダ・ファミリア》が挙げられる。

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(*Villa Savoia,source : http://it.france.fr/it/da-scoprire/alla-villa-savoia

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(*Casa Batlló,source : http://bubahouse.com/casa-batllo-buba-price-250e/
 
 装飾とデザイン。この対立するふたつの原理がお互いに影響を与えながら展開してきたのが、造形の歴史だった。
  
 先に挙げた、装飾を徹底的に攻撃したロース自身が「みずからの顔のみならず身のまわりの物すべてに装飾を施そうとする欲求は、造形芸術の始原である。同時にそれは絵画芸術の揺籃でもある」と記しているように、装飾は造形や芸術の始まりであった。
 
 造形は装飾から始まった。装飾はデザインに先立つ人間の意志だったといえる。
      
 その装飾をテーマにしたアート展『装飾は流転する』(@東京都庭園美術館、2017.11.18~2018.2.25)を見ながら、装飾とデザイン、そして芸術を考えた。
 
炸裂する装飾パワー~『装飾は流転する』展~

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 リモアの既製品のアルミのスーツケースにエンボス加工でイスラム文様を施したのは、ヴィム・デルヴォアによる作品。

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(*ヴィム・デルヴォア《リモア・クラシックフライト・マルチウィール917.73.00.4》、2015)
 
 シンプルで機能的で現代的、モダンデザインの見本のようなリモア社のスーツケース全体に施された細密なイスラム文様。そのめくるめく装飾は、リモアのもつモダンなイメージを裏切り、日常性からの逸脱をイメージさせる、妖しくも抗しがたい魅力を放っている。
 
 こちらは一転して、装飾が構造であり意匠であるような《ノーチラス(スケールモデル)》と題された作品。微細にレーザーカットされたひとつひとつのゴシック装飾の部品が集積してノーチラス(オウムガイ)のイメージが生み出される。ここでは全体と部分、フォルムとディテール、本体と装飾という腑分けはもはや完全に意味を失っている。

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(*ヴィム・デルヴォア《ノーチラス(スケールモデル)》、2013)
 
 考古学が明らかにしているところによれば、先のロースの言葉にもあるように、ひとが最初に意識した「もの」とは自らの身体だった。装飾の起源は自らの身体に施す造形だった。化粧やタトゥーや髪飾りや衣装、ここから造形が始まった。それを象徴するかのようなのが山縣良和の作品だ。
     
 なかでも、装飾の持つ祭祀性という役割を強烈に印象づけ、偏執的なまでの過剰さで見るものを圧倒する《七服神》という作品。均衡やほどほど、という常識とは正反対の爆発するエネルギー。装飾という行為自体が内包する逸脱や過剰というヴェクトルを感じさせ、これでもかという領域まで行かざるを得ない、装飾の持つ暗い宿命を暗示しているかのようだ。「装飾とは造形の終わりなき延長」(山崎正和)、との言葉が浮かんでくる。

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(*山縣良和《七服神》「THE SEVEN GODS-clothes from the chos」 2013春夏コレクションより、2013)
 
装飾とデザイン、そして芸術が葛藤する造形の歴史
 
 装飾は、先史時代の人間が、その根源的不安を背景に、自らの身体や身近な場所や物に印づけをして「聖別」することで、寄る辺なき世界における自らと自らのいる場所を確かなものとする行為が始まりである。一方でデザインは、人間が道具づくりという行為を通じて、世界を理解し、対峙し、支配するための普遍性や抽象性を獲得したことに始まる。
 
 その後、装飾は「見るための造形」、デザインは「使うための造形」としてそれぞれ独自の役割を担ってきたが、近代における工業化は状況を一変させる。
 
 工業化が生み出したものは、機械を使った安易な装飾と悪しきデザインの氾濫だった。これに対抗するように誕生したのが近代における芸術という概念だったと山崎正和は指摘する。
 
 美を生み出させない工業化時代のデザインと装飾に代わり、芸術は人間感性の絶対性の証として特権化してゆく。
 
 これに対して、装飾は機械化の否定による巻き返しを図る。アーツ・アンド・クラフツ運動、アール・ヌーヴォー、アール・デコの動きである。一方、デザイン側の建て直しは、アーツ・アンド・クラフツ運動を契機としながらも、逆に機械化を取り込みながらドイツ工作連盟を経てバウハウスによってなされてゆく。
 
 その後、特権化した芸術は、人間感性の優位性という自らのレゾンデートル(存在意義)をも自己否定するかのように概念化の道をたどる。頭で理解する、理性で観賞する抽象芸術やポップアートやコンセプチュアル・アートの世界だ。
          
 バウハウスはモダンデザインとして結実し、世界に普及していくが、そのモダニズムもLess is moreのスローガンがいつしかLess is boreと称されるようになり、ポストモダンの盛衰を経て、かつてデザインという行為が希求した普遍性という価値への懐疑を募らせてゆく。
  
装飾の未来、デザインの未来
 
 では、装飾はどうなったのか。建築や工芸や美術界での装飾の旗色は悪い。そんななかで装飾がそのパワーを保ってきたのが、その起源でもある身体造形としての装飾である。化粧、装身具、服飾などファッションの分野である。
 
 今回のアート展『装飾は流転する』でも、過剰、逸脱、過激という装飾本来の持つエネルギーを最も感じさせたのが山縣良和のファッション作品だった。
 
 とはいえ、コスパが言われ、ファストファッションが人気を集め、ミニマリストが注目され、「終わコン」とまで揶揄されるファッションに、はたして装飾の未来はあるのか。
 
 世界のなかでの人間の根源的不安に由来する、身近な物への印づけに起源を持つ装飾を、はたして人は完全に否定しきれるのだろうか。

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(*旧朝香宮邸 正面玄関 ガラスレリーフ扉 ルネ・ラリック作(部分))
 
 モダニズムが世界を席巻していく20世紀初頭、建築界における最後の装飾の輝きといわれたのがアール・デコである。アール・デコの意匠を纏った旧朝香宮邸(東京都庭園美術館)の優美な空間は、装飾とデザイン、そして芸術のこれからに思いを馳せるのに、これ以上にふさわしい場所はないことは、唯一確かなことである。


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シンプルの系譜#1 ~ ガブリエル ”ココ” シャネル ~

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 モダンデザインを一言でいうとシンプルなデザインということになるだろう。
 
 広辞苑には「シンプル」とは「単純なさま」とある。シンプルとは、色・かたち・素材が簡素で抑制されているさまである。
     
   シンプルはモダニズムの専売特許ではない。また、建築やプロダクトのデザインに限られるというわけではない。シンプルという価値観はどこから来たのか。シンプルの具体的な現れ方とは。シリーズ《シンプルの系譜》では、さまざまな切り口でシンプルの様相を探ってみる。

 ガブリエル ”ココ” シャネルは、20世紀初頭、女性ファッションにいわゆる「シャネル革命」といわれる変革をもたらした。

 

(*Coco Chanel at age 23 ,source :http://pictify.saatchigallery.com/201979/coco-chanel-at-age-23)

 男性ファンションがフランス革命(1789年)を境に、ブリーチズ(半ズボン)+ストッキングのスタイルからトラウザーズ(長ズボン)へと移行したのを期にモダナイズされていくのとは対照的に、女性ファッションは第一次大戦(1914年)の時期まで、基本的にはフランス革命以前からの宮廷スタイルをベースにした世界にあった。

 コルセットで締め付けたS字型のシルエット、巨大に広がった引きずるような長い裾、フリル、ギャザー、レース、フリンジ、襞飾りなど雑多な装飾とディテール、シルクや毛皮などの富を象徴する高価な素材、パステルカラーの氾濫、巨大なパイにような飾られた帽子など、シャネルはこうした100年前から変らない宮廷スタイルをベースにした貴族的エレガンスを葬り去るような作品を次々と創り出していった。

 

(*復元された「プティット・ローブ・ノワール」、カール・ラガーフェルド撮影 ,source : ジャスティン・ピカディ 『ココ・シャネル 伝説の奇跡』(栗原百代、高橋美江訳、マーブル・ブックス、2012年初版))
 
 シャネルの傑作のひとつ「プティット・ローブ・ノワール」(Little Black Suits 小さい黒い服)と呼ばれた超シンプルな黒のドレス。タイトなシルエット、短いスカート、極限まで抑制されたデザインのこのドレスを1926年10月1日のアメリカ版『ヴォーグ』は、「シャネルのフォード」と呼んで絶賛した。「フォード」とは車のフォードのことであり、簡素で魅力的でかつ量産可能な、その革命性を上手く言い当てている。
 
 下着の素材だったジャージーを使った身体に沿ったドレープのドレス、パンタロンやスーツなどメンズライクなデザイン、ポケットやベルトなどの実用的なディテール、ブランドカラーとなったベージュ(白)と黒のモノトーンの色使い、雑嚢にヒントを得たといわれる肩掛け可能なシャネル・バッグ、ざっくりとしたツイードによるカーディガン・スーツ(いわゆるシャネル・スーツ)など、シャネルは、それまでの女性のイメージをことごとく拒否する「シンプルで着心地が良く、無駄がない」独創的なスタイルを次々と考案し、その後の女性ファッションに与えたインパクトの大きさから「シャネル革命」と称された。
   
 回想録の著者ポール・モランは、その過激なまでの姿勢から、シャネルを「皆殺しの天使」と呼んだ(ポール・モラン 『シャネル 人生を語る』(山田登世子訳、中公文庫、2007年初版)。
           
 「いったいわたしはなぜこの職業に自分をかけたのだろうか。(中略)自分の好きなものをつくるためではなかった。何よりもまず、自分の嫌いなものを流行遅れにするためだった」
       
 「真の文化は何かをそぎ落としてゆくが、モードにあっても、美しすぎるものから始まってシンプルなものへと到達するのが普通だ」
 
 「プロのクチュリエは奇抜なモードを考えたりしない。むしろ行き過ぎをどれだけ抑えるかを考えるものだ。わたしは保守的過ぎるぐらいが好き。中くらいなものを良くしてゆくのが大切なのよ。」
 
 「女はありとあとあらゆる色を考えるが、色の不在だけは考えが及ばない」
    
 「シャネル革命」とは、一種の質素革命だった。シャネル自身もはっきりと次のように語っている。
 
 「間接的にではあれ、華美なパリジェンヌに素朴な美をおしつけたのはオーヴェルニュの叔母たちなのだ。あれから歳月がたち、今になってようやくわかる。厳粛な地味な色がすきなのも、自然界にある色を大事にしたがるのも、アルパカ製の夏服や羊毛(チュビオット)の冬服が修道服みたいな裁断になっているのも、みなモン=ドール(★1)からきているのだということが。パリのおしゃれな女を夢中にさせた禁欲的なファッションはみなそこから来ているのだ。私が帽子をきっちりかぶるのも、オーヴェルニュの風が帽子をふきとばしそうだったからよ。つまりわたしはパリを征服したクエーカー教徒だったのだ」
 
 この回想録では語られなかったことがある。
         
 シャネルは回想録で、6歳で母が死んでオーベルニュに住む母方の叔母たちのところに預けられて育ったと語っているが、実際にシャネルが少女時代をすごしたのは、オーヴェルニュ地方の叔母の元ではなく、オーバジーヌ(★2)の孤児院として活用されていた僧院だった。
        
 家に寄り付かない行商人の父親といつもその後を追っていた母親との間に生まれ、母親が12歳で亡くなった後、父親はシャネル姉妹をリムーザン地方のオーバジーヌの孤児院に置き去りにして行方をくらまし、ニ度と姿を現さなかった。シャネルは12歳で親に捨てられた孤児として、孤独と屈辱のなかで少女時代を過ごしたのだった。
       
 シャネルは、父はワインのネゴシアンで商用でアメリカに渡ったとの言説を捏造して、自分を捨ててニ度と姿を見せなかった父のことを、複雑な愛憎の想いのなかに閉じ込めている。シャネルは息を引き取るまで、父はいつか迎えに来ると密かに信じていたとの証言もある。

 

(*Coco Chane in 1937 Photo by Boris Lipnitzki, source:https://www.pinterest.jp/pin/156429787030105737/
           
 ニーチェは「道徳における奴隷一揆は、ルサンチマンそのものが創造的となり、価値を生みだすようになったときにはじめて起こる」(『道徳の系譜』)と言っている。
           
 ルサンチマンとは、いわゆる、ねたみ、ひがみ、やきもちなどの怨恨のことだが、ニーチェは、価値の転倒を引き起こすにまでに至ったレベルの怨恨を指してルサンチマンと呼んだ。
       
 「シャネル革命」とは、シャネルのルサンチマンによる<価値の転倒>だった。シャネルは、オーバジーヌの孤児院での質素な生活体験を、孤独と屈辱をテコにしてシンプルという美意識にまで昇華させ、それまでのパリにおける貴族的な美意識を転倒させ、今日につながる新しいエレガンスを生み出した。
      
 ニーチェ的な言い方をすれば、さしずめ、エレガンスにおける奴隷一揆と呼ぶべき復讐劇だった。

 

(*Coco Chanel in 1962,Photo by Douglas Kirkland, ,source :https://theredlist.com/wiki-2-16-601-788-view-portrait-1-profile-kirkland-douglas.html
    
 「シャネル革命」の原点となったジャージー素材のルーツは、メンズニットや男性用乗馬ズボンであり、シンプルな仕立てのヒントは、愛人たちの軍服や乗馬服やテーラード・スーツであり、シャネルスーツの定番生地のツイードは、恋人だったイギリス貴族ウエストミンスター公爵のワードローブに由来し、白と黒の色使いは、孤児院時代の孤児たちや修道女の制服の記憶に基づき、シャネルのキーカラーであるベージュと黒は、ロマネスク様式の僧院の石壁(ベージュ)とスレート屋根(黒)にインスパイアされたものだった。
         
 シャネルは、フランス的フェミニンに対してアングロサクソン的ダンディーを、社交界の虚栄に対して孤児院の質素さを、都会の華美に対して田舎の素朴さを、洗練に対して実用を、貴族的ゴージャスさに対してロマネスク僧院の抑制の美学を対置することによって<価値の転倒>を図る。
           
 さらには、ジュエリーに関して「すごく立派な宝石を見ると、皺とか未亡人のしなびた肌とか骨ばった指、死、遺言、公証人、葬儀屋なんかを連想してしまう」あるいは「首のまわりに小切手をつけるのと同じことではないだろうか」と言い放ち、ビジゥ・ファンテジーと呼んだ模造真珠などを大胆に使ったイミテーションのジュエリーを発表したのもシャネルであり、あるいは「そうよ。一度発見されてしまえば、創造なんて無名のなかに消えてゆくものよ」とうそぶいて自らのデザインがコピーされるのをむしろ歓迎したのもシャネルだった。
       
 シャネルによる<価値の転倒>の復讐劇は、本物に対してフェイクを、オリジナリティに対してコピーを対置させるという地平まで行き着いている。
           
 シンプルは現状維持からは生まれない。あるいは、何もしないことがシンプルではない。シンプルは既成価値へのノン、既成の<価値の転倒>によって誕生する。女性ファッションにおけるガブリエル ”ココ” シャネルという《シンプルの系譜》はそう教えてくれる。

 

(*Coco Chanel in 1962,Photo by Douglas Kirkland, source :https://www.telegraph.co.uk/culture/photography/11223039/coco-chanel.html






(★1)モン=ドールとは、オーヴェルニュ地方の山 Mont Doleのこと。
 
(★2)オーバジーヌがあるリムーザン地方はオーヴェルニュ地方の西隣に位置する。

 

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参考文献 : ポール・モラン 『シャネル 人生を語る』 (山田登世子訳、中公文庫、2007年初版   
      山口昌子 『シャネルの真実』 (新潮文庫、2008年初版)
      山田登世子 『シャネルー最強ブランドの秘密』 (朝日新書、2008年初版)
                ジャスティン・ピカディ 『ココ・シャネル 伝説の奇跡』 (栗原百代、高橋美江訳、マーブル・ブックス、2012年初版)
                イザベル・フィメイユ 『素顔のココ・シャネル』 (鳥取絹子訳、河出書房新社、2016年初版)
                リサ・シャネリー 『シャネル、革命の秘密』 (中野香織訳、ディスカヴァートゥエンティワン、2014年初版)
                海野弘 『ココ・シャネルの星座』 (中公文庫、1992年初版)
                 E・シャルル=ルー『シャネル ザ・ファッション』(榊原晃三訳、新潮社、1980年)



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物質の発見、ものとの対話 ~ 「くまのもの-隈研吾とささやく物質、かたる物質」展 ~

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 『建築的欲望の終焉』、『負ける建築』、『自然な建築』、『反オブジェクト』。著作の題名をたどるだけで建築家 隈研吾が目指してきたものが、一貫して<反建築>であることが分かる。
 
 隈本人の言葉で言えば「自己中心的で威圧的な建築を批判したかった」ということになる。隈はそうした建築をくオブジェクト>と名づけた(『反オブジェクト』 2000年初版)。モダニズム建築もその例外ではない。「透明性と開放性を基本テーマとして出発したはずの二十世紀のモダニズム建築さえも、実はオブジェクトという病に深くおかされているのである」

 反オブジェクト建築を目指し孤独な格闘を続けていた、バブル崩壊後の失われた十年といわれ、自身も「底なしの海底」のような状況にあったという2000年前後に、隈研吾は<物質>を発見する。

 「オブジェクトを否定し、形を否定しても、物質だけは否定いしようがない。(中略)物質という否定しようがない、確実なものにたちかえったことで、自分の建築ははっきりと変わり始めた。海の底にあって、倒れも壊れもしない岩盤、物質に出会ったのである。底の底ではじめて、建築をつづけるためのきっかけを手に入れることができた」と隈研吾は語って、<竹><木><紙><土><樹脂><繊維><膜>などの、鉄とコンクリートとガラスを主な素材とするモダニズム建築が見向きもしない、弱く、薄く、ゆるく、細く、軽く、繊細な、自然由来の素材に次々とチャレンジしていく。

 「建築界はコンクリートしか見ないうちに認知症になった。(中略)コンクリートは単純で、原始的で、破壊的な建築構法といえる。時間がたてばドロドロしたものが固まって、びくとも動かない巨大な死体ができあがる。後悔しても手遅れである。(中略)コンクリートの大洪水の結果、20世紀の建築は、かつてないほどに、退屈で貧しいものになった」(展示図録 Kengo Kuma : a LAB for materialsに掲載された論文「物質にかえろう」から)

 その後の隈研吾の活躍と存在感は周知のところである。

 「くまのもの-隈研吾とささやく物質、かたる物質」展(@東京ステーションギャラリー、2018年3月3日~2018年5月6日)は、建築家 隈研吾のそうした軌跡を集大成した、そして自らの建築のオリジナリティを宣言した建築展である。

 その軌跡を、隈研吾自らの言葉とともにたどってみよう。

くまのもの

 

ゆるいジョイントで木を編む。ゆるく、自由なクラウド状の建築の未来を夢見る
     
 「木は最も編みやすい素材である。編み物のすばらしさは、ジョイントがゆるいことで、だから服は、身体の激しい動きにも追従できる。木を編むときに僕らは同じようにゆるいジョイントをめざしている。襖や障子というユニットを木でつくって、ゆるいジョイントで本体に固定すれば、自由に変化し、形が変るゆるい建築もつくれる。木だからこそクラウド状の未来的な建築を夢見ることができる」
      
 写真1は、ダイアゴナルのヒノキの立体格子で3階建ての建築を支える積層型の構造をつくった<サニー・ヒルス・ジャパン・2012>という作品の構造体。内部に骨格がある脊椎動物型のラーメン構造に対して、これは硬く構造的な外皮をもつ昆虫型構造だと解説される。写真の左に写っているのは4本のヒノキのスティックが一気に交わる<スターバックスコーヒー太宰府天満宮表参道店・2011>で使われたインテリアエレメント。 

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(*写真1 : <サニー・ヒルズ・ジャパン>の構造体(右))

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(*写真2 : <サニー・ヒルズ・ジャパン>模型)

            
紙や土は液体である。紙や土を吹き付けるとリジッドな金属が曖昧で柔らかい存在に変化する
    

 「和紙が液体と固体の中間にあるとしたならば、土は固体と液体と気体との間を漂っている。(中略)土壁は、濡れ雑巾でふけば、容易に液体に返って、雑巾のシミとなるのだから、土壁はまさに変幻自在であり、自由であった。この土の液体性を用いて、金属にガラスファイバーを混ぜた土を吹き付けると、冷たい金属であったものが、暖かく湿り気のある土へと転生する」
   
 写真3の下に写っているのは<安養寺木造阿弥陀如来坐像収蔵施設・2002>で使われた地元山口県の豊浦土を使った日干しレンガブロック。上は<虫塚・2015>と題されたモニュメントで使われたガラス繊維を混ぜて土を吹き付けたステンレスメッシュ。在来工法の住宅ですら今や土を見ることはない。モダニズム建築において徹底的に排除されてきた故に、土の持つ粗くファジーな粒子性が今見るとむしろ新鮮だ。

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(*写真3 : <安養寺木造阿弥陀如来坐像収蔵施設>の日干しレンガ(下)と<虫塚・2015>のメッシュ(上))

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(*写真4 : <安養寺木造阿弥陀如来坐像収蔵施設>)

                 
石も木と同様に生き物だった痕跡を内部組成として内包している。建築は生と死を見せることもできる
      
  「コンクリートの上にペラペラした石を貼るやり方が、特に嫌いで、テクスチャーマッピングでコンクリート建築を偽装しているようでそのウソっぽさに耐えられなかった。20世紀建築は、一言でいえばコンクリートの上のテクスチャーマッピングで勝負してきたわけである。(中略)石を塊として定義し直すと、石が表面上の模様としてではなく、さまざまな内部組成を持った、生き物として見えてくる」
  
 写真5は、多孔質な軽石凝灰岩の大谷石のブロックを鉄板を補強材として使いながらダイアゴナル状に組んだ<ちょっ蔵広場・2005>の外壁。石の重量感やテクスチャーと浮遊感・抜け感という従来はありえなかったイメージが共存している。

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(*写真5 : <ちょっ蔵広場>の外壁)

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(*写真6 : <ちょっ蔵広場>)

      
ガラスはただの透明でも、ただの無でもない。ガラスは、土であり、火であり、液体でもある
     
 「ガラスが土、火、液体であることは、忘れられていくばかりであった。しかし、ミースもバルセロナパビリオン(1929)では、しっかりと水を張って、ガラスと組み合わせている。僕らはガラスがただ透明でも無でもなく、物質として様々に振る舞うということに着目し、その振る舞いを、引き出そうと試みる。特にガラスには厚みがあることが大事で、その厚みは、ガラスの端部=エッジで、突然に出現する。物質を扱う時はその端部の扱いが一番大事で、そこで、物質の厚さ、重さ、固さなどがストレートに伝わってくる。中でもガラス端部は一番大事である」

 写真7は、<Yakisugi Collection・2017>と題された、焼杉のメス型で3次元のテクスチャーをつけたガラス・プロダクト。同じ模様は存在しない。チェコのガラスファクトリーとのコラボレーション。均一で透明な無のイメージとしてのガラス素材という、モダニズム建築における認識を覆す企て。

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(*写真7 : <Yakisugi Collection>)

     
繊維でできた生物としての身体に、衣服という繊維をまとっている私たち。それに重なり、溶け合う、膜/繊維としての建築
  
 「繊維自体が構造を内蔵して、自立するのである。柔らかさと固さという概念も相対的で、もはややわらかさと固さとは対立しないのである。やわらかく弱いはずの繊維で、重く固いコンクリートのラーメン構造の耐震補強をすることにも挑戦した。重く固い20世紀的な物質のもろさを、現代のやわらかな物質で補うのである」
 
 写真8は、持ち寄った傘でノマド型建築が生成される<Casa Umbrella・2008>という作品。15個の傘をウォータープルーフのジッパーで縫い合わせることでフラードームを形成している。膜材が引張材、傘の骨が圧縮材として機能する一種のテンセグリティ構造でもある。既成概念としての建築を否定した先駆者バクミンスター・フラーへのオマージュ。

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(*写真8 : <Casa Umbrella>)

 写真9は、鉄の7倍の引っ張り強度を持つといわれ、建築素材としてその可能性が注目されるカーボンファイバーを既存のコンクリート建築の耐震補強材として使った<小松精練ファブリックラボラトリー・2014>の模型。地元北陸の糸撚りの技術を応用して繊維としての柔軟性が活かされている。繊細で、透明で、やわらかく、かつ強い、20世紀を席巻したコンクリートの存在を乗り越える可能性が視覚化されているようだ。

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(*写真9 : <小松精練ファブリックラボラトリー>模型)

 「20世紀の建築家は、建築を作品と呼びたがった。アーティスティックな付加価値のついた商品のことを、作品と呼んだのである。作品は環境との切断がオーラを放つと、人は考えた。切断ゆえに作品は高く売れ、切断のできた作品が、20世紀の環境を破壊し、いまも増殖している。(中略)作品という発想が、ゆがめたのである」(前掲論文から)
  
 「僕は作品を残したいのではなく、ひとつの研究室、すなわちラボを残したい。物質のことを研究し、物質と一緒になって、さまざまな研究者や技術者と一緒になって、いろいろなことを試してみるラボ(LAB)を残したいのである。建築作品はラボの活動の継続の、一断面にすぎない。(中略)ひとつひとつの建築が作品なのではなく、それぞれの建築を繋ぐ流れこそが作品であると、僕は最近考えるようになった」(前掲論文から)
  
 作品、商品ではなく、ラボラトリーの活動としての建築。物質との出会いから約20年。隈研吾が自らの建築のオリジナリティを宣言した言葉である。

 

 

*初出 zeitgeist site 

 


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シンプルの系譜#2 ~ アドルフ・ロース ~

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 モダンデザインを一言でいうとシンプルなデザインということになるだろう。
    
 広辞苑には「シンプル」とは「単純なさま」とある。シンプルとは、色・かたち・素材が簡素で抑制されているさまである。
 
 シンプルはモダニズムの専売特許ではない。また、建築やプロダクトのデザインに限られるというわけではない。シンプルという価値観はどこから来たのか。シンプルの具体的な現れ方とは。シリーズ《シンプルの系譜》では、さまざまな切り口でシンプルの様相を探ってみる。
       
 ウィーンの建築家 アドルフ・ロースは1908年の講演で、装飾は造形芸術の始原であったが、「文化の発展は日用品から装飾を削ぎ落としていく過程に相当する」と主張し、装飾に依存し「生活の芸術化」を唱えるウィーン分離派やドイツ工作連盟などの建築家や造形作家たちを批判する。

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(*Adolf Loos,sorce :https://www.plataformaarquitectura.cl/cl/884508/exposicion-adolf-loos-espacios-privados/5a1d4d26b22e38ccb000040d-exposicion-adolf-loos-espacios-privados-foto)
           
 無装飾こそが時代精神であると宣言したその主張は、後に「装飾と犯罪」として活字化され、近代建築史上最大の問題作にしてモダニズム建築の誕生を記す記念碑的ドキュメントと言われた。
    
 ル・コルビュジエの『今日の装飾芸術』(1925年)における装飾批判に先立つこと十数年、アドルフ・ロースの先見性は注目に値する。
          
 ロースは建築家と同時に、生活文化(今の言葉でいえばライフスタイルか)に一家言を有する論客でもあり、自身もファッションのエピキュリアンであった。

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(*Adolf Loos,source : https://www.pinterest.jp/pin/541769030167813540/)
        
 「人はどのように装えばいいのか?現代的にだ。では、いったいどういった服装を身につけているとき、現代的な装いをしているといえるのか?もっともめだっていないときだ」
      
 「たとえ皿に青いタマネギの絵柄が入っていたためにスープの色がいかにもまずそうな緑灰色になっていようと、ロココの人は気にしなかった。それに比べ、われわれは繊細な感覚を持っている。この現代に生きるわれわれは、なんとしても白い皿から食べたいのだ」
      
 「ベートヴェンが作曲したような交響曲の数々は絹やビロードの飾りのついた服を着て歩くような人間にはとうてい作曲しえなかっただろう」
       
 「時代が進み、男たちのセンスが現代的になればなるほど上着の前をぴっちり留めるようになっていく」
    
 「いい材料と質の高い仕事こそ、どんな時代であれ、たとえ新しい流行が隆盛し消えていこうとも一貫して価値を下落させない権利を有しているのである」
    
 「個人個人がしっかりした個を確立し、人間の個性が非常に強くなったため、もはや服装で個性を主張する必要がなくなったのだ。無装飾とは精神の力の証である」
     
 「私がいま着ている無装飾の上着こそ、われわれの時代精神にもとづいてつくられているのである」
  
 ロースは建築と生活文化を同じ地平で、なかでも自身がエピキュリアンでもあったファッションと同じ地平で語り、時代精神を反映した建物もファッションと同様、目立つものであってはいけないとして、モダニズム建築の先がけとなる装飾を廃した建築を実現していく。
  
 建物を身体を包む衣服と同じものであると認識する、建築を特権化しないその視点は、今日の人類学的発想にも通じるものだ。ここにもロースの先見性が伺える。
        
 インテリアを設計した《カフェ・ムゼウム》(1899)は、建築家たちからは「カフェ・ニヒリスム」と蔑まれ、初めての建築となった通称《ロースハウス》(1911)は、ファサードが簡素すぎて醜悪きわまりないと、当局から差し止めを食らう。晩年の《モラー邸》(1928)、《ミュラー邸》(1930)の白いキュービックのそっけないほど簡素なファサードは、MOMAがインターナショナル・スタイルと呼んで普及させたモダニズム建築の原型のような建物だ(★1)。

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(*Looshous photoby Andrew Moore)

ロースの先行性、先見性を生んだものはなにか。それは当時のウィーンが属していたオーストリア=ハンガリー二重帝国の後進性であった。
         
 オーストリア=ハンガリー二重帝国の起源は、962年に成立した神聖ローマ帝国にある。15世紀以降、帝位を世襲してきたのがハプスブルグ家である。その後、ハプスブルグ家はスペイン王国も統治し、ヨーロッパ最高の家系といわれた。三十年戦争、ナポレオン戦争を経て、ドイツは、プロシアやオーストリアなどに分裂するが、ハプスブルグ家は1806年にナポレオンによって解体されるまで神聖ローマ帝国王として留まっている。
           
 その後、ドイツではビスマルクのプロシアが、オーストリア以外の地域をドイツ帝国として統一し、勢力を拡大する。1866年の普墺戦争に敗北したオーストリアは、国内のスラブ民族の独立機運を押さえ込むために、ハンガリーに自治を与えながら、オーストリア皇帝であるハプスブルグ家がその王位を兼ねるという、ねじれた体制のオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立する。
        
 フランスやイギリスはもちろん、同じ領内のドイツが近代国家として実力をつけていくなかで、近代国家としての内実がともなわず、過去の絶対王政の残光と名門貴族社会のプライドという前近代的なメンタリティが色濃く残る当時のウィーンは、一言でいうと、現実逃避の耽美主義に沈潜する社会だった。
       
 そうした当時のウィーンを、ロースはポチョムキンの村と同じであると皮肉っている(「ポチョムキンの都市」、1898年)。
        
 ポチョムキンの村とはロシアの女帝エカテリーナがクリミアの地に行幸した際、かの地出身の宰相のポチョムキンは、実際はみすぼらしい寒村にすぎない村を、幸福そうな農村の風景を書割にして飾り、繁栄をアピールしたという逸話だ。
         
 「リングシュトラーセをブラブラ散歩する時、私はいつも思うのだが、現代にもポチョムキンが存在し、ウィーンを訪れる人達に、なにもかもが気高いもので満ち満ちている都市に来ているようだと思い込ませようと、この男が企んでいるのではないかといった気がする」
           
 帝国の威光を示すウィーン大改造として、中世の城壁を撤去して作られたリングシュトラーセとその両側を埋め尽くした、ギリシア、ローマ、バロック、ゴシック、ルネッサンスとあらゆる様式が混在した、なんでもありの意匠の建物群を、ロースは「ポチョムキンの都市」と呼んで揶揄したのだった。

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(*Haus Moller,source :http://farm4.staticflickr.com/3139/3032115008_3cdab3aaa2_z.jpg)
                      

       
 ロースは23歳(1893年)のときイギリス経由でアメリカに渡り、シカゴの万国博覧会を見学し、ニューヨークで自活している。19世紀後以降、アメリカの工業生産は急速に拡大し、19世紀終わりには、イギリスを追い抜いて世界一となった。ロースはめざましく発展する共和主義の新しい社会を目の当たりにする。
       
 そんなアメリカから帰国した26歳のロースの目には、当時のオーストリア=ハンガリー二重帝国の首都は、時代から取り残された世界の<辺境の地>として映ったはずである。
         
 「時代にあった手工業を、そして時代にあった日用品を求めるなら方法はひとつ。建築家を毒殺せよ」、装飾を喜ぶのは一部の非文化人であり「非文化人とは建築家のことである」

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(*Muller house,sorce :http://youhavebeenheresometime.blogspot.jp/2011/07/villa-muller-adolf-loos.html)
        
 ロースの先見性とは、<辺境の地>に置かれた鋭敏な感受性だけが先行して見えていた時代精神であり、その過激さ、先鋭さは、<辺境の地>に生まれた者だけが感じる屈折に由来する不機嫌さの現れだった。
   
 シンプルは中心からは生まれない。シンプルは<辺境の地>から誕生した。<辺境の地>の感受性と不機嫌さが創造した。建築とファッションにおけるアドルフ・ロースという《シンプルの系譜》はそう教えてくれる。



      

(★1)ロースが設計した住宅の内部は、そっけないぐらいに無装飾な外観とは一転した、濃密な素材感と三次元の空間感が充満するセンシュアル(肉感的、官能的)な閉鎖空間である。内と外を通底させたコルビュジエの「吹っ切れた」印象の空間とは大きく異なる。外から守るべき人間の内面性や精神性の存在をあくまで信じるロースの「吹っ切れなさ」ともいえるが、このロースの内部空間の特異性もファッション論として読み解けるかもしれない。ファッションにおけるシンプルやミニマルは、身体性の意図的な隠蔽として機能しているといえるからだ。いずれにしても、一筋縄ではいかない、ロースおよびロースを取り巻く都市ウィーンの空気が伺える。



参考文献:
アドルフ・ロース 『にもかかわらず』(鈴木了司ニ・中谷礼人監修、加藤淳訳、みずず書房、2015)
アドルフ・ロース 『装飾と犯罪』(伊藤哲夫訳、中央公論美術出版、2005年)
川向正人 『アドルフ・ロース』(住まいの図書館出版局、1978年第一刷)
ビアトリス・コロミーナ 『マスメディアとしての近代建築』 アドルフ・ロースとル・コルビュジエ(松畑強訳、1996年)
S.トゥールミン+A.ジェニク 『ウィトゲンシュタインのウィーン』(藤村龍雄訳、平凡社ライブラリー、2001初版)


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ル・コルビュジエの肉声が語る芸術、建築、人生 ~ DVD『ル・コルビュジエ』から~

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 ル・コルビュジエは50冊を越える著作を残している。モダニズム建築のもうひとりの巨匠であるミース・ファン・デル・ローエが一冊の著作も残さなかったのとは対象的であり、その多作さと能弁な語り口は、言葉を能くする建築家のなかでも群を抜いている。

 その能弁さゆえに、逆に全体としての統一像が結びにくいのが建築家ル・コルビュジエだ。

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(*Photo by Michael-LE CORBUSIER @ THE BARBICAN

 
 人間ための建築を標榜しながら、「住宅は住むための機械」という一言で激しい賛否両論と今に続く論争を巻き起こした。
              
 「300万人の都市」「近代建築の5原則」「輝ける都市」「摩天楼は小さすぎる」など、ル・コルビュジエのポレミックな(いまならさしずめ炎上狙い、というところか)言説は枚挙に暇がない。
      
 ル・コルビュジエの肉声による語りが貴重な記録として残されているのが、1950年代のインタヴューを中心に構成された映像『ル・コルビュジエ』(DVD3枚組 監督ジャック・バルサック 1987)である。
        
 論争好きのエピソードや黒ぶち眼鏡に蝶ネクタイの巨匠然としたイメージを裏切るように、辛抱強く、丁寧に語るその姿は、生真面目そうな性格が滲み出ており、新鮮で印象的だ。
 
 映像に残された本人の言葉を手がかりにル・コルビュジエ像を探ってみる。
                     
         
異端者にして社会革命家
ル・コルビュジエ

         
 「地上の楽園を実現することが建築家の役目だ」。「混乱し自然との調和を失った社会を正常な状態に戻す」
  
 ル・コルビュジエことシャルル=エドゥアール・ジャンヌレは、1887年にスイスのジュラ地方のラ・ショー=ド=フォンに時計職人の父とピアノ教師の母の間に生まれる。

 ル・コルビュジエは、曽祖父、祖父ともスイスの革命家であったと述べており、自らを先祖の存在になぞらえていたふしがある。妻イヴォンヌ・ガリは南仏出身のジプシー娘であり、このスイスの田舎町出身のル・コルビュジエという人物は間違いなくパリの異端者的存在であった。

     
 「アカデミーは嫌いだ」
 
 第一次大戦が勃発した年1917年、30歳のル・コルビュジエはパリに出てくる。帝政時代から変わらない古色蒼然たるパリとボザール派らのアカデミーが牛耳る建築界にあってル・コルビュジエは、都市計画《300万人のための現代都市》(1922)をぶち上げる。後にこれをパリ左岸に埋め込んだ《ヴォアザン計画》(1925)も発表する。

Plan Visin de Paris
(*Plan Vosin de Paris 1925, source:ル・コルビュジエ展図録、毎日新聞社、1996)

   
 「土地つきの家は大きな幻想だ」、「政治家はなにも分かっていない。都市計画に無関心どころかそれがなにか知らない」
        
 パリの異端者ル・コルュビュジエは、高速道路と公園と超高層と集合住宅群による都市計画によって目の前のパリを暴力的に否定してみせる。
 
 今見ると、さすがにこれはないだろうとしか思えない計画も、その背景にあった思想は、高層化によって緑と太陽と空間を確保し、ブルジョワジーからパリを市民の手に取り戻そうとする目論見だった。
  
 「住宅は家族の神殿だと思っている。人間の幸せのほとんどがそこにある」、「なぜ住宅に携わろうと思ったのか?問題の解決に近づくことで人々の苦悩を軽減したかった。結局は生きる喜びをもたらす仕事が好きなんだ」
 
 よく見ると書き込まれている住宅は、開放的なリビングルームがあり、吹き抜けの空中庭園があり、テーブルとチェアが置かれた大きなテラスがある住まいだ。約100年後の今日においてさえ、世界中のどの集合住宅でも未だ実現されていない、羨望を禁じえない快適そうな暮らしがイメージされている。
 
 ル・コルビュジエは、古いヨーロッパとパリにあって、住む人のための太陽、空間、緑、快適な住居を主張した社会革命家だった。あるときは暴力性をも辞さずに。


機械時代の申し子にしてデカルト主義者 ル・コルビュジエ

              
 
「現代はギリシャのパンテオンが機械によって実現される」、「機械の出現であらゆるものが変わった。今は機械文明だ」
 
            
1
909年、工業化社会を象徴する製品T型フォードが生産開始される。ル・コルビュジエが22歳の時だ。ル・コルビュジエは、まぎれもなく19世紀に始まった機械の時代の申し子だ。
 
 ル・コルビュジエは、船舶、自動車、飛行機など機械文明が生み出した機能と造形が合理的に一体化した製品を賞賛した。白い四角い住宅のプロトタイプを提案し、シトロエンにちなんで《シトロアン住宅》(1920-22)と命名している。
       
 機械時代の申し子ル・コルビュジエは、時代を象徴する素材として鋼鉄とコンクリートを選び、都市と建築と住宅の革命を目指した。鋼鉄とコンクリートによる建築は、ル・コルビュジエにとって建築化した機械だった。

Villa La Roche-Jeanneret
(*Villa La Roche-Jeanneret 1925, source:ル・コルビュジエ展図録、毎日新聞社、1996)
 
 「美しさは装飾ではなく自然の秩序に宿る」、「調和のとれた自然や数学的な本質に近づくこと。詩的だ」 
 
機械時代の申し子ル・コルビュジエは、当然ながら、幾何学に憧れ、自然の中に人間の理性を通じた合理や調和や秩序や美を見るカルテジアン(デカルト主義者)だった。
          
 マンハッタンを「毛を逆立て」た「ぼさぼさ頭」と皮肉ったル・コルビュジエは、自らの目指す摩天楼をこう言っている。「ニューヨークに対抗して、私はデカルト好みの合理的な都市を提案する。直線の街であり、水平の街であるパリは、その建築様式を自らの直線において追求するのだ」(『輝ける都市』 1935)。
     

建築家にして造形芸術家ル・コルビュジエ
      

 「建築は光のもとで繰り広げられる巧みで正確で壮麗なヴォリュームの戯れである」
         
 画家志望で、絵画作品や彫刻作品を数多く残しているル・コルビュジエは、建築家として名を成した後も、毎日午前中は必ず絵を描く時間に当てていた。その絵の作風は、ピカソやレジェを連想させる、理性のイメージとは正反対の、奔放で、肉感的で、混沌としたイメージのものだった。ル・コルビュジエは建築家と同時に、あるいは、建築家である前に造形芸術家だった。
         
 「私は視覚的なものに支配される癖がある。デッサンや絵、彫刻や建築は私にとって同じひとの現象なのだ」、「(ロンシャンの礼拝堂で)装飾なしの芸術品を作った」 
          
ピュリスム(純粋主義)と呼ばれた純粋合理形態を求めたような白く直線的な前期の作品(ラ・ロシュ・ジャンヌレ邸やサヴォア邸など)から、後期のマッシブな造形で粗い素材感をあらわにした作品(ロンシャンの礼拝堂やラ・トゥーレットの修道院など)への作風の変貌は、造形芸術家としてのル・コルビュジエが前面に押し出されてきた結果でもある。

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(*Chapelle Notre Dame du Haut, Ronchamp 1955, photo by senhormario-Notre Dame du Haunt by Le Corbusier, Ronchamp)


 
「建築家とは造形芸術家であり、詩人であるとともに技術者である」
 
     
 スキャンダラスな社会革命家、機械時代のデカルト主義者、そのいずれの枠にも納まらない奔放な表現欲求の造形芸術家。そのひと筋縄ではいかないル・コルビュジエの奥深さは人を惹きつけて止まない魅力でもある。
 

挫折者としてのル・コルビュジエ
 

 「人は人生で挑戦し敗北または勝利を得る。(チャンディガールの《開かれた手》のオブジェは)悲惨な現代社会での楽観主義の象徴さ」
    
 ル・コルビュジエにとって人生の挑戦は勝利でもあり敗北でもあった。世界を代表する巨匠建築家として自他ともに認めるル・コルビュジエの人生が敗北だったとは意外だが、コンペで落選したことをネタに論争を仕掛けて世界に名を売った若き日のジュネーブの国際連盟本部(1927)をはじめ、ソヴィエト・パレス(1931)、NYの国連本部(1947)、パリのユネスコビル(1951)、パリの20世紀美術館など、ル・コルビュジエがかかわった大規模プロジェクト、国際的プロジェクトのほとんどは思った通りにはならず、ル・コルビュジエは深い挫折感を味わっている。あれほど熱心にさまざまな提案をしてきた都市計画にいたっては、晩年にインドのチャンディガールで実現したのみであった。

 

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(*Couvent de Sainte-Marie de la Tourette 1959, photo by elyullo-La tourette- arq. Le Corbusier)

 
 プロジェクトが実現したか否か以上に、ル・コルビュジエが深い挫折感を味わっていた根源にあったのは、モダニズムの蹉跌だったと思われる。ル・コルビュジエのいう「機械」がもたらしたものは、効率化、画一化を強いる産業社会であり、資本が世界を牛耳る現実だった。
    
 DVDに納められた、パリの右岸一体をガラスの超高層ビル群が覆うシミレーション映像を見て、ル・コルビュジエの都市計画が実現しなかったことの幸せを噛み締めながらも、複雑な思いを抱かざるを得ない。ル・コルビュジエは最後までパリの異端者だったのかもしれない。
 
 「私は今日の人間にとって最も必要なもののために働いた。それは静寂と平和だ」 
     
 生前からの理解者だったアンドレ・マルロー(作家、当時文化大臣)は、国葬となったル・コルビュジエの葬儀でこう弔辞を述べた。
 
 「あなたほど辛抱強く侮辱されつづけた人はいなかった」「「住宅は住むための機械」という言葉は彼を理解するためには十分ではない。「住宅は生活の宝石箱、幸せをつくる機械だ」。このもうひとつの言葉こそが彼の真意を表している」「フランスはしばしばあなたを誤解してきた」と。




*参考資料:
『ル・コルビュジエ』(DVD3枚組、監督ジャック・バルサック、1987年)
ル・コルビュジエ『輝ける都市』(白石哲雄訳、河出書房新書、2016年)
「ル・コルビュジエ展図録」(毎日新聞社、1996年)
「ル・コルビュジエ 建築・家具・人間・旅の全記録」(エクスナレッジ社、2002年)


*初出:zeitgeist site

 

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湾岸はバブルのフロンティアだった~バビロン再訪#1~

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 今やタワーマンションのメッカとして知られ、すっかり生活のエリア、暮らしの場として定着した感のある湾岸エリアだが、東京湾に面する横浜や東京のウォーターフロント(★1)がフロンティアとして注目を集めたのがバブル時代だった。

湾岸(ウォーターフロント)は都市のフロンティアだった
           
 当時、ウォーターフロント開発事例視察と称して盛んに海外ツアーが組まれ、多くの不動産屋が海を渡った。
 
 時は1987年。マンションディベロッパーの業界団体が主催する、シカゴ、トロント、ボストン、ニューヨーク、オーランド、ダラス、ロサンゼルスを総勢25人で2週間かけて回るという豪華視察ツアーに参加した。入社3年目の若造の参加を許すほどに業界は好景気の予感に満ちあふれていた。

 海外の大都市では70年代からウォーターフロント開発が行われており、ボルチモア、ボストン、ニューヨーク、サンフランシスコなど、古くから港町として栄えた北米の大都市では、古い埠頭や倉庫が美しい水辺公園や歴史資源を活かした観光地や高級コンドミニアムに変貌し、ロンドンではテムズ川添いの廃墟が新都市として生まれ変わっていた。 

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(*Harbor Park of Bostonのウォーターフロント再生プラン。1987)
  
 背景にあったのが、産業構造の変化により都心エリアが衰退し、人と賑わいを失い、荒廃を招きつつあるというインナーシティ問題だった。
    
 当時の日本の都市には、インナーシティ問題などは影も形もなかったが、なにごとも欧米がお手本の日本は、世界の潮流に遅れてはならじとばかり、全国でウォーターフロント開発に乗り出す。
    
 折りしも日本はプラザ合意(1985年)による円高に直面していた。ウォーターフロント開発は金融緩和とドル買い円売りによる金余りをテコにした、内需拡大のための格好のビジネスチャンスとして捉えられた。
  
 政・官は手つかずの埋立地の使い道を思案し、湾岸に立地する製造業は土地売却で新工場建設の資金捻出を狙い、あるいは自ら不動産部門を創設し経営多角化を目論み、ディベロッパーとゼンコンはまたとない大規模開発のチャンス到来に色めき立った。
 
 かくして湾岸(ウォーターフロント)は都市のフロンティアとなった。
   
湾岸(ウォーターフロント)は時代のフロンティアだった
 
 実はこうした不動産をめぐる動きとは別に、ウォーターフロントブームの火付け役となった出来事があった。

 バブルの兆しが見え始めた1986年、芝浦の運河沿いに古い倉庫を改造したライブハウス「インクスティック芝浦ファクトリー」と、その隣に運河を眺めるテラス席があるスペインレストラン「タンゴ」がオープンする。

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(*インクスティックとタンゴの跡地。インクスティックは現在は駐車場となっている。2018)
     
 駅から遠い不便な場所、ひと気のない薄暗いストリート、素っ気ないインダストリアルな建築、灯りに浮かぶ運河の水面の揺らぎ。すべてが新鮮でワクワク感に彩られ、まるでローワーマンハッタンの倉庫街で遊んでいるような、そんな錯覚を抱かせた。ホームグランドの六本木からタクシー2メーターで手に入る非日常という訳だ。
 
 この辺鄙な場所にぽつんとできた2つの店は、またたく間に有名になり、ほどなく周辺には同様に倉庫や古いビルを改装した「芝浦ゴールド」「東京ベイ・ゴーゴー」「ハーバーライツ」「ジュリアナ東京」(★2)などが相次いでオープンし、バブルと軌を一にするように芝浦はウォーターフロントの代名詞となってゆく。
       
 BRUTUSは「芝浦波止場も、今や東京ロフト街」と謳い、「文化は今、港区イーストサイドに向かう」と持ち上げ、「インクスティック」と「タンゴ」の仕掛け人の空間プロデューサー松井雅美は、当時を振り返って「そのころニューヨークで広がっていたロフト文化をウォーターフロントのイメージとうまく結びつけ、ファッション性を高めていけばうまくいく、と考えたのです」と語った(★3)。
 
 こうしたカルチャーや消費レベルでのウォーターフロントブームが少なからず各地での不動産開発の後押をしていたのだ。バブルは、気まぐれな流行やうたかたの幻想をきっかに膨らむ。
  
 かくして湾岸(ウォーターフロント)は時代のフロンティアとなった。
 
湾岸(ウォーターフロント)は東京のフロンティアだった
     
 アメリカがお手本でニューヨークに憧れるバブル期の日本であったが、東京の湾岸エリアへのこだわりは、日本の戦後の都市計画史からみると、一種の敗者復活、捲土重来という側面があった。
 
 都市東京を東京湾方面へ拡大延伸させるというコンセプトを初めて打ち出したのが、丹下健三による「東京計画1960」(1961年)だ。
 
 「東京計画1960」は、人口増、経済成長で膨張する東京を、東京湾の海上に設けた都心から木更津まで伸びる都市軸に沿って東に拡大させてゆくという壮大な計画だった。
 
 しかしながらこの計画は実現しなかった。1960年代後半に入っても2ケタの経済成長は続いていたものの以前のような建設の時代は終焉を向かえつつあった。
  
 「東京計画1960」が幻に終わった後、明治維新以来、一貫して西へ西へと拡大してきた都市東京に、バブル時代において初めて東へとウイングを伸ばす機会が訪れる。ウォーターフロント開発はそうした意味を持っていた。
 
 都や省庁や民間による数々の大プロジェクトが持ち上がり、霞ヶ関ビル80棟分のオフィスビス建設、マリーナ都市、森林都市、国際村構想などの大風呂敷が広げられ、ルネッサンスやフェニックスやコスモポリスなど、当時としても気恥ずかしくなるような言葉が踊った。

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(*Photo byTohomar-お台場07.6.15

 
 10号地、13号地とそっけない名称で呼ばれていた東京湾の埋立地は、開発ブームの本丸となり、政財官民いり乱れての主導権争いの様相を呈した。丹下健三は先の計画をリニューアルした「東京計画1986」をぶち上げ、後に臨海副都心と呼ばれることになるこの地をめぐる争いに参戦する。
           
 かくして湾岸(ウォーターフロント)は東京のフロンティアとなった。
 
タワーマンションが林立する今の湾岸(ウォーターフロント)はバビロンの夢が実現した姿か
      
 目白押しだったこれらのウォーターフロントの開発計画はその後どうなったのか。
   
 1990年3月の不動産融資の総量規制をきっかけにバブルが崩壊し、これらの開発計画は軒並み、延期、見直し、中止を強いられる。バブル前から開発が先行していたMM21も進捗に急ブレーキがかかり、佃島のタワーマンション(大川端リバーシティ21)などの販売中物件では好調な販売が一転する。170万票の無党派層の票を集め当選した青島幸男新東京都知事は、臨海副都心で開催予定の世界都市博の中止を宣言(1995年)し、丹下健三の執念も再び挫折することになる。
 
 夢はいつも遅れて現実となり、思ってもみない姿で現われる。
      
 ウォーターフロントがフロンティアになるという、バブルが見た夢が現実となったのはつい最近なのかもしれない。
  
 東京の湾岸エリアでは、90年代後半以降、タワーマンションの建設が目立ち始める。東京都の臨海ゾーンを舐めるように、品川区から港区へそして中央区から江東区へと、埋め立て地を舞台に東京湾を沖へ沖へと、あたかも自己増殖するかのような勢いで増え続けるタワーマンション。その様子は、まるで開拓時代のフロンティアを目指したアメリカ西部のゴールドラッシュさながらだ。

 

晴海選手村_R00503291
(*晴海の2020東京オリンピック選手村建設地。2016)
 
 内廊下の容積不算入、高層住宅誘導地区、都市再生特別措置法など幾重もの規制緩和とバブルの崩壊ですっかり下がった土地価格と「失われた20年」で放出される企業用地がその主な要因とも、あるいは商業施設などのニーズが弱含みのなか、底堅い都心居住ニーズを狙う思惑が背景にあるとも言われている。
        
 今の湾岸(ウォーターフロント)は、ニューヨークとも、非日常とも、大風呂敷とも、すっかり無縁の日常となった。一方、その日常に漂う、かすかな自信と楽観と多幸感は、どこか既視のもののようにも思える。
      
 タワーマンションの建設ラッシュに沸く今の湾岸(ウォーターフロント)の姿こそが、バビロン(★4)の夢が実現した姿あり、バビロンの見た夢は、バベルの塔さながらのタワーマンションの林立でようやく30年後に実現されたのかもしれない。
           
 ブログ<バビロン再訪>では、現代におけるバビロンともいうべきバブル時代の東京とその時代のマンションを物語ることにしよう。





(★1)バブルの頃は水辺ゾーンや臨海部や港湾エリアを総称してウォーターフロントと呼んでいた。本稿では東京湾沿いの臨海エリアをさして近年よく使われている「湾岸エリア」とバブルの頃の呼称である「ウォーターフロント」をあえて混在させて使用しており、湾岸(ウォーターフロント)という表現も使っている。
 
(★2)今やバブルの象徴として有名になったディスコ「ジュリアナ東京」であるが、そのオープンは1991年のことであり、そこで繰り広がれらた狂騒はバブルがピークアウトした後だった。バブルの崩壊といっても、文字通り一気に崩壊したわけではなく、その認識は後づけのものであり、金融、証券、地主、不動産、広告、メディア、官僚、政治家、遊び人などそこに参画したさまざまなプレイヤーは全貌が見通せないなか、しばらくはそれぞれの立場が許す限り、バブルと同じ振る舞いを続けていたのが実態である。
 
(★3)NIKKEI STYLE 2012/4/6 東京ふしぎ探検隊
               
(★4)バビロンとは起源前のメソポタミアで栄えた古代都市。旧約聖書ではバベルと称される。バベルの塔やバビロン捕囚などの逸話があることから、富や栄華や悪徳で栄える都市を象徴する言葉としても使われる。本ブログのタイトル「バビロン再訪」はスコット・フィッシッジェラルドの短編
Babylon Revisited の日本語題名から借用している。

 

*初出:東京カンテイ<マンションライブラリー>


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ディメンションの問題~バビロン再訪#2~

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 高級マンションはどうあるべきか、そもそも「高級」とはなにか、そんな問いを携えて老建築家の銀座8丁目の事務所を訪ねた。まさにバブルがピークを迎えんとする1989年のことだ。
   
 「まずはディメンションの問題だ」。照明が抑えられた、静謐さが支配する事務所で老建築家は話を始めた。
     
 「マスターベッドルームの短手(みじかて)は14.5フィート(4.4m)が理想だ。通常は13.5フィート(4.1m)、最低でも10.5フィート(3.2m)は欲しい。マンハッタンなどの土地が高いところでは、例外的に9.5フィート(2.9m)ぐらいのところもあるが、それ以下は欠陥商品だ」。老建築家は断言した。
 
 「ディメンションのミスは致命的だ」。老建築家は語気を強める。ディメンション(dimension)とは寸法のことである。
       
 「欧米の住宅の寸法は家具のサイズからきている。マスターベッドルームは、ベッドとナイトテーブルを2台ずつ置くことができ、部屋の長手(ながて)には壁一面にクローゼットを造りつけ、服を選ぶ際にストレスを感じなくてすむように、クローゼットの扉を全開にして歩き回れる幅の動線を確保する。それらを落とし込んでいくと部屋の寸法の理想は先の数字になるというわけだ」と老建築家は解説する。
 
 「クラス(★1)によって求められる住宅は変わってくる。例えば食堂だが」と、老建築家は続ける。
         
 「ロウワークラスは家族の人数の分だけの椅子とカトラリーセットしか持たないが、アッパーミドルクラス以上の家は、人を招いて着座して食事ができるダイニングルームを持つ必要がある。独立した部屋で、少なくとも8~10人が座ってディナーをとるための椅子とカトラリーを備え、サーブ動線を考慮した寸法でなければならない。例えばヘンリー・キッシンジャーがハーバード大学の教授から国務長官に転身したときだ(★2)。階級がアッパーミドルクラスからアッパークラスに変わり、当然住宅も変わった。アッパークラスになるとさらに本格的なホームパーティが可能なキッチンやダイニングが要求される」
   
 「スタディ(書斎)やライブラリーもクラスが要求する機能だ。ライブラリーには定期購読しているマガジンを並べ、スタディのデスクの傍には親友が座るためのシングルシーターソファが用意されなければならない。ディナーの後、2杯目のコーヒー以降は、男性はスタディに移り、食後酒とともに友人と語り合い、女性はリビングルームでおしゃべりに興ずるというのがアフターパーティーの定石だ。リビングでする話題はペットや孫のことであり、スタディでは哲学と政治のことというのも決まりごとだ」
 
 「マルチ・ミリオネア以上の家では、寝室はもちろん、クローゼットやバスルームも夫婦それぞれに設けられることが多い。いくらおばあちゃんでも女性のそれはラブリーなインテリアで飾られる。年をとったらLove MakingはBest Conditionでできるようにという、いくつになっても夫婦が生活の基本単位であるカップル文化が生んだ住まいのあり方だ」と自身の経験を踏まえてなのか、当時69歳の老建築家は時折こんな話で若造を煙に巻く。
  

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 「ここからはカルチュラルな話しなのだが」と前置きして老建築家の話は続く。
 
 「住まいは豊かになればなるほど、住み手の帰属性や民族性を現し始める。アメリカの権力を握るアングロサクソンの金持ちの家はすべからく英国調になってくる。彼らはカーペットは敷かない。オークの床にマットだ。いわゆるアングロファイル(Anglofile)と称せれるテイストだ。欧米のインテリアデザイナーはそれぞれ専門の文化的フィールド(民族、人種、宗教)を有している。例えば、フランス出自のデザイナーは「ルイ16世」をフリーハンドで描ける。周りがそういう風にエスニック色が強くなればなるほど、ユダヤ系はモダンに走る。日本に優れたインテリアデザイナーがいないのは、ひとえにニーズがないからだ」
 
 ニューヨークと一流と政治が好きだった老建築家の話は、寸法の問題から始まり、最後はインテリアにおける民族問題にまで及んだ。
  
 彼我の住宅の間に横たわる桁違いのスケールの差以上に興味を引かれたのは、彼我における住宅が意味するものの違いだ。

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 老建築家の話はつまるところ、アメリカにおいては、住宅はクラスであり、文化であり、民族であるという内容だ。クラスや文化や民族が住宅のフォーマットを決める。住宅において守るべき寸法、満たすべき機能、ふさわしいインテリアは、クラスや文化や民族によって決まってくるということだ。
 
 「高級」とは、デラックス(Delux)やラグジュアリー(Luxury)、ましてやエクスペンシブ (Expensive) 以前に、文字通りハイクラス(High Class)という意味なのだ。クラスの裏づけのない単なる「高級」なモノは、彼(か)の地ではスノッブとして蔑まれる。
 
 ひるがえって日本ではどうだろう。日本にもクラスは厳然として存在する。しかしながら、クラスが変わり、住宅が変わったという話は日本ではあまり聞かない。日本においてはクラスが住宅のフォーマットを決定しているようには思えない。日本における住宅の理想の姿は、クラスにかかわらず、おしなべてホーム・スイート・ホーム(家族団らんの住まい)のようにみえる。
 
 日本のクラスレスな住宅において、一体なにが寸法と機能とインテリアを決めるのか。日本のクラスレスな住宅における「高級」とは?
 
 それは、土地の値段の高さのことなのか、高価な素材を使うことなのか、外国からの借り物による豪華感の演出のことなのか、はたまた趣味の差異化ゲームによる「おいしい生活(★3)」の一形態なのか。
 
 老建築家の話をきっかけに湧き上がった疑問は、昔も今も解決しないままだ。老建築家とは圓堂政嘉(★4)のことである。

 
 

(★1)クラスclassは階級、階層の意味で使われる。アメリカの場合はイギリスなどの階級社会class societyとは異なり、教育、職業、収入などによってクラス間の移動が可能であることを建前としている社会であり、階級より階層というニュアンスが近いといえる。通常、社会階層はsocial stratumと表現される。
 
(★2)ヘンリー・キッシンジャーは、1973年にフォード政権において国務長官に就任する前に、すでにニクソン政権において国家安全保障問題担当大統領補佐官の職に就いており(1968年)、老建築家が、ハーバードの教授から転身したと言ったのは、この時点のことを指したのかもしれない。
      
(★3)「おいしい生活」とは1982年、1983年の西武百貨店の広告で使われたコピー。コピーライターは糸井重里。ビジュアルにはウディ・アレンが使われた。
          
(★4)圓堂政嘉(1920-1994)。建築家。早稲田大学第一理工学部建築学科卒。村野藤吾建築事務所を経て圓堂建築設計事務所を設立。建築家協会会長。代表作に京王百貨店新宿店、山口銀行本店(日本建築学会賞)、西武春日井ショッピングセンターなど。集合住宅では目黒ハウス、広尾ガーデンヒルズイーストヒル(本稿掲載写真)、ヴィルセゾン小手指など。アメリカ建築家協会名誉会員であり、晩年にはシーグラムビルにニューヨーク事務所を開設し、東京とニューヨークを行き来していた。ニューヨークの病院で死去。


*初出:東京カンテイ<マンションライブラリー>



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シンプルの系譜<3> ~足利義政~

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 モダンデザインを一言でいうとシンプルなデザインということになるだろう。
 
 広辞苑には「シンプル」とは「単純なさま」とある。シンプルとは、色・かたち・素材が簡素で抑制されているさまである。
    
 シンプルはモダニズムの専売特許ではない。また、建築やプロダクトのデザインに限られるというわけではない。シンプルという価値観はどこから来たのか。シンプルの具体的な現れ方とは。シリーズ《シンプルの系譜》では、さまざまな切り口でシンプルの様相を探ってみる。
   
 足利義政(1436-1490)は室町幕府中期の第8代将軍であり、今日、銀閣寺(慈照寺)として知られる東山山荘の造営など、いわゆる東山文化とよばれる文化の創始者として知られている。

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(伝足利義政像、東京国立博物館蔵)

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(銀閣寺(慈照寺)、photo by oilstreet-en:Ginkaku-ji) 
    
 足利義政の将軍としての評価は最悪のものだ。
   
 飢饉で苦しむ民をよそに、天皇の勧告を無視して「花の御所」と呼ばれる足利家邸宅の改築にいそしみ、猿楽や酒色にふける日々を送っていたことは有名だ。自らの後継者争いがきっかけとなり応仁の乱(1467-1477)が勃発。目的が不明瞭なまま、この戦乱は11年間も続き、京の町は灰燼に帰してしまう。三十三間堂と六波羅密寺と千本釈迦堂以外はすべて焼失したと言われている。大名たちが細川勝元の東軍、山名宗全の西軍に分かれ戦うなか、将軍義政の態度は、意志薄弱、優柔不断、二転三転し、戦乱を収拾するどころか、対立と混迷に拍車をかける。史上最悪の無能な将軍といわれた。

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(足利義政木像、慈照寺蔵、source : http://photozou.jp/photo/photo_only/197391/195616032?size=1024#content

                 
 足利義政は家庭人としても幸薄い人生だった。
    
 実子(義尚)への後継にこだわる妻・日野富子との確執から応仁の乱に巻き込まれ、私財を肥やす富子の守銭奴ぶりに嫌気がさした義政は、早々と別居を決め込み、別邸の建設を急ぐ。莫大な蓄財をしながら、富子は夫の東山山荘造営のための資金はびた一文出そうとはしなかったそうだ。義政は隠居後、第9代将軍として最終的に跡目を継いだ実子義尚との仲も上手くいかず、そうしたなか義尚は義政より先に23歳で病没してまう。
       
 足利義政が生み出した東山文化は、その前後で日本の美の概念を一変させ、その後の日本の美意識を決定づけたといわれ、足利義政は新たな美の創造者として賞賛されている人物でもある。
 
「このあたり(引用者注:応仁の乱の時期)に発生する美意識がなぜ「簡素」と「空白」をたずさえたか。義政をはじめ、戦乱に倦んだ当時の都人の胸に去来した心象が、ものの感じ方に影響をおよぼしたかもしれない」(原研哉『白』、中央公論新社、2008)
      
「日本史上、義政以上に日本人の美意識に影響を与えた人物はいないとまで結論づけたい誘惑に駆られる。これこそが義政の欠点を補う唯一の、しかし非常に重要な特徴だった。史上最悪の将軍は、すべての日本人に永遠の遺産を残した唯一最高の将軍だった」(ドナルド・キーン『足利義政と銀閣寺』、中公文庫、2008)
 
 足利義政の生み出した新たな美は、慈照寺(銀閣寺)の東求堂(1485年)にある同仁斎と呼ばれる空間に象徴されている。この四畳半の空間は茶室の原点となった空間であり、襖や障子による建具、全面畳敷きの室内、違い棚や付書院の床飾など、この空間フォーマットは、後年、書院づくりと呼ばれ、今日のすべての伝統建築やいわゆる「和室」の原型となったといわれている。

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(慈照寺東求堂同仁斎、source:『日本の建築空間』、新建築社、2005)
 
 すべて直線で構成された空間、計算されたアンシンメトリーの配置、自然素材の色と白のコンビネーション、額縁のように切り取られる外の庭の景観。そこはそれまでの寝殿造りには見られない、抑制と簡素さと私性が支配する空間だ。
   
 慈照寺(銀閣寺)の造営には能阿弥が深くかかわっているといわれている。能阿弥は絵画、連歌、書、香道などに通じた人物で、義政に茶の湯の村田珠光を紹介する。村田珠光は、一休宗純から禅を学び、後に千利休によって完成されたわび茶の創始者だ。義政はここ同仁斎の空間でわび茶を実践した。
 
 わび茶あるいはそこから生まれた<わび・さび>とはなにか。それは完全性を否定し、作為を否定する美意識だ。
  
 「冷え枯れ」「和漢のさかいをまぎらかす事」「月も雲間のなきはいやにて候」「心の師とハなれ、心を師とせざれ」などの村田珠光の残した言葉はそれを象徴している。
    
 既成の完成された美(平安期のみやび)を否定し、さらにはそれらを企てる人の心や意思という作為を否定する価値観。度がすぎた完璧さにどこか胡散臭さを感じ、これみよがしの自意識や自己顕示には決まって嫌悪を抱き、なにごとにも抑制された簡素さを尊ぶ、日本人の価値観の源泉はここにあるといっても過言ではない。
   
 何故、義政は新しい美意識をプロデュースできたのか。足利義政は茶の湯はもちろん、能、連歌、そして和歌をよくする当代きっての文化人でもあった。

           
   「わが思ひ神さぶるまでつつみこしそのかひなくて老いにけるかな」(★1)

   「憂き世ぞとなべて云へども治め得ぬ我が身ひとつにただ嘆くかな」

   「くやしくぞ過ぎしうき世を今日ぞ思ふ心くまなき月をながめて」

   「何事も夢まぼろしと思ひ知る身には憂ひも喜びもなし」
  
        
 御所や寺社仏閣の建築を始め、襖や屏風や調度の数々、書画骨董、着物やさまざまな装飾品など、それまでの日本文化が蓄積した文物をことごとく焼き尽くした応仁の乱。そのなかでほとんど無力に終わった自らの将軍としての人生。さらには私生活における蹉跌。

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(応仁の乱を描いた紙本著色真如堂縁起・下巻(部分)、真正極楽寺蔵、source : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Shinnyod%C5%8D_engi,_vol.3_(part).jpg
  
 無念、悔恨、失意、喪失感、無力感。義政は次第に人間の意志や欲望そのものの空しさに思い至ったのではなかったか。伝統、歴史、文化、建築、人の意志の作りだすもののはかなさ、そして人の意志自体の無力さ。義政はそれを深く実感したに違いない。
 
 無常観や虚無感が単なる厭世や無為に終わるのではなく、負のエネルギーを新たな価値に昇華させたところに義政の創造者たる所以がある。
 
 無常のなかでさえ、虚無のなかでさえ、すべてが空しいなかでさえ人は生きていかざるを得ない。そうしたあとに唯一残される美とは一体いかなるものか。唯一在りうべき空間とは一体どういうものか。同仁斎の空間は、そうした認識が作り出した空間ではなかったか。
 
 それはなにものかを悟った後のような、あるいは、虚無を覗きながらも生きていかざるを得ないという静かな諦観を伴ったような、穏やかなだが冷徹な覚悟を感じるような、そんな印象を受ける究極のシンプル空間だ。
  
 権威の衰えが明らかだった将軍義政は、守護大名からの資金調達を断られ、寺社からの強制的な資金調達や人夫派遣、京都や奈良の有名寺社からの略奪的な名木珍石の調達によって慈照寺(銀閣寺)は造営された。
 
 それは周りを省みない、趣味に遁走する老将軍の専制と横暴とプライドのなせる業であったと同時に、自己を否定しながらも自己を表現せざるを得ないという、義政の至った究極の人間認識の結果だった。
 
 シンプルは、作為や表現を否定しながらも、作為や表現から逃れられないというアイロニカルな人間認識から誕生した。足利義政という《シンプルの系譜》はそう教えてくれる。





(★1):「神さぶる」は古色を帯びるまでの年月の長さを表現する動詞
 
*参考文献 : 山崎正和『室町記』(講談社文庫、1985)
        ドナルド・キーン『足利義政と銀閣寺』(中公文庫、2008)
        原研哉『白』(中央公論新社、2008)
        呉座勇一『応仁の乱』(中公新書、2016)

*初出 zeitgeist site 

10億円の群像~バビロン再訪#3~

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バブルの頃、都心部でまともなマンションを企画すると億ションどころか10億円マンションになった。坪単価で@2,000万円を超えるような超高額のスーパー億ションだ。

当時、超高額マンションを供給するプレイヤーの双璧は、財閥系の三井不動産と独立系の大建ドムスだった。大建ドムスの販売は住友不動産販売が請け負っていた。
 
東京都品川区東五反田5丁目。町名が品川区や五反田となっているが、それらが喚起するイメージとは異なり、ここは高さが10mまでの住宅に制限されている一種低層住居専用地域であり、通称、池田山と呼ばれる一画である。
 
目黒川に向かって土地が下がっていく手前の、淀橋台地の南端部にあたる、品川区のこのゾーンは、目黒川水系によって浸食されてできた谷地が台地を分断するように複雑に入り込み、舌状に残された台地が山にたとえられて、八ツ山、御殿山、島津山、池田山、花房山などと呼びならわされてきた。城南五山とも称される高級住宅地だ。
     
なかでも池田山は、約38,000㎡ともいわれる広大な旧備前藩松平内蔵頭(岡山藩主の池田家)の下屋敷跡地で明治維新以降はしばらく池田侯爵邸となっていた。大名屋敷だった時代からの回遊式庭園が残され、明治天皇が能鑑賞に行幸したことは、往時の栄華を偲ばせるエピソードだ。回遊式庭園は、現在の池田山公園にその面影をかすかに留めている。

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 ■池田山公園(Photo by Ippukucho - 池田山公園入り口
 
金融恐慌(1927年・昭和2年)をきっかけに、箱根土地株式会社(当時)の堤康次郎が池田侯爵邸を買い受け、その後、宅地として分譲し、現在の住宅地が作られた。
    
池田山は、高台だった大名屋敷跡地がほぼそのまま住宅地となって残されており、周りとは隔絶しているかのように大きな区画の邸宅が集積する様子は、山手線の中の都心に近いエリアにあっては、なかなか稀有な環境といえる。
 
池田山には、かつて参議院副議長公邸、内閣法制局長官公邸(小泉首相が一時仮公邸として使っていた)、美智子皇后の生家の正田家などがあり、池田山が昭和のエスタブリッシュ層に評価されていたことをうかがわせる。正田家は取り壊されて、現在は「ねむの木の庭」という区立公園になっている。

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 ■ねむの木の庭公園(Photo by Ippukucho - ねむの木の庭道からの様子
 
堤康次郎は当時、皇族や華族が所有する土地を次々と買収し、「プリンス」と名を冠したホテルや分譲地として開発しており、時には買収した土地の一画に自らが住みながら開発を進めることもあったが、この池田山には住んではいないようだ。そうした池田山で10億円のマンション開発の話が持ち上がったのも、なにかの縁かもしれないと思ったりもした。
 
先の三井不動産と住友不動産販売、高級賃貸や外国人賃貸に詳しいKENコーポレーションなどに、超高額マンション事情について教えを乞うた。1988年、時代はバブルのピークへと昇り詰める最中だった。
 
10億円マンションの購入者に共通するのは、一言でいうと「保有資産で新たな資産を手に入れる人々」であり、彼らにたどり着くセールス手法は、大掛かりな集客ではなく、富裕層へのさまざまなチャネルを通じたクローズドされたアプローチが中心だった。財閥系は素封家や資産家一族への独自のつながりを駆使してブランド性をアピールし、独立系は大手には到底できそうにない唯我独尊を地で行くような独特の商品イメージを創出することによって富裕層に訴えていた。
     
当時の商品はといえば、三井はアースカラーのタイル張り外壁、リジッドな印象のRCバルコニー、庇が象徴的なエントランス、ホワイトクロスの内装(例えば、赤坂氷川町パークマンション(1985年竣工)など)、ドムスは赤レンガ調外壁、ロートアイアン調手すり、シャンデリアの灯るエントランス、マホガニーの内装というイメージだった。
 
いずれの商品とも異なる商品企画、これまでの日本のハイエンドマンションにはないイメージを作ろうと考え、住まい手のプライベートな暮らしを大切にした新しいラグジュアリーを実現しようということで、スモールラグジュアリーやレジデンシャルをコンセプトにして、前年(1987年)にオープンしていたホテル西洋銀座のイメージやアイディアを援用した商品企画とすることになった。

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具体的には、社交ステージとなることを意識したリビングやダイニングなどのパブリックスペースの設え、独立シャワーブースやMr.&Mrs.それぞれに独立したクローゼットを備えたマスターベッドルーム、ゲストルームやライブラリーなどハイクラスならではのライフスタイルの提案、シンプルさとシックさを併せ持った抑制されたフレンチテイストのインテリア、全室天井ビルトイン型の空調設備、ホテル西洋銀座を銀座のプライベート拠点として利用できる特典、コンシェルジュや外商やホテルフロントによる24時間のパーソナルケアサービスなどを創案した。
 
内部プランニングとインテリアデコレーションにはホテル西洋銀座を手掛けたフランス系カナダ人のインテリアデザイナーを起用し、施工は竹中工務店と決まった。坪単価は平均@2,230万円、価格 10,2000万円(197.75㎡・59.82坪)~281,000万円(358.11㎡・108.33坪)、地上3階地下1階、総戸数5戸という計画だ。

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 営業担当には東京出身でターゲット層に最も近そうなプロフィールの社員を起用し、建築確認を取得した後にプレセールスを開始した。紙質を吟味し宛名を一件一件、毛筆で手書きした案内を送った。
 
反応は悪くはなく、少なくない数の問い合わせがあった。
 
代表的なプロフィールを2名挙げる。一人は終戦の年に生まれ、子役時代から注目を集め、名門映画会社の看板として映画の黄金時代を支えた、現在も活躍中の大女優。もう一人は、国家的プロジェクトを一手に担い、時代を画する建築を作りつづけた戦後日本を代表する巨匠建築家。
 
懸念材料も浮かび上がってきた。1階住戸への一様の反応の鈍さだった。最上階住戸しか考えられません、それは価格の問題ではないのですと丁寧に告げる巨匠建築家の奥さんの言葉が今も耳に残っている。
 
どう対処すればよいのか。現場があれこれと悩んでいるうちに、突然、建設中止の話が上層から告げられる。敷地を丸ごと買いたいという顧客が現われたのだ。
 
購入希望者は、戦後、下町の町工場からスタートし、業界トップの住宅建材メーカーを作り上げた立身出世の創業経営者一族だった。
 
5戸のうち1戸でも売れ残れば利益はでない。リスクを取って建物を作って販売で苦労するよりは、土地のまま売却して確実に利益を上げたほうが得策だ、ということになったのだろう。なにしろ当時は土地の価格は不断に上がり続け、一時保有しているだけでも十分に利益が見込める価格で売却できたのだ。
 
敷地は転売され、10億円マンションの計画はまさにバブル(泡)となって消えた。
 
時代は極端な出来事にその姿を現す。
 
映画の黄金時代を支えた大女優、日本を代表する巨匠建築家、一大企業を作った創業経営者。映画が娯楽の王様で、国家を担う建築家がいて、町工場が大企業にのし上がる、そんな時代を象徴する人たち。今になって思えば、10億円マンションをめぐるこの狂騒劇の主役に名を連ねた人々は、いずれも、戦後、さらに言えば次の年(1989年)には終わりを告げようとしていた昭和を象徴するような顔ぶれだった。
 
「保有資産で新たな資産を手に入れる人々」の「保有資産」の本当の意味とは、決して土地や株のことではなく、戦後や昭和という時代の中で、時代に寄り添いながら、さまざまに開花したタレント(才能)のことだったのだ。
 
時代は戦後社会と戦後経済のまさにピークの瞬間であり、バブルとは戦後の総決算という出来事だった。
 
再び10億円マンションの登場が言われる昨今、今もまた新たな10億円の群像が生まれている。それはきっと、平成の30年間という時代を映し、時代を象徴する群像であるに違いない。





(★)掲載した写真で池田山関連の写真以外は、在りし日のホテル西洋銀座の写真。ホテル西洋銀座は、2013年5月31日で閉鎖、翌年解体された。



*初出:東京カンテイ<マンションライブラリー>



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妹島和世のすみだ北斎美術館

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 プリッカー賞受賞建築家・妹島和世による最新美術館を都内で観られるのが、すみだ北斎美術館です。
  
 すみだ北斎美術館は、『富嶽三十六景』や『北斎漫画』などで有名な江戸後期の天才浮世絵師・葛飾北斎(1760-1849)が、本所割下水(現墨田区亀沢1~4丁目)で生まれ、長年その周辺に住んだことから、亀沢3丁目の日進公園に隣接して建てられています。本所割下水跡は現在「北斎通り」と命名されています。
 
 透明で、軽やかで、自由で、楽しげな、そんな妹島建築を観てみましょう。
 
<路地>を通って美術館へ
 
 1階には、それぞれ独立した4つのヴォリュームの空間が配され、その間を通路が通っています。通路は敷地の4方に通じており、建物にはどの方向からもアクセスできるプランとなっています。
 
 この通路に入った瞬間に連想したのが路地の空間です。
 
 両側には建物が迫り、やや薄暗く、人が通れるだけの狭い通路が細長く先まで伸びる。建物が切れた通路の先はまた別の街の様子が見え、明るい光が先へと誘う。狭く包み込まれるような空間は、表通りの大きな空間にはない安心感や独特の居心地を感じさせる。日本の普通の住宅地によく見られる路地は、こんな空間体験を与えてくれる空間ではないでしょうか。
     
 すみだ北斎美術館の1階の通路も、そんな空間経験を与えてくれます。

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 美術館のような公共建築では、しばしば建物の1階を周辺の都市空間と連続させ、市民に開放する計画とすることがあります。
     
 その際に採られる手法がピロティです。ピロティを提唱した本人であるル・コルビュジエが設計した上野の国立西洋美術館などがその例です。
      
 ピロティは、ル・コルビュジエの言葉どおり、地上を広々した空間として都市に開放する、あるいは前面の広場と連続させて大きな公共的空間を作るなど、いかにも西欧近代的な空間設計の手法といえます。
 
 北斎が住んだ江戸末期の本所は、下級武士である御家人の家がびっしり密集した場所でした。縦横に走る川沿いは小さな町屋の集積によって占められています。建て込んだ建物の間を大小の路地がいたるところに通っていた街であったろうと想像されます。
    
 北斎は異例の長寿で89歳まで生き、その間に93回の引越しを繰り返しました。そのほかにも雅号をころころ変えるなど、北斎はちょっと変わった人物だったようです。だだし移り住んだところのほとんどは、生まれた本所周辺であったそうで、北斎の本所の街への強い愛着やこだわりをうかがわせるエピソードです。奇行の人・北斎は、路地が走る下町・本所の街を愛した人でもありました。
 
 ピロティや広場という西欧都市の大空間ではなく、<路地>を通って美術館へというすみだ北斎美術館のプランは、いかにも北斎らしい企てといえるのではないでしょうか。
 
外部が侵入する<まち的空間>の美術館
 
 建物の中に入るとすぐ感じるのが、外の<まち>の空間の内部への侵入です。
 
 床と壁を大きく切り取ったスリット状のガラス開口を介して、外の風景や空気感が凸状に内部に食い込んでいます。
   
 最近ではガラス・カーテンウォールの外壁は当たり前であり、透明な建築は目新しいものではなくなってきていますが、床が切り取られ壁が内部に入り込んだような空間、しかも3次元的な動きを与えられたガラス開口は目新しく、外から眺めている以上に建物内部に入った際のインパクトは大きく、外の<まち>の景色がそのまま内部に侵入してきているような、そんな感覚を抱かせます。

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 垂直のガラス壁を挟んで見る外部はあくまで内部と対峙する外部ですが、この3次元的動きを伴ったガラススリットによってできる空間(外から見ると凸、中から見ると凹)は、外部でありながら内部、内部でありながら外部という両義的な印象の不思議な空間体験をもたらしてくれます。

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 こうした空間を<まち的空間>と呼んでみたくなります。
 
 すみだ北斎美術館に所蔵されている北斎コレクションを残したピーター・モースの先祖で、明治初期に来日し、大森貝塚を発見するなど、日本の人類学と考古学の基礎を作ったエドワード・S・モースは、日本の住まいや暮らしの詳細な記録を残したことでも知られています。名著『日本人の住まい』では、鍵をかける人など誰もいない、見知らぬ人が入り込んでも縁側でお茶を出して歓待してくれるなど、近代以前の日本人の驚くほど開放的でフレンドリーな住まいと暮らしに魅了される様子がいきききと描かれています。
 
 北斎が住んでいた当時の本所の街も、<まち>と<いえ>がシームレスに連続したような暮らしだったに違いありません。
 
 内部に居ながら外の<まち>を感じられる<まち的空間>は、北斎が住んだ本所に建てられる美術館に実にふさわしい設えではありませんか。
 
反・箱型の<いえ的>な建築の楽しさ
 
 下は北斎美術館周辺の墨田区を北側から撮った航空写真です。遠くに高層ビルが集積する都心や湾岸エリアに林立するタワーマンションが望めます。右手にはオフィスタワーの陰に国技館や江戸東京博物館の建物の姿が辛うじて見えます。美術館がある中央から左側にかけてのエリアには大小の箱型のマンションやオフィスビルがびっしりと建ち並んでおり、もはや美術館自体がどこにあるか判らないような具合です。

航空写真

(*墨田区航空写真、「妹島和世SANNA×北斎」展チラシより、©妹島和世建築設計事務所)
 
 すみだ北斎美術館はどこか<いえ的>なイメージがないでしょうか。
 
 建物自体はモダニスムの建築言語で作られており、外装は全面アルミパネルで覆われ、ヴォリュームも大きく、家の形をしているわけはもなく、もちろん傾斜屋根など乗っているわけでもないのですが、すみだ北斎美術館の文節化された、いくつかの不整形のヴォリュームが寄り添うような姿は、家が建ち並ぶどこかの街角の佇まいを思わせます。

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 箱型を拒否し、立体格子を否定するこの建築は、箱型と立体格子によるマンションやオフィスで被い尽くされている今の東京の街にあって、どこかアンチな痛快さやマイナーゆえの批評性のようなものを感じさせ、妹島建築ならではの楽しさのオーラが漂っています。
 
 展示室が狭い、上階の展示室への動線が2台のエレベーターに限られる、トイレなどへ至る共用空間が窮屈、入り口が分かりにくいなどの使い勝手上の不満もあるようですが、このすみだ北斎美術館は、そうした不満を陵駕して余りある魅力と楽しさを有した美術館です。
   
 そしてなによりも、葛飾北斎の愛した本所の<まち>にふさわしい建築ではないでしょうか。


*すみだ北斎美術館

〒130-0014 東京都墨田区亀沢2丁目7番2号
http://hokusai-museum.jp/
TEL:03-5777-8600


*初出:zeitgeist site

 

 

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バブルが日本のインテリアを洗練させた ~バビロン再訪 #4~

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  徒花(あだばな)と語られることが多いバブルだが、バブルが日本にもたらしたものの一つにインテリアの洗練と成熟がある。
 
 70年代以降、コンスタントに拡大してきた国内の家具の売上は、バブル崩壊直後の1991年をピークに減少傾向に転じ、最近の市場規模はピーク時の半分どころか1/3にまで落ち込んでいる。
 
 一方で家具の輸入は着実に増えている。例えばEUからの家具の輸入金額は、90年代初頭のバブルの崩壊による落ち込みや2008年のリーマンショックの影響による激減などの変動を経ながらも、トレンドとしては右肩上がりが続いている。家具市場全体が縮小しているのとは対照的に、バブル崩壊後もヨーロッパの家具への需要が確実に高まっていることが見て取れる。
 

  家具売上・EU家具輸入推移グラフ

 
 
長い歴史を経てモダンライフへと至ったヨーロッパの家具への注目を、インテリアの洗練や成熟を象徴する一つの指標として考えた場合、日本のインテリアはバブルを契機として確実に洗練され成熟したといえる。
  
 1980年代まで、インテリア雑誌は片手で数えるほどしかなかった。しかもその多くはプロ向けの情報が中心だったり、住宅建築に重きを置いたものだった。
 
 現在の人気インテリア雑誌が生まれ、インテリア関連の雑誌の数が増加するのもバブル崩壊後の1990年代だ。
 
 「カーサ・ブルータス」(1989年にBRUTUS増刊として創刊。2000年に定期化)、「エル・デコ」(1992年創刊)、「モダンリビング」(1951年創刊の老舗住宅雑誌が2000年代初頭にリニューアル)などが生まれ、新たな雑誌も加わり、今、インテリア雑誌の数は少なく見積もっても10誌は下らないだろう。
 
 いずれも、単なる商品情報やショップ情報の提供だけに終わらない、ビジュアルに訴える誌面作り、グローバルとローカルの双方への目くばせ、商品単体ではなくスタイルを重視した切り口、アートやファッションや食など暮らし全般への関心など、高感度で、商品知識を身につけた、経験豊富なターゲットを意識した編集が行われている。
 
 市場規模が縮小するなか、情報のクォリティが上がり、深化が進むメディアへの共感は、まぎれもなく洗練や成熟と呼ぶのがふさわしい状況といえる。
 
 日本のおいても店舗やオフィス関連のインテリアは、それなりに充実をみせていた。例えば、モダンデザインの源流の一つであるバウハウスの流れをくむKnoll(ノールあるいはノル)は西武百貨店の事業部として1964年から国内展開していたし、例えば、倉俣史郎による前衛的な家具デザインや研ぎ澄まされたショップインテリアは、内外で称賛されていた。
 
 遅れていたのが住宅のインテリアだった。個人が家具を購入するのは、近くの家具店かホームセンターかせいぜい百貨店の家具売り場だった。百貨店の家具売り場とはいっても、おおかたは平場に家具を並べただけの地味で活気のない閑散とした場所だった。
 
 90年代にインテリアの洗練と成熟が起こった背景には、バブルを通じた消費者のさまざまな体験があった。字義どおり<バブルの洗礼>と呼べる体験だった。
 
 日本におけるモダン・ファニチャーは、1970年代に萌芽し80年代に広がりを見せてゆく。
 
 1969年にアルフレックス・ジャパンが創業、1975年に現カッシーナ・イクスシーの前身インターデコール・ショールームが設立される。青山5丁目のVANの2Fにあったアルフレックスのショールームは、ルーム展開と呼ばれるライフスタイル提案型の先駆けだった。
 
 1979年、西武百貨店は池袋店に「スタジオカーサ」を設け、複数のモデルルームによる展示、家具、インテリアコーディネート、設計、工事をインテグレートした展開などにより、面白みのない百貨店の家具売場のイメージを一新する。
 
 1981年、アルフレックス(そして同社が日本での販売権を持っていたB&B ITALIA)とカッシーナは、そろって六本木に新たにオープンした複合デザインビルAXISに大型ショールームを開設し、売り上げを伸ばしていく。
   
 F.O.B COOP(1981年開店)やイデーショップ青山(1985年開店)など、個人の目利きを売りにしたインポート家具や雑貨の専門店がオープンするのも1980年代である。無印良品の直営店が青山にできたのも1983年だった。
 
 70年代・80年代のこうした動きがすべて順調だったとは限らない。
 
 テレンス・コンランが、フランス仕込みの陽気さと明るさと楽しさを持ち込んで、陰気で堅苦しい1960年代のイギリスにライフスタイル革命をもたらすきっかけとなったのがチェルシーのフルハム・ロードにオープンしたhabitat(ハビタ)だった。モダンでカジュアルで高品質。ハビタの新しさはビートルズの登場が音楽を変え、ツイッギーのミニスカートが女性ファッションを変えたように、イギリスのライフスタイルに変革をもたらす。チェルシーはその後のスゥインギン・ロンドンとよばれるストリート・カルチャー・ムーブメントの中心となっていく。
 
 西武百貨店はテレンス・コンランのハビタと提携しハビタ・ジャパンを設立。1982年、池袋西武ハビタ館をオープンする。 

  Habitat

  
 専門筋からは大いに注目を集める一方で、当初から売上は芳しくなく、1984年に販売したヴィルセゾン小手指(所沢)というマンションで、モデルルームの1つをハビタの家具でコーディネートしたことがあったが、テレンス・コンランもハビタも、ましてやイギリスにおけるライフスタイル革命など、ピンとくるような人は誰もいなかった。
 
 ハビタはgood design at good priceをコンセプトとしていたが、日本ではgood designを広く普及させるには早すぎたし、1ドル250円の為替レートではgood priceを実現することも困難だった。
 
 小文字だけのスマートなhabitatのロゴは今見てもなかなかなgood designだ。池袋西武ハビタ館はバブルの崩壊を待たずに早々と閉館する。
 
 その後のバブルは土地・株などの資産インフレ、住宅価格の高騰など通じて、新たな高級・高額需要を生み出し、さまざまなマーケットに思ってもみなかった恩恵を与えた。そしてバブルの崩壊は、そうした泡のような需要が雲散し、いつしかそれを当たり前のように思うようになっていた多くの企業に大きな痛手をもたらす結果となった。
 
 同時にバブルによる資産インフレとバブル時代に定着した1ドル120円という価値を倍増させた強い円は、消費者に今までにない消費体験をもたらした。
  
 それまで目にすることがなかったレアな商品やマイナーな情報が店頭に並ぶようになり、手の届かなかった高級品・高品質商品が日常生活に入り込み、当たり前となった海外旅行が束の間とはいえ垣間見させた彼の地のライフスタイルへの羨望を倍加させた。
 
 90年代の洗練と成熟はそうした<バブルの洗礼>の結果といえる。アルフレックスは不動産事業での痛手を乗り越え、カッシーナはユニマットの資本参加で上場を果たし、目黒通りはアンティーク・ファニチャのメッカとなり、コンラン卿のコンセプトは、1994年に開店したコンランショップにおいて、ようやく消費者に大いなる共感をもって迎えられる。
 
 インテリア以上に洗練と成熟の様相を見せたのが、食や衣のマーケットであり、1980年代から徐々に注目され、1990年代にかけての爆発的に普及したイタリア料理、1990年代後半から知られはじめ、2000年代に人気を集めたクラシコイタリアなど、いずれのブームも<バブルの洗礼>としての消費体験がベースになっていた。
 
 今の日本市場の洗練と成熟は<バブルの洗礼>によってもたらされたことを忘れてはならない。
 


 
 
(★)トップ画像はベルサイユ宮殿の一画にあるプティ・トリアノンの室内。プティ・トリアノンは、ルイ15世の愛妾ポンパドール夫人のために建てられたが、婦人は完成前に死去。その後ルイ16世妃のマリー・アントワネットが好んで過ごす場所となった。インテリアは同妃により改装されたもので、ロココ・スタイルの傑作と言われている。18世紀のフランスのルイ王朝時代は、今日につながる個人のプライベートな時間やくつろぎが尊ばれはじめた時代であり、パーソナルな居心地を重視した家具が登場するなど、その後のモダン・ファニチャーが生まれる発端となった。



*初出:東京カンテイ<マンションライブラリー>




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シンプルの系譜<4> ~ボー・ブランメル~

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 モダンデザインを一言でいうとシンプルなデザインということになるだろう。
 
 広辞苑には「シンプル」とは「単純なさま」とある。シンプルとは、色・かたち・素材が簡素で抑制されているさまである。
          
 シンプルはモダニズムの専売特許ではない。また、建築やプロダクトのデザインに限られるというわけではない。シンプルという価値観はどこから来たのか。シンプルの具体的な現れ方とは。シリーズ《シンプルの系譜》では、さまざまな切り口でシンプルの様相を探ってみる。
          
 今回は元祖ダンディのボー・ブランメル Beau brummell ことジョージ・ブライアンー・ブランメル(1778-1840)にシンプルの系譜を追ってみる。
      
 ダンディあるいはダンディズムという言葉は、今日ではすっかり手垢にまみれたものとしか響かないが、それでもこのダンディの始祖ボー・ブランメンルの神話は揺るがない。
         
 ボー・ブランメンルはダンディの元祖として今日のメンズスーツのスタイルの基本を作ったとよく誤解されるがそうではない。伝えられている唯一のブランメルの姿を見てみよう。

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(*Caricature of Beau Brummell by Richard Dighton 1805, source :
http://www.wikiwand.com/en/Beau_Brummell)

         
 18世紀の終わりから19世紀前半にかけてのメンズファッションの主流は、それ以前のコートのような長いシルクの上着+ブリーチズ(半ズボン)+ストッキングというスタイルから、上半身はフロックコートが進化した乗馬服スタイルの燕尾型のジャケットへ、下半身はトラウザース(長ズボン)へと変化しており、かつての宮廷スタイルからは相当現代風に転換してはいたものの、全体のシルエットは身体にぴったり添ったボディコンスタイルであったし、装飾やアクセサリーも多く、現在の筒状のスーツのイメージからすると、まだまだ大仰で華美で時代がかった感じが否めない。
   
 ボー・ブランメンルの真の革命性はそのアティチュードattitude(態度)にあった。
            
 18世紀の終わりから19世紀前半のヨーロッパ世界は、アメリカがイギリスから独立し(1776年)、フランス革命が起こり(1789年)、イギリスでは産業革命の真っ最中の時代である。貴族社会が瓦解し、とはいえ市民社会や資本制経済などがまだ形として定まらない過渡期の時代だった。最も有名な同時代人はナポレオン・ボナパルト(1769-1821)だろう。
          
 バイロンをして「ナポレオンになるよりもこの男になりたい」と言わしめたボー・ブランメルのアティチュードとはどんなものだったのか。

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(*Statue of Beau Brummell by Irena Sedlecká in London's Jermyn Street 2002 , source : http://www.wikiwand.com/en/Beau_Brummell
    
 ブランメルが徹底的にこだわったのは、ひとに振り返られない目立たない装いであり、さりげなさであった。
             
 派手な色や華美な装飾や豪華な素材を否定し、奇を衒わない控え目な装いに徹した。一方で着こなしのために体型を維持し、最高の素材を吟味し、ジャストフィットの仕立てにこだわった。装飾品は時計の鎖だけ。オーデコロンもつけなかった。その代わりシャツやクロスの白さに命をかけ、カントリーの澄んだ水で洗濯させたものしか身に着けなかった。身支度には2時間をかけ、満足のいくネッククロスの結び目ができるまで無数の結び損が山積みされたそうだ。
           
 さらにブランメルの究極のこだわりは、こうした工夫や努力を一切まわりの人に気取られないレベルにまで昇華させることでようやく完成されるという、作為を<作為なき作為>のレベルまで追及する徹底的なものであった。
      
 ブランメンルの<作為なき作為>を作為する態度が行き着いた先は、自己をNil Admirari(ラテン語、なにものにも動じないことの意)と呼ばれる完璧な無関心にゆだねるという一種の<超然革命>だった。
  
  ブランメルは、他人の悪趣味な服装やこれ見よがしな態度に対して痛烈な皮肉や無視を持って応じた。周りの賛辞や引き立てに対しても決して有難がらない超然とした態 度を維持する徹底ぶりだった。こうしたブランメンルの態度は、当然ながら周りには倣岸不遜と映るとともに、一方で余人にない特異な才能として耳目を集める。
           
 ブランメルという男は、郷士(英語ではエスクワイヤ)と呼ばれる貴族階級では一番下の出自であり、オックスフォード大学を出てはいるものの、上流階級や社交界には縁がなく、軍務や職業にもほとんど就かず、芸術上の功績も皆無の人物だった。そんなないないずくしのブランメルが唯一持っていた特異な個性を見出して、社交界に引き上げたのは後に国王ジョージ4世(1762-1830)となる摂政王太子だった。
            
 イギリス王のなかでも最低の一人といわれるこの王だが、流行と趣味とファッションと社交界においては絶大な影響力を持っていた人物であった。「政治と説教より女と酒瓶」の王だった。夥しい宴会と大量の酒のおかげで晩年のジョージ4世は満身創痍で体重は100キロを優に超えていたといわれている。

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 (*A Voluptuary Under The Horrors of Digestion,caricature by James Gillray from GeorgeⅣ's time as Prince of Wales,1792,
source:https://en.wikipedia.org/wiki/George_IV_of_the_United_Kingdom#/media/File:A-voluptuary.jpg)

         
 ブランメルは、信奉者であり庇護者でありライバルであったジョージ4世(1762-1830)とも些細なことで決裂してしまう。ブランメルのいつもの傲慢さが災いしたとも、国王を差し置いて社交界に君臨するブランメルへの影響力への嫉妬が原因ともいわれているが、その両方であったろうことは想像に難くない。
            
 ブランメルの<超然革命>の究極のエピソードは、破産してフランスのカレーに逃亡し、困窮していた晩年に、ジョージ4世がカレーの領事の職に任命するというかたちで差し伸べた助力を拒否したことだ。ブランメルがジョージ4世に書き送った内容は、カレーにはそもそも領事などは不要であるというものだったそうだ。結果的に借金が払えず収監され、その後、精神に異常をきたし、慈善病院でひとり孤独な最期を迎える。
                  
 自らの苦楽や生死すらも、完璧な無関心にゆだねるというブランメンルの<超然革命>に、新たな時代の価値の体現を見たのが、モデルニテmodernité (現代性、近代性)を掲げるボードレールやバルザックやスタンダールやバルベイ=ドールヴィイなどの19世紀のフランス近代文学者たちだった。
            
 ボードレールはダンディズムについて次のような主旨のことを言っている。
 
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 (*Chales Baudelaire , source : https://www.pinterest.jp/pin/461759768016603405/?lp=true)
 
 それは民主主義が未だ全盛とならず、貴族主義が未だ部分的にしか動揺せず失墜していないような、過渡の時代に現われる一種の新しい貴族主義であり、退廃期における英雄主義の最期の煌きである、と。
               
 貴族時代の出自や家系ではなく、寄る辺なき個人に宿る移ろいやすい精神性に近代の本質を求めるモダニストが見出した価値感だった。フランスでのボー・ブランメルやダンディズムへの評価は、本場イギリスに逆輸入され、貴族社会から市民社会に向けた転換期を象徴する精神となってゆく。
            
 市場経済が席巻するなかダンディやダンディズムは一種の商品として消費されつくし、陳腐化して久しいなか、元祖である人物が今もなお語り継がれているのは、シンプルという価値が突きつけた既成の価値と権力へのNOの「栄光と挫折」を見ているからではないのか。
              

金子國義 

 (*生田耕作『ダンディズム 栄光と悲惨』表紙,金子国義画)

      
 シンプルとは、己の運命すらにも動じないという完璧な超然さの証だった。ボー・ブランメルというシンプルの系譜は、そう教えてくれる。

 
 

*参考文献 : 『ダンディズム 栄光と悲惨』、生田耕作(中公文庫、1999年)
        『スーツの神話』、中野香織(文春新書、2000年)
        『ダンディズムの系譜』、中野香織(新潮選書、2009年)

    

*初出:zeitgeist site



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