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フェイスブックはグッド・ピープルの夢を見るか

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 ちょっと前の日経新聞に「素顔見えるSNS就活」と題された記事が載っていた。
 
 いまどきの大学生は大変だ、というのん気な感想に加えて、なんか変だなと思った。
   
 「フェイスブック就活必勝講座」などの就活サイトを運営する会社の社長は学生に①掲載写真は笑顔で正面から②「友達」は50人以上にする③週2回以上書き込む、などの指導しているそうだ。
    
 「50人以上にする」というところが、なんとも可笑しくもあり、また、指導を受ける学生の方々のことを思うとため息をつきたくもなる。
         
 そうして開設されたサイトのどこが素顔なの?というのが正直なところだが、一方で、フェイスブックに限らず、コミュニティ毎に、ネットワーク毎に、SNS毎に、「素顔」というキャラクターを使い分けるのは今や当たり前、と一蹴されるのもわかっている。
  
 「フェスブックとはそういうものでしょう」という学生の方々からのクールな反応もわかっている。
   
 わかっているからこそ、素顔は「素顔」と書いて欲しかったとも思ってしまう。少しは気楽にゲーム感覚で「ソー活」(SNSを使った就活をこう呼ぶそうだ)なるものに励めるようになるかもしれないじゃあないか。まあ日経じゃあ無理か。
  
 伊丹十三がこんなことを書いていた。
         
 アメリカに行ったときの話しだ。砂漠の中で写真を取ろうとして村はずれの一軒の家の前に車を駐めようとしたら、車が駐まるかを駐まらないかのうちに、小柄な老人が家の中から駆け出して来て、顔に満面の笑みを浮かべてこういう。
  
 「ハロー・ゼア!よく来たな、さあ中へ入れ!」
 老人は叫んだ。
 「さあさあ、中へ入らんかね。ビールも冷えとるぞ。それとも、あんた、コーヒーがいいかね?なんだったら昼めしを作ってやろうか?」
 
 戸惑いながらも云われるままに客になった私に、老人は繰り返しビールを勧め、コーヒーを勧め、昼めしを勧め、全身全霊、もてなしの火の玉のようになって、私を饗応し、引き止め、寛がせようとする。話題が尽きそうになると家の中を引き回して、寝室を見せ、写真を見せ、家具を見せ、電化製品を見せ、銃を見せ、話題を提供する。私がようやく家を辞する時には車まで送りがてらこういう。
  
 「これで俺たちは友達になった。今度通りがかったら必ず寄ってくれ。わしの家はあんたの家だ。奥さんや子供を連れてきてもいいぞ。泊まってもいってもいい。いいかね、ここをあんたの家と思ってくれたいいんだから。本当にビールはもういいんだね?なんならコーヒーもあるんだが—」
  
 私はあのもてなしぶりは一体なんだったのだろうか、といぶかしがりながら、ふとしたきっかけでその正体に気がつく。
        
 「あの老人はグッド・ピープルを演じていたのだ。心の底から演じていたのだ。(略)あの度外れた歓待は、旅人はもてなすべきもの、つまり、旅人をよくもてなすのがグッド・ピープルの務めである、という思い込みに発していたとしかも思いようがない。
  グッド・ピープルというのは只の「いい人」ではないのだ。グッド・ピープルであらねばならないという使命感が血肉化してしまった人がグッド・ピープルということなのだろう。  
 かくして、アメリカ人は、グッド・ピープルたらんとして、人前で妻の手を握り、見知らぬ人にニコッと歯を見せて笑いかけ、ジョークをいい、敢然としてNOというのである」
  
 フェイスブックとは、グッド・ピープルとしての「素顔」の証明書だったのだ。
     
 「さあ、俺は笑ったぞ。自分の協調性を証明したぞ。今度はお前が証明してみせる番だ」
    
 グロバリゼーションとは、なかなか大変で疲れる世界なわけである。

  

*引用は『伊丹十三の本』(新潮社)収録の「原色自由図鑑」より



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