釈放されたマーロウを新聞記者のロニー・モーガンが迎える第10章 。
ロニー・モーガンはこんな風に登場する。bleakは寒々しい、うら寂しい、griferはペテン師、knock off は仕事が終わる、beatは~番、~詰めと言う意味。
He was about six feet four inches tall and as thin as a wire.
"Need a ride home?"
In the bleak light he looked young-old, tired and cynical, but he didn't look like a grifter. "For how much?"
"For free. I'm Lonnie Morgan of the Journal. I'm knocking off."
"Oh, police beat," I said.
"Just this week. The City Hall is my regular beat."
ロニー・モーガンは「身長193センチ、針金のように細い」と形容される。拘置所内のグレゴリアス警部やスプランクリンのような太った男たちとは対照的な設定だ。
looked young-oldについては、清水訳では「年齢(とし)のわりには老けていて」、村上訳では「若いようにも、年をくっているようにも見えた」となっている。はたしてどちらのニュアンスなのだろうか?
マーロウの見立てどおりにロニー・モーガンは "They ride you in," he said, "but they don't worry how you get home. " などとシニカルにつぶやく人物だ。
第1章ではレノックスをマーロウが車で送るが、この第10章ではモーガンがマーロウを車で家まで送る。出番は少ないもののロニー・モーガンはその後、重要な役割を担うことになる。
"I live way out in Laurel Canyon," というマーロウのセリフのway outが分かりにくい。way out は普通、出口を意味するが、前後からするとway outは名詞ではなくliveを形容する副詞の役割だろう。way には副詞や前置詞を強調する使い方があるそうだ。したがってlive way out で「ずっと遠くに住んでいる」という意味だろう。
ロニー・モーガンは「誰かがレノックス事件の周りに壁を立てているのだ」と事件へ疑問を口にする。
"Somebody's building a wall around the Lennox case, Marlowe. You're smart enough to see that, aren't you? It's not getting the kind of play it rates, The D.A. left town tonight for Washington. Some kind of convention. He walked out on the sweetest hunk of publicity he's had in years. Why?"
"No use to ask me. I've been in cold storage."
"Because somebody made it worth his while, that's why. I don't mean anything crude like a wad of dough. Somebody promised him something important to him and there's only one man connected with the case in a position to do that. The girl's father."
It's not getting the kind of play it ratesのところは、playは新聞や報道での取り上げ方や話題を意味しており、直訳すると「事件の大きさにふさわしいような取り上げ方になっていない」となる。
後半の方に出てくるsomebody made it worth his whileは日本語にしようとするとなかなか悩ましい。この場合のwhileは、時間や労力を意味し、worth sb’s whileでsbが時間を割いてまでする価値がある、あるいは骨を折ってまでする価値がある、という意味になる。使役動詞を直訳すると「彼がそれをわざわざする価値があるように、誰かがそうしている」となるが、分かったような分からないような感じだ。普通の日本語では「誰かが彼が損をしないようにしてしている」あるいは「誰かが彼にそれ相応の見返りを与えている」という感じだろうか。
その「見返り」の文に続いてでてくるcrudeは生の、wad は束という意味。doughはパンの生地のドウのことだが、ここでは口語で現ナマを意味している。crude like a wad of doughで「札束のような露骨な手段」ということになる。
ロニー・モーガンは、シルヴィアの父である新聞王のハーラン・ポッターが手を回し、レノックスの自殺を促し、D.A.にもそれ相応の見返りを与えて手を引かせ、幕引きを図っているのではないか、と問いかける。
ロニー・モーガンはこんなこともつぶやく。「レノックスはそもそも彼女を殺していなかったのかもしれない」と。
いずれに対してもマーロウの反応は鈍い。それもそのはずで、ロニー・モーガンの疑問は、拘置所にいる間からずっと抱いてきたマーロウ自身の疑問でもあるからだ。ロニー・モーガンはマーロウの分身のような役回りなのだ。
車はローレル・キャニオンのマーロウに家の前に停まる。「一杯やっていくか?」と誘うマーロウ。「またにするよ。一人になりたいだろう」と答えるモーガン。マーロウの分身もやっぱりクールなのだ。
I got out. "Thanks for the ride, Morgan. Care for a drink?"
"I'll take a rain check. I figure you'd rather be alone."
"I've got lots of time to be alone. Too damn much."
"You've got a friend to say goodbye to," he said. "He must have been that if you let them toss you into the can on his account."
"Who said I did that?"
He smiled faintly. "Just because I can't print it don't mean I didn't know it, chum. So long. See you around."
rain checkとは雨で中止になった試合などの振り替え券のことだそうだ。I'll take a rain checkとはなかなかうまい言い方だ。
「あんたにはさよならをいうべき友達がいた。彼のせいで留置所にぶち込まれても良いと思えるような友達がね」とロニー・モーガンはレノックスとの関係を知っている様子。"You've got a friend to say goodbye to,"というのはまさに作品のテーマを言いあてているような名セリフ。
久しぶりに家に戻り、明かりをつけ、すべての窓を開け、コーヒーを淹れるマーロウ。
I made some coffee and drank it and took the five C notes out of the coffee can. They were rolled tight and pushed down into the coffee at the side.
このコーヒー缶のなかの5枚の100ドル札(the five Cnotes)は、第5章でレノックスがティファナの空港で別れ際に言った、お礼としてマーロウに内緒で残してきた例の500ドルだ。
何をしても落ち着かないマーロウ。ベッドに入ってもロニー・モーガンの言葉を反芻するようにレノックス事件を考え続ける。
As Lonnie Morgan of the Journal had remarked-very convenient. If Terry Lennox had killed his wife, that was fine. There was no need to try him and bring out all the unpleasant details. If he hadn't killed her, that was fine too. A dead man is the best fall guy in the world. He never talks back.
「死人ほど無実の罪をかぶせるのにふさわしい人間はいない。死人は決して反論したりはしない。」
『ザ・ロング・グッドバイ』精読Chapter11ヘ
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レイモンド・チャンドラー『ザ・ロング・グッドバイ』精読 Chapter10
レイモンド・チャンドラー『ザ・ロング・グッドバイ』精読 Chapter11
第11章ではマーロウの事務所にメンディ・メネンデスというやくざ者が現れ、テリー・レノックスの意外な過去が明らかになる。
マーロウは久しぶりにダウンタウンの事務所に出勤する。マーロウの一日はいつもこんな風に始まるのだろう。
I slit the envelopes after I opened windows, and threw away what I didn't want, which was practically all of it. I switched on the buzzer to the other door and filled a pipe and lit it and then just sat there waiting for somebody to scream for help.
窓を開け、郵便物をあらため、待合室のブザーのスイッチを入れ、パイプにタバコを詰め、火をつけて、腰を下ろし「誰かが叫び声を上げて助けを求める」のを待つ。そんな一日の始まり。
ドアのブザーと電話が同時になる。
電話は弁護士のスーウェル・エンディコットからだ。君が今後もしレノックス事件にかかわることがあり、助けが必要な場合は知らせて欲しい、とマーロウに申し出る。
再び探りを入れるような申し出をいぶかるマーロウは、レノックスの自白書のことで議論を吹っかける。veracityは真実性という意味。
"I'm talking to a lawyer. Would I be out of line in suggesting that the confession would have to be proved too, both as to genuineness and as to veracity?"
"I'm afraid I have no time for a legal discussion," he said sharply. "I'm flying to Mexico with a rather melancholy duty to perform. You can probably guess what it is?"
I'm talking to a lawyerの現在進行形は、単に今、話をしているという意味よりも、現在の行為を強調する意味合いで使っているのだろう。また、Would I be out of line in~というところも文意を強調するための反語的言い方として疑問形が使われているようだ。直訳すると「弁護士さんと話をしているから言うわけではないが、自白書というものは、本物でありかつ書かれている内容が真実であることが証明されなければ効力がない、と私が言ったとしてもあながち的外れとはいえないでしょう」という感じだ。たっぷりと皮肉が込められたニュアンス。村上春樹は「もちろん弁護士であるあたなにこんなことを言っても、それこそ釈迦に説法でしょうが」と訳している。
エンディコットの方も「申し訳ないが君と法律論議をしている暇はない」とぴしっと言い放ち、気の進まない用事でメキシコに赴かなければならないことを告げる。
待合室のブザーを鳴らした来訪者はメンディ・ネメンデスと呼ばれている男だ。
A man was sitting by the window ruffling a magazine, He wore a bluish-gray suit with an almost invisible pale blue check. On his crossed feet were black moccasin-type ties, the kind with two eyelets that are almost as comfortable as strollers and don't wear your socks out every time you walk a block. His white handkerchief was folded square and the end of a pair of sunglasses showed behind it. He had thick dark wavy hair. He was tanned very dark. He looked up with bird-bright eyes and smiled under a hairline mustache. His tie was a dark maroon tied in a pointed bow over a sparkling white shirt.
特徴的な細かいディテールの描写を積み重ねることによってその人物のキャクターを創り上げるのはチャンドラーの手法だ。この場合は服装に焦点が当てられる。
tiesとは浅いタイプの紐靴のこと。black moccasin-type ties, the kind with two eyeletsとは、靴紐を通す穴(鳩目と呼ばれる)が片方に2つづつ開いているモカシンタイプの紐靴のことだ。紐付きのモカシンというと普通は、カジュアルなインディアン・モカシンやデッキ・モカシンを思い浮かべてしまう。逆にスーツに合うようなモカシンの多くは、紐なしのローファータイプ(ビット・モカシン)が一般的だ。Webで探してみるとヴィンテージ物でカジュアルではない紐靴のモカシンが幾つかあった。写真のものはフローシャイムの60年代のもの。ただしこれは3アイレット。メネンデスの履いていたものはこれよりもっと華奢でエレガントな雰囲気のものだったと思われる。
その靴を形容するthat are almost as comfortable as strollers and don't wear your socks out every time you walk a blockというところがチャンドラーお得意の大げさな比喩でおかしい。strollerはベビーカーのこと。wear your socks out とはソックスをダメにするという意味。50年代のころはそんなつくりの靴が多かったのだろうか?
pointed bowとは端部が三角になったボウタイのこと。普通の蝶ネクタイよりも凝っている。
ほとんど見えないくらいの淡いブルーのチェックが入ったブルーイッシュ・グレイのスーツに華奢でエレガントな2アイレットのモカシン縫いのブラックシューズを履き、胸にはTVホールドのポケットチーフをあしらい、きらめくような白いシャツにダークな海老茶色のポインテッドエンドのボウタイを結んだ、見事に日焼けして、ヘアラインのような細い口ひげをたくわえ、黒々としたウェイビーヘアの男。
ミスター・メネンデスの服装はキザだが趣味は悪くなさそうだ。しかしながら過ぎたる完璧さは何事からも尋常さを奪ってしまう。単なるおしゃれや気障を通り越して、怪しげな囲気を漂わせてしまっているこの人物の感じが実に良く伝わってくる描写だ。
マーロウに絡むメネンデスとの会話が本章の見どころ。例えばメネンデスはマーロウのことをさまざまな蔑称でさげすむ。いわくsamll-time(つまらない),piker(しみったれ),penut grifter(くだらないペテン師),cheapie(安物)などなど。a nickel’s worth of nothingというのもある。直訳すると「5セント玉一個分の無」となる。全く価値がない、ということだろう。
また、メネンデスはマーロウのことを何回もTarzan on a big red scooterと呼んでいる。「でっかい赤いスクーターに乗ったターザン」とはどういう意味だろう?マーロウのことを時代錯誤の騎士道精神にかぶれたタフガイと揶揄している(あながち的外れではない、というか実に批評性に富んだ評価かもしれない)わけだが、on a big red scooterのニュンスが不明だ。50年代には「でっかい赤いスクーターに乗った」ヒーロー物語などがあったのだろうか?
何故、自分が大物になったか判るか?と言ってメネンデスは自らこう解説する。doughは現ナマ、got toはhave toの口語的言い方、juiceは文字通り甘い汁だがここでは他動詞として使われている。
"I'm a big bad man, Marlowe. I make lots of dough. I got to make lots of dough to juice the guys I got to juice in order to make lots of dough to juice the guys I got to juice.
入れ子のような構造の構文で分かりにくいが雰囲気は伝わってくる。直訳すると「しかるべき連中に賄賂を渡すためにしこたま金を稼ぐ必要があり、そのためにはまた別のしかるべき連中に賄賂を渡すためにしこたま金を稼がなければならない」という感じか。
メネンデスの大物自慢は続く。いちいち値段を言い添え、数にこだわるところがいかにも成り上がりのやくざ者らしい。grandは1,000のこと。
"I got a place in Bel-Air that cost ninety grand and I already spent more than that to fix it up. I got a lovely platinum-blond wife and two kids in private schools back east. My wife's got a hundred and fifty grand in rocks and another seventy-five in furs and dothes. I got a butler, two maids, a cook, a chauffeur, not counting the monkey that walks behind me. Everywhere I go I'm a darling. The best of everything, the best food, the best drinks, the best hotel suites. I got a place in Florida and a seagoing yacht with a crew of five men. I got a Bentley, two Cadillacs, a Chrysler station wagon, and an MG for my boy. Couple of years my girl gets one too."
and two kids in private schools back eastというところのback eastという言い方は、東部エリア以外に住んでいる人が東部を指す時や東部以外の場所からみた東部エリアを言い表す際に良く使われる言い方だそうで、東部から始まったアメリカ移民の歴史に由来するらしい。ニュアンスとしては本来はニュートラルなのだろうが、メネンデスは明らかに2人の息子を通わせている東部の私立学校の由緒を自慢したがっていることが伝わってくる表現だ。チャンドラーは実に細かいところまで目を配っている。
しつこく絡むメネンデスに"Stop hamming and tell me what you want."と痺れを切らすマーロウ。hamは過剰な演技や大げさに振舞うこと。メネンデスの口から自分ともう1人のランディー・スターという人物とテリー・レノックの過去の関係が明かされる。
3人は第2次大戦のヨーロッパ戦線での戦友で、レノックスは2人を助けた命の恩人だった。レノックスは3人がいる塹壕に落ちた迫撃砲弾を抱えて塹壕を飛び出す。砲弾を放り投げるが砲弾は空中で爆発して顔を負傷する。その後ドイツ軍の一斉攻撃があり、レノックスは行方不明となってしまう。レノックスはドイツ軍の捕虜になり整形手術を受けていた。戦後、メネンデス達は、ドイツ軍による整形手術で顔の半分が入れ替わり、白髪になり、神経を病み、東部で酒びたりになっているレノックスをようやく探し当てる。
その話を聞いたマーロウとメネンデスのやり取り。
"Thanks for telling me," I said.
"You take a good ribbing, Marlowe. You're okay. "
メネンデスのセリフのYou take a good ribbingがなかなか難物。ribbingとは悪意のないジョークやからかいというような意味で、通常はtake a ribbing for(or about)~という言い方で、~に関してからかわれるとか冗談を言われる、という意味なのだそうだ。
レノックスの知られざる過去の話を聞いて、その前にさんざん難癖をつくられていた相手のメネンデスに対して「話してくれて感謝する」と言うマーロウ。ここでのgoodは、誰に対しても言うべきことは言うというマーロウの動じない態度をメネンデスが評価しているという意味合いなのだろう。事実、メネンデスはYou're okayと言っている。
こうした前後の文脈を踏まえると、直訳すると「お前は良いからかわれ方をしている」つまり「お前はからかわれ方が上手いやつだ」という感じか。意味の通じる日本語にすると「お前はからかわれたり、絡まれたりしてもへこたれないたいしたやつだ。気に入ったぜ」ということになるだろう。
レノックス事件から手を引け、事件を利用して名を売ったり、金をせしめたりすることは止めろ、と脅すメネンデス。そんなことはしていない、というマーロウ。pay offは金をつかませる、deadはぴたりと、go alongはついていく、賛成するの意。
"Don't kid me, Marlowe. You didn't spend three days in the freezer just because you're a sweetheart. You got paid off. I ain't saying who by but I got a notion. And the party I'm thinking about has plenty more of the stuff. The Lennox case is closed and it stays closed even if - " He stopped dead and flipped his gloves at the desk edge.
"Even if Terry didn't kill her," I said.
His surprise was as thin as the gold on a weekend wedding ring. "I'd like to go along with you on that, cheapie. But it don't make any sense. But if it did make sense - and Terry wanted it the way it is - then that's how it stays."
「レノックス事件は終わったんだ。この先も終わったままなんだ、たとえ・・・」と口を滑らせ思わず言葉を飲み込むメネンデス。「たとえテリーが彼女を殺していなかったとしても」とすかさず後を続けるマ-ロウ。意味深な会話だ。
as thin as the gold on a weekend wedding ring という比喩が面白い。weekend wedding ring とは「ゆきずりの結婚話の際の指輪」とでも訳すのだろうか。
マーロウは執拗に絡むメネンデスの腹に一発お見舞いする。メネンデスは用心棒チック・アゴスティーノにマーロウの顔を覚えさせて立ち去る。
"Like a dirty newspaper," I said. "Remind me not to step on your face."はその用心棒への嫌味の一言。「汚れた新聞紙と間違えて君の顔を踏まないように気をつけないと」。
何故、メンディ・メネンデスのような名の知れたやくざ者がわざわざ時間を割いて警告にやってきたのか?あるいはハーラン・ポッターの意向で動いているらしい弁護士のスーウェル・エンディコットまでもが牽制するような電話をかけてきたのは何故か?マーロウは考えを巡らす。
マーロウはI didn't get anywhere with that, so I thought I might as well make it a perfect scoreと思い、ラスベガスのランディー・スターのクラブに電話をかけてみる。
この一文は簡単な単語だけになかなか難しい。not get anywhereはうまくゆかない、という意味の口語的表現。might as well~ は~するのも悪くはないというニュアンス。「考えても埒があかないのでどうせならやれることをやって満点を取ろうとしてみようと思った」という感じか。ただし、ランディー・スターは不在で「満点」は取れないで終わる。
それから三日目にニューヨークの出版社の代表をしているハワード・スペンサーという人物から電話があり新しい依頼が舞い込む。
チャンドラーはいつものように、なにげない話し方や微妙な言葉遣いにその人物のキャクターや出自をにじませる。mix it with~は~とつきあう、put inは述べる、reticentは寡黙な、という意味。
"You sure you want to mix it with a guy who has been in the cooler?"
He laughed. His laugh and his voice were both pleasant. He talked the way New Yorkers used to talk before they learned to talk Flatbush.
"From my point of view, Mr. Marlowe, that is a recommendation. Not, let me add, the fact that you were, as you put it, in the cooler, but the fact, shall I say, that you appear to be extremely reticent, even under pressure."
He was a guy who talked with commas, like a heavy novel over the phone anyway.
中ほどのFlatbushというのはNY市ブルックリンの地名。元々はオランダからの入植者が住み着いたエリアで、今はカリビアン・コミュニティができているそうだ。talk FlatbushとはFlatbush accentのことだろう。Blooklyn accent(ブルックリン訛り)とほぼ同義のようだ。
ハワード・スペンサーは「決してブルックリン訛りなどで話すことがなかった時代のニューヨーカーの言葉遣いで話した」と描かれる。ただしチャンドラーはちょっと皮肉にこういう風につけ加えることも忘れない。いわくハワード・スペンサーは「コンマをたくさん混ぜてしゃべる人物。まるで重厚な文学でも読んでいるみたいだ」と。
満足できるクライアントからの仕事。マーロウもちょうど仕事が欲しい時だと思っていたが・・・・。a portrait of Madisonは5,000千ドル札のことを指している。
Even in my business you occasionally get a satisfied customer. And I needed a job because I needed the money-or thought I did, until I got home that night and found the letter with a portrait of Madison in it.
「その夜、家に帰り、マディソン大統領の肖像入りの紙幣が同封された手紙を目にするまでは」と新たな謎へ誘う一文で幕を閉じる。
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レイモンド・チャンドラー『ザ・ロング・グッドバイ』精読 Chapter12
第12章では自殺したと伝えられたテリー・レノックからの手紙が届く。この手紙は、第3章、第4章の<ヴィクターズ>での会話と並び、読む者にテリー・レノックスという人物の持つ不可思議な魅力を鮮やかに印象づける。
手紙はマーロウのバードハウス型のメイルボックスに届いている。
The letter was in the red and white birdhouse mailbox at the foot of my steps. A woodpecker on top of the box attached to the swing arm was raised.
清水訳では「箱の上のきつつきがひっくり返されていて蓋が開いてた」と訳されており、村上訳では「箱の上にはキツツキがついていて、郵便物が入っているしるしに、その翼が上に向けられていた」となっている。the swing armとはアメリカで良く見る、郵便物が届いているかどうかを示すために水平から90度起き上がるようになった可動式のフラッグのことだろう。マーロウのはフラッグに木製のキツツキがくっついているのだ。正確には「箱の上のスイングアーム式のフラッグについているキツツキが起こされいた」ということではないだろうか。
手紙はメキシコからだ。Correo AéreoはAir mailのスペイン語、a flock of ~で、たくさんの~という意味。
The letter had Correo Aéreo on it and, a flock of Mexican stamps and writing that I might or might not have recognized if Mexico hadn't been on my mind pretty constantly lately.
writing that I might or might not have recognized if ~のところは、直訳すると、if以下でなければ「筆跡を認識できたかもしれないし、あるいは、できなかったかもしれない」となる。要はどちらなのか判らない、と言うことだが、意味が通じる日本語にすると「筆跡を認識できたかどうかはわからない」という感じか。
オタトクランという湖のある山間の小さな町のお世辞にもきれいとはいえないホテルの一室でこの手紙を書いている、とレノックスの手紙は始まる。ホテルの部屋はメキシコ人に見張られており、この手紙はコーヒーを運んでくるボーイにチップをやって、部屋の窓から見えるポストに投函してもらうつもりだと記されている。
孤独で、哀れで、惨めで、諦めきった、それでいて饒舌でどこかしら胡散臭い、悲しくも美しい手紙だ。テリー・レノックスという人物そのものを象徴しているようだ。
全文掲載したくなる文章だがいくつかの「テリー節」を引用しよう。
Call it an apology for making you so much trouble and a token of esteem for a pretty decent guy.
同封した5,000ドルは「君に多大な迷惑をかけたことへのお詫びであり、心得を知る人間への敬意のしるしと思ってもらいたい」(村上訳)
I've done everything wrong as usual, but I still have the gun.
「僕は例によってすべてをしくじってしまった。しかし銃だけはまだ手元にある」(村上訳)
I might have killed her and perhaps I did, but I never could have done the other thing. That kind of brutality is not in my line. So something is very sour. But it doesn't matter, not in the least.
「僕は彼女を殺してもおかしくはなかった。というか、たぶん、実際に僕が殺したのだろう。しかしそのあとのことは僕とは無関係だ。あんな酷いことが僕にできないはずがない」(村上訳)
They have their lives to live and I'm up to here in disgust with mine.
「彼ら(注:シルヴィアの父と姉のこと)には彼らの生活があるし、僕は自分にうんざりして我慢ができなくなっている」
Sylvia didn't make a bum out of me, I was one already.
「シルヴィアが僕を堕落させたわけじゃない。僕はその前から堕落していたのだ」(村上訳)
At least she died young and beautiful. They say lust makes a man old, but keeps a woman young. They say a lot of nonsense. They say the rich can always protect themselves and that in their world it is always summer. I've lived with them and they are bored and lonely people.
「少なくとも彼女は若くて美しいまま死んだ。放蕩は男を老けさせるが、女を若く保たせると人はいう。人はいろんなつまらないことを言う。金持ちは常に手厚く守られ、常夏の世界に住んでいる、そんなことを言うものもいる。僕は金持ち連中と世界をともにしてきたが、彼らはただの退屈した淋しい人たちに過ぎない」(村上訳)
I feel a little sick and more than a little scared. You read about these situations in books, but you don't read the truth. When it happens to you, when all you have left is the gun in your pocket, when you are cornered in a dirty little hotel in a strange country, and have only one way out-believe me, pal, there is nothing elevating or dramatic about it. It is just plain nasty and sordid and gray and grim.
「気分がいささかよくないし、かなり怯えてもいる。こういう状況について君も本で読んだことがあるだろう。しかし本で読むのと実際に体験するのとではずいぶん違うものだ。もし現実にそういう状況に置かれたら、つまり残されているのがポケットの中の拳銃だけで、異国の薄汚い安ホテルの片隅に追い込まれた、袋のネズミにされているとしたら、そこには心高ぶるものもないし、ドラマチックなものもない。そいつは僕が保証するよ。ただ薄汚く、みすぼらしく、色褪せて、陰惨なだけだ」(村上訳)
そして極めつけの名セリフ。こうした繊細で傷つきやすい感情の吐露がいつの間にか相手の心を掴んでしまう、というのがテリー・レノックスが放つ抗し難い魅力だ。
So forget it and me. But first drink a gimlet for me at Victor's. And the next time you make coffee, pour me a cup and put some bourbon in it and light me a cigarette and put it beside the cup. And after that forget the whole thing. Terry Lennox over and out. And so goodbye.
手紙の最後はこう締めくくられる。
I like Mexicans, as a rule, but I don't like their jails. So long. Terry.
「僕はたいての点でメキシコ人が好きだが、メキシコの監獄だけは好きになれない。それでは、テリー」(村上訳)
マーロウは「センチメンタルかもしれないが」と前置きしながら、テリーの頼みどおりにコーヒーを淹れ、煙草に火をつけ、あの朝テリーが座った側のテーブルに置く。
I sat there and looked at it for a long time. At last I put it away in my letter case and went out to the kitchen to make that coffee. I did what he asked me to, sentimental or not. I poured two cups and added some bourbon to his and set it down on the side of the table where he had sat the morning I took him- to the plane. I lit a cigarette for him and set it in an ash tray beside the cup. I watched the steam rise from the coffee and the thin thread of smoke risefrom the cigarette.
やがてコーヒーは湯気を立てるのをやめ、煙草の煙も消える。It didn't seem quite enough to do for five thousand dollars 「とても5,000ドル分の仕事とは思えなかった」とやるせなさをいつもの減らず口でなんとか紛らわそうとするマーロウ。
映画に行き、一人チェスを試み、ハチャトリアンのヴァイオリン協奏曲をかけてみるが、何をしても眠れないマーロウ。「私にとって眠れない夜は、太った郵便配達人と同じくらいめずらしい」と相変わらずのマーロウ。ここでのkillは酒瓶をすっかり空ける、と言う意味。
A white night for me is as rare as a fat postman. If it hadn't been for Mr. Howard Spencer at the Ritz-Beverly I would have killed a bottle and knocked myself out. And the next time I saw a polite character drunk in a Rolls-Royce Silver Wraith, I would depart rapidly in several directions. There is no trap so deadly as the trap you set for yourself.
「この次ぎにロールズロイス・シルバー・レイスの中で酔いつぶれている礼儀正しい人間を見かけた時は、行き先など考えずに一目散にその場から離れただろう」
自己韜晦の深さは取りも直さずマーロウの心痛の大きさを表している。それはマーロウが言うように「自分が自分に仕掛けた罠」によるものだったのだが。
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Good-bye"Slim" ~追悼ローレン・バコール~
ロレーン・バコールが8月12日に亡くなった。89才だった。
ハンフリー・ボガートが亡くなったのが1957年(57才)、フランク・シナトラは1998年(82才)、ジェイソン・ロバーズは2000年(78才)で亡くなっている。パートナーだった彼らに比べると圧倒的に長生きをしたといってよいだろう。
前から気になっていた自伝『私一人』(原題By Myself 1979年)を読んでみた。1980年に全米図書賞を受賞しベストセラーになっている。
本名ベティ・パースキーとしてユダヤ人の家系に生まれた出自、ベティ・デイヴィスにあこがれたニューヨークの少女時代、表紙のモデルとなった「ハーパーズバザー」1943年3月号がハワード・ホークスの奥さんのナンシー・ホークスの目に留まってハワード・ホークスがハリウッドに呼び寄せたこと、19歳で『脱出』で映画デビュー、無口でクールな雰囲気、低い声、男に媚びない態度など『脱出』のスリム役のイメージはすべてハワード・ホークスによって創り上げられたものだったこと、The Lookといわれた上目づかいのまなざしはカメラの前で震えるのを抑えるために顎を引いた姿勢に由来すること、『脱出』で共演中のハンフリー・ボガートと恋に落ち25歳差で結婚、ガンで苦しむボギーを最期まで看取った話、その後のフランク・シナトラとの恋、ジェイソン・ロバーズとの結婚と離婚、トニー賞を2回受賞したブロードウェイでの活躍など、55歳の時点で回顧された半世紀の人生が生き生きと語られる。
そのなかにボギーと出会ったばかりの頃のエピソードとしてボギーから「さよらなを言うのは少しだけ死ぬことだ、と言うが、この前きみと別れてからの僕は死んでいたようなものだった」という内容のラブレターもらったとの話が載っている。
この「さよらなを言うのは少しだけ死ぬことだ」は、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』に出てくる台詞として有名だ。第50章の終わりでリンダ・ローリングとフィリップ・マーロウが別れる場面で登場する。
原文ではこうだ。
We said goodbye. I watched the cab out of sight. I went back up the steps and into the bedroom and pulled the bed to pieces and remade it. There was a long dark hair on one of the pillows. There was a lump of lead at the pit of my stomach.
The French have a phrase for it. The bastards have a phrase for everything and they are always right.
To say goodbye is to die a little.
このThe Frenchとはフランスの詩人・劇作家のエドモンド・アロクール Edmond Haraucourtのことで、それはRondel de l’Adieu(別れのロンデル)という1891年に作られた詩の一節にでてくる以下のフレーズを指しているといわれている。
Partir, c'est mourir un peu
C'est mourir a ce qu'on aime
離れることは少しばかり死ぬことだ
それは愛するひとのために死ぬことだ
そしてコール・ポーターの名曲Ev’rytime we say goodbye(1944)は、このエドモンド・アロクールの詩にインスパイアされたものというのも定説になっている(あるいはフランチェスコ・パオロ・トッティが曲をつけたChanson de L’Adieuいう有名な曲もあるので、それを聞いてという説もある)。
Ev’rytime we say goodbyeというと真っ先にコルトレーンの『マイ・フェイバリット・シングス』のソプラノサックスによるモダンな演奏の方を思い浮かべてしまうが、元はラブソングの名曲なのだ。
ボギーとコール・ポーターは友人だったというし、この曲は有名なミュージカル(The Seven Lively Arts)の挿入歌なので、ボギーはきっとそれを聞いていて、バコールへのラブレターに使ったのだろう。というか当時のアメリアでは割りと有名はセリフだったのかもしれない。
チャンドラーの名台詞として有名な一節に意外にもこんなところでお目にかかるとは思わなかった。ことこの台詞に関してはフィリップ・マーロウよりもハンフリー・ボガートの方が先だったというわけだ。
閑話休題。
ローレン・バコールのデビュー作『脱出』(監督ハワード・ホークス1944年)とハンフリー・ボガートと共演した初期の2本の映画『三つ数えろ』(監督ハワード・ホークス1946年)と『キー・ラーゴ』(監督ジュン・ヒューストン1948年)を観直してみた。
『脱出』はヘミングウエイの『持つものと持たざるもの』(To have and have not)を原作に、舞台をキューバからヴィッシー政権下の仏領マルティニークに置き換え、ストーリーをハンフリー・ボガート演ずる釣り船の船長が反政府活動家のために一肌脱ぐというヒーロー物に大幅に改変して作られたものだ。
結果的に原作とはほとんど関係のない内容となり、ストーリーとしては同じボギーが主演した『カサブランカ』(マイケル・カーティス1942年)とそっくりの作品となっている。
ちなみにヘミングウェイの原作は、もちろんヒーロー物やロマンスではないし、ラストがハッピーエンドでもない。世評では、もっぱら、タイトルに見られるような社会性への問題意識を標榜しながらも結局は上手くこなしきれなかった失敗作と評されている。ただ、その混迷ぶりは、どこか当時のヘミングウェイのゆらぎのようなものを感じさせ、捨てがたい魅力を有した作品だと思う。
戦争を背景にした緊迫した雰囲気の作り方やメロドラマ性や脇役陣の魅力などの点では『脱出』は『カサブランカ』に及ばないが、『脱出』は『カサブランカ』にはない別の魅力を放っている。
それはひとえにローレン・バコール演じるマリー”スリム”ブロウニングという女性の独創的な存在によるところが大きい。
ハワード・ホークスはヘミングウェイのいう「抑圧下での優雅さ」(Grace under pressure)という態度に強く惹かれていた。
ハワード・ホークスの映画は、自身の理想を実体化する一つの方法だった。ホークスの理想主義が最もわかりやすく表現されているのが後年の『リオ・ブラボー』(1959年)だろう。それは『真昼の決闘』(1952年)に抑えがたい嫌悪感を覚えたホークスが彼の理想像を映画にした作品だ。
『脱出』はその先駆となった作品といえる。『脱出』が独創的なのは「抑圧下での優雅さ」を保持する女性を創造したことだ。
ハーワード・ホークスはボギーにこう説明したという。
「君はスクリーンで最も傲慢な男になるが、こっちはその娘を、君よりちょっと傲慢にするするつもりだ」(『ハワード・ホークス』トッド・マッカーシー)
そのためにハワード・ホークスはローレン・バコールという素材を発掘し、一からそのイメージする個性の数々を身に付けさせた。
ローレン・バコールが演ずるマリー”スリム”ブラウニングは、それまでどの女優によっても演じられたことがなかった、ほとんど奇跡といってよいぐらいに独創的で魅力的な女性だった。
寡黙で意味ありげな表情、ぶっきらぼうな物言い、つっぱった態度、上目遣いのまなざし、スマートな所作。男に媚びず、男のお株を奪うクールな態度は、自己抑制と克己心と自立した美意識の表れだ。
それでいながら、そうしたぶっきらぼうな物言いやつっぱった態度から垣間見える内面が醸し出す抑えがたい理知と繊細さと女性性。
厳しい自己抑制と克己心は、荒くれた環境下にあってナイーブで壊れそうな内面を隠す精一杯の戦略でもあるのだろう。
『脱出』の最大の魅力は、ボギー&バコールによる男と女の「抑圧下での優雅さ」の応酬という、それまでの映画には決してみられなかった新しい男と女の関係が描かれているところにある。
新しかったのは女の方だ。
「用があったら口笛を吹いて」という台詞で知られている有名なシーン。実際の台詞はこうだ。
"You know how to whistle, don't you, Steve? You just put your lips together and blow."
「口笛の吹き方は知ってるわね、スティーブ。唇を重ねるようにして息を吹く、それだけよ」
この名台詞を実際のローレン・バコールのハスキーな声で聞きいてみよう。
つっぱりながらさりげなく嫉妬を表明するシーンや初々しいセクシーさが滲み出るローレン・バコールも魅力的だ。
銃撃戦で撃たれたレジスタンスのポールの身体からハリー”スティーブ”モーガンが弾丸を摘出するシーン。医療セットを持って現れるスリム。レジスタンスの奥さんがいぶかって「あなたは誰?」と問う。それに対して「ボランティアその2」とクールにうそぶくスリム。
弾丸を摘出するのを見ていた奥さんが失神するのを抱きかかえるハリー。それを見て「体重でも測っているの?」とスリム。「君が思ってるよりはるかに重い。服を緩めた方がいい」とハリー。「お得意でしょう」とスリム。
見事な会話がちりばめられた脚本は『モロッコ』などのジュールス・ファースマンとウィリアム・フォークナーの手になる。
そして有名なラストシーン。ホーギー・カーマイケル(本人が演奏する劇中の歌曲は必聴)のピアノをバックにシェイク・ヒップでウォークしながら、初めて見せる嬉しそうな表情でボギーと腕を組んでホテルを出てゆくバコールの姿が忘れがたい。
ローレン・バコールは自伝で、自分とスリムは正反対の性格であり、笑わずに無口でいることは自分にとって最も不得意なことであり、男を手玉に取るような手練手管にも全く無縁だった、と回想している。
同時に映画における自分は『脱出』のスリムから始まり、とうとう最後までスリムのイメージであった、という主旨のことも記している。
そういえば『脱出』の直後の『三つ数えろ』や『キー・ラーゴ』はもちろん、後年の『オリエンタル急行殺人事件』(1974年)や『プレタポルテ』(1994年)でもその役柄は我々が想像するマリー”スリム”ブロウニングの晩年の可能性の姿のひとつのようなキャラクターではなかったか。
それが女優として幸いだったのかどうかは判らない。
ただしこのことは間違いなく言える。ローレン・バコールが余人を持って変えがたい存在感と演技によって、それまでには決してなかった新しい女性像を創り上げたことを忘れる者は誰もいないと。
そしてそれは今なお十分に魅力を放ち続けていると。
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レイモンド・チャンドラー『ザ・ロング・グッドバイ』精読 Chapter13
第13章は新たに仕事の依頼があったニューヨークの編集者ハワード・スペンサーという人物に会うためにマーロウが出向いたリッツ・ビヴァリー・ホテルのバーのシーンで幕が開く。
バーの外にはスイミングプールがありマーロウは飛び込みをやっている肉感的な女性を見つめている。女性がプールから上がって男の待っているテーブルに戻って来る。wobbleは揺らすという意味。
She wobbled her bottom over to a small white table and sat down beside a lumberjack in white drill pants and dark glasses and a tan so evenly dark that he couldn't have been anything but the hired man around the pool.
white drill pantsは清水訳では単に「白いパンツ」、村上訳では「ぴったりした白い水着」となっているが、ここのdrill ドリルとは太い糸を使った綾目が特徴の綾織(ツイル)の生地のことを指していると思われる。いわゆるチノクロスをもっと厚くしたような生地のことだ。ざっくりとしたカジュアルな風合いが快晴のプールサイドの雰囲気にぴったりだ。
口角泡を飛ばす才気ばしった2人組みの映画関係者、ひとりバースツールでバーテンダ相手に管を巻く男。午前中のハリウッドのホテルのバーにはいかにも連中が陣取っている。
遅れているハワード・スペンサーに悪態をつくマーロウ。ニューヨークの高層オフィスで働くタイプのエスタブリッシュメントに対する皮肉たっぷりの罵詈雑言は多分、チャンドラーの本音なのだ。fatheadはまぬけ、paroxysmは発作、operatorはやり手、nine sharpは9時きっかり、という意味。
And right now I didn't need the work badly enough to let some fathead from back east use me for a horse-holder, some executive character in a paneled office on the eighty-fifth floor, with a row of pushbuttons and an intercom and a secretary in a Hattie Carnegie Career Girl's Special and a pair of those big beautiful promising eyes. This was the kind of operator who would tell you to be there at nine sharp and if you weren't sitting quietly with a pleased smile on your pan when he floated in two hours later on a double Gibson, he would have a paroxysm of outraged executive ability which would necessitate five weeks at Acapulco before he got back the hop on his high hard one.
horse-holderは乗り手のためのに馬をホールドしておく役目の人のことで、相手に従順に従うことが必要な勤めのことを意味するのだろう。Hattie Carnegie とは当時の富裕層向けのブティックを全米で展開していたハッティ・カーネギーのこと。on your panはパン(平鍋)のなかでおとなしくおさまっているというニュアンス。
後半のThis以下の文章のアクロバティックな比喩がすごい。面白いので日本語にしてみると、
「その人物は相手に9時きっかりに来くように言いつけるような偉そうな人間であり、さらに自分がダブルのギブスンで酔っ払って2時間遅れても、相手がおとなしく笑みをたたえながら待っていないことが判ると、激怒というエグゼクティブ特有の発作を起こすような人物だ。そしてそうした激しい発作を起こすような仕事を続けるためには、アカプルコでの5週間の休暇でもないと、とてもじゃないがやってられない、と主張するような人物だ」。
という感じだろうか。チャンドラーの筆が冴えわたる。
この章ではマーロウの一人称独白形式を借りてチャンドラーの斜に構えた自説がいろいろと披露される。
例えば、さまざまな金髪がいる、という金髪談義。ここではひとつだけ紹介しよう。anemiaは欠食、ncurableは不治の、languid はもの憂い、という意味。
There is the pale, pale blonde with anemia of some non-fatal but incurable type. She is very languid and very shadowy and she speaks softly out of nowhere and you can't lay a finger on her because in the first place you don't want to and in the second place she is reading The Waste Land or Dante in the original, or Kafka or Kierkegaard or studying Provençal. She adores music and when the New York Philharmonic is playing Hindemith she can tell you which one of the six bass viols came in a quarter of a beat too late. I hear Toscanini can also. That makes two of them.
「ニューヨーク・フィルハーモニーの6人のヴィオラ奏者のうちどの奏者が4分の1拍遅れていたかを指摘できる」というのがおかしい。最後の「トスカニーニもそれが出来るそうだ。そんなことが出来るのが世の中に2人いるわけだ」というのも皮肉たっぷりだ。
バーに1人の美女が入ってくる。a dreamと形容されるすこぶるつきの美女だ。sharpiesとは先に挙げたバーでアイディアを競い合っているやり手の映画関係の2人のことを指している。burblingはぺちゃくちゃしゃべる。
and right then a dream walked in. It seemed to me for an instant that there was no sound in the bar, that the sharpies stopped sharping and the drunk on the stool stopped burbling away, and it was like just after the conductor taps on his music stand and raises his aims and holds them poised.
She was slim and quite tall in a white linen tailormade with a black and white polka-dotted scarf around her throat. Her hair was the pale gold of a fairy princess. There was a small hat on it into which the pale gold hair nestled like a bird in its nest. Her eyes were cornflower blue, a rare color, and the lashes were long and almost too pale.
cornflower とは矢車草のこと。こんな色の瞳だったのだろうか。
ハワード・スペンサーがやっと現れる。担当している作家ロジャー・ウェイドがアルコールに溺れて家からしばらく姿を消したり、奥さんに暴力を振るったりする困った状況にある。彼は何かで苦しんでおり、マーロウにその原因を突き止め、なんとか正常に戻して本を書き上げさせて欲しいと頼む。
あなたが求めているのは私立探偵ではなくて魔法使いだ、彼に会ってもよいが家から放り出されるのがおちだ、とマーロウは依頼を断る。
それに対する反応は意外にもスペンサーではなくa dreamと形容された美女からだった。
"No, Mr. Marlowe, I don't think he would do that. On the contrary I think he might like you."
"Please don't get up," she said in a voice like the stuff they use to line summer clouds with.
「夏の雲の線を引く時に使うthe stuffのような声」とは一体どのような声なのだろうか? stuffは素材や漠然とものを意味するが、なぜ、こんな間接的で曖昧な言い方をしたのか分からない。村上訳では「刷毛」と訳されている。
a dreamはロジャー・ウェイドの妻のアイリーン・ウェイドだと名乗る。自己紹介する前にマーロウを一目見ておきたかったのだと非礼を謝る。そしてこんな風な忠告をマーロウに与え去ってゆく。
She was very serious now. The smile had gone. "You are deciding too soon. You can't judge people by what they do. If you judge them at all, it must be by what they are."
"And you have to know them for that," she added gently. "
「人は何をしたかではなくて、どんな人かで判断すべきではないでしょうか」
「そのためには実際にお会いになってみることが必要ではないのでしょうか」
人は行いではなく性格や人柄で判断すべきだ。まさにレノックスに対してはそうしてきたことを思い出してマーロウは複雑な思いに駆られる。
ハワード・スペンサーはマーロウとひと悶着あった後、この話はなかったことにして欲しいと告げて立ち去る。
お昼近くになり、リッツ・ビヴァリーのバーは込み合い始める。
The bar was filling up. A couple of streamlined deini-virgins went by caroling and waving. They knew the two hotshots in the booth farther on. The air began to be spattered with darlings and crimson fingernails.
streamlined demi-virgins 「流線型の半処女たち」とは一体なんのこと?チャンドラーの造語?と思って調べてみると、demi-virginはフランス語のdemi-viergeからきており、性的に寛容で挑発的な振る舞いをしながらも処女は頑なに守る女性を意味するのだそうだ。
元々はマルセル・プレヴォーのLes demi-vierges (1894)という小説のタイトルに由来する言葉らしく、もしかしたら19世紀のフランスでは処女ながらdemi-monde(高級娼婦)のステイタスにあこがれる、そんな女性たちもいたということだったのだろうか。
チャンドラーはdemi-virginという19世紀からの古い言い回しを、当時は最新の言葉だったと思われるstreamlinedで形容することによって、まさに「最新の」「当世風の」というニュアンスをそこに付与したのだろう。
これを日本語にするとなると一体どう訳すのか?
清水訳の「しゃれた身なりの」では曖昧すぎるし、村上訳の「職業的生娘」では反対の意味にも取られかねない。
いちばんシンプルなのは「当世風デミ・バージン」とでもなるのだろうが、これでは意味が通らないので「挑発的な態度で周りを翻弄して楽しんでいる処女」、「身持ちが固い割には態度だけは奔放な生娘」とでも訳するしかないのだが、どうしても解説風になってしまうのとstreamlinedというニュアンスは盛り込めていない。
なにごとか仕組まれたような気がしてモヤモヤが募るマーロウ。帰り際に誰かがマーロウの身体にぶつかる。モヤモヤを発散させる機会を待っていたマーロウは相手に絡んでゆく。
前半部のケンカ腰のやり取りの臨場感と後半で一転して雰囲気が和むところが読みどころ。doublはこぶしを固める、Nuts to youはばか言えという意味のスラング、sneerはあざ笑う、snarlは唸る、という意味。
I took hold of the outstretched arm and spun him around. "What's the matter, Jack? Don't they make the aisles wide enough for your personality?"
He shook his arm loose and got tough, "Don't get fancy, buster. I might loosen your jaw for you."
"Ha, ha," I said, "You might play center field for the Yankees and hit a home run with a breadstick."
He doubled a meaty fist.
"Darling, think of your manicure," I told him.
He controlled his emotions. "Nuts to you, wise guy," he sneered. "Some other time, when I have less on my mind."
"Could there be less?"
"G'wan, beat it," he snarled. "One more crack and you'll need new bridgework."
I grinned at him. "Call me up, Jack. But with better dialogue."
His expression changed. He laughed. "You in pictures, chum?"
"Only the kind they pin up in the post office."
"See you in the mug book," he said, and walked away, still grinning.
It was all very silly, but it got rid of the feeling.
真ん中の少し後の"Could there be less?" はCould there be less on my mind?の略。前の文の「用事がない時なら相手になってやるぜ」を受けて「用事がない時なんかあるのかい?」と相手の言葉尻を捕らえれてからかっているわけだ。
後半の"Call me up, Jack. But with better dialogue." 「連絡を待っているぜ。ただしもっとマシな台詞を考えてからにしてくれよ」というマーロウの台詞がきっかけとなって、相手が表情を変えて「おたく、映画に出ているのかい?」となり、一転、雰囲気が和む。いかにもハリウッドらしいエピソードだ。
次ぎもpicturesが映画と写真、mug bookがタレント名鑑と前科者ファイルという2つの意味があることを踏まえた冗談の掛け合いになっている。
マーロウの"Only the kind they pin up in the post office." はI’m only in the kind of pictures that they pin up in the post officeの略で「郵便局に張ってあるたぐいのpictures」とは指名手配写真のことなのだ。
ところでハリウッド人種が集まり、こうした会話が交わされても不思議はないリッツ・ビヴァリー・ホテルのモデルとなったホテルはどこなのでろうか。
映画『プリティ・ウーマン』の舞台ともなったビヴァリー・ウィルシャー・ホテルというのが定説だが、Elizabeth Ward and Alain Silve RAYMOND CHANDLER’S LOS ANGELES (1987) では、ビヴァリー・ヒルズ・ホテルのバーPolo Loungeの雰囲気がチャンドラーをインスパイアしたのではないかと推測している。
下の絵はリロイ・ニーマンの”Polo Lounge”と名づけられた作品。スターや監督やプロデューサーなどまさに往時のHoolywood power playersがポロ・ラウンジに一同に会している。チャンドラーの『大いなる眠り』を原作とした映画『三つ数えろ』に出演したボギー&バコールも前列左端に描かれている。監督のハワード・ホークスと思しき人物も描かれている。さて何処でしょう?
アイリーン・ウェイドの名刺の住所はアイドル・ヴァレーとなっている。アイドル・ヴァレーは、昔は湖畔にカジノがあり50ドルの高級娼婦がいたようなところだったが、今は宅地分譲されて高級住宅地となっているところとされている。アイドル・ヴァレーのモデルはロサンゼルスの北部一帯を占めるサンフェルナンド・ヴァレーとされるのが定説だ。
I belonged in Idle Valley like a pearl onion on a banana split.
「私はアイドル・ヴァレーにふさわしい人間だ。パールオニオンがバナナ・スプリットにふさわしいのと同じ程度にだが」とへらず口を忘れないマーロウ。
家に戻ると殺人課のグリーン刑部から電話がありレノックスが2日前に埋葬された告げる。
何か他に聞きたいことはないかとの問いにマーロウの質問は"Yeah, but you can't tell me. I'd like to know who killed Lennox's wife."
マーロウにとってレノック事件はまだまだ終わっていないのだ。
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2014年に観た156本の映画<下>
遅れてきたシネアディクトの記録。2014年に観た156本の映画の記録。<下>は2014年7月~12月に観た81本の記録です。劇場とDVDまた2回目、3回目の鑑賞などゴチャ混ぜです。<上>はこちらから。
76.アメリカン・ビューティ/サム・メンデス(1999)
この反語的意味を含意している題名どおり、さまざまな問題を抱えたアメリカのサバービ
アの白人家族の崩壊の物語。例えば、娘の女友達に恋をして、体を鍛えはじめて悦に
入るやる気の失せた中年サラリーマン(ケヴィン・スペイシーのとろんとしたような表情
がぴったりだ)など、語られるエピソードは総じて醜悪、病的、悲惨なのだが、秀逸なの
はその語り口。コミカルで軽妙で突き放したような雰囲気は、問題の滑稽さや哀れさ、
そして登場人物全員が抱える深い不安感と孤独感を浮かび上がらせる。父としての自
分を取り戻し、安心したような笑みを浮かべた後に訪れる結末はきっとハッピーエンド
なのだ。<7月4日>
77.稲妻/成瀬巳喜男(1952)
東京の下町<前近代>と山の手<近代>を対比させた構図。高峰秀子が「お母さんが
ずるずるべったりだがらみんなだらしないのよ」といって母をなじる。浦辺粂子が「おま
えは一番いい子だと思っていたが、一番悪い子だよ」といって泣く。稲妻が光り、いいた
いことを吐き出した親子は和解に至るラストシーン。前近代と近代ははたして止揚され
たのか。中北千枝子を尋ねるシーンで渡るのが木場の新田橋。今の風景もさほど変わ
らないことは驚嘆すべきことだ。<7月5日>
78.夫婦善哉/豊田四郎(1955)
口の悪いダメ男を森繁久弥。懲りずにつくす健気な女は淡島千景。もちろん名演。
森繁+大阪弁だからこそ表現できた、なんとも憎めない日本のダメ男の代表格だ。
「自由軒のライスカレーはご飯にあんじょうまむしてあるよってにうまい」、「おぐらやの
山椒昆布よりうまいで」など織田作之助がひいきにした名店も登場。淡島千景の父親
で飄々淡々とした惣菜天ぷら屋のオヤジ(田村楽太)がいかにもそれらしい。
<7月8日>
79.スナックバー・ブダペスト/ティント・ブラス(1988)
フィルムノワール的ライティング、SF的室内シーン、フェリーニ的ダンスパーティ、ゴダー
ル的テンポなどなど、やりたい放題のテイストミックス。実はこの監督、「イタリアンエロ
スの巨匠」と呼ばれている人物で、ちっともエロくない本作は興行的に大失敗だったそ
うだ。とはいえ登場する女性が全員が裸になるというのがおかしい。トレンチコートのジ
ャンカルロ・ジャンニーニが若造と対決するシーンが実にハードボイルド。<7月10日>
80.執炎/蔵原惟繕(1964)
戦争で無残に引き裂かれる男と女。浅丘ルリ子は夫伊丹十三の二度目の招集で精神
的に追い詰められていく。浅丘ルリ子の極端な性格の背景にあるのが平家の落ち武者
の子孫という出自。武家の芸術としての能が象徴的に使われる。戦争で負傷した伊丹
十三を奇跡的に治癒するところなどは巫女的存在として面影も漂っている。鉄橋の上
から唐傘が舞い落ちる印象的な雪のシーンは山陰本線の餘部鉄橋でのロケ。浅丘ル
リ子の上半身ヌードがでてきてびっくり、意外にふくよか。伊丹十三の消極的な存在は
演出なのかキャラクターなのか気になる。脚本は山田信夫。<7月11日>
81.ファニー・ゲーム/ミヒャエル・ハネケ(2001)
史上最も不快な映画といわれている作品。それもそのはず監督は観る者を不快にさせ
るように作っているから。虚構と判りながらでも理不尽な暴力は不快だと思うのが人
間。ミヒャエル・ハネケは、それではヒーローが勝利する暴力の快楽を商品化している
ような映画とそれを一喜一憂しながら観て喜ぶ観客は一体どうなのかと問う。映画産
業のご都合主義を鋭く突いた類まれな作品。正直いって観るのはしんどい。
<7月14日>
82.日本暗殺秘録/中島貞夫(1969)
歴代の暗殺事件を扱ったオムニバス映画。当時の保利官房長官から製作中止を求め
る電話が入ったとのいわくつきだ。1969年は学生運動まっさかりの時期。予告の「ゲ
バルト社会に叩きつける」の惹句のとおり、テロ礼賛よりもむしろ時代の反権力への親
和的雰囲気が生み出した作品といえる。いろいろ盛り込みすぎて本編である血盟団事
件のストーリーが中途半端になってしまったのが欠点。<7月16日>
83.彼女が消えた浜辺/アスガー・ファルファディ(2009)
カスピ海沿岸の別荘に遊ぶ3組の友人夫婦と独身男女の計8人。気軽に誘った女性エ
リが失踪してしまう出来事をきっかけに次々に露呈する人間のエゴ。嘘、自己弁護、言
い逃れ、言い訳、責任逃れ、身勝手な行動、隠蔽。エリ自身も嘘をついていた。事件の
究明ではなく、ある出来事によってさざ波のように拡がってゆく不安感を描く視点が斬
新。砂浜でスタックしてなかなか抜け出せないBMWをロングで撮ったラストは仲間たち
の将来を暗示しているようだ。<7月20日>
84.カポーティ/ベネット・ミラー(2006)
トルーマン・カポーティが『冷血』の取材のなかで、死刑囚との関係に苦悩し、精神的に
動揺をきたしてゆく姿を描いた作品。『冷血』以降、カポーティは作品を完成させられなく
なってしまう。死刑執行後、カポーティが手にした犯人の日記からカポーティを描いたポ
ートレイトが滑り落ちる。それはカポーティに寄せた信頼の証のようではっとさせられ
る。繊細でかつ野心家、母親に捨てられたトラウマを抱える孤独な男を演じ切ったフィリ
ップ・シーモア・ホフマンは本年2月に45歳で亡くなる。<7月25日>
85.彼女を見ればわかること/ロドリゴ・ガルシア(2001)
仕事を持った独身女性6人を描いたオムニバス的群像劇。記憶に残るタイトルはキャメ
ロン・ディアスの台詞にあるように「見ればわかること」など何もないのだ、という反語だ
ろう。要所で登場する女占い師、ホームレスの女、盲目の女、小人、カナリアなど異形
や巫女的存在の語りから、個人を超えた呪術的な力の存在のようなものが滲み出す。
監督・脚本のロドリゴ・ガルシアはガルシア・マルケスの息子だそうだ。なるほど。
<7月29日>
86.マグノリア/ポール・トーマス・アンダーソン(2000)
父と子、罪と赦し、救いや和解というお得意のテーマで描かれる2時間を越える濃密な
群像劇。P.T.A.監督はロバート・アルトマンを敬愛しており、本作は『ショート・カッツ』を
イメージして作ったのだそうだ。トム・クルーズはじめ奇天烈なキャラクターの設定とその
独創的な動かし方には圧倒される。高まった緊張の後に訪れる空からカエルが降って
くるという前代未聞のカタルシスは、意外なほど違和感はなかった。<8月1日>
87.ミッドナイト・エクスプレス/アラン・パーカー(1978)
実話に基づくというクレジットで始まるがエピソードの多くは脚本のオリバー・ストーンの
創作。麻薬密輸で収監され父親に助けてもらったという自身の体験も反映されているよ
うだ。例によってやりすぎ、短絡、思い込みのきらいがなきにしもあらず。密告屋との素
手での乱闘は主人公の狂気のレベルに達する激怒が伝わってきて迫力あり。
<8月5日>
88.ザッツ・エンター・テインメント/ジャック・ヘイリー・Jr.(1974)
MGMによるミュージカルのハイライトシーン集。『踊るニューヨーク』(1940)での「ビギ
ン・ザ・ビギン」にあわせたエレノア・パウエルとのタップダンス、『恋愛準決勝戦』
(1951)の天地が回転するシーンや帽子掛けを相手のダンスシーンなど、何回観ても
フレッド・アステアには圧倒される。ウエストシェイプが上方にあるタイトなジャケットの着
こなしや優雅な手のひらの動きにはため息が出る。<8月8日>
89.けんかえれじい/鈴木清順(1966)
痛快にしてコミカルかつ叙情的という独自の世界観は鈴木清順ならでは。けんかに明
け暮れるとぼけた味の硬派の主人公は高橋英樹。はまり役だ。桜の花びらが舞い散る
夜のショット、竹林や雪の情景、障子越しに指を重ねるシーンなど、印象深い耽美的映
像の数々。北一輝が登場し、2.26事件がからんでくるラストは短兵急な感じが否めな
い。<8月10日>
90.風船/川島雄三(1956)
画家を諦め実業界で成功したものの今の生き方に疑問を持ち始める父親(森雅之)と
親だのみの無責任な息子(三橋達也)の生き方を軸にダンサー北原三枝、妹芦川いず
み、愛人新玉三千代などがからむストーリー。原作(大佛次郎)故か、善悪聖俗の構図
がやや図式的な感じが否めない。むしろその後の日活アクションの悪役で名を馳せる
二本柳寛がクールで如才のない男を演じており存在感がある。代官山の同潤会や出
来たばかりの東急アパートメントなど当時のモダンな都市風景が記録されている。
<8月11日>
91.赤線地帯/溝口健二(1956)
売春防止法公布(1956年5月)直前の吉原の特飲店を舞台にした物語。5人の娼婦
の人間模様が哀れさとある種のたくましさで迫ってくる傑作。木暮実千代が所帯やつれ
した娼婦という難しい役どころを演じて見事。若尾文子の品のなさを漂わせた計算高い
美人娼婦、三益愛子の善良だがうっとしさを振りまく年増娼婦なども真に迫る。近藤英
太郎、沢村貞子、浦辺粂子など脇役陣の演技も見逃せない。反売春へと向かう時代と
は一向に無縁に新たな哀しみが始まることを予感させるラストの残酷さが忘れがたい。
賛否を巻き起こした黛敏郎による効果音的な音楽は、倫理や情緒に流されない硬質
で突き放したようなイメージを付与しており、奥深いところで作品の本質と共鳴してい
るのではないか。溝口健二の遺作。<8月12日>
92.放浪記/成瀬巳喜男(1962)
林芙美子の自伝的小説の映画化。貧乏から苦労しながら這い上がってきた人物のし
たたかな強さと一方でどこか人を嫌悪させるようないやらしさを過不足なく描き切るの
は成瀬巳喜男ならでは。歌う、わめく、叫ぶ、泣く、酔っ払うなどの大技と猫背、上目づ
かい、目配せ、声色などの小技を縦横に駆使した高峰秀子の演技には脱帽。他の成
瀬作品に比べるとやや一本調子に感じるのは伝記もののせいか。<8月13日>
93.そして父になる/是枝裕和(2013)
産院で息子の取り違えが起こった2家族をめぐる物語。稀有な事件の当事者としてあえ
て類型化された家族像が設定される。都心のタワーマンションに住むエリートホワイトカ
ラー。地方都市の店舗併用住宅に住むブルーカラー。妻も前者は専業主婦、後者は弁
当屋のパートといかにも。双方のキャラクターの生活のディテールの違いが丁寧に積み
上げられる。整然としたイメージの福山雅治が徹底した「負け」を強いられ、それがきっ
かけとなり、変貌していくという周到な配役と構成が共感を生んでいる。それに応えた
福山雅治も好演。<8月14日>
94.真昼の決闘/フレッド・ジンネマン(1952)
自助の精神、無敵のヒーロー、男の友情などそれまでの神話化された西部劇に異議を
申し立てた作品。ことなかれ主義に傾いてゆく町の世論、悪漢に1人で立ち向かう孤独
で不安げな保安官ゲーリー・クーパー、最後は妻グレース・ケリーに助けられて命拾い
するなどヒーロー不在の現実を象徴するようなストーリー。マッカーシズムの時代のペシ
ミスティックさが全編に漂う。脚本のカール・フォアマンはこの後イギリスに亡命を強いら
れている。<8月15日>
95.シェーン/ジョージ・スティーヴンス(1953)
西部の歴史は、開拓初期の放牧民の時代から南北戦争後の入植農民が定住する時
代への変化する。同時に、銃の腕前を競ったカウボーイたちの居場所も徐々になくな
っていく。農民のジョン・ヘフリンがいう「銃の時代は終わった」との台詞は象徴的だ。
本作は開拓民どうしの土地所有をめぐる軋轢をきっかけに、銃の名手アラン・ラッドが
再び銃を抜くにいたるプロセスをじっくりと描いてみせる。ジャック・パランスとの対決に
勝利したとはいえ、時代のなかで居場所がないことには変わりがないシェーンは、根
無し草のようにいずこへかと流れてゆくしかないというラストは哀切極まりない。あっけ
なく終わる早撃ち対決よりも、殴り合いのシーンでの小柄なアラン・ラッドの鞭のように
しなやかな身のこなしが印象の残る。<8月16日>
96.下町の太陽/山田洋次(1963)
曳船駅付近にあった資生堂の石けん工場を舞台に高度成長期の下町庶民の生活を描
いた作品。木造だった堀切橋、旧あらかわ駅(現八広駅)、小松川閘門、業平橋の貨物
駅など失われた風景の貴重な記録ともなっている。日当たりやプライバシーなどの面で
下町よりも山の手の暮らしが憧れられた時代。光が丘団地の倍率が200倍とのエピソ
-ドが出てくる。もちろん監督が共感を寄せているのは近代化・工業化の負を負わされ
た下町の方だ。倍賞千恵子がかわいい。<8月23日>
97.ゼア・ウィル・ビー・ブラッド/ポール・トーマス・アンダーソン(2007)
石油と宗教というアメリカを象徴する2大テーマを軸に描かれる父と子を巡る叙事詩。ま
るで狂ったかのごとく石油採掘に向かう山師の男。他人に嫌悪しか抱かず、負けること
を極度に恐れ、押しが強く、冷酷で直情的で孤独な男、そんな強烈なキャラクターをダ
ニエル・デイ・ルイスが演じる。自らの弱さに復讐するかのように石油王に成り上がった
人物のすさまじさが十二分に描かれる分、伝道師との敵対の構図がやや手薄になった
感は否めない。冒頭15分の石油採掘に苦闘する音声なしの映像に引き込まれる。
<8月26日>
98.めし/成瀬巳喜男(1951)
実家に出戻った原節子の心境を、取り巻く家族の日常とともにきめ細かく描いた作品。
戦争未亡人の中北千枝子の境遇を垣間み、二本柳寛から同情されて、甘さの残るどっ
ちつかずの自らの惨めな立場を自覚するに至る。迎えに現れるダメ夫の上原健との食
堂のシーンは妻の諦観が静かに描かれた名場面。ロケ地は南武線の矢向。成瀬作品
での原節子は小津作品より本来の頑固さや無骨さがストレートに現れて馴染める。
<8月29日>
99.山椒大夫/溝口健二(1954)
すすきの原の逆光のシーンや香川京子の入水する竹林の湖のシーン、太夫屋敷での
下人たちの大騒ぎシーンなど名場面の連続。ラストの海岸のシーンで海にパンするショ
ットは、ゴダールが『気狂いピエロ』のラストで引用しオマージュを捧げたことで有名。国
分寺のシーンは広隆寺金堂と唐招提寺で撮影された。拷問などの残酷シーンを復活さ
せ、最後は太夫を追放するなど、ヒューマンなイメージの鴎外作品を現代的な視点で改
変している。田中絹代はちろんだが、太夫役の近藤英太郎が憎らしげでなかなか。
<3月13日>
100.あした来る人/川島雄三(1955)
その後の日活の都会的なスタイルを決定づけたといわれている川島雄三のモダンな
作風が良く現れた作品。登場する男女5人が誰も予定調和的な幸せで終わらないと
いうところなども今、観ても十分納得がいく。三橋達也と月丘夢路のおしゃべりと演技
のかけあいが見もの。原作(井上靖)に忠実な展開が映画的にはやや盛り上がりに
欠ける感がなきにしもあらず。山村聡の東京での常宿は今はなき日活ホテル。
<9月1日>
101.ジュリア/フレッド・ジンネマン(1978)
ヨーロッパに渡り反ナチス活動している幼馴なじみのジュリア(バネッサ・レッドグレー
ブ)や夫のダシール・ハメット(ジェイソン・ロバーズ)との交流を通じて反骨の劇作家リ
リアン・ヘルマン(ジェーン・フォンダ)の生涯を描く。芸達者な3人が抑制された演技で
一本筋が通った人物を演じる。窓から見える海、タイプライターでの創作、砂浜での焚
き火、セーター、ウイスキー、煙草などナンタケット島の海辺の家とそこでのハメット夫
婦の日常を描いた一連のシーンが魅力的だ。少女時代の回想シーンはイマイチ。
<9月3日>
102.西鶴一代女/溝口健二(1952)
女の一生という主題がまさに絵巻物のような映像美学に結実した傑作。身分違いの
恋に破れ、側室、郭、愛人、物乞い、夜鷹と転落していく女お春。演じるのは田中絹
代。まさに一世一代の名演。その流されながらも動じない、翻弄されながらも屈しない
姿はカミュのいう「運命を俯瞰する眼差し」そのものにも思えてくる。お春が尼僧となっ
て門付けしながら巡礼する不思議と澄み切った余韻を残すラストは、その眼差しがつ
いに勝利した姿でもあるのだ。移動とパンを組み合わせた流れるようなカメラワーク、
長回しによる緊張が漂う画面など世界が驚嘆した映像が存分に楽しめる。
<9月5日>
103.暖簾/川島雄三(1958)
昆布屋の丁稚からたたき上げた大阪商人の親子ニ代の物語。森繁久弥が親子を一
人二役で演じる。タイトルバックで丁稚時代と暖簾のもつ意味をさりげなく語ってしまう
ところや心の通い合わない新婚夫婦が夜なきうどんのだしの悪さから昆布の切れ端
を売ることを思いつき一挙に打ち解けるところの根っから商売人2人を暗示するシーン
などが小気味良い。森繁は相変わらず、小ずるさ、一途さ、調子良さ、たよりなさをミッ
クスした人間味あふれる大阪商人を演じて見事。途中の親子の話の展開に中だるみ
があり、もう少し刈り込んでも良かった。<9月7日>
104.ブギー・ナイツ/ポール・トーマス・アンダーソン(1998)
人生流転の哀しさを最高に「くだらない」題材で描くふてぶてしいほどの才能。ポルノ
業界版『アメリカの夜』と称される。父と子、罪と赦しというP.T.A.のいつものテーマが
2作目の本作ですでに顔を出している。”God only know”とともに各人のその後が
描かれるシーンは、自信に満ちあふれた(そしてイタい)70年代・80年代を経た現在
を象徴するようで愛惜の情を禁じ得ない。父的存在役のバート・レイノルズははまり
役。冒頭やパーティーシーンでの移動長回しの臨場感は見逃せない。
<9月11日>
105.脱出/ハワード・ホークス(1944)
ローレン・バコールのデビュー作にして競演したハンフリー・ボガートと恋に落ちたとい
う伝説の作品。ハワード・ホークスは、生涯のテーマであった「抑圧下の優雅さ」(ヘミ
ングウェイ)を実現するために当時19歳のローレン・バコールを見出しThe Look と
呼ばれる上目遣い、ハスキーボイス、クールな態度というそれまでにはない女性像を
創造した。その魅力は今も輝きを失っていない。ボギー&バコールのつっぱった会話
の応酬とウォルター・ブレナンのアル中ぶりが見もの。ローレン・バコールは本年8月
12日に亡くなる。<9月12日>
106.杏っ子/成瀬巳喜男(1958)
この映画の木村功のダメ男ぶりはすさまじい。嫉妬、劣等感、自虐、あせり、煮え切ら
なさなどダメ要素の集大成だ。妻香川京子の献身と忍耐強さも義父山村聡の理解と
寛容さも、才能の限界と嫉妬心という現実の前には木村功を立ち直らせはしない。現
実はそういうものだろう、という冷徹な視点。木村功が山村聡の家の庭を灯篭をなぎ
倒しながらメチャクチャにするシーンはすごい。<9月14日>
107.おかあさん/成瀬巳喜男(1952)
登場人物の全員がまだ戦争の影を引きずっている時代。クリニーング店を営む家族を
通じ、時の移り変わりと家族の離散を描く。おかあさん役はもちろん田中絹代。長男が
病で亡くなり、夫も戦争が遠因の病に斃れ、末娘も生活苦から叔父のもとに養子とし
て引き取られてゆく。現実を受け入れる諦観と淡々と生きる矜持。末娘が養子に行く
ことが決まり最後にみんなで遊びに行くのが向ヶ丘遊園。家族の楽しげな様子が逆
に無常さを漂わせる。モデル役として花嫁衣裳を着せられた香川京子の姿に娘の成
長を気づかされ、はっとする母。香川京子がおちゃめに舌を出すのが実にかわいい。
<9月14日>
108.三つ数えろ/ハワード・ホークス(1946)
レイモンド・チャンドラーの『大いなる眠り』の映画化。3つの脅迫事件が錯綜する複
雑極まりない筋書きで有名。ハワード・ホークスが、運転手を殺した犯人をチャンドラ
ーに問い合わせたところ、チャンドラーも知らないと答えたとの伝説もあるほど。そん
なこととは全く無関係に優れているというのがこの作品のすごいところ。ボギー&バ
コールによって作り上げられたイメージは、映画におけるフィリップ・マーロウ像を決
決定づけた。リー・ブラケットの初脚本作品。<9月15日>
109.ローマ環状線、めぐりゆく人生たち/ジャンフランコ・ロッシ(2014)
ドキュメンタリーで初めてヴァネチアで金獅子賞を受賞した作品。登場人物の人生は
まるで物語のようであり、都市はまるで息づいているかのようだ。車のテールライトが
連なる夜の高速道路、墓地に降りつむ雪、朝焼けのテヴェレ川の暗い水、薄暮の空
に屹立する高速道路など、都市はかくも詩的映像に満ちあふれていることに改めて
気づかされる。イタル・カルヴィーノの『見えない都市』にインスパイアされているそう
だ。<9月18日>
110.乱れ雲/成瀬巳喜男(1967)
成瀬巳喜男の遺作。『乱れる』と同じ許されざる恋の物語。不幸になり貧しくなるにし
たがって美しさを増す司葉子を描く冷徹な眼差し。司葉子が加山雄三の下宿を訪ね
るまでの逡巡、そして訪問した下宿での緊迫した雰囲気は見事。『乱れる』のラストの
鮮烈さはないが、加山雄三が最後に司葉子の前で津軽民謡(実際は岩手の南部牛
追い歌)を歌うシーンは改めて運命の皮肉さを思い出させて哀切さを誘う。行きつ戻り
つする心情を察するかのような武満徹の音楽も傑出している。脚本は山田信夫。
<9月20日>
111.鰯雲/成瀬巳喜男(1973)
農地解放と都市化のなかで崩れゆく農村の旧秩序と家族を描く。時代に取り残されて
ゆく老家父長を中村雁治郎が演じる。この上方歌舞伎の大御所は、京都のお気楽な
旦那(『小早川家の秋』)はもちろん、厚木の農家の頑固な惣領もできるという稀有な
存在。昔流のやり方で家と家族を守ろうとすることが逆に家族から疎まれていくところ
に悲哀と老いの寂寥感が滲み出る。後半、中村雁治朗自身が家制度の犠牲者だっ
たことが判明する。嫁いだ先の農家で未亡人となっている長女淡島千景がそれに気
がつき、家長としての自覚を深めていくところで幕が閉じる。お金にまつわることをしっ
かり描いたことでぐっと作品に深みが増した。<9月20日>
112.リオ・ブラボー/ハワード・ホークス(1959)
冒頭の酒場のシーンでの巧みなつかみ、へらず口の掛け合いの会話など見事な脚
本(ジュールス・ファースマンとリー・ブラケット)、まるで本物のアル中のディーン・マー
ティンやはまり役スタンピーで絶好調のウォルター・ブレナンなど強力な脇役陣、「ライ
フルと愛馬」や「皆殺しの歌」などぜいたくな劇中曲(ディミトリオ・ティオムキン)など書
くことはいくらでも探せそうな傑作西部劇。『真昼の決闘』への嫌悪感からそのアンチ
テーゼとしてハワード・ホークスとジョン・ウェインが作ったといわれている。
<9月22日>
113.物語る私たち/サラ・ポーリー(2014)
監督自身の本当の父親は誰かをめぐるドキュメンタリー。とはいえ、誰が父親か?育
ててくれた父親が事実を知ったときどうするのか?など肝心のところはフィクション映
像として再現される。正確にいえば本作は、本当の父親を探すドキュメンタリーではな
く、本当の父親を探す物語を作るドキュメンタリーなのだ。それはサラ・ポーリーとその
育ての父親の2人が現実と和解していくプロセスの映像化である。ドキュメンタリーを
拡張するようなその試みに才気を感じる一方で面白いかというとそれほどでも・・・。
<9月23日>
114.女が階段を上る時/成瀬巳喜男(1960)
主人公は未亡人で実家を支える必要からやむを得ず銀座のバーの雇われマダムをし
ている。プロ意識は高いが、男に媚びてまで営業はしないという一本筋を通す女性を
高峰秀子がまさにはまり役で演じる。母加原夏子と実家で罵り合うシーンは、娘の背
負っているものの重さとそれとギリギリに対峙している現実を垣間見せる名場面。実
家はその重荷のなんたるかを象徴するように昔ながらの佃島にある。ラスト、階段を
上りきって店に入った高峰秀子が満面に浮かべる営業の笑みは、ままならない人生
をそれでも生きるというニヒリズムとリアリズムの凄みを感じさせる。華やかな雰囲気
の淡路恵子、昭和の現代っ子団玲子、今見てもモダンな若林映子など、ホステスを
演じる女優陣も豪華。<9月24日>
115.近松物語/溝口健二(1954)
冒頭で登場人物の関係性とその背景を一気に説明してみせる脚本と演出に感嘆させ
られる。長い廊下や狭い空間を移動とパンで柱や障子や梁を跨ぎながら縦横に展開
するカメラワークは、壁のない日本家屋の空間特性を深いところで理解した上で独創
的な映像表現を作り出している。琵琶湖の船上でのシーンをきっかけに、その前後で
変容する女を完璧に表現する香川京子。長谷川一夫のいやでもにじみ出る洗練され
た立ち振る舞いが、どうみても田舎出の職人にはみえないという注文は贅沢過ぎか。
<9月25日>
116.キーラーゴ/ジョン・ヒューストン(1948)
キーラーゴの海辺のホテルを舞台にしたギャングとの活劇。冒頭、海を渡る長い橋、
到着したホテルのがらんとした様子など、島特有の孤立感と不穏な雰囲気で引き込
むが、それ以降はギャングの親玉エドワード・G・ロビンソンの一人舞台に終始してし
まう。やたらと饒舌だと思うと一転して冷酷な性格に豹変する感情のコントロールが
効かないキャラクターがなかなか怖い。ボギー&バコールの3作目だが2人とも存在
感は薄い。低予算なのでスタジオセットでの嵐のシーンなど情けない。<9月27日>
117.女は二度生まれる/川島雄三(1961)
若尾文子が自由奔放な九段の三業地の不見転芸者小えんを生き生きと演じる。明るく
ノンシャランでいてどこか投げやりな虚無の影を感じさせる演技は、いたるところに散り
ばめられた戦争の影と相まって作品の本質を象徴している。若尾文子も戦争孤児とい
う設定。俯瞰、抑角など変則的なカメラアングルやテンポの良いカッティングに意欲を
感じさせる。若尾文子の多彩な着物の着こなしは必見。フランキー堺のすし職人とのカ
ウンター越しのぎこちない会話がおかしい。山村聡がエプロン姿ですき焼きを作るとこ
ろなども珍しい。唖然とするほど唐突なラストは、生まれ変わる小えんを暗示しているの
か。テンポの良さが災いして個々のエピソードに深みが欠けるのがやや難点。
<9月30日>
118.祇園の姉妹/溝口健二(1936)
空間に時間性を内包したかのような横移動長回しで商家の空間をとらえた冒頭ショッ
トから引き込まれてしまう。まさに巻物のようだ。男につくし裏切られる姉、男に対抗し
出し抜こうとしてしっぺ返しを喰らう妹。その男たちがことごとく情けないというところが
姉妹のおかれている世の中の理不尽さを浮かび上がらせる。こうした悲惨とでもいう
べきテーマを描きながら、喜劇的妙味とでもいうべき不思議な明るさを漂わせている
ところが本作の秀逸なところ。妹のおもちゃこと山田五十鈴のどこかつきはなしたよう
な京都弁による手練手管が見もの。シュミーズ姿も悩ましいコケティッシュな魅力を振
りまく山田五十鈴は当時19歳。身上をつぶした甲斐性なしの志賀廼家辨慶とおもち
ゃに鼻の下を伸ばし手玉に取られる呉服屋の近藤英太郎はいかにも上方の旦那衆
だ。<10月1日>
119.女の中にいる他人/成瀬巳喜男(1966)
裕福なサラリーマン家庭を舞台にしたサスペンスもの。不倫相手のサディズム嗜好に
誘われて相手を殺してしまう夫。気弱な夫は神経衰弱になり、自首することを決意し
妻に告白するが・・・。それまでの平凡な妻から、思い詰めた狂気の女へと変貌する
新玉三千代の演技が見もの。夫役の小林桂樹はどうみても若林映子と不倫をする
ようには見えないのだが。<10月2日>
120.残菊物語/溝口健二(1939)
歌舞伎の世界を舞台に描く身分違いの悲恋物語。確かにメロドラマではあるものの、
女中お徳(森赫子)が歌舞伎への見る眼を有し、三流役者の菊之助(花柳章太郎)を
支え叱咤する役回りという設定が斬新。楽屋裏の立体的な空間を人々が縦横に行き
かうシーン、お徳が間借りの2階の部屋の暗がりに座り込んでいるところに家の娘が
帰ってきてランプを灯すと光が空間に満ちるシーン、繰り返し登場する階段を上下から
撮ったショットなど空間性を意識した映像に古さは微塵もない。お徳が最期に菊之助
を舟乗り込みに送り出すのは自らの自己実現の完成でもあったのだ。<10月4日>
121.勝手にしやがれ/ジャン・リュック・ゴダール(1960)
不可解で宙吊りにされたような結末は、「ただ人はやろうとしていたものを決してその
通りやりとげるものではない。ときには逆のことさえしてしまう。いずれにしてもわたし
にはそれが真実なのです」とのゴダール自身の言葉が説明してくれそうだ。改めて観
て、いかに長回しが多いか、ジャンプカットが多いかがわかった。単にカットを割るほど
予算がなかったからだろうが、皮肉にもそれらが世界に衝撃を与える作品として結実
したのだった。ジャン=ポール・ベルモンドとジーン・セバーグが夜の左岸で乗り回すコ
ンバーチブルはキャディラック・エルドラド・ビアリッツ1954。<5月4日>
122.イヴ・サンローラン/ジャリル・エスペール(2014)
本物のYSLの衣装を使っているので登場する一着一着が実に美しい。コレクションや
ランウェイのシーンもありきたりではない臨場感がある。性欲や嫉妬が創造の原動力
となり、困難や確執が新しいことを生み出し、そして依存と支配は表裏一体だ。サンロ
ーランを演じたピエール・レナは中年に差し掛かった頃が一番似ている。
<10月11日>
123.生まれてはみたけれど/小津安二郎(1932)
自分は重役の子よりえらいのに父が重役にペコペコしているのは何故?とユーモアと
そこはかとないペーソスを湛えたサイレントの名品。次男役の突貫小僧(この芸名も
すごい)の要所要所でハズしを披露する演技がおかしい。子供の寝顔を見つめる両
親のショットは素直に美しい。かつての蒲田撮影所の近くということで大田区の東急
線沿線でロケが行われている。出てくる電車は池上線との証言もあるが真実は目蒲
線で蒲田と矢口渡の間あたりらしい。こちらのサイトで詳しく探求されている。原案の
ゼェームス・槇も脚本の燻屋鯨兵衛もともに小津安二郎のこと。<10月12日>
124.NANA/大谷健太郎(2005)
矢沢あいの漫画を映画化して大ヒットした作品。キャピキャピ系お嬢さんのハチ役の
宮崎あおいの演技はもちろんうまいが、ナナ役の中島美嘉もヘタながらクールなロッ
クミュージシャンの感じがよく出ていた。2人が借りる、入ったところがリビングになっ
ている白い内装の古いオフィスのような素っ気ない感じの部屋が大いに注目の集
めたのだそうだ。日本のマンションの過剰な意匠や仕様の退屈さを象徴するかのよ
うなエピソードだ。<10月15日>
125.ブレード・ランナー/リドリー・スコット(1982)
公開当時人びとが薄々感じ始めていた、ぴかぴかの未来への懐疑を見事に映像化
してみせてくれた傑作。デッカード(ハリソン・フォード)のアパートはF.W.ライトのロス
郊外にあるエニス・ブラウン邸。J.F.セバスチャン(ウィリアム・サンダーソン)のアパー
トはダウンタウンにあるブラッドベリービル。マヤの意匠やロマネスク様式など未来は
過去的であるかもしれないというコンセプトを体現している。終始困り顔のハリソン・
フォードよりもレプリカントのロイ(ルトガー・ハウアー)の方が感情をあらわにし、人
間らしく描かれるというのも象徴的だ。ラスト近く、雨の屋上でロイの最期と鳩の飛
翔シーンも傑出している。<10月17日>
126.アメリ/ジャン・ピエール・ジュネ(2001)
フランスでも日本でもカルト的人気を博したシュールな味わいのおとぎ話。緑と赤によ
るアーティスティックな美術と自由なカメラワークが印象的。最後、閉じこもっていた自
分の殻をやぶり、恋人とスクーターでパリの街を疾走するアメリ(オドレイ・トト)は、も
うあの居心地の良い赤い壁紙のアパルトマンへは戻らないだろう。カフェの常連客や
近所(18区)の住人など、癖のある連中のエピソードは何回観てもおかしい。クリーム
・ブリュレを割ることが好きで豆の山に指を入れる感触に喜びを感じる、このナイーブ
で孤独な変わり者の少女に共感を覚えた人も多いのでは。<10月21日>
127.百万長者と結婚する方法/ジーン・ネグレスコ(1953)
高級アパートメントを借り、金持ちの振りをして海老で鯛を釣ろうとする女3人組のコ
メディ。マリリン・モンローがど近眼のコケティッシュな女性を演じて注目を集める。実
は庶民のローレン・バコールがダイナーでハンバーガーにコールスローとピクルスを
山盛りにして、ケチャップとマスタードをたっぷりかけて、あの魅力的な大きな口でガ
ブリとやるシーンがおかしい。大きなテラスのある家具つき高級アパートメントやファ
ンションショーやパーティーのシャンパンなどはもちろんのこと、ハンバーガーでさえ
当時の日本にとってはきっと眩いばかりの存在だったのだ。<10月22日>
128.ゴースト/ニューヨークの幻/ジェリー・ザッカー(1990)
90年前後はこんなにもダサかったのかと自己反省させられる映画。唯一の救いはウ
ーピー・ゴールドバークの名演。<10月24日>
129.ファイブ・イージー・ピーセズ/ボブ・ラフェルソン(1970)
芸術家一家からドロップアウトして投げやりに暮している主人公ジャック・ニコルソン。
タイトルはピアノの教則本の初心者向けの練習曲のことで、そこで投げ出した主人公
を暗示している。「プレリュードEマイナー」を弾く主人公、カメラがパンしながら壁に飾
られた一家の古い写真を映し出す象徴的なショット。自分の出自に激しく反抗する一
方、市井のことどもにも嫌悪感を覚えるやっかいな心性と逃れられないシニシズム。
ラストで財布すら打ち捨て、恋人にも黙って唐突に失踪する主人公。ここではないど
こかなどないことはわかっているのだが・・・。煙ったような空気のなか道路とガソリン
スタンドをロングでとらえた荒涼たるラストショットは心に残る。監督のボブ・ラフェルソ
ンは日本駐留中によく小津安二郎を観ており、父と子、説明のない淡々とした語り口
など本作はその影響下にあるとのこと(町山智弘)。アメリカン・ニューシネマと小津安
二郎、奥は深い。<10月27日>
130.リスボンに誘われて/ビレ・アウグスト(2014)
「人生は意図せずに始められてしまった実験旅行である」(『断章』)とのペソアの言葉
通りの映画。そしてジェレミー・アイアンズはまるでアントニオ・タブッキの『レクイエム』
の主人公のようにリスボンの古くて美しい街をさまよう。探すのはかつて青年時代に
抵抗運動にかかわったアマデウという名の人物。老境で今を生きるかつての知人た
ちは一様に口を閉ざす。政治の季節の深い傷痕が明かされてゆく。アマデウの姉役
はシャーロット・ランプリング、この人が出てくると画面の空気が一変する。ポルトガル
は1974年までサンラザール政権の独裁下にあって弾圧・拷問・密告などが行われて
きたという事実を知らなかった。<10月28日>
131.ビッグ・アメリカン/ロバート・アルトマン(1976)
西部の伝説的英雄バッファーロー・ビルの実態を辛らつに笑い飛ばす裏西部劇とでも
いうべき作品。ワイルド・ウエスタンショーと称する見世物ショーは実話だそうだ。日々
虚勢を張りながらも独りになると鏡に向かって自らを鼓舞し続けなければならない作
られたヒーローを演じるのはポール・ニューマン。作り物の勝利に満面の笑みで応え
るバッファロー・ビルの姿をとらえるラストは苦く哀しい。製作されたのはベトナム戦争
が終結した翌年。真実に眼をそむけたくなるアメリカの心性を象徴しているかにもみえ
てくる。<10月29日>
132.雁の寺/川島雄三(1962)
孤峯庵と呼ばれる京都の禅寺の生臭坊主の慈海とその妾里子。里子がその捨て子
だった悲惨な境遇に同情し、殻に閉じこもる小坊主の慈念を誘惑したところから事態
はまさにオイディプス的展開となる。その完全犯罪の素朴な仕掛けが面白い。里子
役は無防備な女の魅力が全開の若尾文子。押入れや仏壇の中からの盗み撮りのよ
うなショット、汲み取り口の中や墓穴の中からの撮ったショットなど挑戦的なカメラワー
クも見どころだ。撮影は村井博。最後、画面はカラーに変わり、すっかり観光地化した
孤峯庵が描かれる。外人を案内する調子のいい係りはお決まりの小沢昭一。
<8月9日>
133.眺めのいい部屋/ジェイムズ・アイヴォリー(1986)
このアメリカ西海岸出身の監督が描く古いイギリスの風景や衣装は美しい。新旧の道
徳が混在する時代の恋愛が描かれるが、同じE・M・フォースター原作の『ハワーズ・
エンド』などに比べてもストーリーは恋愛に終始して穏やかでかつ起伏に欠ける。むし
ろマギー・スミスやダニエル・デイ・ルイスが演じるヴィクトリア朝時代の堅苦しさ(ある
いは偽善的な道徳)を残した人物の振舞いなどの方が興味深い。ヒロイン役のヘレン
・ボナム=カーターはどこが良いのだろうか。<11月2日>
134.オリエント急行殺人事件/シドニー・ルメット(1974)
まさにオールスターキャストの作品。長回しで撮られたイングリッド・バーグマンへの
尋問シーンは圧巻。アカデミー助演女優賞を受賞。このみすぼらしく神経質な女性役
を自ら選んだそうだ。ジャクリーン・ビセットは出番は短いが周囲の注目を集める華や
かさを放っている。ローレン・バコールも豪奢ででしゃばりでおしゃべりな役がぴったり
だった。<11月4日>
135.アパートメント/ジル・ミモーニ(1996)
恋愛を題材にしたサスペンスもの。入り組んだ人間関係と時勢を一度観てそれなりに
わからせる脚本と演出はなかなかの腕前。特に主要人物4人がすれ違いながら絡ん
でくる後半部など。偶然の取り入れ方も上手い。なんともいえない複雑な思いを残し
て終わる空港でのラスト。よくよく考えると冒頭の指輪のシーンを受けているのに気が
つく。ヴァンサン・カッセルの優柔不断さと偶然というのは本作のメインテーマなのだ。
その彼がモニカ・ベルッティと良く待ち合わせるのがパリ6区のフュルスタンベール広
場。こじんまりとして居心地が良い。映画のようにベンチはないですが。
<11月6日>
136.人生劇場 飛車角/沢島忠(1963)
その後の東映任侠路線の嚆矢となった記念碑的作品。全編に低迷から脱しようとす
る必死のエネルギーのようなものが感じられる一作。着流しやくざスタイルを確立した
鶴田浩二、切羽詰ったような体当たりの演技をみせる佐久間良子など役者陣も見
事。そして高倉健。屈折や思いを内に秘めたストイックさにはじけたようなノリの良さ
を併せ持った魅力はこの頃ならでは。前半で人情が十分語られるので最後の義理が
際立つというバランスも良い。高倉健が亡くなったのは2日後だった。<11月8日>
137.パンチドランク・ラブ/ポール・トーマス・アンダーソン(2003)
日常に潜む突発的な暴力やどこか不穏な雰囲気をシュールな映像で描き、一気に映
画に引き込む冒頭のシーン。道路に残されたハーモニウムは何なのと問うなかれ。つ
かみに過剰な意味を求めてしまうと楽しめない。彩度の高いコントラストを効かせた映
像はまるでファンタジーを観ているようだ。なかでもキスをする2人のシルエットに行き
交う人々の姿が影絵のように重なるシーンは美しい。陳腐なラブストーリーをいかにヘ
ンテコな感じで描けるか、とうことなのでスト-リーの必然性は希薄。<11月7日>
138.二十四の瞳/木下恵介(1954)
おなご先生は戦時下の現実を前に生徒と一緒に泣くことしかできない。一番出来の
良い子が進学を諦めて大阪の女中奉公に出て肺病を患う。先生が先の長くない彼
女を見舞うシーン。2人の無念の涙は胸を突く。「幸せになれる人などほんのひと握
りよ」。川本三郎は、この一緒に泣くことに「子供にしてやれるかろうじての励ましで
あり、時局に対しての女性としてかろうじての抵抗であり、自分のために先生が泣い
てくれたという事実がかすかな支えになる筈である」という意義を見出している。国
破れて山河あり。ロングで自然の中の小さな人間をとらえるショットが要所で登場す
る。桜の咲く丘の上での電車ごっこを横移動で追うシーンは名場面。高峰秀子は当
時29歳。翌年助監督の松山善三と結婚する。<11月20日>
139.善き人のためのソナタ/フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク(2007)
東ドイツの秘密警察の大尉(ウルリッヒ・ミューエ)が劇作家の盗聴を命じられる。大
尉は盗聴行為を通じて腐敗した上司や組織の実態を知り、それに呼応するように、劇
作家の人柄や職業人としての矜持に共感を抱いていく。劇作家もまた友人の自殺を
きっかけに、体制内で成功した作家という地位から一歩踏み出すことを決心する。こ
の2人に劇作家の恋人が絡み見応えのあるドラマが展開する。大尉がその職務を通
じて劇作家を救ったことを知り、劇作家は映画題名の本を上梓し、その一部始終を公
にする。終盤、ベルリンの壁が崩壊し元大尉はチラシ配りに身を落としている。元大尉
が書店でその本を見つけて購う。「贈り物ですか?」「これは私のための本だ」。初め
て信頼できる友を得たようなウルリッヒ・ミューエの笑みがすばらしい。
<11月23日>
140.大脱獄/石井輝男(1975)
石井輝男と高倉健コンビの最後の作品。前半の網走からの雪中の脱獄劇、中盤のス
トイックな恋愛が絡む逃亡劇、後半のど派手なアクションの復讐劇と盛りだくさんの内
容の一本。どさ廻りの踊り子を演じる木の実ナナの壊れそうな美しさが実にいい。菅
原文太はフランス映画に出てきそうな、打算的な態度の陰に本心を隠しているような
クールな役。青山八郎のモダンな音楽もどこかフランス映画を思わせて秀逸。これを
観た次ぎの日、菅原文太が亡くなる。嗚呼。<11月27日>
141.幸福の黄色いハンカチ/山田洋次(1977)
高倉健が出所した後、食堂で一杯のビールを飲むシーン。2日間食を断ってカメラの
前に立ったことで有名だ。倍賞千恵子が高倉健を待ち続けているというのは、ある意
味、自己犠牲による身勝手なヒロイズムの否定だ。ただしその否定は自身も自己を
犠牲にしながら男を待っているような女によってしかなし得ないというトートロジー。
1977年は夕張炭鉱が閉鎖された年だ。そんな男と女の幸福な関係も炭鉱町ととも
に消え去ったということか。同時に1977年は『岸辺のアルバム』の年でもある。その
ことは遠い炭鉱町だけの話ではなかったようだ<11月28日>
142.コーヒー&シガレッツ/ジム・ジャームッシュ(2003)
11組の変なコンビがコーヒーと煙草を傍らに交わす会話をひたすら撮ったオムニバ
ス。観ているとコーヒーが飲みたくなること請け合い。イギー・ポップとトム・ウェイツの
犬猿コンビのおかしさ、ケイト・ブランシェットの驚愕の一人二役、最後の余韻が染み
渡る「シャンパン」など。<11月30日>
143.無法松の一生/稲垣浩(1958)
戦前1943年版の同じ監督によるリメリク。男尊女卑の日本には男の自己犠牲を描く
伝統はなかったそうだ。終盤、松五郎(三船敏郎)が急に向き直って居ずまいを正す、
未亡人の奥さん(高峰秀子)は身の危険を感じたように思わず身を引いてしまう。身
分の差を越えようとするかのような一瞬の思いとそれに対する残酷な反応を映像化し
た名シーンだ。伏線として花火の日に高峰秀子が初めて見せる女としての色気を直
前にさりげなく描いているのも見事だ。脚本は野村万作。<12月3日>
144.娘・妻・母/成瀬巳喜男(1960)
小津っぽい成瀬という一本。麻布に赤字のタイトルバックからしてそれっぽい。配役
も森雅之に高峰秀子、笠智衆に原節子という布陣。出戻り娘の再婚話(『麦秋』)、母
親を引き取ろうとする義理の娘(『東京物語』)、娘を結婚させようと偽装する親(『晩
春』)などエピソードもまさに小津だ。森雅之が、肝心なことを決めきれない、妹に借
金を無心したあげく投資話に失敗するなどのダメ長男を演じですこぶる上手い。次女
の姑役の杉村春子のうっとおしさも特筆もの。原節子は今まで観た中で一番自然な
笑顔。仲代達矢とのキスシーンもあるのだ。逆に高峰秀子は埋もれてしまっている感
が否めない。<12月4日>
145.愛・アマチュア/ハル・ハートリー(1994)
監督はNYインディーズの出身。記憶喪失の男と現実感を持てないで生きている女イ
ザベル・ユペール。そんな2人が男の過去に犯した犯罪を巡り、自らのアイデンティテ
ィを自己確認していく。寓話のようなストーリーは必然性は希薄だ。ダミアン・ヤング
が演じた髪ボサボサでひげ面のちょっといっちゃってる眼ののっぽの男、やたらと相
手に同情してしまう女の警察官など脇役は変なキャラクターのオンパレード。主演の
男マーティン・ドノバンが一番印象が薄い。<12月6日>
146.殺人の追憶/ポン・ジュノ(2003)
実在の未解決の殺人事件を題材にラストを未解決にしたままでどう途中のサスペンス
を展開し、ラストのカタルシスを作るのかということにチャレンジして見事に成功してい
る作品。事件に挑むのは田舎のデタラメ刑事ソン・ガンホとソウルから来た大学出の
理論派刑事キム・サンギョ。2人の刑事が徐々に立場を逆転させていくところを喜劇
的演出からシリアス劇への転換とあわせて描くところなども秀逸。ラストのなにかに打
たれたようなソン・ガンホの表情が目に焼きついて離れない。80年代の雰囲気を造り
込んだフィルム・ノワールっぽい映像もよかった。<12月9日>
147.グッドバイ・レーニン/ヴォルフガング・ベッカー(2003)
反体制デモに参加する息子を見かけたことがきっかけで意識を失い入院する母親。
旧東ドイツの話だ。その直後ベルリンの壁が崩壊する。息子は母に刺激を与えない
ために母の前では東ドイツが存続しているふりをする。西側の風俗が否応なしに入り
込んでくる戸惑いの中、かつては反体制でありながら東ドイツを延命させている息子
の複雑な思いが描かれる。いっしょにあれこれ策を労して嘘に協力する映画マニアの
同僚が実にいいやつ。監督自身もシネフィルらしく『2001年宇宙の旅』や『甘い生
活』へのオマージュ映像などが登場する。おかしいと気づき始めた母親のために息子
が考える東ドイツ終焉の話が泣かせる。最後、母はそれらがとっくに嘘だと気がつき
ながら何も言わず息を引き取る。母親役のカトリーヌ・ザースがきれい。
<12月13日>
148.わが教え子、ヒットラー/ダニ・レヴィ(2007)
ヒットラーの演説の指南役ポール・デブリンの手記の映画化。その彼をウルリッヒ・ミュ
ーエが演じる。ユダヤ人だったというのはフィクション。ヒトラーとナチスのカリカチャライ
ズとミューエの正義のいずれも不徹底で笑いも毒もあまり感じられない。ウルリッヒ・ミ
ューエの遺作。<12月15日>
149.秋刀魚の味/小津安二郎(1962)
父は笠智衆、娘は岩下志摩という配役。いつものようにほのぼのとしたセリフ回しと
妙にうきうきさせる音楽とともに極めて冷徹な現実認識が披露される。ヒョウタンこと
恩師の東野英治郎のとうの立った娘杉村春子が涙を流すシーンは人生の取り返しの
なさを感じさせて残酷だし、一方、娘岩下志摩が不本意な結婚に甘んじるというのも
別の意味で残酷だ。ままならぬ人生、さらに父笠智衆には老いの孤独も迫り来る。平
山家の誰もいない廊下や娘の部屋の空ショットがそれを象徴しているようだ。家族が
不在の家が影の主人公のような映画でもある。小津安二郎は翌年60歳で死去。
本作が遺作となった。<12月17日>
150.グエムル 漢江の怪物/ポン・ジュノ(2006)
ハリウッド製のCG技術を使いながら、およそ似つかわしくない、ゆるくてダメな家族が
主人公の活劇というところがユニーク。最後の対決もホームレスの機転で形勢が逆
転するというのも象徴的だし、生き残った男の子も限りなくゆるいというのもアンチクラ
イマックス的で、ある種、ハリウッドへの批評性をも感じさせる。ラスト、漢江沿いのバ
ラックで「飯だ」といって引き取った男の子といっしょに飯を食うシーン。ソンガ・ガンホ
は相変わらずすばらしい。<12月18日>
151.ハワーズ・エンド/ジェイムズ・アイヴォリー(1992)
この原作者とこの監督の組み合わせの作品でいつも思うこと。E・M・フォースターの
原作は階級などの違いからくる人と人との分かり合えなさや時代の変化によって階級
内にも生起しつつある葛藤などをテーマに丁寧に書き込まれたエピソードが積み重な
って展開する物語。そのテーマは奥が深いが微妙で日常的だ。忠実に映画化すると
一つ一つのエピソードが表面的にそそくさと語られるだけで、長い割には平板な一本
になってしまう。例えば本作におけるレナード・バストという人物の行動は奇妙な印象
を残すだけで、その背景にあるロウワー・ミドルクラスの心性などに思いを馳せること
は決して容易ではない。イギリスの20世紀初頭の美しい風景や風俗が見られるのは
原作にはない大きな楽しみなのだが。<12月21日>
152.わが町/川島雄三(1956)
「人間はからだを責めて働かなきゃあかん」。フィリピンでの難工事を指揮したことが
自慢の文盲の車夫「ベンゲットのたぁやん」を辰巳柳太郎が熱演。たぁやんの頑なで
一途で不器用ではた迷惑な愛情は周りを振り回し悲劇を生む。やがてそうした価値
観と頑固な生き方自体が時代に取り残されてゆく。へぼ落語家殿山泰司、年食った
チョンガー小沢昭一、その母老け役北林谷栄など河童路地(がたろじ)の長屋に住
む人々の暮らしが生き生きと描かれる。奥まった視点から撮られた路地空間も実に
親密で魅力的だ。原作の織田作之助の実家は本作にも登場する一銭天婦羅屋だ
ったそうだ。<12月23日>
153.煙突の見える場所/五所平之助(1953)
煙突とは足立区の千住火力発電所にあったお化け煙突のこと。荒川土手下のバラッ
クのような借家に住む中年夫婦(上原謙と田中絹代)とその2階に間借りしている男
女(芥川比呂氏と高峰秀子)。4人はそれぞれに戦争での傷跡や現状に対する鬱屈
した思いを抱えて暮らしている。ある日、夫婦の元に赤ん坊が置き去りにされるという
小さな事件が起き、4人に微妙な変化が起こってゆく。事件の顛末の後、それぞれの
男女は何か吹っ切れたような明るい表情で暮らしを再開するのだった。原作(椎名麟
三)とは異なり、下町の貧しい平穏な暮らしを舞台にしたのは、日常の小さくささやか
なものの持つ大きな価値のようなものを伝えようとしたからではないか。ロケ地は西
新井橋付近あたり。<12月24日>
154.赤い河/ハワード・ホークス(1948)
牧場のあるテキサスから鉄道が通っているカンザスまで牛を運ぶキャトル・ドライブと
呼ばれた道中を描いた作品。もともとカウボーイが拳銃で武装しているのは、インディ
アンの居留区で犯罪も多かったオクラホマを通過する際の警護のためだったそうだ。
ちなみに有刺鉄線の発明でこうしたカウボーイの時代は終わりを告げる。ストーリー
は父と子の対決を軸に進む。前半がややダレるが「息子」モンゴメリー・クリフトが頑な
な父ジョン・ウェインの指揮に反旗を翻すところから緊迫感を増す。一万頭の牛を運ぶ
という設定にあるように牛、牛、牛の存在感。スタンピード(暴走)や渡河のシーンなど
見応えあり。最後の父子対決は唐突な和解でお茶を濁した感が否めない。ちなみに
原作は父殺しで終わるそうだが、悪役とはいえ最後はジョン・ウェインを肯定するとい
うシナリオに変更したのはハワード・ホークス。<12月27日>
155.宗方姉妹/小津安二郎(1950)
古い生き方の姉田中絹代、新しい生き方の妹高峰秀子。双方の価値観を対比するよ
うに展開する物語。小津作品にはめずらしい力に訴える悪役が姉の夫役で登場。山
村聡が職がなく無為にすごす日々のなかでの追い詰められた人間の焦燥感や自己
嫌悪や露悪的振る舞いなどを好演。作品全体の重要な重石となっている。小津はあく
まで古い価値観にこだわって生きる姉夫婦の行動に寄り添っているようだ。最後「本
当に新しいことはいつまでたっても古くならないことだと思っているのよ」という田中絹
代にそれまでの迷いは見られない。<12月28日>
156.ゆきゆきて神軍/原一男(1987)
神軍を名乗る奥崎謙二が、自らがかつて所属した日本軍独立工兵36連隊残留隊に
おいて終戦後ニューギニアのウェワクで起こった部下射殺事件の真相を探る姿を追っ
たドキュメンタリー。いんぎんな態度による執拗な追求、やくざ顔負けの脅し、ハッタ
リ、突如としての暴力など驚くべき態度と執念で真相を追う岡崎の姿に唖然としながら
も、この胡散臭い主人公に導かれるようにして我々がたどり着くのは、穏やかな表情
の元日本兵の老人たちの口から徐々に明らかにされる、はるかに驚くべき戦時中の
狂気の実態だった。この演技と自己顕示の塊のような主人公がなんと撮影後に当時
の責任者だった上官宅を襲い長男を銃撃する。少なくとも真相究明と責任追及に関す
る思いは本気だったのだ。<12月29日>
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レイモンド・チャンドラー『ザ・ロング・グッドバイ』精読 Chapter14
アイリーン・ウェイドがマーロウの自宅を訪ねてくる第14章。
マーロウは、オフィスに伺うのは気は進まなかったというアイリーンを招き入れ、コーヒーを淹れる。cheesyは安っぽい、crumpleはももみくしゃにするという意味。
I went out to the kitchen and spread a paper napkin on a green metal tray. It looked as cheesy as a celluloid collar. I crumpled it up and got out one of those fringed things that come in sets with little triangular napkins. They came with the house, like most of the furniture. I set out two Desert Rose coffee cups and filled them and carried the tray in.
マーロウはコーヒーにはうるさくてもナプキンまで自前で買い揃えるようなタイプではなさそうだ。さすが紙ナプキンは却下したものの、家の家具と一緒に付いてきたもので間に合わせている。
カップ&ソーサーは、当時(1943~1964年)ロサンゼルスのFranciscan Ceramicsというメーカーが作っていたデザート・ローズというバラが描かれたシリーズのものを選んでいる。こんな感じのものだ。
あまりひとり暮らしの探偵にはふさわしいようなものではない。きっとこれも家に付いてきたものだろう。あるいはチャンドラーがよく使っていたということかもしれない。同社はその後、イギリスのウエッジウッドに買収されたそうだが、現在のWedgwood Waterford Royal Doultonはもうこのシリーズは作っていないようだ。
She sipped. "This is very nice," she said. "You make good coffee."
コーヒーを淹れるのが上手い探偵。なかなか魅力的な設定だ。ちなみにマーロウのコーヒーを淹れる手並みは既に第5章に詳しく記述されている。
いつの間にか話題はレノックス事件のことになっている。アイリーンは隣人の一人がレノックス夫妻の知り合いであったと言う。
She shook her head slowly. "He was a friend of yours, Mr. Marlowe. You must have a pretty strong opinion. And I think you are a pretty determined man."
「あなたはあるはっきりとした見解をお持ちのはずです。それは確固たる考えに基いていたのではないですか」とマーロウのレノックス事件への係わりに関心を示すアイリーン。
マーロウはパイプを詰めながら少し時間を稼いでこう言う。clean-cutはすっきりとした、 embezzlersは使い込み、what makes ~ tickは何が~を動かしているのかという意味。
"Look, Mrs. Wade," I said finally. "My opinion means nothing. It happens every day. The most unlikely people commit the most unlikely crimes. Nice old ladies poison whole families. Clean-cut kids commit multiple holdups and shootings. Bank managers with spotless records going back twenty years are found out to be long-term embezzlers. And successful and popular and supposedly happy novelists get drunk and put their wives in the hospital. We know damn little about what makes even our best friends tick."
私の見解なんか何の意味もない、思いもかけない人が思いもかけないことをするものだ、とアイリーンの興味をはぐらかそうとするような意見を吐くマーロウ。さらには「幸福な暮らしをしていると思われている成功した人気作家が酔っ払って奥さんを病院に送り込んだりもする」と逆にアイリーンを刺激することを半分意図した辛らつな皮肉をつけ加える。
I thought it would burn her up, but she didn't do much more than press her lips together and narrow her eyes.
怒り出すだろうというマーロウの予想に反して、彼女は感情をコントロールする。
登場人物たちは意識的にあるいは無意識的にレノックス事件を話題にする。『ザ・ロング・グッドバイ』という作品は、不在の人物テリー・レノックスによって導かれていく物語なのだ。レノックス事件が通奏低音のように常時鳴り響いていることによって、『ザ・ロング・グッドバイ』はどこかミステリアスな空気が立ち込め、張り詰めた雰囲気が漂う物語となっている。
マーロウの観察は細かい。tintは色をつける。
She reached quietly for her coffee cup and saucer. Her hands were lovely, like the rest of her. The nails were beautifully shaped and polished and only very slightly tinted.
「彼女の手は魅力的だった。彼女の残りの部分と同じように」とは要するに全部魅力的だ、ということだが、チャンドラーは決してこんな身も蓋もない言い方はしないのだ。
清水訳「彼女はコーヒーのカップと皿にそっと手をのばした」、村上訳「彼女は静かにコーヒーカップに手を伸ばした」とここは珍しく村上訳の方が原文をはしょっている。アイリーン・ウェイドはソファに座っているので、両手を使ってソーサーとカップの両方を持ち上げて、ソーサーを胸の辺りに保持してコーヒーを飲むのが自然だ。
アイリーンは、ロジェー・ウェイドがもう三日も家に帰っておらず、マーロウに探して連れ戻して欲しいと依頼する。手付金として500ドルの小切手をテーブルに置く。さらに最近は飲むと人が変わるようになり、なにか背後にあるようで恐ろしい、と告白する。
「彼が飲む理由になにか心当たりは?」と尋ねるマーロウ。
"Any idea why he drinks?"
The violet eyes were looking at me steadily. She seemed a bit fragile this morning, but certainly not helpless. She bit her lower lip and shook her head. "Unless it's me," she said at last, almost in a whisper. "Men fall out of love with their wives."
Unless it's meはI have no idea unless it’s meの省略で「私の他は思い当たらない」という意味。この台詞をやっとの思いで囁くように口にするアイリーンの様子をチャンドラーは仔細に描写する。
fall out of ~は~から抜け出るという意味で、男は妻との愛から離れるものだ、つまり「男の人は妻に嫌気がさすものでしょう」という意味だろう。
アイリーンはロジャーの部屋のゴミ箱に捨てられていたという、ドクターVという名前が書かれた黄色の書簡用紙をマーロウに見せる。ドクターVに心あたりはないが、ロジャーが前に一時入っていた施設の経営者かもしれないと言う。その時はカウボーイの格好の若い男が家まで送り届けてきたことも付け加える。おおかたquack もぐり医者ではないかとマーロウは推測する。
"Quite likely he's not even a doctor," I said. "That brings up the question of ready cash. A legitimate man would take a check, but a quack wouldn't. It might turn into evidence. And a guy like that wouldn't be cheap. Room and board at his house would come high. Not to mention the needle."
マーロウはドクターVを探すことを引き受ける。
"Okay," I said, "I'll try to find Dr. V. I don't know just how, but I'll do my best. Take the cheque with you, Mrs. Wade."
"But why? Aren't you entitled-"
"Later on, thanks. And I'd rather have it from Mr. Wade. He's not going to like what I do in any case."
アイリーンの台詞のAren't you entitled- はAren't you entitled to receive the cheque?の略で「あなたは小切手を受け取る資格がないのですか?」つまり「あたなは仕事としてやってくださるのではないのですか?」という意味なのだろう。
マーロウはあることにこだわっている。何故、ロジャーが酔っ払った時に医者を呼ばなかったのか、ロジャーとアイリーン双方に、なにかそうしたくない理由があるのではないかと感じている。緊迫した2人のやりとりが続く。dishは口語で美女、and no mistakeも口語で間違いなくと言う意味。
"You could have called a doctor on your own. Why didn't you?"
She faced me squarely. Her eyes were bright. There might have been a hint of tears in them. A lovely dish and no mistake.
"Because I love my husband, Mr. Marlowe. I'd do anything in the world to help him. But I know what sort of man he is too. If I called a doctor every time he took too many drinks, I wouldn't have a husband very long. You can't treat a grown man like a child with a sore throat."
医者を呼ばなかったのはBecause I love my husband, Mr. Marloweと訴えかけるアイリーン。
2人の会話の間にマーロウの目に映ったアイリーンの姿の描写が挟まる。マーロウのすぐそばに立つアイリーン。あるかないかのような微かな香水が漂う。
"You can if he's a drunk. Often you damn well have to." She was standing close to me. I smelled her perfume. Or thought I did. It hadn't been put on with a spray gun. Perhaps it was just the summer day.
最後のPerhaps it was just the summer dayは、清水訳では「夏の日だったからかもしれない」、村上訳では「夏の日にわずかに忍ばせるだけだ」となっている。清水役は素直にitを天候のitと解釈している。一方、村上訳ではitを直前の文と同じようにperfumeを指しているものとしてPerhaps it was put on just the summer dayの省略と解釈しているようだ。村上訳の解釈とする場合は、「夏の日に」の「に」にあたる前置詞、例えばonのような、がjust とthe summer dayの間に必要な気がするがどうだろうか。
また、その前の文の「それはスプレイを使って(これ見よがしに)つけられたようなものではなかった」との兼ね合いからいっても、清水訳が示唆する、ごく控え目につけられた香水が図らずも夏の日の体温に温められて香ってきたという解釈の方が、本人が意図せず女らしさや色気が表出した際のある種の無防備な官能性のようなものを感じさせ、この場にふさわしい感じがしはしまいか。
ロジャーの過去になにがあっても、たとえそれが犯罪であったとしても、自分の手で明るみに出すことはしたくない、というアイリーン。ハワード・スペンサーが私に頼んで探ることはかまわなかったのか?と問うマーロウ。アイリーンの本心を探るマーロウの質問は鋭い。
"Suppose there is something shameful in his past," she said, dragging the words out one by one as if each of them had a bitter taste. "Even something criminal. It would make no difference to me. But I'm not going to be the means of its being found out."
"But it's all right if Howard Spencer hires me to find out?"
She smiled very slowly. "Do you really think I expected you to give Howard any answer but the one you did-a man who went to jail rather than betray a friend?"
"Thanks for the plug, but that wasn't why I got jugged." She nodded after a moment of silence, said goodbye, and started down the redwood steps.
a man who went to jail rather than betray a friend 「あなたは友達を裏切るくらいなら留置場に入る人ですもの」とやはりアイリーンはレノックス事件に囚われている。
アイリーンが帰途につくシーン。
I watched her get into her car, a slim gray Jaguar, very new looking. She drove it up to the end of the street and swung around in the turning circle there. Her glove waved at me as she went by down the hill. The little car whisked around the corner and was gone.
アイリーンの車はa slim gray Jaguar, very new lookingと形容されるが、おそらくジャガーXK120だろう。Her glove waved at me as she went by down the hillとあるので当然、ドロップヘッドタイプのロードスターと思われる。
第14章は結末を読んだ後、もう一度読み返すと、その緻密は会話と描写の組み立てに改めて感嘆させられる。
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『LAヴァイス』と2つの『ロング・グッドバイ』
トマス・ピンチョンの『LAヴァイス』(原題はInherent Vice)をポール・トーマス・アンダーソン監督が映画化している。2015年の4月18日から日本でも公開されている。映画のタイトルは『インヒアレント・ヴァイス』と原題に忠実だ。
映画を観る前に2012年に翻訳が出た当時から気にかかっていた本書を慌てて読んでみた。
トマス・ピンチョンは『スロー・ラーナー』、『競売ナンバ-49の叫び』に続いて3冊目。
本作は1970年前後のロサンゼルスを舞台にした探偵もの、ということで、すぐにレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』 The Long Good-bye を映画化したロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』(1973年)のことが思い起こされる。
ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』は50年代のフィリップ・マーロウをヒッピーが闊歩する70年代に蘇らせ、ヒーローとしての私立探偵など必要とされない時代を生きるマーロウの姿を描き話題になった。
50年代の探偵さながらいつもスーツとネクタイ姿のエリオット・グールドだが、いずれもよれよれの代物だ。煙草が小道具の探偵をデフォルメした片時も煙草を手放さないマーロウ。そのチェーンスモークぶりは、健康ブームが始まった当時にあってはもはや犯罪的なレベルだ。一方、マーロウが注文する酒は「カナディアン・クラブ」のジンジャーエール割り(C.C. with ginger)というソフトなもの。もはやウイスキーのボトルが探偵のデスクの引き出しの必需品だった時代ではないのだ。さらにこのマーロウは、いかにもやもめ探偵らしく所望したボロニアソーセージのサンドの代わりにアイリーン・ウェイドが作ってくれたエスニックなバター・チキンに大いに感激したりもするのだ。
なんといっても極めつけなのは、エリオット・グールドのフリップ・マーロウが、チャンドラーの原作にあるようにクライアントにヘらず口を叩いたり、権力に悪態をつく代わりに、「まぁ、いいか」 ”It’s OK with me” を連発しながら、たいていのことに折り合いをつけながら生きるその姿だった。
カウンター・カルチャーが席巻する70年代のロサンゼルスで、時代とずれた探偵という存在が半ばあきらめ顔で周りと折り合いをつけながら探偵家業を続ける姿、時代や世間とのずれを飄々とした態度でうっちゃりながら何気なく自らの生き方を通すマーロウ、そんなマーロウ像が、妙にリアルで、現代的で、魅力的で、カッコ良かった。
ロバート・アルトアンのマーロウは、ヒーローなど成立しない世の中における「可能性としてのマーロウ」あるいは「可能性としての倫理」を描いてみせた。
しょぼくれたエリオット・グールドのマーロウが断然カッコよく見えるのは、我々の自らの可能性へ賭けることへの憧れの証だ。
「ボギー、ボギー、あんたの時代はよかった」(沢田研二『カサブランカ・ダンディ』阿久悠作詞 1997)、そんな時代における可能性とでもいおうか。
この映画においてテリー・レノックスはマーロウを騙し、利用し、負け犬呼ばわりする人物として描かれる。
最後、マーロウはメキシコに赴きレノックスを見つけ出し撃ち殺す。去って行くマーロウの後姿に「ハリウッド万歳」 Viva Hollywood がかぶさり、いつの間にかマーロウの足取りは踊るようなステップに変わっている。
原作と大きく異なるこのラストは、今のハリウッドが作る映画のラストは所詮こんなもんだ、原作のような、男のギリギリのプライドや友情、やるせない余韻などはもはやハリウッドでは映画にはならないのだ、というアルトマン一流の皮肉なのだろう。ちなみにこのラストを書いたのはリー・ブラケット。
さて『LAヴァイス』のことだ。
『LAヴァイス』の主人公 “ドック”と呼ばれているラリー・スポーテッロは、マリファナを愛好するヒッピースタイルの私立探偵。ヒッピーたちが多く住む海沿いのゴルディータ・ビーチ(ロサンゼルス国際空港のすぐ南に位置するマンハッタン・ビーチをモデルにしているとのこと。かつてヒッピーやヤク中やスチュワーデスが多く住んでいたエリアだそうだ)に事務所、その名もLSD探偵社を構えている。
『LAヴァイス』の舞台を知るにはトマス・ピンチョン自身が声の出演をしているプロモーションビデオが最適だ。
ピンチョンの声は実に渋くて驚くほど魅力的だ。ビデオの出来もなかなかだ。日本語字幕はないが本書の訳者でもある佐藤良明氏がこちらでナレーションを日本語に訳してくれている。1937年生まれのピンチョンは当時70歳を超えていたはず。
ドックは嘆く。
「なんつっても私立探偵は消えゆく種族だ。(中略)何年も前からそうだ。映画やテレビを見れば分かる。昔は偉大な私立探偵が目白押しだった。フィリップ・マーロウ、サム・スペード、それに探偵の中の探偵、ジョニー・スタッカート」
ジョニー・スタッカートはジョン・カサヴェテスが監督・主演のTV映画シリーズ『ジョニー・スタカート』(1959年~1960年)の主人公。
この一言から分かるようにドックは自らの時代遅れを自覚しているフィリップ・マーロウなのだ。
『LAヴァイス』はドックのもとに、すっかりコンサバな服装と髪型になった昔の恋人シャスタ・フェイ・ヘップワースが訪ねてきて、ある依頼を頼むことから話が始まる。
関係なさそうな別の依頼が重なり、死体がころがり、探偵が警察に拘留される。
『LAヴァイス』はアルトマンの映画というよりは、むしろ多くの点でその原作のチャンドラーの『ロング・グッドバイ』に似ている。
友人や昔の彼女など知り合いからの依頼で話が始まる。そしてその依頼にはあることが隠されている。女や友人に騙される。悪の道に染まった友人。権力内部での抗争。腐れ縁的な関係の警官の存在。精神病院や胡散臭い医者の登場。苦悩を抱えた作家やミュージシャン。錯綜するストーリー。食べ物へのこだわり。結局、報酬はもらえずじまい。そして、事件は本質的な意味では解決しないで終わるというラスト。
アルトマンは50年代の探偵を70年代に呼び戻して当時の風俗とハリウッドを風刺した。
ではトマス・ピンチョンは1970年に時代遅れを自覚する探偵を登場させて何をたくらんだのか。
すばり、探偵にインヒアレント・ヴァイスに立会う存在をみたのではないか。インヒアレント・ヴァイスは保険用語で保険の対象とならないような「内在する欠陥」あるいは「どうしても避けられないこと」を指している。
チャンドラーの『ロング・グッドバイ』において、最後、真実は明らかになるものの、マーロウは誰も助けることが出来ないで終わる。
第二次大戦で引き裂かれた一組の男女。二人はまるで避けがたい出来事のように再び出会い、悲劇が起こる。変わってしまった男と変われなかった女。テリー・レノックスとの出会いから始まった出来事は、まさにインヒアレント・ヴァイス、防ぎようにない瑕疵のように思えてくる。
マーロウは無意識のうちに自らの役割を自覚しているかのように事件に巻き込まれてゆく。マーロウが誰も助けられないのは、その事件が戦争というものが内在している邪悪が引き起こした出来事だったからだ。
1970年はアメリカの大きな転換点だった。60年代の理想と自由と混乱の時代から70年代以降の現実と保守と秩序の時代への転換点だ。
本書では、ヒッピー文化の終焉の象徴とされるチャールズ・マンソン事件がたびたび言及される。チャールズ・マンソン事件とは、ヒッピー風貌のカルト教祖のチャールズ・マンソンが共同生活を送るファミリーのメンバーの一員に1969年8月9日にロマン・ポランスキーの妻で当時妊娠8ヶ月だった女優のシャロン・テートら5人を殺害させた事件である。
ラブ&ピースのカウンター・カルチャーの頂点といわれるウッドストックが開催されたのが1969年8月15日~18日。
そのヒーローのジミ・ヘンドリックスが死亡するのが1970年9月18日。ジャニス・ジョップリンも1970年10月7日に後を追いように死亡している。いずれもドラッグが直接、間接の原因だったと言われてる。
60年代にJ・F・ケネディやリンドン・ジョンソンなど民主党の大統領のもとでヴェトナムへの軍事介入が段階的に拡大し、60年代後半にはヴェトナム戦争は泥沼化していた。1969年1月20日、共和党のリチャード・ニクソンが「法と秩序の回復」を掲げて大統領に就任する。『LAヴァイス』では、ニクソン政権による保守化するアメリカの様子がそこここで描かれる。ニクソンと一緒に赤狩りに協力したことで有名な当時カリフォルニア知事だったロナルド・レーガンも登場する。
トマス・ピンチョンが1970年に探偵に立ち会わせたインヒアレント・ヴァイスとは、アメリカに内在している理想と自由の挫折だったのだ。
「そんでもってこっちのリアルな世界じゃ、オレたちのような私立探偵は月々の家賃だってろくに払えやしない始末だ」
「だったらなんでやめないの?サクラメント・デルタあたりでハウス・ボートにでも住めば?ハッパ吸って酒呑んで釣りしてファックして。ほら、老いぼれヒッピーたちがやるようにさ」
「ついでに、しょーもないことに文句垂れて、か?」
ドックは自覚的だ。老いぼれヒッピーのように生きられないことを。老ヒッピーのように幸せな境地に落ち込めないことを。
「すっとタマが潰れるような思いをして、他人にためになるんだったら、お礼なんか半オンスのマリワナでも、ちょっとした好意のお返しでも、いや、ただの感謝の微笑だって、それが心からのものだったらいいやという気で働いてきた。金を払ってくれた顧客は何人いただろう」
「オレがこんなに一生懸命なのはさ ―― 自分のこともどうにもできないくせに、いやどうにもできないからこそ ――」
ドックのインヒアレント・ヴァイスへの戦い。勝ち目のない戦い。
ドックは単なる時代遅れのヒッピー探偵なのか?時代遅れのモラルは裏切られ、利用され、終わるのか?
大いに似ている『LAヴァイス』とチャンドラーの『ロング・グッドバイ』だが、相違点もある。しかも重大な。
フィリップ・マーロウは誰も助けられないで終わるが、トマス・ピンチョンの探偵は、ヘロイン中毒で権力により反政府活動の監視役のようなことをさせらているているサックス奏者(死んだことになっているという設定がまたもやテリー・レノックを思い起こさせる)を無事、救い出し家族のもとに返してやる。
挫折のなかでもなお希望は語れる、ドックの行動はそう物語っているようだ。
本書では1970年前後のカルチャーシーンが縦横に語られる。音楽、映画、TV、ドラッグ、フード etc.そうしたトリビアルな話題によって蘇ってくる往時のリアルな雰囲気。ピンチョンの魅力のひとつだ。
『ローマの休日』(ウイリアム・ワイラー監督 1953)と『三大怪獣地球最大の決戦』(本多猪四郎、円谷英二監督 1963)が同じ構造を持っていると喝破するドックの解釈には思わず膝を打ってしまった。後者はキングギドラとゴジラ、ラドン、モスラが対決するあの名作だ。若林映子がサルノ王女を、ザ・ピーナッツがインファント島の小人姉妹を演じたこの作品をトマス・ピンチョンが観ていたというだけでも日本人にとっては感涙ものだ。
脈絡がなく発散していくような展開が難解だとよく言われるトマス・ピンチョンだが(もっとも本書はピンチョン作品のなかで最も読み易いものといわれている)、時折、ナイーブな叙情の発露や情景描写に思わずはっとするような箇所に出くわすのも、また別のピンチョンの特徴であり魅力である。
ラストでドックはフリーウェイで海からの霧に巻き込まれる。このラストシーンなどもそのひとつだ。
「サンタモニカ・フリーウェイに乗ったドックが、南に向かうサンディエゴ・フリーウェイへ入ろうとするあたりで、夜の海から霧が巻いてきた。顔面の髪を押しのけ、ラジオのヴォルームを上げ、クールに火をつけて、丸めた背中を座席にもたせかけたのんびりモードで、世界がゆっくりと失われていくのをドックは眺めた」
先が見えない霧の中、ハイウェイの車はまるで全員が協力しあって寄り添って進むキャラバン隊のように前の車のテールライトが見える距離を保ってノロノロと進む。それはお互いに助け合うコミューンのようだ、とドックは思う。
「ヒッピーを除いて、この町の人々が、どんな行為であれ無料で行うことは珍しい」
「気がついたらドックは、ビーチ・ボーイスの「ゴッド・オンリー・ノウズ」を一緒になって歌っていた。ガソリンの残量はまだ半分以上、それにプラス、ゲージがゼロになってから走れる分も入っている。コーヒーは<ズーキーズ>から容器にいただいてきたし、タバコもほとんど一箱残っている」
なんともいえない幸福感と居心地の良さ。霧の中の渋滞で出現した一時的なコミューンのイメージは素晴らしい。この霧の中のコミューンは、本書でエピローグとして掲げられている「舗道の敷石の下はビーチ!」という1968年5月のパリの落書きを思い起こさせる。
それは単なる一時の幻想にすぎないのか?
途中でガス欠になったら?とドックは思う。
「そのときはキャラバンを離れ路肩につけて待たなくてはならない。何を?何であれ待つ。(中略)霧が晴れ、その後にどうしてか、今度は別の何かが出現するのを」
霧が晴れた後、何ものかを待ち続けるドックの姿。それは挫折の後でも生きていかざるを得ない諦念のようにも、あるいは挫折の後でもかすかに残る不屈のモラルの現れのようにも、そのいずれのようにも見える。
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2つの『リバーズ・エッジ』 River's Edge
岡崎京子の『リバーズ・エッジ』には元ネタがあることはよく知られている。
ティム・ハンターが監督をした映画『リバース・エッジ』(原題River’s edge 1987年)だ。この映画は日本語のタイトルが『リバース・エッジ』となっているが、原題の発音を正確に日本語にすると当然リバーズ・エッジとなり、岡崎京子の『リバーズ・エッジ』と同一の作品名だ。
世田谷文学館で開催されていた岡崎京子展をきっかけに『リバーズ・エッジ』を読み返したこともあり、気になっていた映画『リバース・エッジ』を観てみた。
映画『リバース・エッジ』のストーリーはこんな感じだ。
町外れに河が流れているアメリカの田舎町。高校の男子生徒ジョンが川原で女友達を絞殺する。ジョンは女友達を殺害したことを他の友人たちに隠すふうでもない。仲間たちはジョンと連れ立って現場に行くが、女友達の死体を発見しても全員が無感動に眺めるだけで、その後はなにごともなかったように日常に戻っていく。キアヌ・リーブスは警察に通報し、友達の死体を見ても実感がわかなかった、仲間の全員がそう思っているようだ、そしてそのことが怖くなったと告白する。元ならずもので妻を殺害した過去があるデニス・ホッパーがジョンを匿う。彼はその死の願望を見透かしたようにジョンを河原で射殺する。仲間たちは普段と変わらない様子で殺された女生徒の葬儀に出席する。
『リバーズ・エッジ』を読んだ人間は、映画『リバース・エッジ』が岡崎京子を刺激し、ヒントを与え、考えさせた結果、『リバーズ・エッジ』が生まれたことがはっきりとわかるはずだ。
河が流れている町の高校生の物語、河に浮かぶ捨てられた人形、河原に転がる死体、通れだって死体を見に行く仲間たち、死体を隠す工作、離婚した両親や兄弟間のいさかい、男友達の間を転々と寝る女友達など、驚くほど似ているところが多い。
最大の共通点は、主人公の高校生たちが死体を見ても無関心な様子で実感がわかないと告白する点だ。
女生徒の美しい死体とそばに取り残された無関心なジョンの様子は、殺人すらもなんらの実感ももたらさなかったことを暗示している。
ただひとり警察に通報したキアヌ・リーブスも、ジョンを庇って死体の隠蔽を画策している仲間のステディだった女友達を寝取ってしまうなど、その後はてっきり事件には無関心な様子だ。女友達といっしょに殺害された女生徒の葬儀に参列するキアヌ・リーブスは普段どおりに幸せそうな表情だ。
デニス・ホッパーがジョンを河原で撃ち殺すのは、同じ殺人者ゆえに感じたジョンの実感のなさへのいらだちや嫌悪感を象徴しているのだろう。
実感のなさに耐えられないように惨劇が起こる。しかし、その惨劇すら実感のない生をなんら変えることはなく、むしろ実感のなさからくる無関心のなかに溶解してしまう。
映画『リバース・エッジ』は実感のない日常の不気味さを描くものの、実感のなさの正体、実感のない日常を生きざるをえないことの意味は描かれてはいない。
岡崎京子の『リバーズ・エッジ』はこの実感のない生を突き詰める物語といえる。
若草ハルナは実感のわかない毎日を送っている。
だけどそれがどうした?
実感がわかない
現実感がない
去年の夏に観音崎君とHした
「好きだから」というよりセックスというものをしてみたかったのだと思う
あたし達は何かをかくすためにお喋りをしていた
ずっと
何かを言わないですますためにえんえんと放課後お喋りをしていたのだ
よっちゃんやルミちゃんとのお喋りも観音崎君とのセックスも、実感がわかない生の陰画のようだ。
ハルナは観音崎君からいじめられている山田君に好意を抱いていく。ハルナは自らの実感のない日常ではない別の世界を求めるように山田君に惹かれていく。
山田君が、いじめから庇っくれたお礼にと、僕の宝物だといって川原の死体を見てくれた時もハルナは「何か実感がわかない」としか感じない。
山田君は同性愛者だと告白する。同じ死体の秘密を共有している吉川こずえという後輩のことも知らされる。吉川こずえはモデルをしており、学校でもその容姿が注目を集めている存在だ。
河原の死体という秘密を周囲に隠しながら三人の不思議な関係が生まれる。
いくつかの惨劇が起こる。
同性愛者の山田君が偽装で付き合っていた田島カンナがハルナと山田君の仲を誤解してハルナのマンションの部屋に放火し、自らは焼身自殺してしまう。ルミちゃんは観音崎君の子を妊娠する。中絶費用を要求するうちに観音崎君と口論になり観音崎君はルミちゃんの首を絞める。ルミちゃんは一命を取りとめるが、帰宅後、ルミちゃんの日記を盗み見ている姉と罵り合いになり、ルミちゃんはカッターで胸を切られ、動転した姉も自分の手首を切る。結果、ルミちゃんは流産する。
惨劇の後、ハルナは転校し、吉川こずえは学校をやめ、みんなはバラバラになる。
ハルナの引越しの前夜。ハルナと山田君は町を流れる河にかかる橋の上で会う。
「ぼくは生きている時の田島さんより死んでしまった田島さんの方が好きだ。ずっとずっ
と好きだよ」
「・・・山田君は黒こげになってないと人を好きになれない?」
「そんなことないよ。ぼくは生きている若草さんのことが好きだよ。本当だよ。若草さん
がいなくなって本当にさみしい」
涙がぽたぽたと
河に落ちていった
うつむいて
山田君に顔を見られないよう
声を殺して
山田君に泣き声を聞かれないよう
このハルナの涙の意味するものはなんだろう。
好意を寄せている山田君からの「好きだよ」という一言がうれしかったから、その山田君やいろいろあった仲間と明日には離れ離れになってしまうことがその一言で実感となって胸に迫ってきたから、というニュアンスも当然含意されているとは思われる。
しかしながら泣いていることを山田君から必死で隠すハルナの胸中にはもっと別の思いが湧き上がっていたのではないだろうか。
ハルナは気がつく。
山田君の孤独と哀しさを。
山田君こそ実感のない生を生きているということを。
ハルナたちにとってのお喋りやセックスや消費が山田君にとっては河原の死体だったことを。
ハルナは気がつく。
自分自身の孤独と哀しさを。
生に実感の持てないもの同士につながりなど生まれないことを。
山田君がハルナを「好きだ」といった意味を。
ハルナは気がつく。
ルミちゃんや観音崎君や田島カンナや吉川こずえやそのほかのみんなの孤独と哀しさを。
お喋べりやセックスや消費で実感のない生を忘れているように生きるしかないことを。
惨劇さえも、なんら実感を生むことはないことを。
『リバーズ・エッジ』で何回か引用される「平坦な戦場で僕らが生き延びること」(ウイリアム・ギブスン)とは、そうした彼ら(彼女ら)の生のことだ。
そしてそれをもたらしたものは、紛れもなく「生産」や「豊かさ」や「幸せ」や「平穏」以外のなにものでもないことを『リバース・エッジ』の全編に描き込まれた風景が物語っている。
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レイモンド・チャンドラー『ザ・ロング・グッドバイ』精読 Chapter15
マーロウがロジャー・ウェイドのメモに残されていたドクターVの手がかりを探す第15章。
もぐりの医者は限りなく多い、それらしい人物を見つけ出したとしても、ロジャー・ウェイドのことだから、もともと実在しない人物のことをいっている可能性もあると勘ぐるマーロウ。
And even if- I found somebody that fitted and had the right initial, he might turn out to be a myth, so far as Roger Wade was concerned. The jingle might be something that just happened to run through his head while he was getting himself stewed up. Just as the Scott Fitzgerald allusion might be merely an off-beat way of saying goodbye.
2番目の文章のThe jingleとはラジオなどで流れる短いCMソングのことだが、ここでは短いフレーズや文章のことを指しているようだ。
また、the Scott Fitzgerald allusionとは14章に出てくるロジャー・ウェイドのもう一枚のメモに記された下記の言葉のことだ。
"I do not care to be in love with myself and there is no longer anyone else for me to be in love with. Signed: Roger (F. Scott Fitzgerald) Wade. P.S. This is Why I never finished The Last Tycoon."
アイリーンによると、ロジャー・ウェイドはフィッツジェラルドのことをクーリッジ以来の酔っ払い作家だとして敬愛していたらしい。これは同じ酔っ払い作家チャンドラー自身の本音なのかもしれない。アイリーンはその思わせぶりな言葉を Just attitudinizing(単に気取っているだけだ)と一蹴している。
マーロウは手がかりを求めてカーン機関というところで働いている知り合いのジョージ・ピーターズに会うことにする。the carriage tradeとは富裕層や上流階級のこと。
So I called up a man I knew in The Carne Organization, a flossy agency in Beverly Hills that specialized in protection for the carriage trade-protection meaning almost anything with one foot inside the law.
片足が法律の内側にある限りは、ほとんどどんなことでも引き受ける、そんな組織だ。
カーン機関はキャンディー・ピンク色のビルの2階にあり、そのレセプション・ルームはブランズウイック・グリーンの壁に緋色とダークグリーンの家具が置かれた、ぞっとするような趣味のインテリアとして描かれている。
マーロウはその空間をデザインした人物のことをこう形容する。
The fellow who decorated that room was not a man to let colors scare him. He probably wore a pimento shirt, mulberry slacks, zebra shoes, and vermilion drawers with his initials on them in a nice Mandarin orange.
「ピメント(赤唐辛子)色のシャツと暗紅色(クワの実の色)のスラックス、ゼブラ縞のソックス、マンダリンオレンジのイニシアルが入った朱色のズボン下(あるいはパンツ)を履いた男」
カーンは元憲兵隊の大佐でピンク色をした巨漢の白人で建材ボードのように堅固な男だ。
Carne was an ex-colonel of military police, a big pink and white guy as hard as a board. He had offered me a job once, but I never got desperate enough to take it. There are one hundred and ninety ways of being a bastard and Carne knew all of them.
面会を希望するマーロウの名前を用紙に書き入れ、時刻を刻印する受付嬢。
"I see. How do you spell your name, Mr. Marlowe? And your first name, please?"
I told her. She wrote it down on a long narrow form, then slipped the edge under a clock punch.
"Who's that supposed to impress?" I asked her.
最後の文章には結構、悩まされた。最初はsupposed が過去分詞の形容詞的用法によりthatを形容している構文だと思っていたが、「印象を与えると考えられているのは誰か?」という意味では、なんとなくわかったようでいてイマイチすっきりしない。
ポイントはimpressが他動詞であるというところにあり、「印象深い」とか「喜ぶ」という自動詞的言い回しが一般的な日本語とは逆に、能動態では「印象を与える」、「喜ばす」という目的語をともなって完結するというところがミソなのだ。
この文はThat is supposed to impress sbを疑問文にしたもので、「それ(記名と打刻という行為)は誰に印象を与えると考えられているのか?」つまり「それをすることで一体誰が喜ぶのか?」という意味になるというわけだ。
ジョージ・ピーターズの部屋はレセプションとはうって変わって、グレーの壁、グレーのリノリウム、グレーの机、グレーの椅子、グレーの電話、グレーのペン、グレーのゴミ箱、グレーのファイルとすべてがグレーの部屋だ。カーン機関のスクール・カラーなのだそうだ。
"I'd like to look at your file on the barred-window boys"とマーロウ。
barred-windowとは鉄格子がはまった窓のこと。file on the barred-window boysとは「収監予備軍ファイル」というようなニュアンスか。当時、その手の業界で使われていた隠語かなにかだろうか。村上訳では『カゴの鳥ファイル』と原文のニュアンスを反映した訳語に、清水訳では端的に「もぐり医者のファイル」となっている。
ジョージ・ピーターズは、そのファイルは部外秘だといいながらもマーロウの申し出を快諾し、ファイルを持ってきて、Vで始まる怪しげな医師を3名ピックアップし、マーロウに情報を提供してくれる。
ジョージ・ピーターズは、「そういえばグレーじゃあないものもあるよ」といってUpmann Thirtyという名前の葉巻を取り出す。「いっしょに一服しないか?虐殺の計画を相談しているインディアン酋長たちみたいにさ」。ジョージ・ピーターズはなかなか「イイやつ」そうだ。
"Should we smoke it together, like a couple of Indian chiefs planning a massacre?"
"I can't smoke cigars."
Peters looked at the huge cigar sadly. "Same here," he said.
UpmannとはH.Upmann(H.アップマン)社のことで、ドイツ人銀行家のアップマン兄弟が1884年にハバナに設立した老舗ブランドだ。
アップマンはJ.F.ケネディが愛好していたことで有名なブランドで、キューバに対する禁輸措置を発動する前にケネディはお気に入りのペティ・コロナス1,000本分を輸入させたという逸話が残っている。
Upmann Thirty(No.30)は、いわゆるセルバンテスあるいはロンズデールと呼ばれるフォーマットで6.5インチ(165mm)×42リングゲージの長くスマートな外観の葉巻だ。残念ながら1980年代に製造中止になっている。ちなみにペティ・コロナスの方は現在でも入手可能だ。
いっしょに一服するかと思いきや2人ともシガーは苦手なようだ。そういえばチャンドラーもシガーではなくパイプ愛好家だった。
Same hereとは相手の言葉に同意して「こっちも同じだ」というときに使うフレースだそうだ。覚えておこう。
帰り際にジョージ・ピーターズが、同僚がレノックスとそっくりの男を数年前にニューヨークで見かけたが、その名前はマーストンだったとマーロウに伝える。
I said: "I doubt if it was the same man. Why would he change his name? He had a war record that could be checked."
could be checkedは仮定法で「調べようと思えば調べることができる」という意味。関係代名詞を使った簡潔な表現のお手本のような文章だ。
部屋を出るマーロウ。make senseは意味をなす、なるほどと思えるという意。
I left him in his metallic gray cell and departed through the waiting room. It looked fine now. The loud colors made sense after the cell block.
どぎつい色使いのレセプションがましに思えるほど異様なグレーの部屋。カーン機関の得体の知れない不気味さが伝わってくる。
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2015年上期に観た106本の映画
遅れてきたシネアディクトの記録。2015年1月~6月に観た映画106本の記録。劇場とDVDまた2回目、3回目の鑑賞などゴチャ混ぜです。
1.ジャコ萬と鉄/深作欣二(1964)
北海道日本海沿岸の鰊猟場を舞台にした物語。やん衆と呼ばれる本州からの出稼ぎ漁
師たちと網元の対立などが丁寧に描かれる。ハッピーエンドに終わる活劇ドラマとしてよ
りも、かつての産業と暮らしが描かれた作品として興味深い。親方の山形勲はいつも心
配そうに海を見つめている。その背中が鰊漁のリスクの大きさを物語っていた。日本に
おける鰊漁は昭和32年に幕が下りる。長男役の若くはつらつとした高倉健の姿が印象
的だ。気弱な嫁婿大坂四郎もはまり役。1949年の谷口千吉監督作品のリメイク。
<1月1日>
2.ローマの休日/ウィリアム・ワイラー(1953)
ヨーロッパの王女がノーブレス・オブリージで最後、身を引くだけでなく、一般市民もちゃ
んと犠牲を払う、というところが実にアメリカ的だ。今回、初めて気づいたが、オードリー・
ヘップバーンとグレゴリー・ペックは真の意味でベッドを共にしていたのだ。サンタンジェ
ロの船上パーティの騒ぎで運河に落ちキスをした後、時間の経過を意味する固定ショッ
トをはさみ、シーンは男の部屋にいる二人のカットへと飛ぶ。もはや朝の寝起きの時と
はうって変わった2人の表情と仕草。当時の表現の制約もあったのだろうが、意味深な
セリフ回しと演技のニュアンスの変化でそれを暗示するウィリアム・ワイラーの演出は見
事だ。それに応えるオードリー・ヘップバーンもなかなか上手い。脚本のイアン・マクラレ
ン・ハンターとは赤狩りで追放されていたドルトン・トランボのこと。<1月3日>
3.ドラゴンタトゥーの女/デヴィット・フィンチャー(2011)
いきなりツッペリンの「移民の歌」で始まる本作は、スウェーデンのある裕福な一族の過
去に起きた殺人事件の謎を失意のジャーナリスト(ダニエル・クレイグ)とドラゴンの刺青
をした女ハッカーのコンビが探る物語。ルニー・マーラーが現代版の女ハードボイルドキ
ャラを演じる。悪態をつく代わりに世間を無視し、殴られるかわりに犯される。ただしその
報復のすさまじいさは、到底、男など足元にも及ばないという極北のキャラだ。寒々しい
冬の雰囲気、銃(SIGザクエルP228)の扱いなど、細部のリアリティもしっかりしている。
ラストシーンの切なさも定石どおりで嬉しい。<1月5日>
4.シュリ/カン・ジュギュ(2000)
南北首脳を暗殺して自分たちの手で統一を果たそうとする北朝鮮工作員をチェ・ミンシク
らが演じる。ハリウッドから本物のステージガンを借りて撮られた市街地の銃撃戦は迫
力あり。銃の扱いなども全員が様になっている。キム・ユンジンがクールなスナイパー役
で祖国と恋人の間で引き裂かれてゆく姿を演じる。最後、あえて狙撃の引き金を引き、
矛盾する自分に決着をつけようとする姿が切ない。恋愛シーンはいま観ると古臭い。
<1月6日>
5.仁義の墓場/深作欣二(1975)
辞世の句「大笑い三十年の馬鹿騒ぎ」を残して自死した破天荒なやくざ石川力夫をモデ
ルに描いた作品。主人公の時代に馴染めないで取り残され、狂気にいたる姿には監督
の思いが込められているのだろう。ペイ中となって釜ヶ崎のドヤで芹明香とくすぶってい
るシーンなどセピア色の耽美的な画面が印象的だ。若い頃の渡哲也は何を考えている
か分からない人物をやらせるとぴったり。東映初出演。<1月8日>
6.毛皮のヴィーナス/ロマン・ポランスキー(2013)
演出家の男が俳優志望の女のたっての願いでマゾッホ原作の劇中劇のオーディションを
始めるが・・・。演出者と演技者、劇中の男と女、現実の男と女、さらに支配と被支配を巡
る隠された願望などの感情が、二人の演技に現れては消え消えては現れる前代未聞の
演出。ストーリー自体がまるでセックスのアナロジーのようだ。マチュー・アルマリックとエ
マニュエル・セニエの白熱する演技バトルであっという間の1時間半。81歳とは思えない
ポランスキーのエロさに脱帽。<1月11日>
7.グッドフェローズ/マーティン・スコセッシ(1990)
小気味良いテンポとロック音楽で語られるマフィアの実話を元にした物語。人気クラブの
裏口から入って、ステージ前の特等席に案内され、いつの間にかシャンパンが運ばれて
くるという3分半のトラックアップによる長回しは主人公のモットーである「行列に並ばない
人生」を象徴する名シーン。パレルモ風カツレツをはじめ出てくる料理がみんな旨そうな
のはイタリアン・マフィアならでは。シド・ヴィシャスが歌う『マイ・ウェイ』が流れるなか、行
列に並び、ケチャップをマリナーラソースとして満足しなければならない主人公の人生の
最後が語られるラストはほろ苦い。<1月13日>
8.JSA/パク・チャヌク(2000)
JSAとはJoint Security Areのこと。38度線で対峙する韓国軍と北朝鮮軍の4人の兵
士の間にふとしたことで個人的な交流が始まる。当然のことながら軍の知るところとな
り、動揺した4人の間に惨劇が起こる。冷静な判断力でなんとか事態を収拾しようとす
る北の兵士ソン・ガンホ。中立の立場から捜査にあたるスイス軍の捜査官イ・ヨンエの
真実を求める姿が更なる悲劇を生むのは一筋縄ではいかない南北問題を象徴してい
るのか。当時の太陽政策下ならではの作品という見方も。<1月14日>
9.ゾディアック/デヴィッド・フィンチャー(2007)
実在した未解決の連続殺人事件をテーマにゾディアックと名乗る犯人に翻弄される刑
事、新聞記者、風刺漫画家たちを描く。謎解きを期待するとややあてが外れる。むしろ
主人公たちがさまざまな容疑者に振り回され、徐々に疲弊して、壊れていく様子を観る
者も追体験するような構成と展開になっている。『大統領の陰謀』と似ている。マーク・
ラファロが演じたSFPDのデヴィッド・トースキーは有名刑事でマックイーンの『ブリット』
でのアップサイドダウンのホルスター姿の元ネタはこの人。くしゃくしゃヘアと蝶ネクタイ
は真似しなかったらしい。犯人のゾディアックも『ダーディーハリー』のスコーピオンのモ
デルになった。<1月16日>
10.誰よりも狙われた男/アントン・コービン(2014)
ハンブルグを舞台にイスラム過激派の資金源の疑惑を捜査するテロ捜査官の物語。
過去にCIAにはめられ自分の情報網の人間を犠牲にされた過去を持つ現場のテロ捜
査官をフィリップ・シーモア・ホフマンが演じる。原作はジョン・ルカレ。国家に奉仕しなが
ら最後は権力によって挫折させられるスパイの悲哀と無力感は得意とするところ。また
しても権力によって裏切られる瞬間が秀逸。究極の無力感のなか、それでも自らへの
信頼を失わずに生きることができるのかを問うようなラストも胸に迫る。本作がFSHの
遺作となった。<1月17日>
11.ゼロ・グラヴィティ/アルフォンソ・キュアロン(2014)
宇宙空間に身を置いてみたい、宇宙でひとりぼっちになってしまったら、など素朴な興味
に訴えかける稀有な映像体験。サンドラ・ブロックが地球に戻り、思わず重力を再認識す
るラストもよかった。実際は宇宙で飛行船の軌道傾斜角を変えるには多大なエネルギー
が必要とされ現実的には難しいのだそうだ。何故、宇宙船は落ちてこないで軌道を回る
のか?など恥ずかしながら調べてしまった。<1月19日>
12.鑑定士と顔のない依頼人/ジュゼッペ・トルナトーレ(2013)
恋愛もの、主人公と観客を騙す詐欺師もの、そして後半20分は犯人の心理を探るミステ
リーもの、という3つのモチーフを一本にぎゅっと詰め込んだ意欲作。その構想に敬意を
表したい。その意図ゆえミスリードを誘う映像と謎解きのヒントになる映像が錯綜するた
め、すっきりとしない感は否めないが、それも観る楽しみと割り切っているのだろう。「い
かなる贋物にも本物は潜む」という信念でNight&Dayという名の店で若い女を待ち続け
るジェフリー・ラッシュ。きっと彼女はくるだろう。<1月20日>
13.山の音/成瀬巳喜男(1954)
監督の指示は、川端康成の原作に漂う、舅(山村聡)と嫁(原節子)との間の性的な感情
を匂わせるものは排除するようにとのことだったらしいが、それでも嫁の鼻血を介抱する
舅や嫁のメタファーとしての能面に見惚れる舅など、原作由来の性的雰囲気は濃厚に残
っている。上原謙のサディズム、復讐のように堕胎する原節子、確信犯のように中絶を
拒む愛人など、暗いエロスが全編を覆う。とはいえ、嫁が離婚と別離を切り出す神宮外苑
でのラストは、川端の持つ静かな異常さからの脱却が意図された「女の映画」の成瀬らし
い結末だ。舞台となる家は鎌倉長谷の川端邸を模して作られたセットだそうだ。杉葉子
の事務服姿がかわいい。<1月21日>
14.噂の女/溝口健二(1954)
京都島原の遊郭のやり手女将を主人公にした物語。いやらしい女将を演じる田中絹代
が上手い。冒頭のオードリー・ヘップバーンのイメージで旧家の土間に現れる久我美子
の姿が印象的だ。そのモダンな娘が男に裏切られたことをきっかけに、嫌悪する遊郭を
継ぐことになるという展開は皮肉極まりない。二重三重の襖を介した座敷の奥行き、段
差のある大空間に太夫や賄いたちが縦横に行き交うシーンなど、日本家屋の空間特性
が見事に捉えられている。お呼びのかかった太夫たちが「あてらのようなもん、いつに
なったらないようになんねやろ。後から後から、なんぼでもできてくんねんなぁ」との台
詞とともに、三枚歯の高下駄を内八文字で運びながら、座敷へ出向いていくところをワ
ンシーンで撮ったラストは主題が見事に映像化された傑出したシーンだ。<1月22日>
15.新幹線大爆破/佐藤純弥(1975)
パニックものの名作。犯人の町工場を倒産させた社長を高倉健、学生運動家を山本圭が
演じる。一難去ってまた一難、さらにその後にもう一難というハラハラ感が持続する展開
が見もの。最後の空港での健さんがカッコいい。宇津井健も熱演。さすがに挿入される歌
やパニック乗客の描き方が古臭くみえてしまうのはしょうがないか。一方、青山八郎のエ
レピやスキャットによる音楽はフランス映画のようで全然古びていない。当時、国鉄から
は撮影の協力が得られず、すべてセットを使ったそうだ。日本のケチくささ。笑うべし。
<1月23日>
16.ある映画監督の生涯/新藤兼人(1975)
師溝口健二の生涯の記録を残そうとする新藤兼人執念の一本。カメラマンだった宮川一
夫の証言などを総合すると、庶民派、女の見方、社会派、反封建主義など、すべての見
方を超越していえるのは、溝口健二は日本の美しく悲しい絵巻物のなかに生きたかった
のだ、ということだろう。白眉は田中絹代の発言。「溝口先生は田中の演じるお千賀(『浪
花女』)やお春(『西鶴一代女』)に恋をしていたのだ。二人は先生のストーリーの中で夫
婦だった。先生は日常生活ではユーモアがないつまらない人間だった」。<1月26日>
17.ハンナ・アーレント/マルガレーテ・フォン・トロッタ(2013)
ハンア・アーレントが「ニューヨーカー」に寄稿したアイヒマン裁判の傍聴記事をめぐる骨太
の一本。アーレントは官吏然としたアイヒマンの姿を見て、真に恐ろしいのは思考を停止
した人間の犯す悪であり、それを「悪の凡庸さ」と呼んだ。同時にリスト作りなどで収容所
への移送に協力したユダヤ人指導者達も同様に断罪した。裏切り者としてユダヤ人コミュ
ニティから激しく非難され、孤立しながらも、自らの思考を貫き通すアーレント自身の姿を
通じて、観る者に思考すること、考え抜くことの意味を問う。さらにいえば「ユダヤのことを
何も分かっていない。だから、裁判も哲学論文にしてしまう」といって最後、アーレントと袂
を分かつ朋友ハンス・ヨナスのいう「感情の回復」(宮台真二)という意味も考える必要が
ある、という示唆を受ける。<1月27日>
18.ホーリー・モーターズ/レオス・カラックス(2012)
監督自身が登場し、扉を開けた先は映画館という幕開け。主人公ドニ・ラバンの仕事は
他人の人生を演じるという象徴的なもの。そして監督の作品と人生が重ねられた数々の
エピソードと映像。エンドロールにはカラックスのパートナーだった亡きカテリーナ・ゴルベ
アの写真が載せられる。カイリー・ミノーグが飛び降り自殺するのは、その死と重なって
いるのだ。白のリムジンンが駆け抜けるパリの街、廃墟になったサマリタン百貨店とその
屋上から望む夜のパリなど詩的映像の数々。倉庫の中をバンドネオンを弾きながら練り
歩く長回しのシーンがカッコいい。<1月29日>
19.もうひとりの息子/ロレーヌ・レヴィ(2013)
イスラエル人とパレスチナ人の子供が産院で取り違えられたら?そんな誰もが先を知り
たいテーマを描いた意欲作。母親たちの反応は素直で強い。父親二人は複雑。国家や
社会を背負っている、いや、背負っていると思い込んでいるからなのだ。「君は僕の人生
を生きろ。僕は君の人生を生きる」という台詞の力強いラスト。民族や生まれた国に拘泥
するのは、人間としてなんと無意味なことかを静かに語りかけてくる。監督はユダヤ系フ
ランス人。<1月30日>
20.浪華悲歌/溝口健二(1936)
社長の囲まれ者になって父親の借金を返し、株屋への美人局で兄の学費を用立てする
山田五十鈴。兄や妹に罵られながらも金の出所は黙して語らない。意地を張り通すのが
時代と境遇への最高の復讐だ、とでもいいたげだ。「野良犬や。どないしたらええか、わ
からへん」と捨て台詞とともに橋の上を去ってゆくトレンチコート姿のラストシーンが忘れ
がたい。文楽の舞台の人形のドタバタした動きにシンクロするようにホワイエで和服姿の
面々が悶着が起こすシーンがおかしい。パンションと称する和風マンション(?)の空間も
見どころ。<2月2日>
21.殺しの烙印/鈴木清順(1967)
あまりのわけの分からなさゆえに当時の日活社長の堀久作が激怒。鈴木清順を解雇し
たことで知られる傑作。米飯の炊ける匂いに恍惚を覚えるパロマガス炊飯器が登場する
シーンはいまや伝説的だ。宍戸錠の押しの強さにナイーブさと小心さを隠している屈折し
たキャラはいま観ても実にカッコいい。ファーストシーンの羽田空港のネオンやモーゼル
ミリタリーC96にフォーカスするカットなど、コントラストを効かせたモノクロ映像が実にス
タイリッシュだ。登場するトーチカは横須賀猿島に残っている旧日本軍の遺構。炎に包ま
れた人間が走り出てくるシーンは驚く。脚本の具流八郎は鈴木清順や大和屋竺らの名
乗っていたグループ。大和屋竺は主題歌の「殺しのブルース」も歌っている。小川万里子
の小さなおっぱいがかわいい。英語題名はSTYLE TO KILL。<2月5日>
22.父、帰る/アンドレイ・ズビギャギンツェフ(2003)
不在だった父が帰ってきて息子兄弟を旅に連れ出す。圧倒的な父の存在をみせつけら
れ、困惑する兄と反抗する弟。帰郷をなじる弟イワンの台詞はまるで『カラマーゾフ兄弟』
の審問官の降臨したイエスに対する言葉のようだ。時代を捨象したような抽象性と象徴
性に満ちた映像、計算されつくした構図と色彩、父の存在をめぐるミステリアスな雰囲気、
ため息がでるようなラドガ湖の風景など、引き込まれること請け合いの稀有な映像体験
の一本。最後の父と兄弟の関係性が変容するのは父の役割の完遂なのだろうか。プー
チンが絶賛したことでも有名な作品だが、ロシアには厳格な父性の帰還が必要だ、との
理解であれば複雑な思いだ。<2月6日>
23.推手/アン・リー(1991)
アメリカで成功している息子と同居する孤独な老父が、徐々に中国人コミュニティに心を
開いていく。その孤独の源泉は、アメリカでの生活への馴染めなさ、息子家族との同居
への違和感、文革で妻を殺された心の傷、自身の老いなどであろうが、一方で詩作を
楽しみ、料理もたしなみ、太極拳の先生でもあるこの元共産党幹部の人物は、かなり
知力、体力、生活力が充実した人物として描かれており、孤独の深さがあまり感じられ
ない。「あなたをみていると昔の北京を思い出す」といって台湾出身の女性に参ってしま
うのは、文革前の中国にしか故郷はない、という喪失の思いか。<2月7日>
24.シャイン/スコット・ヒックス(1996)
実在のピアニストのデイヴィッド・ヘルフゴッドを主人公にした物語。息子を英才教育しな
がら自らの手を離れてゆこうとするのを邪魔する父親との確執が見どころ。過干渉、依存
ということか。実際は普通の父親だそうだ。演奏はすべて本人によるもので、特にコンク
ールで最難関曲『ラフマニノフ協奏曲第3番』を弾くシーンは圧巻。精神を病みながらも
故郷のオーストラリアで奇跡の復活を遂げる。主演のジェフリー・ラッシュ(アカデミー主演
男優賞)もピアノを習っていたそうだ。<8月29日>
25.第七の封印/イングマル・ベルイマン(1957)
ベルイマンがニーチェと格闘する傑作。異教徒の殺戮に厭み、神の沈黙を嘆き、生の意
味を求める十字軍の騎士はベルイマンの分身を感じさせるニヒリズムに陥った人間。そ
して堕落した神学者や鞭打ちの殉教に没入する人びとなどキリスト教に生を捧げたニー
チェのいう「受動的ニヒリズム」に犯された人間たちが描かれ、さらには、神を信じない厭
世的態度の従者が「能動的ニヒリズム」の萌芽を予感させる存在として描かれる。ベルイ
マンが救いを見出したのは無邪気で無垢な旅芸人。こうした形而上的テーマが、ロード
ムービー的ストーリーと徹底的に計算された白黒映像美によって観て面白い映画として
結実しているところが本作が傑出している所以だ。海辺での死神とのチェス、野原での
野いちごとミルクによる幸福な食事風景、丘の上の死神に率いられた死の舞踏など、
映画史に残るシーンも必見だ。<2月13日>
26.ソルジャー・ボーイ/リチャード・コンプトン(1972)
社会での居場所のなさと一方で社会に溶け込んで何かしなければという焦燥感のよう
な、家族にも周りにも理解されない心の闇を抱えたベトナム帰還兵たちを抑えた語り口
で描く。扉を閉ざしたガソリンスタンドにいらだったり、警官に命令されることへの激しい
嫌悪など、トラウマの暗い影の描き方が上手い。町の住人を殺戮したあとの「こんな味
のタバコは久しぶりだ」という台詞は怖い。『タクシー・ドライバー』(1976)、『ローリン
グ・サンダー』(1977)、『ディアハンター』(1978)に比べると本作がいかに早い時期
に作られていたかがわかる。<2月15日>
27.お遊さま/溝口健二(1951)
敬愛するお遊さま(田中絹代)を思いかつ夫のお遊さまへの想いを斟酌して形式的な夫
婦に甘んじるお静(音羽信子)。お遊さまに対する愛情、嫉妬、自己犠牲など微妙に感情
と表情をコントロールする音羽信子の演技が光る。田中絹代と音羽信子は精神的レズビ
アンなのだろう。最後、夫が子供を田中絹代に託すのは二人の精神的結びつきを悟った
らだ。前半の京都の風景や日本家屋を捉えた映像は見事だが、後半の東京のわび住ま
いやお遊さまが嫁いだ邸宅のセットはチャチな感じ。<2月16日>
28.噂の二人/ウィリアム・ワイラー(1961)
原作はリリアン・ヘルマンの処女作『子供の時間』。ダシール・ハメットから聞いたエジン
バラの寄宿学校での実話がもとになっている。子供のちょっとした反抗心による嘘が原
因で取り返しのつかない悲劇が生まれる。そして子供の嘘が実は深いところで真実を見
抜いていたという展開が衝撃的だ。さらには真実を告白するシャーリー・マクレーンの前
で今まで本物だと思っていたジェームズ・ガーナーの愛がかすんでみえてしまうという冷
徹な描き方も秀逸だ。ラストの葬儀の後、オードリー・ヘップバーンが周りを黙殺し毅然と
歩き去る姿はすべての者への批判となっている。<2月17日>
29.クロワッサンで朝食を/イルマル・ラーグ(2012)
故郷を離れパリで老婦人の家政婦を始めるエストニア人の中年女性の人生模様。家政
婦役のライネ・マギが好演、頑固な老婦人役のジャンヌ・モローもぴったり。老婦人の孤
独や家政婦との確執がもっと描かれると深みが増した。男の魅力が希薄なのも難点。逆
にういういしい生活者目線でのパリの映像が意外に新鮮に見えたりするところはどこか
得した感じがする。スーパーで買ったクロワッサンに対して「プラスチックを食べさせるつ
もり」という台詞はエストニアの食の現実をも暗示しているのだろう。ココ・シャネル所有
だったコロマンデル屏風が登場してびっくり。もちろん衣装もすべてシャネル。
<2月20日>
30.ナショナル・ギャラリー 英国の秘宝/フレデリック・ワイズマン(2014)
ナショナル・ギャラリーの元になったのはロイズ保険の関係者のコレクション。学芸員は
それをこう説明する。「このコレクションの元は奴隷制に加担したイギリスの恥の歴史か
ら始まっており、それを忘れてはいけない」と。絵画もさることながらこうした学芸員の説
明がひとりひとり個性的ですばらしい。ドキュメンタリーの巨匠ワイズマンはナレーション、
音楽、インタヴューなどを一切を排して「見る」ことに徹する。常設展が無料というのはさ
すが。<2月21日>
31.狩人の夜/チャールズ・ロートン(1955)
犯罪サスペンス、オカルトホラー、宗教モラルの寓話などが渾然となったモチーフ、リアリ
ティとおとぎばなしがミックスになったような語り口など、ジャンルを超越した稀有な作風
の一本。幻想的なモノクロ映像も強い印象を残す。女を淫らなものとして嫌悪し、左右の
指に彫られたLOVEとHATEの刺青を使った説教で女性の信心を集めながら殺人を重ね
るニセ牧師ロバート・ミッチャムが怖い。「主の御身に頼れ」といつも賛美歌を歌っている
のも不気味さを感じさせる。後世に多大な影響を与えた作品だが、公開時は大コケし、チ
ャールズ・ロートンは二度と映画を撮らなかった。<2月21日>
32.殺しの分け前 ポイント・ブランク/ジョン・ブアマン(1967)
とにかく冒頭から時制が錯綜し状況説明もほとんどないため、主人公リー・マービンがい
ま何をやっているのかわけがわからないまま進む。やたらと多いフラッシュバック、ところ
どころで放心状態になる主人公など、徐々に白昼夢のような不思議な雰囲気に魅入ら
れるのがこの作品の魅力。さらに驚くべきことは、金の分け前を要求して復讐しているに
もかかわらず、主人公は誰一人殺さず、金も一向に受け取らないこと。ナローラペル、ラ
イトウエイトの生地、段がえりのスーツにベルトレスのトラウザースとショートポイントカラ
ーのシャツなどミニマルアイビーのリー・マービンのファッションが決まっている。かたやニ
ットのミニのワンピースにローヒールのバックストラップ先丸パンプスのアンジー・ディッキ
ンソンのキュートな色っぽいさも注目。原作はリチャード・スタークの『悪党パーカー』。
<2月23日>
33.オールド・ボーイ/スパイク・リー(2013)
パク・チャヌク監督の2003年の同名作品のリメイク。ラストの納まりはこちらの方がきれ
いかも。一方、ハリウッド版は仕掛けが大きくなった分、偶然に頼っているところの不自
然さが逆に目立ってきてしまう感あり。また韓国版では棒切れでの乱闘も違和感がなく、
むしろユーモリスティックに見える効果もあるが、ハリウッド版では何で銃を使わないの?
という風に見えてしまうのもマイナス。<9月14日>
34.ミルク/セミフ・カプランオール(2008)
ユスフ三部作の青年期を語る一作。ミルクが炊かれて上に逆さに宙吊りにされた女の口
から蛇が吐き出される冒頭シーンでいきなり物語りの世界に引き込まれる。ちなみに多
産の蛇は男や妊娠の象徴だ。ゆったりとした進行、淡々とした語り口、説明の省略、風景
や空間の空ショット、計算された構図など小津安二郎を思わせる。鉱山で働くユスフの顔
のアップとヘルメットのライトのハレーションを行きつ戻りつする長回しのラストカットは家を
出たユスフの不安感と焦燥感を象徴しているかのようだ。<9月15日>
35.京化粧/大庭秀雄(1961)
東京から来た作家と京都の花街の芸妓、世界の違う男女の悲恋物語。山本富士子の
行方を追って京都の町を捜し歩く佐田啓二はまるで、京都の町から拒絶されているかの
ようだ。美しい娘を売って生計を立ててゆくことが当たり前という感覚、本音は決して表に
出さない物腰、やんわりと示される拒絶の態度、など母親役の浪花千栄子の演技が圧
巻。<2月28日>
36.チェンジリング/ピータ・メダック(1979)
不幸にして亡くなった子供の怨霊を鎮めるべく真相究明にジョージ・C・スコットが奮闘す
る。彼も直前に妻子を失った失意の人物であるという設定が物語の影を深くしている。謎
が割りと早い時期に明らかになるため先の読めないサスペンス感は少ないが、逆に強い
怨念の背景には父親に手をかけられたという子供の悲惨な境遇があることがわかり共
感を呼ぶ。古い屋敷の屋根裏部屋、亡くなったはずの娘のボール、古い子供用の車椅
子などちょっとした小道具が怖いのも上手い。<3月1日>
37.波影/豊田四郎(1965)
福井県小浜の三丁目遊郭の気立てのいい女郎雛千代の生涯を描く。戦下の時代、同居
する兄夫婦の困窮から自ら女郎となった雛千代。そんな不幸の影を微塵も感じさせない
無垢な存在を若尾文子が演じる。そのけなげさ、あっけらかんとした色気が逆に哀れを誘
う。女郎屋の女将でありかつ雛千代を慕う兄妹の母でもあるという矛盾する役どころを演
じる音羽信子もすばらしい。冒頭とラストの小浜湾を渡る舟をロングで捉えたシーンなど
光と影のモノクロ映像が美しい。撮影は岡崎宏三。芥川也寸志の情感あふれる音楽も特
筆できる。原作は水上勉。<3月3日>
38.アバウト・シュミット/アレクサンダー・ペイン(2002)
定年を機に、妻との死別、娘の離反と結婚など孤独が深まる中年男の人生。男は、いつ
も自信を持てず、どこか空虚な心持で、孤独な自分を隠す仮面と波風を立てない取り繕
いで生きてきた。ジャック・ニコルソンの抑えた演技が光る。男は何気なくアフリカの6歳
の少年の里親になり、彼への手紙の中だけは本心を正直に語るようになる。失意の男
が流す涙が文句なしの感動を与えるラスト。白々しい建前だけの定年退職のパーティー
や娘の結婚相手の家族と一緒の食卓など、気まずい空気感や微妙な違和感を描くシー
ンが秀逸。食卓のシーンは『ファイブ・イージー・ピーセズ』へのオマージュだ。
<3月3日>
39.昔々、アナトリアで/ヌリ・ビルゲ・ジェイラン(2011)
殺人事件の遺体捜査隊の一行を乗せた車が夜のアナトリアの高原を走る。警部、検視
医、検事など全員が何かを抱え、何かを口にする。光と闇のなか浮かび上がる男たちの
人生。検死医はヘッドライトの光で黄金に輝く草原を見つめ、こんな詩を引用する「なお
も時は過ぎ、私の痕跡は失せる。闇と冷気が疲れた魂を包むだろう」。まるでアナトリア
の自然によって生きることの無常感や虚無感が誘い出されたかのようなスリリングな映
像は目が離せない。シネスコープのワイド画面が切り取るアナトリア高原の映像がすばら
しい。アンバーに沈む草原、ヘッドライトに映し出される顔、焚き火が照らす幻想的なシー
ンなど、前半1時間20分が費やされる夜のシーンに唸らされる。<3月4日>
40.蜂蜜/セミフ・カプランオール(2010)
ユスフ三部作の幼年期を語る一作。6歳のユスフと養蜂を営む父との交流を神秘的な山
間や森を舞台に描く。靄に煙る山、木漏れ日が舞う森、樹上の採蜜などの映像が美し
い。吃音が原因で小さな声でしかしゃべらないユスフ、寡黙な父、静寂が支配する山の
中の日常など、音楽を一切排し、最小限の台詞とともに展開する静的な世界観が強い
印象を残す。森から戻らない父を案ずる母を思い、嫌いだったミルクを飲み干すユスフ
がけなげだ。父の死を知ったユスフがフクロウに誘われるように森に入り、大木の根元
で眠りに落ちるラストは象徴的だ。<3月5日>
41.親切なクムジャさん/パク・チャヌク(2005)
復讐三部作の第三作目。復讐に協力させるために周囲に親切な人物と思わせる用意周
到な殺意と深い怨念を抱く女クムジャをイ・ヨンエが演じる。極悪非道の男パク先生は
チェ・ミンシク。前半と後半で演出のトーンが変わり、イ・ヨンエの性格づけも変化し、やや
戸惑うが、これもイ・ヨンエの別の魅力を見せる計算なのだろう。後半のオリエント急行
方式で復讐に至るプロセスは当事者にとっては深刻な状況を引いて見た時の滑稽さが
良く現れており面白い。クムジャがパク先生を殺すのをためらうのは、娘がパク先生の子
供で、両親ふたりともが殺人犯になることを避けたかったからだろう。ヴィヴァルディの優
美な調べが食卓でのセックスというグロテスクな映像に妙にマッチしていた。
<3月6日>
42.処女の泉/イングマル・ベルイマン(1960)
罪に対する神の沈黙というテーマ。レイプされ死に至った娘の復讐をする父。復讐の前に
身を清めるためにマックス・フォン・シドーが台地の一本の木を折り倒すシーン、じっくり見
せる室内での復讐劇など、光と影による緊迫した映像が素晴らしい。「神よ、なぜです。
見ておられたはすだ。罪なき子の死と私の復讐を。だが、黙っておられた。なぜなので
す」と問いながらも、同時に自らの復讐の罪を神に許しを請う姿は、ニーチェ的な意味で
のキリスト教の起源を意味しているのか。<3月7日>
43.素敵な歌と舟はゆく/オタール・イオセリアーニ(1992)
ひょうひょうとしたボヘミアンのような息子、酒と射撃と犬にふける父親(監督自身が演じ
る)、セレブな母親、悠々とした髭の哲学浮浪者など、パリを舞台にさまざまな人生を交
差させながら描く。犯罪、失業、若者の困難さなども視野に収めた冷徹な眼差しが突き
放した都会の詩情とでもいうべき独特の情感を生んでいる。「一杯の葡萄酒の中に真実
がある」とは監督の言葉。原題は「雌牛どもの床よさらば」(昔の船乗りたちの言い回しで
「息苦しい地上よさらば」という意)の言葉通りのラストが幸せとは?自由とは?を考えさ
せる。<3月9日>
44.赤線玉の井 ぬけられます/神代辰巳(1974)
いま改めて観ると日活ロマンポルノは本当にロマンチックだったのだとしみじみわかる。
ヒロポン中毒のやくざに入れあげる宮下順子、かたぎの客と結婚するも夫のセックスに
満足できずに舞い戻る芹明香、一日で26人の客という記録を破るべく奮闘する丘奈保
美など玉の井の娼婦の群像劇。ユートピアのような哀しくも幸せな日々が描かれる。街
としての玉の井はほとんど描かれず、それを期待するとがっかりする。<3月10日>
45.ブラック・サンデー/ジョン・フランケンハイマー(1977)
パレスチナのテロリスト「黒い九月」とベトナム帰還兵が手を組んでスーパーボウルでテ
ロを計画する。対するはモサドの情報員とFBIというすごい布陣。緻密な設定、意外性の
ある展開、淡々としたタッチなど見応えのある一本。家族が殺され悲惨な境遇で育った
理想肌の美人テロリスト、殺し合いに倦んだ影のあるモサド情報員(ロバート・ショウ)、
捕虜体験のトラウマが祖国からの冷遇に対する復讐へと向かわせるベトナム帰還兵
(ブルース・ダーン)など人物像の設定が秀逸。プラスチック爆弾が仕掛けられた巨大
飛行船がスタジアムに落ちかけてパニックになるところは、いま観てもすごい迫力。
<3月10日>
46.ル・コルビュジエの家/ガストン・デュプラット、マリアノ・コーン(2009)
隣家の男が突然、壁に穴を開けてこちらに向けた窓を作り始める。レオナルドは法律を
盾にとって抗議するが隣人のヴィクトルはのらりくらりとした態度で穴は一向に塞がらな
い。物語は強面のいかがわしいヴィクトルと成功したデザイナー レオナルドの二人の本
当の性格や本心が徐々に明らかにされながら、シュールでブラックな展開をみせてゆく。
レオナルドの住む豪邸がブエノスアイレスにあるル・コルビュジエの名住宅クルチェット
邸。人は建築ほどオープンにもフランクにもなれないと物語っているようだ。その名作住
宅をうまく使った意外なラストは怖い。<3月12日>
47.ビッグ・リボウスキ/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン(1998)
『ビッグ・スリープ』をもじった題名の通り、チャンドラーの世界観を90年代スタイルで再
創造する。ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』と通底するテーマだが、こちらは
時代から降りた迎合しない生き方へのオマージュが素直に前面にでている。全然カッコ
つけていないとろが断然カッコいいというジェフ・ブリッジェスの演技がいい。ベトナム帰り
ですぐ切れる強面ジョン・グッドマン、いつも話が遮られる覇気のないサーファー スティ
ーブ・ブシュミのトリオが実にいい味を醸し出している。イーグルス嫌いのCCR好き
(”Lookin’Out My Back Door” が流れるシーンが実におかしい)という設定や『ホテ
ル・カリフォルニア』はジプシー・キングのバージョンが流れる、というひねり具合も最高。
ハードボイルドのお約束としてロサンゼルスの街が魅力的に描かれる。ラストタイトルで
“Viva Las Vegas”が流れるのはアルトマンへのオマージュだ。 <3月14日>
48.薄氷の殺人/ディアオ・イーナン(2014)
元刑事のやさぐれた男がバラバラ死体の殺人事件の真相を追う。浮かび上がってくるひ
とりの未亡人。身を刺すような寒さの中国北部の都市が光と闇のなかで描かれる。『第
三の男』で描かれたウイーンのように。人工照明の下の突発的に起こる銃撃シーン、ま
ばらな街灯が灯る雪道、5年後にジャンプカットする雪のトンネルのシーン、鉄橋の上の
黄色い照明、観覧車でのセックスシーンなど印象的な映像。最後に派手に打ち上げられ
る花火にかすかに微笑む女。男の屈折した想いを察したかのようだ。グイ・ルンメイが見
事なファムファタルを演じる。<3月15日>
49.月曜日に乾杯/オタール・イオセリアーニ(2002)
決まりきった日常にふと嫌気がさす時はないか?フランスの田舎に住む溶接工は月曜の
朝、職場に行かず野原に横たわり、その後ヴェニスへと旅立つ。親しくなった人のいいイ
タリアの友人たちとの飲んで歌っての宴会シーンが実に楽しそう。究極の幸せはコンヴィ
ヴィアリテconvivialiteというわけだ。そのイタリアの友人が月曜日に仕事に向かう先が
同じような工場だったという現実。最後、主人公はもとの鞘に納まる。ここではないどこか
などないのだよ、というラストの味わいは思いのほか苦い。ジャック・ビドウが疲れた中年
男を演じてなかなか。『素敵な歌と舟はゆく』の哲学浮浪者役のアミラン・アミラナシュヴィ
リがコサック兵たちの酒盛りでまた自慢の喉を聞かせてくれるのも嬉しい。シニカルな問
題意識、ユーモアを交えた語り口、淡々とした表現、要所で挿入される宴会シーンなどが
じんわりとした幸せ感をもたらしてくれるというイオセリアーニ節が存分に楽しめる。移動
する対象を捉えているカメラが別の移動する対象へとパンしてながら、新たな挿話が始
まるというカメラワークも一見の価値あり。<3月19日>
50.母たちの村/ウスマン・センベーヌ(2004)
アフリカに古代から続くいわゆる女性割礼という習慣の実態は、女性性器の切除
(FGM=Female Genital Mutilation)のことなのだそうだ。それは宗教的な意味など
皆無の女性支配のための因習であり、切除の際に命を危険にさらすだけでなく、その後
の排尿、生理、性生活、出産に多大な苦痛を与えるという痛ましいものだ。本作は、男性
支配や知識や情報の独占の構図などを絡めながら、FGMから逃れてきた少女たちを守
る主人公コレの勇気とついに立ち上がる村の女たちを描く。背景として描かれるアフリカ
の自然、衣装、日常生活などが新鮮だ。セナガル出身の監督はアフリカの人びとに映像
で訴えたいということで40歳から映画を志した「アフリカ映画の父」と呼ばれる巨匠。
<3月21日>
51.復讐者に憐れみを/パク・チャヌク(2002)
復讐三部作の第一作目。工場で働きながら姉の腎臓手術の費用を稼ぐ聴覚障害の主
人公の男(シン・ハギュン)、誘拐をそそのかす左翼思想の恋人(ペ・ドゥナ)、誘拐される
息子の父親で高卒の叩き上げの電気会社の社長(ソン・ガンホ)、臓器密売団などひと
癖もふた癖もある登場人物たち。偶然がきかっけで歯車が狂い「いい人」が復讐鬼に変
貌してゆく。殺人、自殺、溺死、解剖、拷問、火葬、惨殺など流血・残虐シーンの数々。韓
国映画におけるこのストレートさと痛さの表現は一体どこからくるのか?川で溺れる人質
の子供とその叫び声に気がつかない聾唖の主人公を捉えた残酷極まりないカットは脳
裏から離れない。<3月22日>
52.スリー・モンキーズ/ヌリ・ビルゲ・ジェイラン(2008)
日常によくある題材をきっかけに緊迫した世界と息詰まるようなドラマを創り上げる手腕
に文句なく脱帽させられる。それぞれに取り返しのつかないことを犯してしまう夫と妻と子
供。セピア調の沈んだ色調、緑がかった画面、光と影のきついコントラスト、独特のカット
のつなぎ、表情のアップを長回しで捉える執拗なカメラ、極端に刈り込まれた台詞と音楽
などが静謐で強烈な印象を残す。陰鬱な曇り空、逆光に光る海面、深い闇など、まるで
生きもののような息づかいが感じられる風景描写も見事だ。見終わった後、そういえば
誰にでも「見ざる言わざる聞かざる」でしか耐えられない関係性や出来事があると思い至
らされ、いつまでも重い余韻が消え去らない。<3月23日>
53.あの娘と自転車に乗って/アクタン・アブディカリコフ(1998)
ソ連崩壊後のキルギス共和国初の長編映画。監督の分身である少年を描いた素朴でみ
ずみずしい一作。鮮やから織物の映像から一転してモノクロに切り替わる冒頭など独自
の映像表現も見られる。好きな娘と抱き合って乗れるように自転車の荷台はずすシーン
がほほえましい。<3月24日>
54.旅立ちの汽笛/アクタン・アブディカリコフ(2001)
兵役を前にした思春期の青年の微妙な心のゆれや不安が描かれるタイトルどおりの物
語。キルギスの風景が妙になつかしい。エピソードの素描に留まる分、個々の印象は薄
いが、青春の思い出とは意外にそんな感じが近いのかもしれない。最後に太った娼婦ジ
ーナ(まるでフェリーニだ)の家が火事で焼け落ちるのは青春の終わりを象徴しているか
のようだ。<3月24日>
55.チェイサー/ナ・ホンジン(2008)
デリヘル嬢が次々と失踪する。謎を追う元刑事のデリヘル経営者が失踪した女の娘を預
かることになる。中年男と生意気な少女のコンビは『レオン』などの定石どおり感情移入
を誘う。女を商品としか思わないやくざまがいの男が徐々に変貌していくプロセスを演じる
キム・ユンソクが上手い。早々と犯人(ハ・ジュンウ)を明らかにしながら、その後の展開
がだれないのも見事。相変わらず暴力描写がすさまじい。一切の銃器は登場せず、凶器
はハンマー、のみ、ゴルフクラブ、スコップなどすべて鈍器というところが痛くかつ陰惨だ。
これも相変わらずだが警察があまりにも無能すぎるのが玉にキズ。路地と坂道が錯綜す
る薄暗い夜の住宅街(どこだろう?)での追跡劇が見ものだ。<3月27日>
56.シティ・オブ・ゴッド/フェルナンド・メイレレス(2002)
リオディジャネイロのスラム街ファヴェーラを舞台したストリートチルドレンと呼ばれるギャ
ングたちの実話に基づく群像劇。祭りの準備で鶏がさばかれゆく。そこから逃げ出した一
羽の鶏を追うカメラ。スピード感あふれる編集にブラジル音楽のリズムがかぶさる秀逸な
オープニング。この調子で全編スタイリッシュな映像ですさんだ暴力の世界が描かれる。
人を虫けらのように平気で殺すリトル・ゼと呼ばれる暴力しか知らないひとりの少年の生
と死から浮かび上がってくるのはファヴェーラに生まれたゆえのどうしようもないひとの運
命の残酷さのようなもの。新たなリトル・ゼの誕生を予感させて幕は閉じる。
<3月29日>
57.哀しき獣/ナ・ホンジン(2010)
失業と博打の借金で首が回らなくなっている中国の朝鮮自治区に住む男(ハ・ジョンウ)
が朝鮮族のボス(キム・ユンソク)から韓国での殺人を請け負う。殺人の当日、同じ対象
を狙う別の殺し屋とバッティングすることになり、事態は思いもよらぬ方向へと展開する。
数々の見せ場と最後までテンションが落ちない脚本と演出がすばらしい。証拠を消そうと
韓国に出張ってくるキム・ユンソクがすごい。その暴れぶり、野蛮さ、恐るべきバイタリテ
ィなど、あまりのすごさに思わず笑ってしまうほどの屈指の悪役ぶりだ。斧、牛刀、ドライ
バー、ハンマー、巨大レンチなど登場する素朴な凶器が怖い。極めつけは食ったばかり
の巨大な牛の骨で殴り殺すシーン。止むに止まれず悪に手を染める、裏のある依頼とは
められる主人公、淡々と描かれる仕事のプロセス、何かを探して都市を歩き回る、女の
裏切り、真相は明らかになるが何も解決しないやり切れなさ、など定石通りのハードボイ
ルドぶりもうれしい。ハ・ジュンウが殺人の下見の際に深夜のファミマで食べるカップラー
メンとソーセージは、慣れない街での孤独な男の心情を映し出していて思わず涙と涎が
出そうだった。何故、ハ・ジュンウは自分をはめた人物を殺さなかったのか?女に騙され
るのはもうやり切れない、ということか。さらにもうひと捻りあるラストも必見。<4月3日>
58.ヴェラクルス/ロバート・アルドリッチ(1954)
ナポレオン三世がメキシコに介入したフランス干渉戦争を舞台にした西部劇。賞金目当
てのアメリカ人二人に両親殺しのならず者バート・ランカスターと南北戦争ですべてを失
った元南軍将校ゲーリー・クーパー。港町ヴェラクルスへ向かうフランス伯爵夫人の護衛
を請け負った二人と馬車に隠された政府軍の金貨を巡りさまざまな思惑が絡む展開が見
どころ。最後、決闘に勝ったゲーリー・クーパーがバート・ランカスターの拳銃の重さを計
るような仕草をして苦々しげな表情をみせるのは、終始、金貨を独り占めしようとするか
に振舞っていたバート・ランカスターの真の思惑を知ったからだ。バート・ランカスターが
拳銃をホルスターに納める伝説的な拳銃捌きは宍戸錠のお手本なのだそうだ。
<4月4日>
59.僕の村は戦場だった/アンドレ・タルコフスキー(1962)
タルコフスキーの長編処女作。戦争をテーマにした映画ながら、戦闘シーンはほとんど描
かず、戦闘の合間に訪れる静寂や疲れきった人びとの表情などを中心に戦争の現実を
描く。生命を象徴するモチーフ(雨、蝶、郭公、林檎を食む馬、夏、桶の水、海辺、裸、夏、
兄弟の疾走etc.)と死を暗示するモチーフ(雪、地下、冷たい水、暗い水面、重い軍服、
浅い眠り、照明弾etc.)を対峙させた映像は、いま観ても鮮烈さを失っていない。ベルリン
陥落後、ゲッペルスと家族が自殺した焼死体の実写などとともに主人子イワンの処刑を
暗示的に語るシーンは逆に強い印象を残す。<11月2日>
60.無言歌/ワン・ビン(2010)
批判を容認した百花斉放政策の下で共産党批判をした知識人を突然の政策転換により
右派と呼び弾圧した毛沢東。再教育の名目で砂漠の収容所に監禁された批判分子の地
獄のような実態を描く。夫の遺体を掘り起こした妻の慟哭が夜明けのゴビ砂漠に響き渡
る。闇の深さが際立つ光、人間の愚かさを浮かび上がらせるように広がる砂漠の地平線
など心をつかむ映像美。中国本土では未だ上映は禁止されているそうだ。この映画が上
映できるようになってはじめて中国は民主的な普通の国と呼べる。ドキュメンタリーの
ワン・ビンの初の長編劇映画。<4月6日>
61.卵/セミフ・カプランオール(2007)
ユスフ三部作青年期を語る一作。母の死をきっかけに何年も帰っていない故郷に帰るユ
スフ。母の面倒をみていた女性への淡い好意、母が望んでいた羊の生贄を捧げるため
の旅、旧友との出会い、昔の恋人への嫌悪の表明など、ユスフが住む都会イスタンブー
ルとは微妙に異なる故郷の時空が暗示的に描かれる。帰途、犬に襲われたことがきっ
かで癲癇の発作が起こるユスフ。意識が戻り、嗚咽する姿には越し方の人生や望郷の
複雑な思いが込められているかのようだ。<4月7日>
62.アメリカの影/ジョン・カサヴェテス(1959)
16mmで撮られた本作はカサベテスの処女作にしてNYインディーズの元祖たる伝説
的傑作。出演者はすべて新人で入念な打ち合わせの上での台本なしの即興演技によ
るものだそうだ。50年代のNYを舞台に黒人差別問題を絡めながら、自由に生きること
を希求する若者たちをみずみずしいタッチで描く。ベン・カザレスのサングラス、革ジャン、
短いトラウザースで長身の背を丸めるようにしてNYをたむろする姿にしびれる。白人のカ
サベテスが黒人芸人を主人公に描くほど黒人ジャスは当時の最先端だった。ちなみに
『カインド・オブ・ブルー』も同年だ。モノクロのNYの街並みにチャールズ・ミンガスのジャ
ズが流れる。それだけでも見る価値あり。<4月9日>
63.断崖/アルフレッド・ヒッチコック(1941)
一度疑い始めるとこれまでのすべてのことが怪しく思えてくる、という心理劇。平気な顔
で嘘をつく、調子がいい、容姿に自信があり他人のことなど気にかけない自分中心の態
度、自分の都合だけで物事を進める身勝手さ、などケーリー・グラントの本来持ってい
る、隙がなさすぎる胡散くささみたいなものが実によく活かされている。ケーリー・グラント
がミルクを持って階段を上がる有名なシーン。ミルクの白さを強調するために豆電球を仕
込んだのだとか。今観ても充分怖い。ヒッチコックは当初、もっと両義的な解釈が可能な
ラストを予定していたそうだ。<4月10日>
64.特攻サンダーボルト作戦/アーヴィング・カーシュナー(1977)
76年7月4日ウガンダ エンテベ空港でハイジャックによる人質をイスラエル軍特殊部隊
が電撃作戦によって救出した実話にもとづいた作品。わずか50分で100人近い人質を
他国の領土で救出したという前代未聞の作戦だ。親アラブの日本では当時公開が見送
られたといういわくつき。司令官役はチャールズ・ブロンソン。作戦に赴く兵士たちのナー
バスな姿がリアル。UZIサブマシンガンのセレクタスイッチをセミオートに倒し、ストックを
伸ばし、リアサイトを起こしてから、振り向きざまに人質の中のテロリストを一発必中で撃
つシーンなど、銃器も扱いも芸が細かい。<4月12日>
65.フェイシズ/ジョン・カサヴェテス(1968)
なんと生々しい感情のほとばしり、なんというテンション、なんとスタイリッシュな映像。ハ
リウッドを干されたカサヴェテスが自宅を抵当に入れ、映画出演のギャラをすべてつぎ込
んで製作した入魂の一作。この映画からインデペンデント映画が始まった。中年夫婦の
倦怠と欺瞞と破綻の結末を一日半で描く。動きを追うハンディカメラ、クローズアップされ
た顔、フレームアウトする被写体、自由なアングルなど、物語以上に映像そのものが抑
圧された男と女の姿をリアルに映し出す。<4月18日>
66.東京画/ヴィム・ヴェンダース(1985)
小津安二郎へのオマージュとして作られた作品。小津の『東京物語』がすでに喪失と崩
壊の物語だったように、移ろい続ける当時の東京が切り取られる。ただし、東京タワー、
ゴールデン街、パチンコ、ゴルフ練習場、タケノコ族、食品サンプルなど、その映像は日本
人にとってはさほど面白くない。ヴィム・ヴェンダースは初めての東京だったのだろう。笠
智衆や原田雄春への割りと長いインタヴューが貴重。<4月19日>
67.こわれゆく女/ジョン・カサヴェテス(1974)
よき夫とよき父親、あるいはよき妻とよき母親、そしてよき友人であろうとすることからく
る脅迫観念に囚われた夫婦を描く。妻役のジーナ・ローランズの演技が圧巻。母親に子
供を預けるハイなシーン、夫の同僚をもてなすシーン、隣人の子供を預かるシーンなど、
かすかな狂気が芽生え始めていることを暗示する演技が見もの。強引に徹夜明けの同
僚を家に連れてくる、無理やり子供を海に連れ出す、妻の退院祝いに場違いなパーティ
ーを催すなど、夫ピーター・フォークもまた別の脅迫観念に取りつかれているのだ。生々
しい人間が迫ってくる映像はカサヴェテスならでは。舞台となる家はカサヴェテスの自
宅。本作も自宅を抵当に入れ、ピーター・フォークは『刑事コロンボ』のギャラをつぎ込ん
で作られた。<4月21日>
68.三姉妹~雲南の子/ワン・ビン(2013)
中国でも最貧の地域。標高が高く生計はじゃがいもと家畜しかない。母は失踪し父は出
稼ぎに赴く。妹弟の面倒をみながら生活を支える長女。水はけが悪く泥だらけの長靴と
乾くことのない足、風呂もなく髪を洗うこともない、妹のシラミ取り、ただ蒸しただけのじゃ
がいもの食事、羊の世話で勉強もままならないなど、スマホを持っている子供もいる一方
で、生活の基本は中世的レベルに留まっているという恐るべきまだら模様の現実に衝撃
を受ける。過酷な環境と孤独にめげずに淡々と生きる少女の姿が胸を打つ。少女の思い
とはなんの関係ないそんな感想は一体なにになるというのか。なんという矛盾。絶対的
不幸ということはあるのか。<4月23日>
69.荒野の用心棒/セルジオ・レオーネ(1964)
マカロニ・ウエスタンが世界的に大ヒットするきっかけになった作品。黒澤明の『用心棒』
の非公式リメイクでもある。クリント・イーストウッドの用心棒は三船敏郎に比べると寡黙
でぶっきらぼうの男として描かれる。敵が撃たれて倒れるシーンで、カメラが撃たれた人
物の視点となり、画面がぐらりと揺れて太陽を仰ぎ、そのあと地面を映すカメラワークはい
ま観ても新鮮だ。傑作「さすらいの口笛」をはじめ音楽はエンニオ・モリコーネ。
<4月26日>
70.オープニングナイト/ジョン・カサヴェテス(1978)
老いる女を演ずる中年にさしかかった女優。ふとした若さの発露を目にし、自らの老いと
その枠にはめられることへの違和感を感じ始める。女の老いと若さをおのずと浮き彫りに
するようなクローズアップによる映像。劇中でジーナ・ローランンズとジョン・カサヴェテス
が夫婦役を演じ、アドリブによって作品を換骨奪胎してしまうのは、俳優は劇作家や演出
家に意図どおりに演技するものだということへの、カサヴェテスがかねてから抱いている
疑問や反発が込められている。そのアドリブ劇がNYの初日で大好評となって大円団と
なるが、そんなに上手くいくのかいな?という気がしなくもない。<4月28日>
71.居酒屋兆治/降幡節男(1983)
高倉健というよりは大原麗子の映画。とにかく壊れそうな美しさは必見。もともと大原麗
子のひとり相撲がテーマなのだが、それにしてもかつて相思の仲にすら見えないような
高倉健の演技は大きなマイナスだ。伊丹十三や田中邦衛などの脇役陣もストーリーの
説明役に終始するだけで彼らの人生が立ち現れてきていない。大原麗子が孤独に亡く
なったという事実を知ってから観るとその劇中での最期はさらに切ない。<4月30日>
72.続・夕陽のガンマン/セルジオ・レオーネ(1966)
南北戦争を背景にした金貨を巡る賞金稼ぎたちの物語。くんずほぐれつ敵味方が入れ替
わりながら進む展開は見応えあり。極端なロングと極端なクローズアップの早い切り替え
し、音楽・台詞なしのシーンとコヨテーテの遠吠えを模して作曲されたエンニオ・モリコーネ
の名曲がかぶさるシーンが交互に繰り返されるなど、緩急をつけた演出はいまや語り草
だ。クリント・イーストウッドの左手だけでマッチを擦る仕草や拳銃をバックスピンで2回転
させてホルスターに納めるガン捌きにも痺れる。そしてなんといってもリー・ヴァン・クリー
フの渋カッコ良さ。<5月1日>
73.破壊!/ピーター・ハイアムズ(1974)
LAPDの風紀課が麻薬組織を追うポリス・ストーリー。演じるのは風船ガムを噛み続ける
エリオット・グールドと火を点けない煙草を手放さないロバート・ブレイクのでこぼこコン
ビ。やる気が感じられない冗談めかした態度の裏に生真面目な使命感を秘めているシ
ャイな都会っ子はエリオット・グールドの真骨頂だ。走ってくる主体をカメラを引きながら
移動撮影するスピード感あふれるカメラワーク(トラックバック)は当時のハイアムズの
得意技。ステディカムがない時代なので車椅子に乗って撮影したそうだ。腐敗した組織
に阻まれ、犯人を追い詰められない無力感。エリオット・グールドのクローズアップに転職
の職探しのナレーションがかぶさるラストは苦い。<5月2日>
74.バードマン あるいは無知がもたらす予期せぬ奇跡/アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリ
トゥ(2014)
かつてヒーロー物で人気を博したが今や過去の人になっているハリウッド俳優がブロード
ウェイの舞台で再起を期す。出演者の多くが役柄と同じ経歴の持ち主だったり、ハリウッ
ド映画と俳優の揶揄、批評家との確執など、ショービズ界への自己言及的作品にもなっ
ている。俳優たちの私生活が劇中劇のレイモンド・カーヴァー原作のストーリーにダブっ
て見えてくるような設定も憎い。もうひとつの見どころはアクロバティックな映像。一部を
除き全編がワンシーンで繋がっているように見える撮影と編集が圧巻だ。臨場感あふれ
るアップを撮っているカメラが突如、全体を俯瞰する視点に宙を泳ぐように移動するカメラ
ワークなどもすごい。撮影はエマニュエル・ルベツキ。三つ目に特筆すべきはアントニオ・
サンチェスのドラムによる音楽。登場人物の抑えがたいプリミティブな欲望や感情とシンク
ロしているかのようだ。<5月3日>
75.白い町で/アラン・タネール(1983)
船乗りのブルーノ・ガンツが日常から逃れリスボンで無為の日々を過ごす。主人公はひ
たすらリスボンの町を歩き、自らの軌跡と存在を確かめるようにヴィデオを撮り、そのテー
プをスイスの妻のもとに送る。本当の根無し草になることをどこかで恐れているかのよう
に。そうした漂泊の思いに世界一ふさわしい都市はリスボンだが、テージョ川も4月25日
橋もエレクトリコもアルファマの迷宮のような坂道も、画質の悪いヴィデオではあまり魅力
的に見えないのが実に残念。<5月3日>
76.白いカラス/ロバート・ベンソン(2003)
大学教授アンソニー・ホプキンスは、意図しない発言が黒人差別だと断罪され解雇され
る。この肌の白い大学教授は、実は黒人であり、黒人であることを呪い家族を棄て、黒人
であることを隠して生きてきた人物だった。ふとしたことで知り合った孤独な女ニコール・
キッドマンに惹かれてゆく。彼女も、義父による性的虐待、母親による遺棄、自らの子供
を事故で死なせた悔恨、PTSDの元夫によるDVなど、消し去りがたい辛い過去を持つ人
物だった。黒人であることを否定した黒人を白人が演じるというデリケートな問題が要因
で評価は低く、ほとんど注目されていないのが残念な秀作。フィリップ・ロス原作。
<5月4日>
77.イマジン/アンジェイ・ヤキモフスキ(2014)
リスボンの視覚障害者のための診療所に盲目の青年イアンが反響定位訓練の教師とし
てやってくる。反響定位とは周囲に反響する音を唯一の頼りに歩行すること。リスボンの
石畳を歩く音は重要なモチーフとなり、普段なにげなく行っている街を歩くという行為が未
知の冒険として立ち現れてくるという構図が見事だ。イアンは失敗もするし、嘘もつく、女
の気を引くために小細工を労したりもする普通の男として描かれているところがよい。イ
アンに心を開く同じ盲目の女性エヴァ。杖を持たずにリスボンの街を歩く二人のサンング
ラス姿がクールだ。結局、怪我のリスクと裏腹の反響定位は受け入れられず診療所を解
雇されるイアン。反発・反抗しながらも新しい世界を垣間見させてくれたイアンを慕う教え
子たち。最後、エヴァの目の前に大型客船が現れるのは、現実なのか、幻想なのか。
イアンを信じたエヴァのイマジンの力であることは間違いない。光と影のコントラストがき
つい修道院の中庭、夜の桟橋、市電が脇を走るカフェ・エレクトリコ(実在する)など、リス
ボンの街が魅力的だ。<5月6日>
78.蜂の旅人/テオ・アンゲロプロス(1986)
老境の男は教師の職を辞し、家と家族を棄て、父の代から続く養蜂のために「花の道の
旅」に出る。人生の晩年において虚無感にとらわれた男をマルチェロ・マストロヤンニが
演じる。かつてのパルティザン仲間の老人、ひとりは既に病床にある。あばら家となって
いる生家。かつてかよった映画館は廃屋となっている。男が追う過去はノスタルジックな
優しさとともに時の残酷さをも垣間見せる。「私には過去がない」とうそぶく若い女が「あ
なたは過去の旅人さん」と喝破する。女との性愛の不全は老いを象徴して残酷極まりな
い。この頃のマストロヤンニはいるだけで人間の宿命の悲哀を感じさせるような存在感
を放っている。エレニ・カラインドルーの音楽が素晴らしい。サックスはヤン・ガルバレイ
ク。<5月7日>
79.ブルー・ジャスミン/ウディ・アレン(2013)
人間の自意識やプライドの地獄が辛らつな笑いとともにさらりと描かれる傑作。夫に愛さ
れている自分というアイデンティティによって自己を確立してきたNYのセレブ妻ケイト・ブ
ランシエット。夫のフランス小娘との浮気がきっかけにそのアイデンティティが崩れパニッ
クに陥る。ひとり立ちを試みるも夫に依存しっぱなしで何もできない自分に気づき、自己
の寄る辺なさへの底なしの恐怖を味わう。唯一の息子からも拒否され、自らが愛してい
るものから自分が愛されていないことに徹底的に気づかされた時、残された道は自己崩
壊しかなかった。ブランシエットとは正反対に邪魔なプライドなどははなから持ち合わせて
おらず、男にもゆるい西海岸に住む妹(サリー・ホーキンス)の存在がそのコントラストを
際立たせる。東海岸と西海岸の間に横たわる埋めがたい感性の違い、NY住人のプライ
ドの裏に見え隠れするヨーロッパコンプレックス、セレブ生活の過剰なプライドと自己演
出の痛々しさなどを、ウディ・アレンらしく微に入り細に入り描くところも見もの。セレブな
センスある自分にふさわしい職業としてインテリアデザイナーを目指すところが実にそれ
っぽくて笑える。<5月10日>
80.ジャージー・ボーイズ/クリント・イーストウッド(2014)
フォーシズンズを主人公にした評判ミュージカルの映画化。舞台ほどの盛り上がりがな
いと評されるも映画が初見の目には十分面白い。トッポ・ジージョ風のファルセットという
フランキー・ヴァリーの個性が名曲『シェリー』に結実するあたりから俄然面白くなる。ラス
ト”Sherry”~”Oh What A night!”での出演者全員でのストリートダンスのシーン、そ
してエンドロールの再び”Sherry”~”Rag Doll”に至る展開は決まりすぎるほど決まっ
ている。ニヒルな凄みと同時に飄々とした軽さも漂わせる老境のクリスファー・ウォーケ
ン良し。元ダンサーなのでダンスもお手のものだ。メンバーたちが仲間の借金返済を引
きうけるシーンはアメリカ人も意外に浪花節なんだと思わず笑みがこぼれる。
<5月11日>
81.インヒアレント・ヴァイス/ポール・トーマス・アンダーソン(2014)
トマス・ピンチョンの同名小説(日本語題名は『LAヴァイス』)の映画化。ヒッピー探偵ド
ックに元カノのシャスタがある依頼を持ち込むことから、ドックは思いもよらない事件に
巻き込まれてゆく。ストーリーはぼぼ小説に忠実であり、真面目な顔でコメディタッチ
という語り口がピンチョン小説の雰囲気をよく表しているなど、P.T.A.のピンチョンへの
リスペクトが伝わってくる。ホアキン・フェニックスの虚空を凝視するような目つきがマリ
ファナ常用の探偵のイメージにうってつけだし、ジョシュ・ブローリンやベニチオ・デルト
ロの濃い存在感もパラノイアックなピンチョンワールドにぴったりだ。昔とは変わってし
まったと告白するシャスタとのセックスを長回しで撮るシーンは、あたかも60年代の
価値観の終焉をお互いに確認しているかのような、作品のテーマが映像化された優
れた映画的表現となっている。ニール・ヤング「ハーベスト」、サム・クック「ホワット・
ア・ワンダフルワールド」、チャック・ジャクソン「エニー・デイ・ナウ」などの音楽もいつ
もながらの決まり具合に脱帽させられる。ドックが羽織っているジャングル・ジャケッ
トがカッコよかった。<5月13日>
82.グランド・ブダペスト・ホテル/ウェス・アンダーソン(2014)
シュテファン・ツヴァイクと彼の作品にインスパイアされた旨がエンドクレジットに記され
る。全編、飄々とした雰囲気のコメディタッチで描かれるが、通奏しているのは『昨日の世
界』の深くて暗い絶望感だ。主人公であるこの名門ホテルの支配人グスタフ(レイフ・フ
ァインズ)は2回目の検問(第二次大戦を象徴している)で殺されてしまう。そしてこのホ
テルがあったズブロッカ共和国自体がファシストによって消滅させられる。グランド・ブダ
ペスト・ホテルとはツヴァイクなどのユダヤ人も普通に暮らしていた世界の象徴なのだ。
いつものカラーや構図にこだわった独特の様式美はヨーロッパを舞台した本作では一
層磨きがかけられている。今回のキーカラーは赤、ピンク、紫。<5月16日>
83.欲望/ミケランジェロ・アントニオーニ(1967)
脈絡に欠ける行動、一貫性のない態度、あいまいな言動、夢中になったかと思うとすぐ
に飽きるむら気など、生きている手ごたえがないまま日常をやり過ごしているカメラマン。
たまたま公園で撮った男女の写真に殺人事件の証拠が写っていたことからその事実を
探ることにのめり込んでゆく。それは果たして真実だったのか?あるいは自分の写真は
真実を捉えたという生の実感を求めたい願望だったのか。証拠を確かめようと極限まで
引き伸ばされた(原題はBlow up)写真は、もはやなにものをも意味しないパターンにし
か見えないというのは暗示的だ。ジェフ・ベックとジミー・ペイジが在籍中のヤード・バー
ズの演奏シーンは貴重。音楽はハービー・ハンコック。<5月17日>
84.カプリコン1/ピーター・ハイアムズ(1977)
発射直前の火星有人飛行船に欠陥が判明するも打ち上げ中止による政治的影響を考
慮して、ある壮大な国家的陰謀が企てられる。アポロ11号は本当は月に行っていなか
ったのでは、という噂があるのだそうだが、そうしたネタを元に、ここまでの作品に結実
させたハイアムズの構想力は賞讃に値する。内容を知ったNASAが途中で協力を断っ
たことは有名だ。車のフロントの低い位置に取り付けられたカメラがとらえる迫真の車の
暴走シーンやあわやぶつかるかと思わせるようなハラハラさせる複葉機とヘリコプター
のエアチェイスのカメラワークなど、撮影もこなすハイアムズならではアクションシーンも
必見。ハル・ブルックスが政治の重圧を意識せざる立場に置かれた科学者役を演じて
本作にリアリティを付与している。疑惑に気づくさえない新聞記者にエリオット・グールド。
ネルシャツにネクタイを締めてエルボウパッチのついたツイードのジャケットという、いか
にもブルックリンあたりのインテリがしそうな、ダサかっこいいアイビースタイルが反骨
キャラクターにぴったりだった。ジェリー・ゴールドスミスの音楽も「陰謀感」たっぷり。
<5月19日>
85.グロリア/ジョン・カサベテス(1980)
『子連れ狼』がヒントになり『レオン』の元ネタとなった作品。マフィアのボスの情婦だった
中年女ジーナ・ローランズがトラブルに巻き込まれた知り合いの男の子を預かってマフィ
アから逃亡を企てる。なれない子供への戸惑いや中年女の疲れとともに覚悟を決めた
女のド迫力を感じさせる当時50歳のジーナ・ローランズ。女も子供も感情を表に出さない
描写が、逆に、突然の出来事を整理して考えられない、感情をうまく表現できないほどの
現実の重みなどを観る者に感じさせる演出となっている。時折、挿入されるさりげないカ
ット(ネオンに照らされる子供の表情など)が効果を上げている。抑えていた感情がほと
ばしるラストシーンは、スローモーションが甘くしてしまっており残念。登場するタクシーの
運ちゃんが皆本物っぽいなど、マンハッタンやブロンクスやブルックリンなどNYの普通の
街や暮らしが生き生きと描かれる。スパニッシュ調も交えた音楽はビル・コンティ。
<5月21日>
86.クスクス粒の秘密/アブデラティフ・ケシシュ(2007)
チュニジアからフランスの港町ニースに移り住んでいる一家の家族劇。親しい家族なら
ではの本音が淡々とかつこれでもかという風にリアルに描かれる。登場する男全員が
愛すべきダメ男として描かれるのと対照的に妻や娘や嫁など女たちが発散するすさま
じい生のヴァイタリティー。覇気のない父親が始める船上レストランのオープニングの窮
地を救うのも女たちだ。迫力のベリーダンズを披露する愛人の義理の娘のむっちとした
肉体の生々しさは女たちの生命力を象徴しているようだ。父親は笠智衆で義理の娘は
原節子なのだ。<5月21日>
87.夕陽のガンマン/セルジオ・レオーネ(1965)
荒野を馬で駆けている男が撃たれるところを長ロングで撮ったタイトルバックが秀逸。
銀行強盗の脱獄犯の一味とそれを追う賞金稼ぎたちの物語り。主人公の無口でクール
なクリント・イーストウッドもさることながら、賞金稼ぎを装って殺された妹の敵を探してい
るリー・ヴァン・クリーフが渋すぎ。どこか陰のある悪役ジャン・マリア・ヴォロンテもいい。
二転三転する物語があきさせない。リー・ヴァン・クリーフの長銃身のバントラインスペシ
ャル、イースウッドのウォールナットグリップにシルバーのラトルスネーク(ガラガラ蛇)が
インレイされたコルトSAAのアーティアリーモデル、拳銃などの小道具へのこだわりを見
るのも楽しい。<5月21日>
88.ダージリン急行/ウェス・アンダーソン(2007)
父の死と母の失踪がきっかけでぎこちなくなっていた三兄弟がインドを旅して母に会い
にいくことで過去や親の存在から吹っ切れていく様子がいつものゆるい感じとこだわった
映像で描かれる。インドの色彩や風景が美しい。今回のキーカラーはイエロー。インドの
異文化に触れて過去が吹っ切られるというストーリーや失踪している母親がヒマラヤで
修道士をしているという設定は、外の世界のエキゾティズムに頼った表層的で未消化な
感じが否めない。三人の風貌とインドということでビートルズが思い起こされる。
<5月26日>
89.リバース・エッジ/ティム・ハンター(1987)
原題は正しく発音するとリバーズ・エッジとなる。そう、本作は岡崎京子の『リバーズ・エッ
ジ』のヒントとなった作品だ。町ははずれに川が流れるアメリカ中西部の町。主人公のジ
ョンが川べりで高校の女友達を殺してしまう。平然としているジョンと一緒に仲間たちが
死体を見に行くが実感がわかず死体はそのまま放置される。キーマンとなる旧世代の殺
人者をデニス・ホッパーが演じる。岡崎京子はこの生の実感のなさの実相と原因を掘り
下げ『リバーズ・エッジ』に結実させた。<5月29日>
90.カンザス・シティ/ロバート・アルトマン(1996)
レスター・ヤングらが群雄割拠していた1930年代のカンザス・シティのジャズの世界と
大統領補佐官婦人の誘拐事件を平行して描く群像劇。曲者俳優たちの演技が見者だ。
特に誘拐されるアヘンチンキ中毒の大統領補佐官婦人を演じたミランダ・リチャードソン
の醸し出す無気力な退廃は圧巻だ。主人公のジェニファー・ジェイソン・リーは『コンバッ
ト』のサンダース軍曹ことヴィック・モローの娘だそうだ。そういえば似てる。最後のどん
でん返しのニヒリスティックな味わいと幕切れのロン・カーターとクリスチャン・マクブラン
ドのベースデュオによる『ソリチュード』が流れるなか金勘定にいそしむ街の顔役ハリー・
ベラフォンテの姿は実にアルトマン的突き放し方で唸らされる。ちなみにアルトマンはカ
ンザスの出身で幼い頃からジャズに親しんでいたそうだ。<6月1日>
91.エレニの帰郷/テオ・アンゲロプロス(2004)
第二次大戦で難民となり、その後のギリシア内戦によって再び土地から引き離され、家
族を奪われてしまうギリシャ女性エレニの悲劇を描く。水没する村、筏での葬送などまさ
にアンゲロプロスしか想像しえないような映像美が体験できる。廃屋で演奏家たちが迎
えてくれるシーン、アコーディオンでテーマ曲を披露するシーン、埠頭でのワルツ、白い
布がはためく湖畔での楽隊の行進、労働組合の祭りのシーンなど厳しい現実を生きる
糧として音楽が位置づけられている。映像と一体化したエレニ・カラインドルーの音楽が
傑出している。反政府活動にかかわったとして投獄され既に正気を失っているエレニは、
夫の死の直前を声を聞き、二人の息子の死を見るのだった。水が満ちてくるなか廃屋と
なった我が家で死んだ息子にすがりつく慟哭のシーン。そこには水没した家を放棄して
再び土地を追われるエレニが名残惜しそうに座っていたベッドが朽ち果てた姿で残って
いるのだった。<6月2日>
92.ザ・ロイヤル・テネンバウムズ/ウェス・アンダーソン(2001)
家族を捨てた元弁護士のロイヤル・テネンバウム(ジーン・ハックマン)が家族の絆を取
り戻そうと家に戻ってくる。かつて天才少年少女と呼ばれたが今は問題を抱える子供た
ちも呼び寄せられる。みんなエゴイスティックでナルシスティックでナイーブでイノセント
(鈍感)というのがサリンジャー的だといわれる所以だ。最後披露されるロイヤルが自分
で残した墓碑銘も「ロイヤルは沈む軍艦から家族を救い非業の死を遂げた」という自意
識過剰なもの。真正面や真上からのショット、無表情な演技、カラフルな色使い、滲み
出す滑稽味などウェス・アンダーソンならではこだわりの数々。ジーン・ハックマンが長
男の孫を連れ出してゴーカート、乗馬、万引き、闘犬、ゴミ収集車の外乗りなど悪さを教
えるシーンが実に楽しい。バックミュージックがポール・サイモンの「僕とフリオと校庭で」
というのも最高!たぶん『卒業』へのオマージュなのだ。<6月4日>
93.私の少女/チョン・ジュリ(2014)
ソウルから左遷されて海辺の小さな村の警察署長として赴任してくるペ・ドゥナ。そこで
義理の父親と祖母から虐待を受けている少女キム・セロンと出会い自宅に保護する。
ペ・ドゥナは同性愛者だ。祖母の事故死の真相とペ・ドゥナの真意を宙吊りにしながら
不穏な空気で物語りは進行する。終始やつれ気味でアルコール依存症による気だる
い雰囲気のペ・ドゥナが良い。虐待している父親は過疎化する村で唯一事業を起こし
ている人物で警察も含め村社会は酒と暴力で憂さを晴らす父親を容認しているという
設定もリアルだ。法で割り切れない現実の世界、シロでもないクロでもないグレーな
世界。村を出るペ・ドゥナが逡巡の末、少女を連れに戻るラストは、そのグレーを容認
して生きることを決した姿を象徴するように曇り空に覆われている。<6月6日>
94.チャイニーズ・ブッキーを殺した男/ジョン・カサベテス(1976)
借金のかたに殺人を強要される場末のストリップクラブのオーナーのベン・ギャザラ。
物語は殺人事件をめぐるサスペンスというよりも中年男の生き方に焦点があてられる。
困難な状況に出くわして、困った顔を見せながら、汗をかきながら、なんとか状況に対峙
しようとするベン・ギャザラの姿がいつしか観る者の心を捉えている。殺しの最中にもクラ
ブに電話を入れて心配するシーン、楽屋で持ち上がった問題に下手なジョークで皆を和
ませた諭すシーンなど自らのクラブと舞台に愛情を傾けるベン・ギャザラだが、彼が誇りを
感じ、愛し守ろうとするのが場末のストリップクラブとその芝居仲間というのが泣かせる。
いくら周りに理解されなくとも自らが信ずるものに愛情を注ぐ男、というのはジョン・カサベ
テス自身の姿なのだ。説明的な台詞やカット割りではなくて、極端な長回しやクローズア
ップでその場の空気を描こうとする演出が緊迫感を生んでいる。<6月8日>
95.サイレント・パートナー/ダリル・デューク(1978)
銀行員がふとしたことで銀行強盗の計画を知り一計を案じ、犯人に金が盗まれたことにし
て大金を手に入れる。金を返せと迫る直情的な犯人(クリストファー・プラマー)とさえない
が頭の働く銀行員(エリオット・グールド)の攻防が見どころだ。派手なアクションなどはな
いが、銀行強盗の計画の存在を見抜くところや騙されたふりをして相手を出し抜く巧妙な
手口などスリリングなエピソードの連続で釘付けになる。極めつけは金を返そうと犯人を
銀行に呼び寄せ、強盗に仕立てて警備員に射殺させるラスト。脚本は『LAコンフィデン
シャル』のカーティス・ヨハンセン。音楽はオスカー・ピーターソン<6月9日>
96.熱波/ミゲル・ゴメス(2012)
第一部「楽園の喪失」は老人、無機的な都市風景、静寂、雨、死で満たされた世界。一
転して第二部「楽園」は若者、アフリカの自然、狂気、情熱、生が溢れる世界。半ばぼけ
た老人が語る驚くべき禁断の恋の物語ははたして真実なのか?あるいはノスタルジッ
クな願望なのか?植民地という「楽園」のタブーをあぶりだすその周到な眼差しは驚嘆
させられる。山を被う霧、池に起こるさざなみ、焚き火に照らされた恋人たちの横顔、ス
コールの中でのピンポン、かやの中の白昼のセックス、まばゆいサファリスーツやセー
ラールックなど数々の映像美は抗し難い「楽園」の魅力をこれでもかとみせつけてくれ
る。「ポルトガルだけが60年代まで植民地を持っており、それはポルトガルの政治の狂
気に由来する」とは監督の言葉。原題はまさに”Tabu”タブー。<6月11日>
97.ファーゴ/ジュエル・コーエン(1996)
姑息な偽装誘拐があれよあれよという間に陰惨な殺人事件へと発展してしまう。そのス
トリーテリングの上手さに脱帽。アカデミー脚本賞受賞。おっとりとした一見さえない妊婦
警官フランシス・マクドーマンド、口が達者だがちっとも上手くゆかないスティーブ・ブシュ
ミ、義父の会社の金に手を出して行き詰っているウィリアム・H・メイシーなど芸達者な布
陣の演技も見ものだ。アメリカの田舎町における素朴な日常の幸福感とグロテスクな殺
人事件が対置され、それは実は紙一重の世界であることが暗示される。妊婦警官のもっ
さりとした動き、厳冬で着膨れた人々の鈍い動作、凍結した路面をのろのろ走る車など
サスペンスとは正反対のテンポが独特の雰囲気を醸し出している。<6月15日>
98.エレニの帰郷/テオ・アンゲロプロス(2008)
テオ・アンゲロプロスの遺作。ギリシア内戦で共産勢力が敗北した後、ソ連邦内のカザフ
スタンのテミルタウで難民となっているエレニ。その後の家族の離散、再会、帰郷への
願望が描かれる。いつの間にか政治の季節は終わり、まさに「時の埃」
(原題”Dast of time”)に埋もれてしまったかのように時代に取り残される人びと。エレ
ニの帰郷がかなえられないのは、エレニの思う「故郷」はすでに失われてしまっているか
らだ。それを象徴するのが両親がナチスに虐殺されたユダヤ人難民のブルーノ・ガンツ。
イスラエルに行き難い者にとってはもはや帰る場所はない。覚悟の上の最期が痛まし
い。カット割が多くアップやズームが多用される、英語台詞、著名俳優の起用などアンゲ
ロプロスの作品としては異例。東西冷戦、ベトナム戦争、ウォーターゲート事件、ベルリ
の壁崩壊など戦後の歴史的出来事が語られるが残念ながら深みはない。なにより少女
~老年時代のエレニを演じるイレーヌ・ジャコブが、ミシェル・ピコリの妻には見えず、さら
にウィレム・デフォーの母親にも見えないのが致命的だ。<6月16日>
99.野いちご/イングマル・ベルイマン(1957)
狷介でエゴイストの老医師イサクが名誉博士号授与式に向かう一日の間に起こる現実
と夢の世界のなかで自らの来し方と行く末に対する考え方を再編成して幸せと安寧を得
るという物語。人は死を意識した段階で過去に対して再び向かい合う機会を得るのだろ
うか。イサクの場合は嫁のイングリッド・チューリン(美しい!)の存在と同行する若者3人
組のとの交流が大きな影響を与えた。エリク・エリクソンは老境での幸福のためには自ら
の過去を「統合」することが重要だといっているがはたしてそうなのか?和解、妥協、あ
ゆみより、こだわりの破棄を拒否して死んでゆくことは不幸なのか?<6月19日>
100.友よ、さらばと言おう/フレッド・カヴァイエ(2014)
いつも通り濃いオヤジが登場するフランスの警察もの。元警察官の主人公は酔っ払い運
転で死亡事故を起こしたことが原因で警察をクビになり、妻とも離婚している。殺人現場
を目撃した息子が犯人一味に狙われることになり、元同僚で友人でもある刑事と組んで
犯人を追い詰めるが、その過程の中で思いもかけない事実が明らかになる。市街地で
思うようにならない追跡劇やTGVの狭い車内での銃撃戦などがリアルだ。
<6月21日>
101.天才マックスの世界/ウェス・アンダーソン(1998)
ウェス・アンダーソンがそのスタイルを確立した愛すべき名作。19ものクラブ活動に夢中
で高校を退学させられるマックス。同じ高校の仲間、先生、年上の友達たちとの交流を
描く。上手く行かないコミュニケーション、自意識過剰、無邪気さ、一途さ、器用貧乏、思
いの空回り、若さの身勝手さなど、青春のナイーブさが見事の映像化されている。ダメで
も好きなら充分!最後はなんとかなるさ、という勇気をくれるメッセージ。キャット・スティ
ーブンス、キンクス、ジョン・レノンなど画面と見事にシンクロする選曲に脱帽。とくにダン
スシーンで「これでなくっちゃと」といってフェイセズの「ウ・ラ・ラ」をDJにリクエストしてエ
ンディングになだれ込むラストは感涙ものだ。床屋の父親役の初老のシーモア・カッセル
良し。<6月22日>
102.ジェイコブス・ラダー/エイドリアン・ライン(1990)
人生におけるさまざまな思いとベトナム戦争での悲劇をホラーとサスペンス仕立てにし
て、さらには生と死をめぐる宗教論世界観をも絡めながら描いた秀作。後遺症に悩まされ
ているベトナム帰還兵のティム・ロビンス。同じ帰還兵仲間とベトナム戦争で政府によっ
て闘争本能を刺激する薬物が投与されていたという疑惑を探ってゆくが・・・。 死んでも
死に切れないという思いは、単なる人生の走馬灯を垣間見させるのではなく、自分の生
き方への悔恨や断ち切れない思いやかなえたかった願望の数々などをきっとこういう形
で呼び寄せるのだと思わず納得させられる。脚本はブルース・ジョエル・ルービン。
<6月23日>
103.トリコロール 青の愛/クシュシュトフ・キシェロフスキ(1993)
交通事故で夫と子供を失った女性の悲しみと絶望のその後の人生を描いた作品。主人
公の未亡人はジュリエット・ビノシュ。プールでひとりぼんやり浮かんでいるなど、事故の
後の何をやっても心の落ち着きどころがない空白の日々の表現はなかなか。共同作曲
家だった夫とのEU統合賛歌の交響曲を完成させることによってこころの痛手から立ち
直ってゆくという後半がイマイチ。「愛がなければ、愛があれば」と大音量で歌い上げる
曲事体がイタい。前半で『鬼火』的あるいはサガン的ニヒリズムの片鱗を感じていたが
その後の展開がダメだった。<6月25日>
104.カリフォルニア・ドールズ/ロバート・アルドリッチ(1981)
どさまわりの女子プロレスラーふたりとマネージャー(ピーター・フォーク)がおんぼろ車で
巡業するロードムービー。二流だが魂の自由を求めて闘うストイックな女子プロスラーや
しょぼくれマネージャーの反骨ぶりなど、題材は女子プロレスだがいつものアルドリッチ
節は健在だ。悲壮さが皆無で深刻ぶらない主人公たちが実にいい。最後の盛り上がり
も素直に感動できる。あえて女子プロレスというきわもの世界を舞台にその哲学を語っ
たロバート・アルドリッチ最後の作品。往年のミミ萩原の姿も見られる。<6月26日>
105.ブラッド・シンプル ザ・スリラー/ジョエル・コーエン(1985)
コーエン兄弟のデビュー作。夫が探偵を雇い妻と従業員が浮気をしていることを突き止
める。悪態をつかれた妻に腹を立てた夫は探偵にふたりの殺害を依頼するが、探偵の
悪知恵で事態は思いもよらない展開になってゆく。即物的な描き方から滲み出るこっけ
い味、偶然が重なる不条理など、すでにその個性が十分に発揮されている。誤解と疑
心暗鬼が行動と不信の連鎖を生んでゆく脚本の上手さに舌を巻く。拳銃に入っていた
3発の弾丸の行方など小道具の扱いも上手い。誤解を引っ張ったままなだれ込むラス
トの対決シーンの映像も実にユニーク。<6月27日>
106.イギリスから来た男/スティーブン・ソダーバーグ(1999)
行方不明になった娘を探しにイギリスからロサンゼルスにやってくる元ギャングの男。
テレンス・スタンプのなにを考えているかよくわからない表情はちょっと不気味な外人
役にぴったりだ。冒頭のテンポの速いクロスカッティングやフラッシュバックにどうなっ
ているの?と思わず引き込まれる。”My name”を「マイ・ナイム」と発音(コックニー
なまり)してイギリス野郎と罵られたり、駐車係Valetを従者と思い込んで相棒のルイ
ス・ガスマンを困惑させるなど原題”The Limey”の通りでおかしい。アメリカ側の悪
役ヘンリー・フォンダとバリー・ニューマンのコンビによる楽屋おちも楽しい。例えば
「60年代がいいといっても67年までだ」などとうそぶきながら、後半はロードムービ
ー的展開となるところなどは、完璧な『イージー・ライダー』と『バニシング・ポイント』
へのオマージュだ。<6月28日>
106.アウトランド/ピーター・ハイアムズ(1981)
木星衛生の宇宙鉱山での薬物を使った労働搾取の実態をあばこうとする保安官。
組織に牛耳られている基地のなかには協力するものはいない。SF版『真昼の決
闘』という趣。『ブレード・ランナー』に先駆けて暗い未来を暗示した作品でもある。
保安官のショーン・コネリーは融通が利かない性格の世渡りべたで転々させられ
た挙句、今の宇宙鉱山に保安官として赴任してきている。長年の宇宙生活に妻子
は愛想をつかして地球に戻ってしまう。ひとりで組織に立ち向かう背景には自分の
いままでの生き方を試す意味もある。狭く立体的な宇宙基地のなかトラックバック
やトラックアップを駆使したダイナミックなカメラワークによる追跡劇はまさにハイア
ムスの真骨頂だ。宇宙基地内の味気ない生活風景などもよくできている。組織や
黒幕や殺し屋がイマイチ迫力がなくラストの決着のつけ方も中途半端なのが残念。
<6月29日>
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レイモンド・チャンドラー『ザ・ロング・グッドバイ』精読 Chapter16
ロジャー・ウェイドの残した手がかりの「ドクターV」の最有力候補ドクター・ヴェリンジャーをマーロウが訪ねる第16章。
ドクター・ヴェリンジャーはセパルヴェダ・キャニオンの牧場で、芸術家コロニーのようなものをやっている。コロニーは既に閉鎖されているようで、チャンドラーはその寂れた様子を、水が抜かれたプールとラウンジ・チェアの色あせてたクッションと朽ち果てた飛び込み台によって表現してみせてくれる。bloateは膨れるの意。
Off to my left there was an empty swimming pool, and nothing ever looks emptier than an empty swimming pool. Around three sides of it there was what remained of a lawn dotted with redwood lounging chairs with badly faded pads on them. The pads had been of many colors, blue, green, yellow, orange, rust red. Their edge bindings had come loose in spots, the buttons had popped, and the pads were bloated where this had happened.
「空っぽのプールぐらい空っぽに見えるものはない」。その通り、と思わずうなずく言い回しはチャンドラーの真骨頂だ。
その場の静けさを指してThere was no sound. The place seemed to be as dead as Pharaoh 「まるで死んだファラオのように静かだ」というのも傑作だ。
建物から奇妙な格好の若い男が現れる。後にアールという名前だということがわかる。
He wore a flat black gaucho hat with the woven strap under his thin. He wore a white silk shirt, spotlessly clean, open at the throat, with tight wristlets and loose puffed sleeves above. Around his neck a black fringed scarf was knotted unevenly so that one end was short and the other dropped almost to his waist. He wore a wide black sash and black pants, skin-tight at the hips, coal black, and stitched with gold thread down the side to where they were slashed and belled out loosely with gold buttons along both sides of the slash. On his feet he wore patent-leather dancing pumps.
黒のガウチョ帽、ふんわりしたパフスリーブの袖のシルクの白シャツ、タイトな腕輪、長さ違いに垂らしたフリンジがついた黒のスカーフ、黒のサッシュ、サイドに金糸のステッチが施され裾のところに切れ込みが入って黒のパンツ、エナメルのダンス用パンプス。チャンドラーのファッション描写は実に詳しい。服はキャラクターの重要な表れと思っているのだ。
ドクター・ヴェリンジャーを探していると伝えるマーロウ。とぼけるアール。マーロウがアールに対してmadという言葉を投げかけるとアールの態度が変わる。アールは金属のナックルを拳にはめて突然、襲いかかってくる。
アールを止める声がかかる。声の主はドクター・ヴェリンジャーだ。
アルコール依存症のロジャー・ウェイドという人物がここにいると聞いてきたといって、15章でカーン協会で見たthe barred-window boys「かごの鳥」と呼ばれているファイルの話題を持ち出すマーロウ。
「かごの鳥」は、Places where you can't jump out of when the French fits take overと説明される。French fitsとは辞書によるとdelirium tremensを意味するスラングとのこと。デリリウム・トレメンズとは、振戦せん妄と呼ばれるアルコール依存者の離脱症状、俗にいう禁断症状のことをいうのだそうだ。なぜFrench fitsフランス人の発作と呼ばれるのかは調べたが謎だ。
マーロウは14章でアイリーン・ウェイドの言っていたカウボーイの衣装を着た若い男のことを思い出したのか、アールのことが気になっている。manic-depressiveは躁鬱病、upswingは上向きという意味。
"He's so obviously a phony. Where you find one thing phony you're apt to expect others. The guy's a manic-depressive, isn't he? Right now he's on the upswing."
マーロウのこの台詞は、村上訳では「彼は明らかに何かになりきっている。何かのふりをする人間は、いろいろとほかのふりもするものです」となっているが、いまいち意味がわからない。ここはやはり清水訳の「明らかにまともじゃないですね。まともでないことが一つあれば、ほかにもまともでないことがあると思うのが当然でしょう」という、アールの異常さがヴェリンジャーの施設に疑いを抱かせたという解釈の方が素直だろう。
精神を患ったアールのことと現在にいたる顛末を語るヴェリンジャー。意外にもドクター・ヴェリンジャーは篤志家なのだ。
He leaned on the door. His voice got low and confidential. "Earl's parents were dear friends of mine, Mr. Marlowe. Someone has to look alter Earl and they are no longer with us, Earl has to live a quiet life, away from the noise and temptations of the city. He is unstable but fundamentally harmless. I control him with absolute ease, as you saw."
"You've got a lot of courage," I said.
He sighed. His eyebrows waved gently, like the antennae of some suspicious insect. "It has been a sacrifice," he said. "A rather heavy one. I thought Earl could help me with my work here. He plays beautiful tennis, swims and dives like a champion, and can dance all night. Almost always he is amiability itself. But from time to time there were-incidents." He waved a broad hand as if pushing painful memories into the background. "In the end it was either give up Earl or give up my place here."
亡くなった友人の子どものアールを引き取って、芸術家コロニーを経営していたが、おそらくアールが原因の思いも寄らぬ出来事により、最後はアールを手放すか、ここの土地を手放すかの選択を迫られる状況に至ってしまったというのだ。
ヴェリンジャーはやむなく土地を売ることにする。精神を病んだアールを抱え、多大な犠牲を払いながら、転落してゆくヴェリンジャー。平和な緑の谷間の地が、ディベロッパーによって住宅地として開発される行く末を語る姿が哀れを誘う。
"I sold out," he said. "This peaceful little valley will become a real estate development. There will be sidewalks and lamp posts and children with scooters and blatting radios. There will even" - he heaved a forlorn sigh - "be Television." He waved his hand in a sweeping gesture. "I hope they will spare the trees," he said, "but I'm afraid they won't. Along the ridges there will be television aerials instead. But Earl and I will be far away, I trust."
「歩道ができ街路灯が立ち並び、スクーターに乗った子どもたちとやかましいラジオとそしてテレビ。尾根に沿って木々の代わりにテレビ・アンテナが連なる」。油田開発で活況を呈した1950年代のカリフォルニアでは、宅地開発で自然が失われれゆくのは、そこここに見られた光景だったのだろう。
マーロウが立ち去るとわかりほっとしたのか、ヴェリンジャーは余計な一言を発してしまう。
"Goodbye, Doctor. My heart bleeds for you."
He put out his hand. It was moist but very firm. "I appreciate your sympathy and understanding, Mr. Marlowe. And I regret I am unable to help you in your quest for Mr. Slade."
"Wade," I said.
"Pardon me, Wade, of course. Goodbye and good luck, sir."
I started up and drove back along the graveled road by the way I had come. I felt sad, but not quite as sad as Dr. Verringer would have liked me to feel.
「ミスタ・マーロウ。スレイドさんを探されていることのお役に立てずに残念でした」
「ウェイド」と私は言った。
「失礼、ウェイドさんでしたな。それでは。幸運をお祈りします。」
テリー・レノックスと同様、ドクター・ヴェリンジャーも善の裏側には悪があり、善とともに悪があるような人物として造形されている。
「哀れみを感じたが、それはドクター・ヴェリンジャーが期待したほど深くはなかった」という台詞は、フィリップ・マーロウの存在論的モラルを象徴するかのような台詞だ。
(Sepulveda Canyon 1957,Source: Southland.gizmodo.com,USC digital library)
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シネマのなかのリビング~『勝手にしやがれ』~
映画の中の住まいや暮らしの話題「シネマのなかのリビング」。
『勝手にしやがれ』はヌーベル・バーグの記念碑といわれているジャン=リュック・ゴダール監督の作品です。
大胆でスピーディーな展開、ハンディカメラを駆使した臨場感あふれるカメラワーク、それまでになかった人物造形など当時、世界の映画界に衝撃を与えた魅力は今も色褪せていません。
ミシェル(ジャン=ポール・ベルモンド)はマルセイユでオールズモービルを盗み、途中で偶然のように白バイ警官を殺し、パリに住むアメリカからの留学生パトリシア(ジーン・セバーグ)の許に向かいます。
ジャーナリスト志望のパトリシアは、初めてもらった作家へのインタヴューのアルバイトのことで心ここにあらずという感じ。警察の捜査を気にしながらも怪しげな金策に奔走し、あの手この手でパトリシアの気を惹こうとするミシェル。
この映画はミシェルとパトリシアの2人に加え、パリの街そのものが主人公といってもよい作品です。
パトリシアがニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙を売り歩くシャンゼリゼ通り、盗んだキャディラックのコンバーチブルを乗り回すモンパルナス通りの夜の街並み、最後のカンパーニュ・プルミエール通りでの追跡劇など、現実のパリの街が手持ちカメラによっていきいきととらえられています。街頭で撮影したのはスタジオでセットを組む予算がなかったというのが最大の理由だったのですが。
エキストラを雇うお金もないので、まわりの人が驚いて振り返って見ているシーンなどもあり、そうした当時の型破りな臨場感などもファンを惹きつけてやまない魅力のひとつです。
パトリシアはプチホテルの一室を住まいにしており、2人がそこで半日過ごすシーンが登場します。
ベッド、小さな机、ベッドから手を伸ばせば届くようなところにある窓、あとはクローゼットとバスルーム。クローゼットの上に置かれたレコードプレイヤーがその狭さを表しています。
実際、パリの街中の古くからのプチホテルはこんな感じの広さです。ベッドの周りは人一人がやっと通れるぐらいしかない部屋が当たり前です。
ソファもないので2人は白いシーツに包まって、ベッドの上で本を読み、煙草を吸い、レコードを聴き、謎かけのような問答、戯れのような会話を延々と交わします。
惹かれ合いながらどこかずれているような、ひたむきでありながらどこか投げやりなような2人。それまでの男女を描く際の、これみよがしの演出や重苦しい雰囲気とは無縁の、自由で、ある意味では冗談めかしたような2人の関係の描き方が新鮮です。
ベリーショートカットのジーン・セバークがジャン=ポール・ベルモンドの男物のシャツを羽織ったり、彼のソフトを頭に乗せたりなど、そのファッションも素敵です。
ゴダールはパリのプティホテルの狭いベッドルームを逆手にとって、近くて遠い男と女という、その永遠の関係性を象徴的に描いてみせました。
ミシェル「最低だ」、パトリシア「最低ってなに?」という有名な台詞(この台詞に関する詳しい考察はこちら)で幕を閉じる苦くて甘いラストシーンとあわせて記憶に残る名シーンです。
*初出:東京テアトル リノべーションサイト リノまま
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スティーブ・ジョブスとアイクラー・ホームズ
スティーブ・ジョブスは伝記『スティーブ・ジョブス』(ウォルター・アイザックソン2011)で、自らが育った家とされる(*)アイクラー・ホームズを賞賛している。
(source : FORTUNE)
アイクラー・ホームズとはジョゼフ・アイクラーが1950年前後からカリフォルニアで開発・販売していた建売住宅のことだ。
ジョゼフ・アイクラーは、自らの理想とするフランク・ロイド・ライトが設計するようなモダン住宅を、普通のひとびとでも手に入れられる建売住宅として実現させた。
抑えた色調によるシンプルなファサード、ポスト・アンド・ビーム工法による柱と梁で構成された開放的な室内空間、屋外空間を取り込むアトリウムやガラス壁によるオープンな間取りなどアイクラー・ホームズは、それまでの伝統的な建売住宅と全く異なっていた。
(source : Eichler network.com)
(source : Enter the World of Eichler Design)
(source : Enter the World of Eichler Design)
ジョゼフ・アイクラーのデザインへのこだわりを象徴するこんなエピソードが残されている。
ある日、建築中の現場を通りかかったアイクラーはペンキ屋に対して「どこのどいつがこの色を選んだんだ?これじゃ両隣の家と色が合わない」と問い詰める。ペンキ屋がオーナーがこの色がいいといっている、結局は彼らの家なわけだしと答える。それに対してアイクラーは「彼らの家だなんて、冗談じゃない。これは俺の家だ。色を変えるんだ」といい放った。(『アイクラー・ホームズ』 ジェリー・ディットー他 1999)
モダンなデザイン、しゃれた暮らしのイメージ、手頃な価格などアイクラー・ホームズは戦後の成長期に初めて家を所有する若い世代を中心に人気を博した。
ジョゼフ・アイクラーはまだ人種差別が色濃く残る当時、アフリカ系アメリカ人家族にも、ほかひとと同じように住宅を販売していたことでも知られている。
スティーブ・ジョブスはジョゼフ・アイクラーのことを「アイクラーはすごい。彼の家はおしゃれで安く。よくできている。こぎれいなデザインとシンプルなセンスを低所得者の人々にもたらした」と賞賛している。ジョブスの養父は高卒出の機械いじりがすきな職人肌の勤め人だった。
ジョブスはこうもいっている。「子どものころ、アイクラー・ホームズはすごいと思ったからこそ、のちに、くっきりとしたデザインを持つ量販品の提供に情熱を燃やすようになった」と。
個人を取り巻くモノやデザインがそのひとの発想やインスピレーションを刺激する。
アイクラー・ホームズのデザインへの賞賛以上に興味深いのが、デザイン性の高いマスプロダクトを提供するというアイクラー・ホームズのコンセプトがジョブスを刺激したという点だ。
コンサバで迎合的なデザインやマーケティングで知られる建売住宅の一製品が、新たな知やコミュニケーションの世界を切り開き、最先端のプロダクトデザインを開拓してきたアップル製品の発想の元になっているというところが非常に面白い。逆にいえば、アップルのコンセプトがいつの日か退屈な建売住宅の商品に刺激を与える日も来るかもしれないということだ。
優れたコンセプトやデザインのもつ啓発性をよく表しているエピソードではないだろうか。
(*)英語版のWikipediaのJoseph Eichlerの項目で紹介されているeichlernetwork.comによると、
実際にジョブスが育った家はアイクラー・ホームではなく、その競合の会社が建てた住宅(アイクラ
ーファンの間では「ライクラー」と呼ばれているそうだ)だったと報告されている。ジョブスが育った家
のあるマウンテンビュー周辺はアイクラー・ホームズが数多く建てられたれた住宅地だった。ちなみ
にアップルにおける「もうひとりのスティーブ」であるスティーブ・ウォズニアックは本当のアイクラー
ホームで育っている。ウォズニアックによるとジョブスはよくウォズの家に遊びにきていたりなどアイ
クラー・ホームズのことはよく知っていたそうだ。アップルの創業者ふたりがアイクラー・ホームズと
かかわりを持っていたことになる。
*初出:zeitgeist site
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シネマのなかのリビング~『ル・コルビュジエの家』~
映画に出てくる住まいや暮らしの話題をつづる「シネマのなかのリビング」。
隣人が突然、家の壁にハンマーで穴を開け、こちらの家に向けて窓を作り始めたら・・・しかもその隣人がちょっと怖い感じの人物だったら・・・。
『ル・コルビュジエの家』はそんな他人ごととは思えない設定で始まります。
レオナルドは成功した家具デザイナー。妻子と豪邸に住んでいます。隣人のビクトルは得体の知れない感じの独り者。ドスの効いた声で「太陽を少し分けて欲しい」といって自らの家の壁に穴を開け始めます。
レオナルドは法律を盾にとって穴を埋めるように抗議しますが、ビクトルは「わかった。窓は中止する」といいつつも、いつの間にか窓枠を取り付けていたりなど、のらりくらりとした態度で穴は一向に塞がりません。繊細なレオナルドは徐々にパニックに陥っていきます。
誰もが理不尽なのはビクトルの方でレオナルドは正しいと思うはずです。
ところがこのふたりの関係が徐々に変容していくのがこの映画の面白いところです。
レオナルドは強面のビクトルの前では、自分はかまわないが奥さんが反対しているなど逃げ腰の態度を取りながら、ビクトル宅の留守番の老人を一方的に怒鳴りつけたりします。また、仲間のセンスのなさをこき下ろす陰口をたたいたり、立場を利用して女子学生を口説いて顰蹙をかったりなど、有名デザイナーという権威を笠にきた傲慢で独善的なところがある人物だとわかってきます。そうした性格からか妻子とも上手くいっていないようです。
かたや一向に穴を塞ごうとしないビクトルですが、手作りの奇妙なオブジェ(グロテスク!)を進呈してレオナルドを唖然とさせたり、奥さんにといって花を持参したり、イノシシのマリネを作ったから食べてみないかと差し出したりなど、押しつけがましいやり方ながら、レオナルド一家と親しく関わろうとします。おまけに開けた穴から指人形劇を披露して、父親に対しては無視を決め込んでいるレオナルドの娘と仲良くなってしまいます。
性格もスタイルも趣味も、そしておそらく所得や階級も違う主人公ふたりを丁寧に描き分ける際のエピソードの数々がおかしくて笑えます。
確かにビクトルは良くないが、傲慢で裏表のあるレオナルドの態度も問題をこじらせているのではないか?それにしてもビクトルは一体なにを考えているのか?
迷惑な隣人の話から始まった映画は、ちょっとシュールでブラックな展開をみせながら、観る者を人と人とのコミュニケーションの難しさ、立場やスタイルが違う者同士の間に横たわる分かりあえなさ、という問題へと引き込んでいきます。
ブエノスアイレス近郊の都市ラプラタに建っている建築家ル・コルビュジエが設計したクルチェット邸が主人公のレオナルドが住む家として登場します。
白い外壁、ピロティ、ブリーズ・ソレイユ(陽よけ)によるファサード、吹き抜けやスロープを介した自由で開放的なプラン、屋上庭園などル・コルビュジエの住宅の個性がすべて盛り込まれた名作建築です。
モダンアートや名作家具の数々で設えられて開放的な住宅は、成功したデザイナーにふさわしいセンスを象徴するとともに、そこに住むレオナルドの暮らしぶりをみる限りは、人は建築ほどオープンにもフランクにもフラットにもなれない、という風にもみえます。
こうしたちょっぴり辛らつなテイストは、脚本を書いたのが監督の兄で建築家でもある人物だからでしょうか。
最後、思ってもみない事件が起こります。ル・コルビュジエの開放的な住宅とビクトルが自宅に開けた穴の2つが重要な役割を担いながら、ふたりの主人公の本音をうかがわせるような、ちょっと怖い結末は必見です。
ж作品データ
タイトル : ル・コルビュジエの家 EL HOMBRE DE AL LADO
製昨年/国 : 2009年/アルゼンチン
監督 : ガストン・ドュプラット、マリアノ・コーン
脚本 : アンドレス・ドゥプラット
出演 : ラファエル・スプレゲルブルト、ダニエル・アラオス
*初出:東京テアトル リノベーションサイト リノまま
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イームズ・ハウスと「パワーズ・オブ・テン」
イームズ・ハウスはケース・スタディ・ハウス#8として1949年にチャールズ&レイ・イームズの自邸として建てられたものだ。チャールズと朋友エーロ・サーリネンの共同設計だ。
(Source:Wikipedia Eames House,"Eames House" by Flickr.com user "Ilpo's Sojourn" )
ケース・スタディ・ハウスとは、雑誌「アーツ&アーキテクチャー」を主宰するジョン・エンテンザが企画して、資材メーカーなどとタイアップしながらクライアントと建築家を結びつけ、戦後の新たな時代にふさわしい住宅像を実物の建築の形で提示するという実験的なプログラムだった。1945年から1966年の間に36のプロジェクトが企画され、そのうち25棟が建築されている。チャールズは同誌の編集委員のひとりであり、レイはアドヴァイザーとして表紙デザインなどを手掛けていた(Arts&Architectureのwebサイトのケース・スタディ・ハウスのアーカイブ記事はこちら)。
(Source:Charles and Ray Eames photo from CNN STYLE)
イームズ・ハウスは以下のような点でケース・スタディ・ハウスのなかでも例外的な建物だった。
平屋の専用住宅ではなくスタジオを併設した2階建ての建物であること。
ほかのケース・スタディ・ハウスが航空資材メーカーなどに特注で作らせたオリジナル部材を使っているのに対して、イームズ・ハウスはチャールズが「オン・ザ・シェルフ」と呼んだ既製品の部材を使って作られていること。
ケース・スタディ・ハウスの多くが、海や開けた眺望に向いた大きなガラス開口を売り物にした、いかにもカリフォルニア的な建築であるなか、イームズ・ハウスはせっかくの海へ眺望を犠牲にしてまで、斜面に半分に埋まっているかのように丘の地形に寄り添って建てられていること。
隣りに建てられた、同じ設計者によるケース・スタディ・ハウス#9(ジョン・エンテンザ邸)が、大きなガラス開口を素直に海に向けて建てられているのとは対照的だ。
(Source:Case Study House#9,Photo by Julius Shulman from Jackson Fiine Art )
イームズ・ハウスの当初の案は、エンテンザ邸と同様に、海の方角を向いた長く大きなガラス開口を有した直方体の建物が、斜面からキャンティ・レバーで宙に持ち上げられたプランだった。(『イームズ・ハウス/チャールズ・イームズ&レイ・イームズ』 岸和郎 2008)
チャールズは1947年にMOMAで開催されたミース・ファン・デル・ローエの展示会に、同じようなキャンティレバーによるスケッチが出品されていたのを見てプランを変更したといわれている。
建築とは「世界」を構築する行為である。周囲に屹立する独自の存在を作り上げることにしのぎを削るのが建築という行為だ。コルビュジエやミースの建築を思い浮かべればわかりやすいだろう。
ミースのスケッチに似たイームズの当初案はまさにそうしたイメージだ。
しかしながら実際、出来上がったイームズ・ハウスは全く違っていた。丘に寄り添い、大地に張り付き、木々に囲まれ、周りの木々のシルエットを映し、量産の工業製品を組み合わせた、一見、そっけない印象の倉庫のような存在だ。
イームズ・ハウスは「世界」を構築する存在ではなく、むしろ「世界」のなかにある存在であることを強く印象づける。
「世界」のなかの存在というキーワードは、イームズ・ハウスから28年後のイームズによる映像作品「パワーズ・オブ・テン」を思い起こさせる。
「パワーズ・オブ・テン」(10のべき乗という意味)は、ミシンガン湖のほとりの芝生で寝転がっている男女を10の0乗(1メートル四方)の距離から俯瞰した画像から始まって、カメラが空中に引きながら10の24乗という太陽系をはるかに超えた宇宙の視点まで上り詰め、そこから逆にカメラが急下降し、最後は寝転がる男の体内に入り込むように10の-16乗という陽子や中性子の超ミクロの視点にいたるプロセスを9分間のワンシーンで見せてくれる映像だ。
「パワーズ・オブ・テン」は、存在は「世界」のなかにあると同時に「世界」は存在のなかにあることを直感的に理解させてくれる。
それはイームズ・ハウスのコンセプトそのものではないのか。
イームズ・ハウスのリビングの奥に設えられた、居心地の良さそうなアルコーブ状のソファー・コーナーやふたりが世界から集めたオブジェを飾ったシェルフは、まぐれもなく建築のなかに現れたひとつの「世界」だ。
(Source:Design History)
チャールズ・イームズはイームズ・ハウス以降、建築の分野から離れ、映像やコミュニケーションのデザインにシフトしてゆく。
チャールズは1967年、かかわりのあったイマキュレート・ハート女子学院の移転にともなう新校舎の設計コンペの趣意書でこう述べている。
「彼女たちの移転先が、軍隊が撤退したあとの兵舎や、打ち捨てられた修道院や、古くて巨大な幾棟かの倉庫であれば良いのにと願わざるをえません」(『イームズ入門』 イームズ・デミトリオス 2004)
チャールズ・イームズのイメージする建築の理想を語ったような言葉だ。それは「世界」を構築する建築という行為が不可避的に持つ、ある意味、超越的で独善的は響きとは大きくかけはなれている。
*初出:zeitgeist site
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『小早川家の秋』小津安二郎監督(1961)
戦争の新たな様相~『帰還兵はなぜ自殺するのか』を読んで~
わたしたちは今の戦争の実態をほとんど知らない。『帰還兵はなぜ自殺するのか』(デイヴィッド・フィンケル 2015)は、そうした無知なわたしたちに大きな衝撃を与える。
本書はイラク戦争から帰還した兵士たちが、戦闘が原因で負うことになったPTSD(心的外傷後ストレス障害)とTBI(外傷性脳損傷)に苦しむ姿を描いたノンフィクションである。
激しい戦闘によるトラウマや度重なる爆弾による爆風ショックは、身体的な損傷はなくとも、頭痛、めまい、不安、気鬱、不眠、悪夢、記憶障害、判断力低下、人格変化、自殺願望など、さまざまな精神的な障害を引き起こす。
アフガンスタン戦争とイラク戦争に派兵されたアメリカ兵は約200万人。そのうち50万人がこうしたPTSDとTBIに苦しんでいるという。その数字の意味する過酷な現実に息をのむ。
精神が病んだ兵士とすっかり別人になってしまった夫や父と暮らす家族の苦悩が語られる。
アダム・シューマンは、帰還して2年になるが、頭を打たれ部下マイケル・エモリーを救出した際に口に流れ込んだ血の感触が消えず、たまたま作戦に同行できず死んでいった部下ジェームズ・ドスターへの罪悪感に苦悩する。妻のサスキアとの喧嘩が絶えず、ついにショットガンをこめかみにあて妻に向かってこう叫ぶ「このいまいましい引き金を引けよ」。
同じ部隊だったトーソロ・アイアティは、乗っていたハンヴィー(高機動多用途装輪車両)が爆撃を受ける。自身は脚を負傷し、帰還後は、ハンヴィーの運転席で焼け死んだ同僚の姿の夢を見続けている。記憶障害の治療で薬漬けの日々が続き、妻への暴力で逮捕される。
マイケル・エモリーは奇跡的に助かったが、右手首を噛み切って死のうと試みる。妻に離婚され、今は、左半身麻痺と認識障害で苦しみながらに、トライラーハウスで一人で暮らしている。「いつもそのことばかり考える。何時間もここに座って考えるんだ。もしこんなことをしなかったら。もしあんなことをしなかったら。それですっかり頭がおかしくなる」。
ニック・デニーノは、イラクの小学校で女子生徒全員を撃ち殺す夢を見ていることを妻に言えずに煩悶している。クリスティ・ロビンソンの夫ジェシーはアセタミノーフェンの過剰摂取で命を絶った。銃を持ったイラク人親娘を撃ち殺したと、繰りかえし話していたダニー・ホームズは、婚約者のシャウニー・ホフマンと一歳の娘を残して突然、家の階段で首を吊った。
感情を排した3人称による客観的な描写のなかに、ときおり登場人物のこころのつぶやきを挿入した語り口が、戦場とはまた別種の、日常のなかの、ひとりひとりの、誰にも知られない、孤独な苦闘をあぶりだす。
アメリカでは毎日18人前後の元兵士が自ら命を絶っている。アフガニスタンとイラクからの帰還兵だけでも自殺者は数千人にも上り、戦闘中の死者数(6,460人)を上回るとみられている。(ニューズ・ウイーク日本版 2012年8月7日
http://www.newsweekjapan.jp/stories/us/2012/08/post-2647_1.php)
PTSD(心的外傷後ストレス障害)と呼ばれる症状は、大砲などの近代兵器がはじめて使用された第一次大戦時代にシェル・ショック(砲弾神経症)と呼ばれていた(映画『西部戦線異状なし』でのリアルな描写が思い起こされる)ころから、さまざまに語られてきたが、本書ではTBI(外傷性脳損傷)と呼ばれる新たな戦争後遺症に言及されている。
TBI(Traumatic brain injury)とは爆弾の爆風などの急激な気圧の変化で、空気を含む脳が頭蓋のなかで損傷を受けてしまうことだ。
TBIは様々な要因が絡み合って引き起こされる。以下は毎日新聞の2009年2月の記事をまとめた「移動支援フォーラム」というサイトからの情報だ。
(http://ido-shien.mobi/thewar/onterror.html,
http://ido-hien.mobi/thewar/fighting/terrorism.html)
◎アフガニスタンやイラク戦争では、武装勢力による手製爆弾(IED=即席爆発装置)によ
る攻撃によって、アメリカ側の兵士が受ける爆弾攻撃の回数が圧倒的に増えた。
◎戦争の長期化により複数回従軍する兵士が増え、結果的に爆風を浴びる回数や期間が
増加した。
◎過去の戦争では兵士が死亡していたような大規模な爆発も、戦闘服やヘルメットなどの
ハイテク化と高度な医療体制によって、兵士が生き延びるようになり、その結果、ひとりの
兵士が繰り返し爆風にあおられることが多くなっている。ちなみに米兵の死者と負傷者の
比率はベトナム戦争で1:2.6、湾岸戦争で1:1.2、イラク戦争ではこれが1:7.3となり、
今の戦争は、負傷者の割合が極めて高い、兵士が「生き残る戦争」になっている。
◎イラク戦争において、武装勢力によるIED攻撃の激化に対応して、米軍側は巨額の資金
を投じ、地雷にも耐えうる装甲車を大量に購入し、最新のヘルメットや防護服を導入した。
しかし、この重くて硬い防弾服が、爆風が兵士に与える圧力をさらに増幅させている。
◎一度、爆風を受けた人が再び爆風を受けると、TBIを起こす可能性は1.5倍に高まるとい
う。一方、爆風によるTBIは、検知自体が難しく、精巧なMRI(磁気共鳴画像化装置)なら
一部確認できることもあるが、磁気を使うので爆発で金属片が体内に入っている可能性
のある兵士には使えないなどの課題もあり、現実にはイラク戦争においては、負傷兵の
半数以上が72時間以内に部隊に戻っている。
◎帰還兵の治療に当たるウェイン・ミシガン州立大のミリス教授は、TBIは「爆風という凶器
と、米軍のハイテク装備がぶつかり合って生まれた、新しいタイプの脳損傷だ」と指摘して
いる。
本書では、ペンタゴンで陸軍副参謀長ピーター・クアレリ大将が責任者となり、月一回開かれる自殺防止会議の様子も描かれる。世界の駐屯地とつながった会議室では、一件一件の自殺の事例の報告を受け、教訓を引き出し、対策を検討する。さまざまな対策が考えられ、実行されるが、自殺者の数は一進一退、むしろ増え続ける。
無力感と焦燥感のなか陸軍副参謀長は、自殺防止活動の認知のために、戦争決定と予算を担う議員や軍関係者を招いた官邸晩餐会を企画するが、直前で流れてしまう。帰還兵の自殺というテーマに二の足を踏んだ議員たちからキャンセルが相次いだのがその理由だ。
新たな武器の開発や装備の刷新が、思いも寄らない戦争の新たな様相を生み、新しい戦争犠牲者を生む。
アメリカに限らずイラク戦争に参加したほかの国でも同じことが起きているはずだ。そして、敵国とされるイラク軍や武力勢力など、逆の立場の兵士、あるいは戦場の民間人でも同じようなことが起きているのではないか。
本書のあとがきで言及されているように、日本においても、イラク支援のために派遣された延べ一万人の自衛官のうち、帰還後に28人が自殺している。PTSDに苦しむ隊員は一割~三割にのぼるとされている。ひとごとではないのだ。(NHK「クローズアップ現代」 2014年4月16日放送 http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3485_all.html)
戦争を抑止しするためには、戦争のリアリズムにこだわるしかない。感情によるナショナリズムやイメージによるプロパガンダに抗するには、戦場のリアリズムをもってするしかない。
わたしたちは、今の戦争の新たな様相を知らなければならない。
最後に。
本書を原作とした映画作品の製作が進んでいるそうだ。近作では『アメリカン・スナイパー』(クリント・イーストウッド監督 2015)で、イラク戦争の英雄とされた狙撃手が帰還後PTSDで苦しむ姿が描かれていたが、本書の映画化においては、おそらく、今の戦争の現実にさらに切り込んだ内容になると思われ必見である。(映画.com 2105年8月26日
http://eiga.com/news/20150826/18/)
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レイモンド・チャンドラー『ザ・ロング・グッドバイ』精読 Chapter10
釈放されたマーロウを新聞記者のロニー・モーガンが迎える第10章 。
ロニー・モーガンはこんな風に登場する。bleakは寒々しい、うら寂しい、griferはペテン師、knock off は仕事が終わる、beatは~番、~詰めと言う意味。
He was about six feet four inches tall and as thin as a wire.
"Need a ride home?"
In the bleak light he looked young-old, tired and cynical, but he didn't look like a grifter. "For how much?"
"For free. I'm Lonnie Morgan of the Journal. I'm knocking off."
"Oh, police beat," I said.
"Just this week. The City Hall is my regular beat."
ロニー・モーガンは「身長193センチ、針金のように細い」と形容される。拘置所内のグレゴリアス警部やスプランクリンのような太った男たちとは対照的な設定だ。
looked young-oldについては、清水訳では「年齢(とし)のわりには老けていて」、村上訳では「若いようにも、年をくっているようにも見えた」となっている。はたしてどちらのニュアンスなのだろうか?
マーロウの見立てどおりにロニー・モーガンは "They ride you in," he said, "but they don't worry how you get home. " などとシニカルにつぶやく人物だ。
第1章ではレノックスをマーロウが車で送るが、この第10章ではモーガンがマーロウを車で家まで送る。出番は少ないもののロニー・モーガンはその後、重要な役割を担うことになる。
"I live way out in Laurel Canyon," というマーロウのセリフのway outが分かりにくい。way out は普通、出口を意味するが、前後からするとway outは名詞ではなくliveを形容する副詞の役割だろう。way には副詞や前置詞を強調する使い方があるそうだ。したがってlive way out で「ずっと遠くに住んでいる」という意味だろう。
ロニー・モーガンは「誰かがレノックス事件の周りに壁を立てているのだ」と事件へ疑問を口にする。
"Somebody's building a wall around the Lennox case, Marlowe. You're smart enough to see that, aren't you? It's not getting the kind of play it rates, The D.A. left town tonight for Washington. Some kind of convention. He walked out on the sweetest hunk of publicity he's had in years. Why?"
"No use to ask me. I've been in cold storage."
"Because somebody made it worth his while, that's why. I don't mean anything crude like a wad of dough. Somebody promised him something important to him and there's only one man connected with the case in a position to do that. The girl's father."
It's not getting the kind of play it ratesのところは、playは新聞や報道での取り上げ方や話題を意味しており、直訳すると「事件の大きさにふさわしいような取り上げ方になっていない」となる。
後半の方に出てくるsomebody made it worth his whileは日本語にしようとするとなかなか悩ましい。この場合のwhileは、時間や労力を意味し、worth sb’s whileでsbが時間を割いてまでする価値がある、あるいは骨を折ってまでする価値がある、という意味になる。使役動詞を直訳すると「彼がそれをわざわざする価値があるように、誰かがそうしている」となるが、分かったような分からないような感じだ。普通の日本語では「誰かが彼が損をしないようにしてしている」あるいは「誰かが彼にそれ相応の見返りを与えている」という感じだろうか。
その「見返り」の文に続いてでてくるcrudeは生の、wad は束という意味。doughはパンの生地のドウのことだが、ここでは口語で現ナマを意味している。crude like a wad of doughで「札束のような露骨な手段」ということになる。
ロニー・モーガンは、シルヴィアの父である新聞王のハーラン・ポッターが手を回し、レノックスの自殺を促し、D.A.にもそれ相応の見返りを与えて手を引かせ、幕引きを図っているのではないか、と問いかける。
ロニー・モーガンはこんなこともつぶやく。「レノックスはそもそも彼女を殺していなかったのかもしれない」と。
いずれに対してもマーロウの反応は鈍い。それもそのはずで、ロニー・モーガンの疑問は、拘置所にいる間からずっと抱いてきたマーロウ自身の疑問でもあるからだ。ロニー・モーガンはマーロウの分身のような役回りなのだ。
車はローレル・キャニオンのマーロウに家の前に停まる。「一杯やっていくか?」と誘うマーロウ。「またにするよ。一人になりたいだろう」と答えるモーガン。マーロウの分身もやっぱりクールなのだ。
I got out. "Thanks for the ride, Morgan. Care for a drink?"
"I'll take a rain check. I figure you'd rather be alone."
"I've got lots of time to be alone. Too damn much."
"You've got a friend to say goodbye to," he said. "He must have been that if you let them toss you into the can on his account."
"Who said I did that?"
He smiled faintly. "Just because I can't print it don't mean I didn't know it, chum. So long. See you around."
rain checkとは雨で中止になった試合などの振り替え券のことだそうだ。I'll take a rain checkとはなかなかうまい言い方だ。
「あんたにはさよならをいうべき友達がいた。彼のせいで留置所にぶち込まれても良いと思えるような友達がね」とロニー・モーガンはレノックスとの関係を知っている様子。"You've got a friend to say goodbye to,"というのはまさに作品のテーマを言いあてているような名セリフ。
久しぶりに家に戻り、明かりをつけ、すべての窓を開け、コーヒーを淹れるマーロウ。
I made some coffee and drank it and took the five C notes out of the coffee can. They were rolled tight and pushed down into the coffee at the side.
このコーヒー缶のなかの5枚の100ドル札(the five Cnotes)は、第5章でレノックスがティファナの空港で別れ際に言った、お礼としてマーロウに内緒で残してきた例の500ドルだ。
何をしても落ち着かないマーロウ。ベッドに入ってもロニー・モーガンの言葉を反芻するようにレノックス事件を考え続ける。
As Lonnie Morgan of the Journal had remarked-very convenient. If Terry Lennox had killed his wife, that was fine. There was no need to try him and bring out all the unpleasant details. If he hadn't killed her, that was fine too. A dead man is the best fall guy in the world. He never talks back.
「死人ほど無実の罪をかぶせるのにふさわしい人間はいない。死人は決して反論したりはしない。」
『ザ・ロング・グッドバイ』精読Chapter11ヘ
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2015年のアクチュアリティ ~キング・クリムゾン日本公演 2015~
もはや旧聞に属するがキング・クリムゾン日本公演 2015を観た。
(source:https://www.facebook.com/kingcrimsonofficial/timeline)
すっかり出遅れてしまい、当初日程のチケットが軒並みソールド・アウトのなか、あわててチケットを取って観たのが12/17(木)のオーチャード・ホールでの追加公演だ。
来日は12年ぶりだという。もっともアルバムを夢中で聞いていたのが70年代前半の中学生のころだから、キング・クリムゾンを集中して聞くという行為は実に40年ぶりになるわけだが。
当夜のセットリストは下記(setlist.fmより)。
1.Radical Action (To Unseat the Hold of Monkey Mind) I *
2.Meltdown *
3.Radical Action (To Unseat the Hold of Monkey Mind) II *
4.Level Five
5.Peace - An End
6.Epitaph
7.Red
8.Pictures of a City
9.Hell Hounds of Krim
10.The ConstruKction of Light
11.VROOOM
12.A Scarcity of Miracles
13.Banshee Legs Bell Hassle
14.Easy Money
15.Sailor's Tale
16.Starless
Encore:
17.Devil Dogs of Tessellation Row
18.The Court of the Crimson King
19.21st Century Schizoid Man
*は今回、来日してから作られたといわれる新曲
A ELEMENTS OF KING CRIMSONと銘打ったツアーらしく、各時代の代表的な楽曲を網羅したキング・クリムゾンというバンドのこれまでの歩みと歴史を思い起こさせるセットリストになっている。
公演日によって、メジャーな楽曲では”The Court of the Crimson King”と”Lark’s Tonges in Aspic”などの出し入れがあるようで、当夜は後者が入ってなかった。
まず特筆すべきは、1960年代、70年代の初期キング・クリムゾンのクラシックとでもいうべき楽曲の数々がセットリストに網羅され、それらが、当時とほぼ同じアレンジで、2015年の日本で、本物のキング・クリムゾンの生演奏で聞ける、という贅沢さだ。
アレンジは限りなくオリジナルに近い。以前のライブでの演奏のように意図的なシンコペートやいたずらな間や無用なオカズなどもなく、ドラムの一打すらもオリジナルに忠実に再現されていた。
リード楽器担当のメル・コリンズ(彼が加わるのも1974年の『レッド』 Red以来なので約40年ぶりだ)がメンバーに加わって、初期クリムゾンのナンバーが過不足なく再現可能となったことも大きい。
また、ヴォーカルのジャッコ・ジャクジグの伸びのある高音は初期のグレッグ・レイクによるヴォーカルを彷彿とさせ、そうしたことも、楽曲の初期のイメージが再現されている要因だ。
トニー・レヴィンは来日直前のインタヴューで「選んだオールド・ナンバーは、楽曲に忠実になることが同時に革新的でもあるという、優れた楽曲ならではの特徴を備えていた」と述べている。(カナダMontreal Gazette誌による2015年11月のインタヴューより)
2015年のこのバンドの最大の個性は、フロントラインに並んだトリプル・ドラム。かつて『太陽と戦慄』 Lark’s Tonges in Aspic(1973)でビル・ブラフォードとジェイミー・ミューアの実質ダブル・ドラムでやっていたり、『スラック』 Thrak(1995)では今回も参加しているパット・マステッロも加わったダブルバンドでやっていたので複数ドラムというパターンは、これまでもあったわけだが、トリプル・ドラムは今回のツアーからだ。
初期作品からドラムがメロディー構成の重要な要素になっており、複数ドラムを追求していくのはクリムゾンらしいひとつのあり方といえるだろう。
前掲のMontreal Gazette誌のギャヴィン・ハリソンへのインタヴューによると、オーケストラのチューバが常時演奏しているわけではないように、3つのドラムも楽曲にあわせて、それぞれの個性やドラムセットに応じて効果的に演奏する方法を採っている、とのことで、実際、中央に位置したビル・リーフリンは初期の楽曲ではシンセサイザーでメロトロンのラインを弾いていた。
トリプル・ドラムは好アイディアだが、まだまだ発展段階という感じなので、今後はポリリズミックなドラミングなどを組み入れた楽曲や、ジャズのインプロヴィゼーションにおけるようなスポンテニアスな演奏など、さらなる進化を期待したい。
それと注目したいのが”Peace - An End”という『ポセイドンのめざめ』 In The Wake of Poseidon(1970)に収録されている弾き語りによる割と地味なナンバーがすべての公演日で演奏されていたこと。setlist.fmによるとこの”Peace - An End”のコンサート初演は2015年11月27日のカナダのヴァンクーバー公演とのことで、明らかに2015年のキング・クリムゾン、というか、ロバート・フリップの現下の情勢へのメッセージが込められているのだろう。
歌詞はこんな内容である。分かりやすい英語で平和のイメージが静かに歌われる。作詞は初期のクリムゾンのワード、歌詞、照明を担当したピート・シンフィールド。
Peace is a word
Of the sea and the wind
Peace is a bird who sings
As you smile
Peace is the love
Of a foe(★1) as a friend
Peace is the love you bring
To a child
Searching for me
You look everywhere
Except beside you
Searching for you
You look everywhere
But not inside you
Peace is a stream
From the heart of a man
Peace is a man, whose breadth
Is the dawn
Peace is a dawn
On a day without end
Peace is the end, like death
Of the war
当日はよく聞き取れなかったが、ほとんどの公演で最初の箇所が日本語で歌われていたようだ。
こんな感じ(12月13日の大阪公演より)。
12月17日のセットリストでは、このアカペラから始まる”Peace - An End”に導かれるかたちで”Epitaph”が演奏され、明と暗、祈りと悪夢などの雰囲気の対比が効果を上げて大いに盛り上がった。
”Epitaph”(エピタフ)はデビュー作『クリムゾン・キングの宮殿』 In The Court of the Crimson King (1969)に収められた名曲だ。
コーラスの部分のConfusion will be my epitaphというロック史に残る名フレーズを含め、パセティックな人類の未来像が歌われている。東西冷戦と核戦争、そうした時代の人類の運命を暗喩している歌詞だともいわれている。
Confusion(混乱、錯乱)とは自分たちが作ったもの(核兵器や核抑止力理論)で結果的に自分たちが絶滅してしまう究極の可笑しさ、不気味さを言い表したものだろう。
東西冷戦は終結し、世界全面核戦争の可能性は遠のいた。”Epitaph”リリースから46年後の2015年にこの曲を聞くとまた別の感慨が呼び起こされる。
固定化する経済格差、深刻化する貧困、増え続ける難民、蔓延する過激思想とテロリズムの恐怖、分断化される世界。この解決策が容易に見出せない深刻な状況を思うとき、果たしてわれわれは今までなにをやってきたのだろうか、と。
冷戦時代にも増してわれわれは大きな勘違いをしてきたのではないのだろうか?世界はいつの間にか誰一人として幸せにならないように動いているのではないか?世界は失敗しているのではないか?
Confusion will be my epitaphとは、今のわれわれに投げかけられている言葉であり、このままでは、われわれの墓碑銘はまさにコンフュージョンと記されてしまうのではないか。
そう思い至るとき、この曲の恐ろしいほどの先見性に改めて驚愕させられる。
”Epitaph”の歌詞はこんな内容。作詞はピート・シンフィールド。
The wall on which the prophets wrote
Is cracking at the seams
Upon the instruments of death
The sunlight brightly gleams
When every man is torn apart
With nightmares and with dreams,
Will no one lay the laurel wreath(★2)
When silence drowns the screams
Confusion will be my epitaph
As I crawl a cracked and broken path
If we make it we can all sit back and laugh,
But I fear tomorrow I'll be crying,
Yes I fear tomorrow I'll be crying
Yes I fear tomorrow I'll be crying
Between the iron gates of fate,(★3)
The seeds of time were sown,
And watered by the deeds of those
Who know and who are known;
Knowledge is a deadly friend
When no one sets the rules
The fate of all mankind I see
Is in the hands of fools
数々のクリムゾン・クラシックの楽曲を並べた今回の日本公演は一見、懐メロ風に聞こえるが、少なくともわたしにとっては、2015年に聞くキング・クリムゾンは、周りも自分も、のほほんとした雰囲気に包まれていた40年前よりも、はるかにアクチュアルな戦慄を呼び起こす出来事であった。
Yes I fear tomorrow I'll be crying
わたしは明日の自分が大声で泣いているではないかと恐れているのだ。
(★1)foeは敵の意。
(★2)the laurel wreathは月桂樹のリース。ローマ時代に戦いの勝利者に与えられた。
(★3)第2ヴァースだけやや意味がとりにくいので参考までに私訳を。
運命の鉄のゲートの間に
時の種が撒かれ、
知っていると称する人々と名が知られた人々の行為
によって水やりが行われてきた。
しかし知識というものは規範を定める者がいなければ
死を招く友に堕すのだ。
わたしには人類の運命は
愚か者の手中にあるとしか思えない。
Who know and who are knownとは政治家、科学者、学者、高級官僚などの意だろう。
Knowledgeとは、科学技術に象徴される近代知を指していると思われる。
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