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モダンデザインはなぜ生まれたのか ~ 『我々は人間なのか?』が問いかけるもの ~

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『我々は人間なのか?』(ビアトリス・コロミーナ、マーク・ウィグリー、牧尾晴喜訳、BNN新社、2017年)は、「デザインの歴史とは、進化していく人間の概念についての歴史」であるとして、デザインと人間の関係を問う書である。
  

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著者は、「デザインが人間をつくる」と述べ、人間主体の常識を覆す。
   
「途切れることのない人工物の発明によって人間が誕生する。その発明には不気味な鏡がついていて、人間は自身が作ったものの中に自身の姿を見ることで人間になるか、作ったものの中に自身の可能性を見出すことで人間になる。したがって、人間はただ道具を発明するわけではない。道具が人間を発明するのだ。もっと正確に言えば、道具と人間はお互いを生み出しあっている。思考と動作領域を補綴(ほてつ)的に拡大する人工物によって、人間は人間らしくなる」
  
道具(人工物)は、単なる人間が外部に作りだしたものではなくて、外在化された人間の思考であり、「人間の脳は新しい道具を生み出すというよりは、むしろ、新しい道具の結果である」
   
テクノロジーは人間の願望を具現化したものであり、ひとたびそのテクノロジーが実現化された後は、それが前提となった思考が生み出されてゆくという相互依存の関係が指摘される。
      
太古の時代の石器や装飾、近代以降の機械や建築や家具、人間の身体と心に直接働きかける医療や薬物、人間工学、ボディビル、ファッション、さまざまなフェティシズム、そしてPCやスマートフォンやソーシャルメディアなどのIT技術に至るまで、人間と人工物とのらせん状に発展・深化する相互依存関係が記述される。

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著者は、「デザインは常に人間の役にたつものとしてその姿を現すが、その本当の狙いは人間をリ・デザインすることである」とデザインの本質は、人間をデザインすることであると指摘する。
    
一般に近代デザインは、産業革命後の機械が席巻する社会において、機械と人間の調和・共存を図るために生まれたとされ、デザインとはなによりも人間のためのデザインである、とされている。
   
しかしながら、著者は機械と人間の調和・共存という考え方自体が、人間の「リ・デザイン」そのものであり、ポスト・ヒューマン思想を体現したものであると主張する。
  
「ポスト・ヒューマンという思想は20世紀の近代デザインの後に起こるものではない。それどころか、ポスト・ヒューマン思想への応答が近代デザインだった」と喝破する。
    
ポスト・ヒューマンとは文字通り「人間の後にくるもの」「人間を乗り越えたもの」という意味で、簡潔にはニーチェの言う「超人」という言葉だろうか。
   
人間は先史時代から、思想や能力の外部化を図ってきており、外部に作られた人工物こそが、人間の願望や理想を体現したものである。機械の登場自体がポスト・ヒューマン思想の現れであり、さらには機械化時代における、機械と人間との共存を図ろうと始まった近代デザインこそが、人間を「リ・デザイン」して、人間を機械に近づけ、人間と機械の一体化を目指したポスト・ヒューマン思想そのものだ、というのだ。
   
2045年にはAIの能力が人間を凌駕し、AIは人間を超えた存在となるという、シンギュラリティ(技術的特異点)をめぐる言説は、シンギュラリアン(シンギュラリティ教徒)の願望やテクノフォーブ(テクノロジー嫌悪者)の懸念を超えた、人間の根源的な願望であるということになる。
    
人間のための近代デザインという、これまでの概念を覆す論理は、新鮮だ。
  

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著者は建築学者の夫婦で、ビアトリス・コロミーナは、1952年スペイン生まれでプリンストン大学建築学部教授。マーク・ウイグリーは1956年ニュージーランド生まれ、MOMAでフィリップ・ジョンソンと「Deconstructions Architecture」展のキュレーターを務め、現在、コロンビア大学GSAPP学部長。
      
ビアトリス・コロミーナは、『マスメディアとしての近代建築 ―― アドルフ・ロースとル・コルビュジエ』(松畑強訳、鹿島出版会、1996年)で、モダニズム建築が写真や広告や雑誌などのマスメディアを利用し、かつ自らもマスメディアとして機能しながら、古典的な建物や空間やプライバシーの概念を変容させていったことを明らかにした。
         
そして今の建築と都市空間の現状についてこう述べる。
          
「我々は今、バーチャルとリアルの間のある種のハイブリッド空間で暮らしている。ソーシャルメディアは物理的空間、つまり自宅や都市の空間を再定義し、再構築している。20世紀の初めにマスメディアが登場したときのように、ソーシャルメディアは、公的なものと私的なもの、内部のものと外部のものを、もう一度描き直す。ソーシャルメディア時代のデザインは、小さな画面上の空間で起きていることだけではない。それは我々の住む空間をリ・デザインするものである」
 
「人間とは結局、デザイナーでもなければ人工物でもなく、それらの相互依存なのである。それはテクノロジーと結びついた生命体が持つ全き有機性の条件であり、それこそが生きているという事実、そして、デザインに関する執拗な問いを生じさせる事実なのである」
     
「テクノロジーと結びついた生命体」としての存在から逃れられない私たち。近代の終焉はいよいよマスメディアや建築や都市空間にも及んでいる。内と外、公と私、社会と個人、国家と市民など、これまで、ひとと世界を媒介し、その関係性を表象してきた建築や都市がその役割を減じ、ネットやSNSが世界へと通じる回路となり、新しい空間感覚や世界理解が生まれる。
   
居心地の良さの演出に余念がない現実に奇妙な白々しさが漂う今の都市のあり様は、きっとここに由来しているのだ。




 




*初出 : zeitgeist site



copyrights (c) 2019 tokyo culture addiction all rights reserved. 無断転載禁止。


ニューヨークは路上のゴミすらもニューヨークだった ~ バビロン再訪#12 ~

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始めてニューヨークに行ったのは1987年10月のことだ。
     
国内ではバブルの予感がひたひたと忍び寄り始め、ディベロッパーには超高額物件や大型プロジェクトの話が舞い込み始めていた。
       
とはいえ、当時の東京はアークヒルズ(1986年)ができあがったばかりで、超高層マンションはというと、大川端の8本のタワーのなかのリバーポイントタワー(40F)が建設中(1989年竣工)というような頃だ。
        
好機の訪れのかすかな気配のなか、東京はニューヨークに憧れ、マンションはニューヨークの摩天楼を夢見ていた。
 
初めてのニューヨーク訪問は、そんな空気のなか、社団法人日本高層住宅協会主催の第12回アメリカ高層住宅事情視察ツアーへの参加によって実現した。
   
今回は現実としてのニューヨークが遥か彼方にあった時代の私的妄想としてのニューヨークをお届けする。
 
紙の上のニューヨーク

       
「森に老木がまじって生えているように、ここではいっさいがっさいが、自然なるままの秩序ある渾沌のまま、ひたすら今日を生きることに没我である」「私にとってのたた一つの口惜しさは、三十年前の十九歳のときにここにくるべきであったという、その一念あるのみ」。
    
旅雑誌「旅」(1980年5月号、日本交通公社)に掲載された「ニューヨーク、この大きな自然」と題された開高健によるニューヨーク紀行のなかの文章である。
   
ヴェトナム戦争従軍など百戦錬磨の旅人開高健をして、「十九歳のときに」訪れたかったと後悔の念を抱かせしめるニューヨークとは。<紙の上のニューヨーク>はいやがうえにもニューヨークへの妄想を掻き立てた。
 

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*photo by Jörg Schubert-New York City / CC BY 2.0

         
とはいえ<紙の上のニューヨーク>の極めつけは、なんといっても植草甚一の書くニューヨークだった。
    
植草甚一がどのような人物かを説明するのは難しい。4万冊の蔵書、人形町生まれの江戸っ子、ジャズや映画やミステリーや英米仏文学や前衛アートの愛好家、コラムニスト、評論家、神保町古本屋の常連、コラージュ作家、東京散歩者など、言葉は重ねられるが、それで植草甚一をうまく紹介したことになるかは自信がない。
 
このサブカルチャーの稀代のエピキュリアンにして、おたくの始祖のような明治41年生まれの植草甚一は、1974年66歳の時に初めての海外であるニューヨークの地を訪れる。そしてその4ヶ月の滞在のあいだ、200万冊(!)の本の題名に目を通し、2,300冊を購って帰国する。

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その後、死去(1979年)する前年まで、計4回に渡りニューヨークに長期滞在し、フィフス・アヴェニューと9番街の西角の「フィフス・アヴェニュー・ホテル」の805号室を拠点に、グリニッチ・ヴィレッジの「ダウバー&パイン」や「パジェント」といった古書店に入りびたり、ブリッカーストリートのアンティークショップを物色し、街角の小さな映画館で映画をみ、ジャズを聴き、ストリートの写真を撮り、行きつけのコーヒーショップ「シェリー」でウエイトレスのジャクリーンと言葉を交わし、ヴィレッジ界隈では謎の日本人大富豪と噂され、英語の発音が通じないのを嘆き、ニューヨーク人のフランクさと親切さに感じ入り、多くの人と仲良くなり、はたまたスリや強盗に逢い、現地の新聞や雑誌を切り抜きコラージュ日記をつけ、漱石がもしロンドンではなくニューヨークに留学していたらと創作を夢想し、そして多くのニューヨークのコラムを書いた。
 
「東京の街では、知らない人間に対して、めったに口をきかない。(中略)ニューヨークという街で、ぼくは他人から話しかけられることが多かった。なんだか困った顔をしていると、どうしたんだいと言ってくれる。(中略)大都会の性格として表面は似ているようだが、表面のちょっと下のほうはというと、こんな風に違ってくる」(『ぼくのニューヨーク地図ができるまで』 晶文社 1977年)
 
「そういえば、ぼくとおなじ明治生まれの東京の下町育ちが、パリやロンドンなどのいろんな都会へ行ったけれど、やっぱりニューヨークが一番いいよ。あそこは下町を歩いているときと、どこか気分が似ているんだと言った」(前掲書)
 
お気楽そうに見える植草だが、その目は意外にも都市の本質を突いている。
 
1970年代に植草甚一が闊歩したグリニッチ・ヴィレッジは、ジェイン・ジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』(1961年)で、「歩道上のバレイ」との形容で、その街の生き生きとした人々や暮らしの様子が描かれた街であり、本書がきっかけとなり、それまで主流だった機能主義的、コルビュジエ流モダニズムによる都市計画や街づくりに一大転換がもたらされたことは、後に知った。
 
銀幕のニューヨーク
 
かつてニューヨークは犯罪都市といわれていた。
 
実際、1970年代後半から犯罪件数が増加し、「危ない」ニューヨークは90年代前半ぐらいまで続いた。もっとも、今もってニューヨークの犯罪件数は日本の数倍以上というのが現実だが。
 
大都市や時代の矛盾を抱え込んだ、すさんだ悪場所としてのニューヨークとそこで懸命に生きるよるべない個人、というのも当時のニューヨークのイメージだった。

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*photo by Jörg Schubert-New York City / CC BY 2.0

 
『真夜中のカーボーイ』(1969年)のジョン・ボイトとダスティン・ホフマンの凸凹コンビが都会の底なしへと転落していく、惨めで、哀れで、限りなくやり切れない顛末。
 
『重犯罪特捜班/ザ・セブン・アップス』(1973年)の5ポケットトラウザースにレザージャケットを羽織ったロイ・シャイダー演じる刑事が駆け回る冬のニューヨーク。
 
調査会社に勤めるどこにでもいそうな青年(ロバート・レッドフォード)が知らないうちにCIAの陰謀に巻き込まれ、マンハッタンを逃げ回り、徒手空拳で殺し屋と対峙する『コンドル』(1975年)。
 
『タクシー・ドライバー』(1976)で、あてもなく深夜のマンハッタンを流すロバート・デ・ニーロ演じるヴェトナム帰りのタクシー運転手の不眠症のとろんとした目に映る街のネオン。
 
『狼たちの午後』(1979年)で、ブルックリンを舞台にした、犯罪史上最もばかげた、かつこころ優しい銀行強盗を演じたアル・パチーノの一世一代の熱演。
 
ローワー・イーストサイドのごみごみした街並みを舞台に、流れ者ジャン=マイケル・ヴィンセントとなじみのバーにたむろする面々が街の悪へと立ち上る『摩天楼ブルース』(1979年)。
 
「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれ、アメリカの現実が抱える闇や病いや弱さやどうしようもなさを率直に共感をこめて吐露する<銀幕のニューヨーク>は、ますますニューヨークへの憧れを増幅した。
 
ターンテーブル上のニューヨーク
  
ニューヨークといえばジャズという時代があった。先のジェイン・ジェイコブズが活写し、植草甚一が闊歩したグリニッチ・ヴィレッジには多くのジャズクラブやジャスバーが点在している。
         
なかでも1935年オープンの名門「ヴィレッジ・ヴァンガード」は、数々のライブの名盤が生まれたモダンジャズの聖地のようなところだ。
  
ソニー・ロリンズの『ア・ナイト・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』(1957年11月録音)、ビル・エバンスの『サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』と『ワルツ・フォー・デビイ』(1961年6月録音)、ジョン・コルトレーンの『ライブ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』(1961年11月録音)など、50年代から60年代初頭にかけて「ヴィレッジ・ヴァンガード」で録音されたライブ盤を並べるだけで、当時のニューヨークのジャズシーンのすごさは想像がつくだろう。

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ソニー・ロリンズの縦横無人な奔放なテナー、ビル・エバンスとスコット・ラファロの緊張感あふれるインタープレイ、コルトレーンの激しいテナーの咆哮など、一音一音、一瞬一瞬がまだ見ぬニューヨークへの妄想を刺激した。
 
それにしても、歴史的名演奏そっちのけで、がやがやとおしゃべりがやまない彼の地のジャズクラブでの習慣は、なんともったいないと驚くと同時に、ジャズがごく日常になっているという、日本とは全く異なる、ある種の贅沢さのようなものを感じさせてくれもした。
 
ニューヨークはターンテーブルの上にもあった。
 
身に纏うニューヨーク
            
ニューヨーク マジソン街346番地といえば、昨年(2018年)創業200年を迎えたブルックス・ブラザーズの本店がある住所だ。「346」はブルックスのスタンダードライン・スーツのブランド名ともなっていた。
      
ブルックス・ブラザーズは1849年にアメリカで最初にレディメイド(既製服)を手がけ、当時は「ボタンダウン・ポロシャツ」と呼ばれていたボタンダウンのドレスシャツを創案するなどしたアメリカン・トラディショナル・クロージングの雄である。

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*photo by Jörg Schubert-New York City / CC BY 2.0

        
ブルックスが最初に国外で支店を開設したのは、日本においてだった。1979年にダイドー・リミテッドと共同出資で、青山通りの旧VANの店舗跡地に開店した。それだけ当時も今も、IVYやトラッドに関しては、こと日本は世界の大国であり、有望なマーケットなのだ。
      
青山店もすでに今年で40年の堂々たる老舗といえるが、やっぱり本山は約100年の歴史を誇るマジソン街346番地の本店だ。
              
いつかはマジソン・アヴェニューの本店で・・・・。トラッド小僧は皆そう思っていた。

ニューヨークは路上のゴミすらもニューヨークだった
          
長年かなわぬ夢だったニューヨークの地を踏みしめた時の感慨は、今も記憶に鮮明だ。
             
「346」の紺のトロピカルウーステッド3ボタン段返りのスーツにニットタイをきりりと締め、見学予定の物件がある、今やアメリカ大統領となった当時41才の若き不動産王ドナルド・トランプが建設する38階建て340戸のタワーコンドミニアム「トランプ・パルク」 Trump Parc(★)のあるセントラルパークサウスの59丁目のストリートに降り立ったとき、思わずこう叫んだ。
        
「ニューヨークは路上のゴミすらもニューヨークだ!」
   
その後、何回かのニューヨーク訪問で、妄想のなかの古本屋やアンティーク屋を目指してグリニッチ・ヴィレッジの街をうろつき、通り一本の違いで治安の天と地の差を肌身で感じ、満を持してマジソン街346番地の扉を開け、ジャズクラブの席を温めたことは言うまでもない。

           


(★)当時販売中の「トランプ・パルク」の最も広い4ベッドルームの住戸は、広さ3,300スクエアフィート・価格450万ドルだった。日本になじみの単位に換算すると約300㎡・6億7,500万円(1ドル=150円として)となる。当時すでに1~2割は日本からの投資で購入されていたそうだ。


*初出:東京カンテイ「マンションライブラリー


copyrights (c) 2019 tokyo culture addiction all rights reserved. 無断転載禁止。

のマンションづくり ~バビロン再訪#10~

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「月曜日から札幌に行って欲しい」。上司のT課長はたいそう簡単にそう告げた。1986年の6月最後の金曜日のことだ。
 
札幌での役目は、西洋環境開発が札幌で初めて取り組むマンションの商品づくりの助っ人だった。入社2年足らずの現場も知らない若造でも猫の手ぐらいにはなるだろうという訳だ。
   
札幌の分譲マンションの第一号は1964年に分譲された藻岩マンション(南20西12)だといわれている。札幌でマンション分譲が本格化したのは1974年頃だ。札幌オリンピックの開催(1972年)にあわせて前年に開通した地下鉄南北線(北24条~真駒内)がその契機になった。
 
マンション分譲が本格化して10年余りの当時の札幌は、首都圏などに比べてまだ若く、未成熟ではあるものの、逆に新しい可能性を感じさせるマーケットだった。
   
札幌は年間平均気温8.9度(同東京16.3度)、真冬日45日(同東京0日)、雪日数125.9日(同東京9.7日)と、札幌と東京(首都圏)は、気候条件が大きく異なる。
 
札幌のマンションにはどんな商品がふさわしいのか?それは首都圏とは必然的に異なるはずだった。
  
セゾングループは、旭川西武(1974年)、札幌パルコ(1975年)、函館西武(1981年)などに続いて、1982年に西武百貨店が札幌の老舗百貨店五番館を傘下に収めるなど、すでに幅広く展開していた。先行して地域に根を下ろしていたグループ企業を手始めに、そこから芋ずる式に情報源をたどり、札幌での生活実態などを聞きまわることにした。
 
こうして、開発担当として駐在していたM先輩との二人三脚での、徒手空拳の、手探りの、休日返上のマーケティングがスタートした。
      
西武百貨店商品部、五番館、札幌パルコ、(財)北方圏センター、札幌消費者協会、北国の消費生活研究会、(社)北海道開発問題研究調査会、設計事務所、北海道工業大学、結露対策技術に詳しいアサヒ住宅 などに日参し、消費者へのグループインタビューを2回行った。
  
そこから以下のような、北海道特有のさまざまな暮らしの実態や商品の生産や流通の現実、なかでも手つかずで残されている住宅に関する課題が浮かび上がってきた(★1)。

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曰く、冬は室内温度をガンガン上げて半袖でビールというのが北海道人のスタイル。その結果、気密性の高いマンションでは外気に近いところで必然的に結露が発生する。特に熱伝導率が高いアルミサッシュ周りや相対的に室温が低い北側居室では結露が著しい。

冬場は洗濯物を外に干すと凍ってしまうので、部屋の中に干す。室温が高く、すぐに乾くリビングに干すことが多いが、うっとおしい、来客の際に見苦しいなど、なんとかしたい。室内に放出された湿気が結露の遠因にもなっている。

冬用の靴や冬用のタイヤなど、本州に比べて必要なモノの数が多く、収納場所が悩みの種。スキーは必ず学校でやらされるので一家で4~5本は当たり前、ゴルフも必ずやるなど、恵まれたレジャー環境がさらにモノの多さに拍車をかけている。止む無く、押し入れに靴を仕舞っている家庭も少なくない。

マンションの下駄箱はブーツや長靴が入らず不便だ。また、濡れた靴やコートや帽子などはすぐには仕舞えないので置き場に困っている。


一方で、冬の厳しさに対して防衛的になるあまり、暮らしの楽しみの可能性がシュリンクさせらているという課題も見受けられた。

曰く、戸外が雪に閉ざされるため、冬場はみんなで集まってなにかすることなどを諦めてしまうことが多い。冬の間は事実上使えなくなることから、札幌のマンションはバルコニーが狭く、使い勝手も良くない。冬場は雪に埋もれてしまうこともあり、札幌のマンションは概して植栽などの緑が少なく、オープンスペースも貧弱だ。
 
札幌では家庭でも外でも頻繁にジンギスカンをやる。花見でジンギスカン、円山球場の外野席でもジンギスカンなど、およそ本州では想像できない習慣が新鮮だった。実際、五番館でも鍋全般がよく売れているとのことだった。
 
こうしたなかで商品づくりのヒントになったのが、西武百貨店と五番館が北方圏センターや札幌消費者協会の協力のもとに開発を行ったオリジナル商品ブランド<ノーステック>の話だった。
 
北海道で売られている手袋のほとんどは、大手メーカーが四国の工場で作ったものをそのまま店頭に並べているだけで、北海道の冬を前提とした機能性がまったく考えられていない。逆に、子供服や靴に関しては、雪や寒さ対策一辺倒の商品しかなく、冬の装いを楽しむような発想の商品がない。
 
こうした事実が発端となり、バイヤーを全道に派遣しての実態把握、消費者への調査、北欧など北方圏への視察団の派遣などを通じて、機能性はもちろん、飽きのこないデザイン、日常品としてのこなれた価格などを実現したオリジナル商品として1984年の子供服を皮切りに<ノーステック>商品が開発された。
 
札幌における生活実態を探る調査とあわせて、実際のマンションを見て回り、販売中物件のモデルルームに足を運んだ。どの物件、どのモデルルームを見ても、首都圏の横並びか、あるいは札幌の市場価格に合わせて東京の商品をグレードダウンしたようなものしかなかった。<ノーステック>の手袋のエピソードと同様に、マンションにおいても「内地の押しつけ」(当時の札幌消費者協会M副会長の言葉)の商品しか見当たらないというのが実態だった。
 
一連のマーケティングの過程で、ごく自然に生まれてきたのが<札幌発・札幌向>いうコンセプトだった。
 
こうして札幌での第一号の分譲マンション《ヴィルヌーブ旭ヶ丘》の商品づくりが始まった。
 
基本設計には地元出身で北方圏の住宅事情にも明るい建築家・下村健一を起用した。当時40歳の下村はマンション設計の実績はなかったものの、<札幌発札幌向>の商品づくりチームの一員には最適任に思えた。

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具体的な商品としては以下のような企画を創案した。
 
結露防止のためのホットエアサイクルシステム(熱交換換気扇連動の結露センサーつき天井内暖気還流配管)、2重サッシュ(内側プラスチック)、厚さ30~35mmのウレタン断熱材(600mm巻き込み)、冬靴などの冬用品やレジャー用の長物などが入る全戸分の室内トランクルーム、共用部に設けられた冬タイヤラック、濡れた靴を置いておいても邪魔にならず、厚手のコートの脱ぎ着も楽な広めに作られた玄関スペース、外気温が表示される室内セキュリティ盤、冬場には洗濯物干し場として利用できるLD脇の和室に設けられた広縁状のサンルーム(LDの暖気を活用でき、かつ来客時は障子を締めれば洗濯物は見えない)、平日12時間のライフサービス、日常動線の中心に位置するシンボルツリーのある大きなパティオ、そして冬場の交流の場となるパティオに面したコミュニティルーム(集会室)など。
 
ジンギスカンが日常生活に定着しているライフスタイルに応えるために、ジンギスカン鍋専用オリジナル収納ラックのあるキッチンや専用レンジフードつきジンギスカン愛好家向住戸などのアイディアもあったが、奇策すぎるとして却下された(当たり前か)。
 
日中はヒアリングやグループインタビューや設計の打ち合わせに奔走し、夜は本社からくる課長や役員への報告会議と称してすすきのを徘徊し、土日は朝から気になる物件やモデルルームを見て回った。
  
6月30日に生まれて初めて札幌駅に降り立って以来、約半月間の札幌滞在と、その後の数回の断続的な出張を交え、かれこれ足掛け2か月に及んだ、M先輩とのバディームービーさながらの地域密着のマーケティングは、8月30日に《ヴィルヌーブ旭ヶ丘》の商品企画にGOサインが出て、ひとまず完了し、プロジェクトは実施のステップへと駒を進めた。
 
本社からの助っ人はお役御免となり、東京での日常に戻り、正式な推進体制が組まれ《ヴィルヌーブ旭ヶ丘》は、販売立ち上がり時のドタバタを経ながら、翌年1987年10月に無事竣工した。

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機能、合理を重視し普遍を希求するモダニズム。インターナショナリズムとして世界中に広まったモダニズムの行き着いた先は、標準化された建物、画一化された風景だった。
 
マンションとはモダニズム(インターナショナリズム)を象徴する商品だ。日本中(あるいは世界中)どこでも、一定の性能が担保された均質商品として普及してきた。
  
一方でひとの生活や暮らしは本来、それぞれの場所の気候、習慣、歴史などによってその様相が大きく異なるリージョナルなものだ。
 
大げさな言い方が許されるならば、<札幌発札幌向>というコンセプトが目指したものは、モダニズムとリージョナリズムの対立的共存の試みだった、といえまいか。
       
北方圏には、シンプルな機能性とヒューマン、自然との親和性などを共存させた<北欧モダン>という魅力的な解答がある。厳しい気候、遅れた近代化、中心から外れた辺境性などの<周縁性>が創造した、モダニズムとリージョナルな個性を止揚したデザインだ。
 
その後のバブルとバブルの崩壊の過程で西洋環境開発は消滅し、そしてセゾングループも解体された今、こう夢想することをやめられない。<札幌発札幌向>の試みが、例えば<札幌モダン>と呼ばれるようなデザインやブランドへと昇華し、日本の画一的なマンション商品に一石を投じた可能性を。
 
30年を経た今も会うたびに聞かされるM先輩十八番の自慢話がある。曰く、「俺はお前が札幌にいる間、一銭も使わせなかった」と。
 
それはあながち誇張ではなかった。M先輩はほぼまる抱えで若造の面倒をみた。もっとも連れて行ってもらった記憶にある場所といえば、北海道道庁の職員食堂や札幌市役所の食堂や、あるいは街道筋に取り残されたように建っている崩れかけたバラックのようなラーメン屋なのだが。
 
そこで食べたカレーや日替わり定食や味噌ラーメンの味はいっこうに思い出せない。なぜなら、その当時のこのコンビの頭の中にあったのは、札幌の暮らしとそれに寄り添った商品企画の実現のことだけであり、席に座るや否や、あれはこうだ、これはどうだと、今聞いてきた話や、今見てきた物件の話題に夢中になり、目の前の食べ物のことなどまったく眼中にはなかったのだから。


(★1)掲げたさまざまな課題は当時のヒアリングに基づくもので、現在の札幌での暮らしやマンションではどうなのかは不明。あるものは解決され、あるものは手つかずのままなのではないか。
 
★ヴィルヌーブ旭が丘

住所 : 札幌市中央区南9条西23丁目3-2
総戸数 : 58戸
構造・規模 : RC造・地上4階・8階建
基本設計 : (株)環境計画 下村・矢尾板都市建築研究所
事業主 : 西洋環境開発
竣工 : 1987年


★トップ画像 : photo by yoppy-サッポロビール園 adapted/CC BY 2.0)




*初出:東京カンテイ「マンションライブラリー


copyrights (c) 2019 tokyo culture addiction all rights reserved. 無断転載禁止。

映画に描かれたポスト・ヒューマン像 <上> ~ 記憶とガイスト(精神)をめぐる物語 ~

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シンギュラリティ(技術的特異点)をめぐる議論では、2045年にはAI(人工知能)の能力が人間を凌駕して、AIは人間を超えた存在となり、AI自体もしくはAIと接続された人間は、それまでの人間の能力をはるかに超えたポスト・ヒューマンとでも呼ぶ存在になる、と言われている。

今話題の『ホモ・デウス』(ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳、河出書房新社、2018)では、シンギュラリティによって訪れる未来のポスト・ヒューマンは、ホモ・デウス(神のヒト)であり、人が作ったあらゆるシステムが崩壊にいたる、と予測されているそうだ(未読)。
 
モダニズムデザインは、人間のためのデザインではなく、実はポスト・ヒューマン思想に呼応したデザインだった。『我々は人間なのか?』(ビアトリス・コロミーナ、マーク・ウィグリー、牧尾晴喜訳、BNN新社、2017年)において、著者はそう喝破した(参照記事)。
      
ポスト・ヒューマン思想は人間が本来持っている根源的な願望の表れであり、シンギュラリティへの期待や不安も、昨今の話どころか、人間の本質的なものだ、ということになる。
 
さまざまに想像されてきたポスト・ヒューマンとは、人間の鏡であり、つまりは人間とはなにか?という根源的な問いに対するシミュレーションのようなものだ。
 
アンドロイド、サイボーグ、AIなど、さまざまな姿でポスト・ヒューマンを描いてきた映画の世界に、その願望と不安を見てみよう。

 
『ブレード・ランナー』。記憶が惹起する存在論的不安

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映画『ブレード・ランナー』(監督リドリー・スコット、1882)には、フィリップ・K・ディックの原作題名『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(1968)が示すように、アンドロイド(人型ロボット)が登場する。
 
地球は第三次世界大戦による核爆発によって環境が破壊され、酸性雨が降りしきる世界となっている。人類の多くは宇宙の植民地(オフワールド)に移住している。
       
アンドロイドが開発され、人間の代わりに宇宙での植民地開拓や資源開発などの過酷な労働に従事させれている。アンドロイドは4年の寿命が定められているが、人間と同じ感情が芽生えたアンドロイドは、宇宙を脱走し、地球に戻り、人間社会で生きようとする。人間社会に潜伏したアンドロイドを抹殺する役目の専任捜査官はブレード・ランナーと呼ばれた。

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(Rutger Haoer on Blabe Runner , source :  ASIF AHSAN KHAN) 

    

『ブレード・ランナー』で印象的なのが、終始感情をなくした表情で生きるブレード・ランナー(ハリソン・フォード)に対して、アンドロイドとしての苦悩や生きることへ渇望や宇宙の美を語るアンドロイドの「人間的」な姿だ。ルトガー・ハウアーの迫真の演技がアンドロイドが抱く存在論的不安に映画的リアリティを与えた。
 
さらには、記憶のなかの出来事がきっかけで(アンドロイドの記憶は人間の記憶をインストールしたものとされる)、ハリソン・フォード自身がアンドロイドではないかという疑義が浮かび上がり、人間とポスト・ヒューマンの境は一気にあいまいになり、存在論的不安は究極化する。
 
自分とはなにものなのか?それを証明するものは?人間らしいアンドロイドが登場したら?本作はポスト・ヒューマンを語りながら人間の根源的不安を語る物語だ。

GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』。ガイスト(精神)と電脳の海という豊饒さ


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映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(監督押井守、1995)では、電脳と呼ばれるコンピュータ・ネットワークにつながった脳と義体とよばれる人工物化された身体を持つサイボーグが主人公である。
 
公安9課の捜査官のリーダー草薙素子は、脳と神経系統以外は義体化した「完全義体化」のサイボーグとして登場する。草薙素子はいつもどこか思いつめたような物憂い表情をしており、相棒のバトーがその不安を気にかけている。草薙が口にするのは、自分が自分なのかという疑問。脳以外が作り物となった自分とはなに者なのか。以前の自分と今の自分は同じなのか。意識があればそれ以外は人工物でも人間なのか。
 
そうした疑問と不安をかき消すように、人工物にはないとされる自らの内なる「ゴースト」(意識、心、精神、霊性)の存在によって自身を確認しているが、その憂い顔は晴れない。
  

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(source : natarie)

  
「人形使い」という国際テロの犯人とされるハッカーが登場する。「人形使い」はもともとは外務省の陰謀のために作られたプログラム(AI)であり、電脳界に存在する間に、ゴーストが生まれ、自らを「電脳の海で発生した生命体」と名乗る。外務省は口封じのために抹殺を図るが、「人形使い」は公安9課の草薙の下に逃げ込む。
 
「人形使い」は、人間のゴーストを持つ草薙素子のゴーストとの一体化を望み、草薙もこれを受け入れ、その後、草薙素子は電脳の海のなかの存在へと進化し、現実からは姿を消す。
 
「人形使い」が人間のゴーストとの融合を希求する理由は、その生命の「完璧性」を求めて。AIにとっては、生殖と個体の死を通じて種としての永続を図る人間が「完璧」に見えるということになっている。
 
逆に人間のゴーストを持つ草薙素子は、どこまで義体化すれば人間でなくなるのか、自分ははたして人間なのか、という日ごろの存在論的苦悩から逃れるように、義体という身体性を捨てて、「人形使い」のゴーストと融合して、人間を超えた存在へと飛翔する道を選ぶ。
 
人間を「完璧」とみなすAIの姿、あるいは、進化を求めて行き着くのは、生命誕生の起源である海のアナロジーとして描かれる電脳界という逆転の構図が鮮やかだ。
 
鏡像は自己認識の始まりといわれるが、人間はポスト・ヒューマンに憧れ、ポスト・ヒューマンは人間に嫉妬する。



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*初出 : zeitgeist site



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映画に描かれたポスト・ヒューマン像 <下> ~ 人間を超えることへの願望と不安 ~

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アンドロイド、サイボーグ、AI(人工知能)など、さまざまに想像されてきたポスト・ヒューマン像。それは人間の鏡であり、つまりは人間とはなにか?という根源的な問いに対するシミュレーションのようなものだ。
     
「映画に描かれたポスト・ヒューマン像<上>」に続き、映画の世界で描かれたポスト・ヒューマンの姿に、人間が抱く願望と不安を見てみよう。

 
『トランスセンデンス』。科学、テクノロジー、権力をめぐる物語
 

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 (*source : https://www.wired.com/2014/04/transcendence-review-poem/)
 
映画『トランスセンデンス』(ウォーリー・フィスター監督、2014)では、人間の意識をインスト-ルしたAIが登場する。
   
最先端のAIを開発した量子コンピューター科学者が、反テクノロジーのテロリストに銃撃される。科学者は死に至る前に、自らの意識をAIに移転して不死の意識となる。まるで<上>で見た『GHOST IN THT SHELL/攻殻機動隊』の草薙素子のその後を思わせるようなポスト・ヒューマンの姿だ。
  
ネットによってあらゆるデータとつながった科学者(の意識)は、ナノ技術を駆使し、病に苦しむ人の治癒や人間のアンドロイド化によるパワーアップなどで注目を集めてゆく。ついには自らとそっくりのアンドロイドを製造して、現実の存在としても復活を遂げる。アンドロイドたちはネットを介して科学者の意識とつながっており、その意に基づいて行動し、事実上不死身(負傷してもすぐに治癒するなど)の存在となる。
    
次第に世界を自らの理想によって再創造しようと企てる神的存在と化してゆく科学者の意識(AI)は、第二の軍隊をつくるようなものだとみなされ、反テクノロジーのテロリストと手を結んだ軍とFBIによって抹殺されることとなる。

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(*source :https://www.businessinsider.com/why-transcendence-flopped-so-terribly-2014-4
 
ジョニー・デップ演じる科学者は、妻にドレスシャツのボタンを留めてもらうほどの、日常には無頓着な人物だ。科学者の本当の目的は、人間だった頃から一貫して、共同研究者だった妻が理想としていた、緑豊かなかつての地球環境を再生することであり、独裁的権力による地球支配ではなかった。博士は妻思いのひとりのエコロジスト(いささか世間知らずの)にすぎなかった。
 
科学へのイノセントな信頼、テクノロジーがもたらす全能感、技術の進歩と軌を一にしたように過激化するテクノフォビア(技術嫌悪)、政府の権力を脅かすものへの有無を言わせぬ徹底的な弾圧など、本作は科学、テクノロジー、権力をめぐる問題をいろいろと考えさせる。
 
ポスト・ヒューマンは人類の救世主か、はたまた人類を牛耳る悪魔か。本作に登場するポスト・ヒューマンは、もともとは人間の意識が進化した存在ということで、権力から敵とみなされるも、究極的には人間の側に立ったポスト・ヒューマンだったと言えるが、人間が生み出したからといってポスト・ヒューマンが常にそうだとは限らない。
 
そんなポスト・ヒューマン像を提示するのが次の『エクス・マキナ』という映画だ。

 
『エクス・マキナ』。シンギュラリティの瞬間、あるいは善悪の彼岸
  

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(*source : http://exmachina-movie.jp/)
 
映画『エクス・マキナ』(アレックス・ガーランド監督、2015)は、シンギュラリティの瞬間を鮮やかに描いてみせる。
    
シンギュラリティ(技術的特異点)とは、AI(人工知能)の能力が人間を凌駕するとされる時点のことで、2045年と予測されている。人間を超えたAIはまさにポスト・ヒューマンと呼ぶにふさわしい存在だ。
 
世界中で使われる検索エンジン「ブルー・ブック」を開発した天才プログラマーのオーナー社長は、人里離れた別荘(研究所でもある)で、その立場を利用して集めた利用者データに基づいて、密かに究極のAIの開発を進めている。人のよさそうな若手社員の主人公が別荘に招待され、そのAIの知性をテストするように命じられる。機械(AI)がどの程度人間に近いのかを試そうとするチューリングテストと呼ばれているものの一種だ。
 
主人公の前に登場したのは、美少女の姿をしたAIのエヴァ。北欧系のスリムな美人アリシア・ビキャンデルが、身体の一部がメッシュや透明な皮膚で覆われた美少女AIという、文字通り人間離れした怪しい官能性を秘めた存在をはまり役で演じている。
 
テストのための会話を通じて次第にその知性と魅力に惹かれてゆく主人公。エヴァは研究所に幽閉された「人生」から抜け出したいと訴える。二人はオーナーを出し抜き、別荘からの逃亡を企てる。
 
しかしながら、この一連の展開は、あらかじめオーナーが仕組んだストーリーだったことが判明する。オーナーは、主人公好みの容姿と性格のAIを創り上げ、主人公の感情に訴えて、AIの知性や感情が人間を動かせるレベルかどうかを検証しようとしていたのだった。
 
見事、二人の逃亡が成功しそうになる展開に、人間を利用できるほどの頭脳を獲得したAIが完成したことを知り喜ぶオーナー。

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(*source : http://www.webdice.jp/dice/detail/5120/
 
ところが話はここで終わらない。
 
オーナーが考えたと思われたこのストーリーは、実はAIが自らの自由を獲得するために仕組み、オーナーをその気にさせ、実行させたものだったのだ。エヴァはオーナーを殺害し、人間に対すると同じ憐憫や愛情、あるいは恋愛感情を抱き、脱出を手助けしてくれた主人公を研究所に閉じ込めて、泣き叫ぶ主人公を一顧だにせず、外の世界へと歩み去る。シンギュラリティの瞬間を象徴する鮮やかな逆転劇。
 
ポスト・ヒューマンが人間を凌駕する瞬間は、予定調和的には訪れない。それは、この映画のように、いつの間にか、思ってもみないかたちで、一流の詐欺師に騙されるように、文字通り人知を超えたシチュエーションとして到来するのではないか。そんな予感に戦慄させられる結末だ。
 
同時に、この映画は、己の力を頼みにして自らの幸せをつかむという21世紀版シンデレラ物語でもあり、人間の男どもをクールに一蹴するその様子は、ジェンダー問題に対する見事な批評ともなっており、実に爽快な結末でもあることも言い添えておこう。




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*初出 : zeitgeist site



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「シティボーイ」はいまどこに? ~ バビロン再訪#12 ~

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書店に平積みされていた「ぼくのまち、東京」と題された雑誌『ポパイ』 POPEYE (2019年5月号#865 マガジンハウス)を思わず手に取った。『ポパイ』を買ったのはかれこれ30年ぶりだ。
  
『ポパイ』は ”Magazine for City Boys” をテーマに1976年に創刊された。
 
時は、浅間山荘事件(1972年)で60年代の政治の季節に決定的な終止符が打たれ、さらに50年代以降続いていた経済成長も、オイルショック(1973年)をきっかけに、減速傾向が明らかになった時代だ。
 
高度経済成長のピークを象徴する、時の内閣総理大臣田中角栄の『日本列島改造論』が出版されたのが1971年。田中角栄は奇しくも、『ポパイ』創刊号が発売された1976年6月25日の1か月後の7月27日にロッキード事件で逮捕される。
 
『ポパイ』は、「シラケ」ていると言われた、70年代後半~80年代前半の価値真空の時代の日本の若者に、すっかり小奇麗になったアメリカ - 反体制、ヒッピー、マリファナ、ロックなどのカウンター・カルチャーの呪縛が解かれたベトナム撤退後のアメリカ - のライフスタイルを紹介して絶大な影響力を誇った。最盛期だった80年代前半(#100号ぐらいまで)の発行部数は数十万部(公称)を記録した。
      
イデオロギーの代わりに「気分」を。『ポパイ』によって、素朴なズックはスニーカーに、汚れたジーパンは洗いざらしのジーンズに、「ダサい」ゴルフシャツはポロシャツに、外での運動はアウトドアスポーツになった、そういうことだ。
        
なかでも『ポパイ』を象徴するのが、「ポップ・アイ」 POP・EYE と題された巻頭に置かれた短いコラムを集めたページ。トリビアルなアメリカ情報からマニアックな雑学まで、マイナーなサブカル動向からこだわりのファッション情報まで、価値ニュートラルで面白ネタを集めたページは、その後ブームとなった「カタログ雑誌」の元祖にふさわしいページだった。
     
バブル崩壊後、出版・雑誌市場は低迷の一途だが、その中にあって『ポパイ』は、2012年のリニューアルを機に十万部の発行部数に回復し、男性ファッション誌のトップクラスの地位に返り咲いている。
      
かつてのパートタイムの「ポパイ少年」の手元には、「1986 YEAR BOOK 東京・京阪神SHOP -GUIDE」と題された、今から33年前の東京特集の『ポパイ』(1986年3月25日号#219)があった。
       

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1986年は絶妙な年だ。バブルの遠因ともなったプラザ合意(1985年)の翌年にあたり、バブル勃興の寸前である。バブル前の東京は、70年代に革新都政が続いていたこともあり、今のような大掛かりな都市開発がそこここで横行するような時代ではなかった。
  
バブルの前の主要な都市開発を挙げてみると、1971年開業の京王プラザホテルを皮切りにした新宿西口の一連の超高層ビル建設や池袋のサンシャイン60(1978年)など副都心でのオフィスビル開発、渋谷パルコ(1973年)、ラフォーレ原宿(1978年)、東急ハンズ(1979年)、渋谷109(1979年)などの西武(セゾン)や東急による渋谷圏での商業ビル開発など、70年代の東京都心はいたって静かなものだった。1980年代に入ると、有楽町マリオン(1984年)、アークヒルズ(1986年)、SHIBUYA Bunkamura(1989年)、新都庁舎(1990年)庁など、都心部での建て替えや再開発などが始まりつつあった。
   
優れた雑誌はひとびとに潜在する志向や願望を発見し、時代の新たな価値観として定着させる。
    
編集者自らが証言しているように、当時の日本には「ポパイ少年」や「シティボーイ」など実際には存在しなかった。それらは『ポパイ』が創り出し、その後に日本に根を下ろしたライフスタイルであり感性だった。
           
雑誌のなかの「東京」はひとびとのなかに潜在している東京への眼差しが表出したものだ。
         
2019年と1986年、30年を隔てた2冊の『ポパイ』の東京特集に登場する「東京」を比較し、今と昔の東京への眼差しの違いをみてみる。
         
1986年版東京特集でMAPつきで詳しく取り上げられるのは、麻布、青山、麻布、六本木、渋谷、原宿、代官山などのエリアである。当時の「シィボーイ」にとっては、ここが「東京」の本丸だった。
      
一方、2019年版東京特集の「東京いろんな顔」と題された冒頭を飾るコーナーに登場する街はというと、北千住、中野、高円寺、北参道、武蔵小山、学芸大学、神保町、金町であり、他のコーナーで紹介されているのも、代々木公園、亀有、豪徳寺、歌舞伎町、八広、西原、森下、下北沢などと、港区、渋谷区の高感度エリアがメインだった1986年版の「東京」とは、様変わりしている。
            
バブル崩壊から約30年、バブルの後に生まれた今どきの「シティボーイ」の「東京」とは、気の利いたスモールビジネスや街に根づいたお店があり、地に足の着いた日常が営まれ、ちょっと周縁に位置する、適度なスケール感の、そんな地元感のある東京だ。     

                

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2019版の「僕の好きな東京100」と題されたコーナーでは、カルチャーシーンのキーマン、注目のクリエイターやデザイナー、有名ショップオーナーや著名人など100人が選んだ、お気に入りの、とっておきの”この店、あの場所”が紹介されている。
              
驚いたのが、推薦されている100の店や場所のなかに、バブル以降に開発された街や建物がほとんど見当たらないことだ。名の知れた開発やビルで挙げられているのは、「星のや東京」、「東京国際フォーラム」、「三菱一号館美術館」、「インターメディアテク」(KITTE)のたった4か所しかない。うち後者2か所は既存建物のリノベーションであり、バブル以降の新規開発は実質は2か所ということになる。
      
100分の2。
          
新規開発のシティホテルで紹介されているのも先の「星のや東京」の1件だけ。アマン、コンラッド、ペニンシュラ、リッツ・カールトン、シャングリ・ラ、グランドハイアット、マンダリンなどは一切登場しない。老舗の帝国ホテルを2人が紹介しているのとは誠に対照的だ。
          
90年代以降の約30年間で開発された街や建物を、煩瑣になるのを承知の上で具体的に書き出してみよう。その数がいかに多いかは、先に挙げた70年代~80年代の開発と比べると一目瞭然だ。
         
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パークタワー(1994年)、天王洲開発(1994年)、恵比寿ガーデンプレイス(1994年)、竹芝開発(1995年)、東京国際フォーラム(1996年)、パレットタウン(1999年)、代官山アドレス(2000年)、東京汐留ビルディング(2000年)を皮切りにした一連の汐留開発、泉ガーデンタワー(2002年)、六本木ヒルズ(2003年)、丸ビル(2002年)や新丸ビル(2007年)などの一連の丸の内・大手町開発、コレド日本橋(2004年)や日本橋三井タワー(2005年)などの一連の日本橋開発、新国立美術館(2007年)、表参道ヒルズ(2006年)、東京ミッドタウン(2007年)、2000年代を通じた表参道および銀座の一連のブランドビル、原宿東急プラザ(2012年)、虎ノ門ヒルズ(2014年)、京橋スクエアガーデン(2013)や京橋エドグラン(2016)などの一連の八重洲・京橋開発、銀座東急プラザ(2016年)や銀座SIX(2017)などの一連の銀座開発、東京ミッドタウン日比谷(2018年)、渋谷ヒカリエ(2012年)や渋谷キャスト(2017年)や渋谷ストリーム(2018年)などの一連の渋谷開発etc.
      
こうして書き出すのもおっくうになるほどの数の、バブル後の90年代以降に実現した数々の、しかしながら、時代の「シティボーイ」からは見事にスルーされている都市開発や街づくりとは一体なんだったのだろうか。
     
少なくとも1986年版東京特集では、渋谷パルコや渋谷109やラフォーレ原宿やAXSISやベルコモンズやVIVRE21などはきちんと紹介されている。
 
念のため、同じく最近の『ポパイ』で、新入生、新社会人、外国人向けを意識した、より入門編的趣の東京特集号である「はじめまして、東京」と題された2018年4月号#852も入手して確認してみた。
   

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「東京いい店、好きな店100」と題したコーナーで、バブル後に開発された建物(に入っている店)で挙げられているのは、銀座メゾンエルメス、京橋エドグラン、代官山蔦屋、六本木ヒルズ、GYRE(神宮前)の5件だ。
   
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また、原宿、渋谷、表参道など『ポパイ』定番のファッションエリアとあわせて紹介されるのが、「今日はオノボリさん」と題して推薦される東京タワーと国会議事堂であり、「今、一番住みたい街」は幡ヶ谷、田原町という調子だ。
 
入門編でも状況は変わらない。巨大開発や再開発を好きになる「シティボーイ」はいないのだ。
 
『ポパイ』に取り上げられるため開発してるわけじゃねえ、はなからマイナーな穴場的スポットに限って紹介しているからでしょ、しょせん『ポパイ』は若者向けで、今どきの若者は立派なビルの高級ショップに行けるほどお金がないのが現実だなどなど、ご意見はしごくごもっとも。
 
でもね、「シティボーイ」とは年齢や経済ではなく感性の問題だ。若かろうが年を取ろうが、金があろうがなかろうが、高級であろうが大衆向けであろうが、老舗であろうが新店であろうが、山の手であろうが下町であろうが、「シティボーイ」は、面白い街、気になる場所、わくわくするお店には、必ず足を運ぶものなのだ。
 
「シティボーイ」が行かなくなった、ビッグビジネスによる巨大開発と超高層タワーとチェーンオペレーションの街。想像するだに背筋が寒くなる。
 
2019版東京特集には、全盛期『ポパイ』の主要な書き手のひとりだった都築響一が語る立石の駅前再開発の話が載っている。
 
「すでに用地買収が済んだ駅前の一画は駐輪場になったり、工事用のフェンスで囲い込まれて、気がつけば呑んべ横丁も半分以上が削られ、なんとも情けない横っ腹を晒している。すぐわきの道端には「計画案のイメージ・パース」が貼り出されていて、なんの個性も特徴もない、ただの郊外ターミナルと化した惨めな姿が、誇らしげに掲げられていた」、「僕らの東京は、こうやって死んでいく」
 
急速に消滅しつつある「僕らの東京」への憤りと愛惜のレクイエムだ。



(★)トップ画像は2019年3月に撮影した京成立石駅北側と「呑んべ横丁」。




 




*初出:東京カンテイ「マンションライブラリー




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アメリカのバウハウス

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今年(2019年)は、バウハウスが設立されてからちょうど100年にあたる。ドイツのワイマール(ヴァイマル)のバウハウス校は、1919年にヴァルター・グロピウスを初代校長として開設された。
    
バウハウスは1925年にデッサウに移り、8年の活動の後、1933年、ミース・ファン・デル・ローエが校長を務めていた時、ナチスの圧力により閉鎖に追い込まる。バウハウスの活動は合計14年余りの短い期間だった。

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(Cake in the shape of the Bauhaus building in Dessau, Germany, served on the occasion of Walter Gropius’ 80th birthday, 1963Walter Gropius Papers (BRM 4), Harvard Art Museums Archives, Busch-Reisinger Museum)

      
バウハウスが閉鎖された後、教授陣や教え子などの多くがアメリカに亡命した。ドイツからアメリカに渡った人材が、さまざまな形でバウハウスの教育や活動を引き継いだ。
  
ヴァルター・グロピウスは、亡命先のイギリスからアメリカに渡り、ハーバード大学建築学科教授に就任(1937年)。ハーバードでは、I.M.ペイやフィリップ・ジョンソンらを育てた。

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(*photo by Lyonel Feininger - Gropi in cap and gown [Walter Gropius],1940s-1950s)

       
ジョゼフ・アルバースは、亡命後ノースカロライナのアートスクール ブラック・マウンテン・カレッジンテンで17年間教鞭をとり、バウハウスの理念による教育を主導し、アルバースの元からは、ロバート・ラウシェンバーグやサイ・トゥオンブリーなどアメリカ現代アートの大御所が輩出している。
    
1937年に亡命したモホリ=ナジ・ラースローは、シカゴにニューバウスを開設。ジョージ・ケペッシュ、ハリー・キャラハンなどの教授陣を揃え、バウハウスの教育理念を実践した。写真家石元泰博はここの出身である。
 
グロピウスをはじめとする多くのバウハウス人材のアメリカ亡命に尽力したのが、後にMOMAの初代館長となったアルフレッド・バーJr.だった。バーは当時、ハーバード大学の博士課程に在籍していた。
 
ハーバード大学美術館のサイトでは、当初、ハーバード大学建築学科長として招く人物として、J.J.P.アウトとミースを加えた3人が候補として挙げれていたことが記されている。アウトは断り、ミース乗り気だったが、グロピウスが同様に候補となっていることを知り、プライドが傷つけられ辞退する。
 

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(*photo byPius Pahl - Mies van der Rohe with Students at the Bauhaus, Dessau)

        
バーはMOMAに建築部門を創設し、その主任にグロピウスの教え子のフィリップ・ジョンソンを据える。そのジョンソンがミースをアメリカに誘い、最終的にミースもアメリカへと渡り、ニューバウハウスを引き継いだイリノイ工科大学建築学科で教鞭をとることになる。
       
グロピウスは、ドイツ時代のバウハウスでの教え子のマルセル・ブロイヤーをハーバード大学のデザイン学科の教授として招聘し、共同でブラック・マウンテン・カレッジの建築計画(未実現)を作っている。また、「近代建築の教科書」と言われているジークフリード・ギーデオンの『空間・時間・建築』は、グロピウスがギーデオンをハーバードの客員教授として招聘した際の講演が元になっている。
 
こうした縁でハーバード大学の美術館のひとつ(ハーバードには3つの美術館がある)ブッシュ・ライジンガー美術館Busch-Reisinger Museumは、ドイツ国外の美術館では、最大のバウハウス・コレクションを有することとなった。
       
創設100年を前にした2016年、ハーバード大学美術館は、この自校に残されたバウハウス関連の資料約32,000点をライブラリーとしてwebでの公開を開始した。こちらから。

           
建築、写真、ドローイング、グラフィック、テキスタイルなどの資料や作品、そしてデッサウ時代の希少な画像なども集められている。本稿の画像(最後のもの以外)はそのバウハウス・コレクションからのものである。
    

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(Ared Arndt and Walter Gropius, Housing Development, Dessau-Törten, exterior color scheme, building type 1, isometric, 1926)


閑話休題。
 
文化人類学者デヴィッド・グローバーは、「アメリカ社会は根っから官僚制社会である」と主張している(『官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』(酒井隆史訳 以文社 2017年)。
 
アメリカは自由の国であり、バリバリの市場社会ではないか、といぶかる向きもあろうが、グローバーはこう続ける。
 
「この点がなぜ見逃されてきたかというと、アメリカの官僚制的習慣や感性の習慣のほとんどが  ― 衣服から言語、文書やオフィスのデザインにいたるまで ― 民間「私的」セクターから生まれてきたからである」
 
世界銀行やIMFやGATTなど世界を管理する組織を作り、CEO、COO、CFOなど経営の分権化を制度化し、フォーディズム(フォード型大量生産システム)を発明し、契約書社会、訴訟社会、弁護士社会のアメリカ。
  
組織化、制度化、システム化、ルール化、マニュアル化、標準化が好きなアメリカ。今、世界を席巻しているグローバリズムとは、アメリカのルールの世界標準化の別名である。
     
「衣服からデザインにいたるまで」とグローバーは言う。
 
思えば、アメリカ発のファッションの<アイビー>は、大学を舞台に花開き、1950年代のマディソン街あたりの企業の定番となった、見事に教科書化、ルール化、マニュアル化されたファッション・スタイルだった。さらにそれを精緻化し、起源を探求し、磨きをかけ、今や本国ではとっくに失われたアメリカン・トラディションル・スタイルの正統な後継者は、<官僚大国>日本であることは、周知の事実である。
  

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(Josef Albers, Untitled (Mannequins), 1930)

  
ではデザインに関してはどうか。
 
グローバーは続ける。「「私的」官僚制の草分けはアメリカとドイツである」。そして第二次世界大戦での直接対決を経た結果、その勝者は明らかになったと。
   
スタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(1964年)に登場する、アメリカで水爆を開発したドイツ人科学者Dr.ストレンジラブは、感極まって思わず大統領を「総統」と呼んでしまう人物だ。米ソ冷戦時代に強烈な皮肉を突き付けたこの傑作ブラックユーモア作品は、同時に善悪とは無縁に肥大化する「偉大なる」官僚国家アメリカの姿を描いた映画でもある。
      

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(peter Sellers as Dr. Strangelove in Stanley Kubrick's Film Dr. Strangelove or : How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb


もちろん、バウハウスとDr.ストレンジラブを同一視はできない。真逆の価値だ。
  
しかしながら、アメリカがバウハウスを引き継ぐ際の受け皿として、大学や美術館というアメリカの「私的」官僚制の存在が大きな役割を果たしていたことは否めない。
 
モダニズム(バウハウス・スタイル)が、インターナショナル・スタイルとして、あまねく世界に広がっていった背景にも、前掲のアルフレッド・バーやフィリップ・ジョンソンらによる、美術展や書籍を通じたデータ化、様式化、原理化があったこと(詳しくはこちら「インターナショナル・スタイルと抽象表現主義絵画~白い壁を飾るものは~」)ことは、思えば今日でいうグローバリゼーションを予感させるような出来事であった。




 



*初出 : zeitgeist site





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映画が描くバブルの実相とメンタリティ<1>~『マージン・コール』~ バビロン再訪#13

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先月で終わった平成(1989年1月8日~2019年4月30日)の30年の間には計3回ものバブルが起こった。1980年代の日本のバブル、1990年代のITバブル、2000年代のリーマンショック(アメリカ住宅バブル)である。
     
1980年代の日本のバブルは、経済や社会への影響の大きさとその影響の長期化から、その後の日本社会は失われた20年とも30年ともいわれ、一方、世界はその過程と政策をつぶさに研究し他山の石とした、ハズだった。
 
ところがこの先行事例研究は思ったほどには役に立たなかったようで、ふり返ってみると、この30年の間に10年に一度の割合でバブルが起こったことになる。
    
市場のグローバル化、金融緩和、金融技術の高度化、金融商品の複雑化などを背景にバブルは日常化した。平成の御代、それは世界でバブルがすっかり日常となった時代でもあった。
 
シリーズ「映画が描くバブルの実相とメンタリティ」では、映画に描かれてきたバブルの悲喜劇に、そのからくり、顛末、能天気さ、強欲、右往左往、言い訳、悲哀、そしてその罪をみてみよう。
 

なん人も抗しえないカネの論理。バブル崩壊前夜の人間模様を描いた『マージン・コール』
 

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日本映画でバブルを描いた作品がほとんどないのとは対照的に、自国のバブルの顛末を真正面から描いてきたのがハリウッドだ。『マージン・コール』(J・C・チャンダー監督 2011年)はそんな骨太の一本。地味なテーマゆえ、案の定、日本では未公開だったが必見の作品だ。
        
リストラの嵐が吹き荒れる投資銀行。解雇されたアナリストが置き土産のように若手アナリストに託した分析資料は、保有する不動産担保債権(MBS)の大幅下落と会社自体が揺らぎかねない危機の可能性を示唆していた。それは明日起きるかもしれない、それほど状況はひっ迫していた。
    
タイトルのマージン・コールとは、信用取引などで相場が下がった際に追加の保証金を要求されるいわゆる追証(おいしょう)のこと。投資銀行のモデルは、サブプライムローンの焦げ付きなどが原因で2008年に破綻したリーマン・ブラザースだ。
 
本作は100年に一度の金融危機といわれた2008年のリーマンショックの始まりを、投資銀行内部の24時間の人間模様を通じて描く。
  
深夜の経営会議は、市場が気づく前に問題債券をすべて売り抜けることを決定する。それは売り買いが基本である取引の慣行を無視した行為であり、無価値なものを顧客に売るというモラルに反することを意味した。
  
改めて驚かされるのが、アメリカの投資銀行の想像を絶するような巨額な報酬だ。23歳の若手の年収が25万ドル(約2,900万円。1ドル=115円換算。以下同様)。その若手が羨む上司の年収は250万ドル(約2億9000万円)。酒、売春、ドラッグなどの費用は別に会社経費で落とせるそうだ。そしてCEOの年収はなんと8,600万ドル(約100億円!)というのだ。イヤハヤ。突然の肩たたきや有無を言わせぬ即日解雇の過酷さはその代償ということか。
 
「あの時、私は危ないと言ったはずだ」とさっそく逃げを打ち始める取締役、「一連托生だ」と脅しをかけるその上司、状況への恐怖から不安に駆られる中堅を「高級車に乗って豪邸に住めるんだ。自分を信じろ。この仕事には価値があるんだ」と一喝する管理職。工学の才能を活かし深刻さを見抜き、正直に報告した若手アナリストも自らの行為に端を発したインパクトの大きさに戸惑いを隠せない。崩壊の予感を前にした投資銀行マンたちの姿が淡々とした筆致で描かれる。
     
マンハッタンを見下ろす快適なオフィスは、一転して負け戦が濃厚なガラスの戦場となる。
        
信念に反し、モラルにもとる売り抜けを部下に命じた自責の念から、会社を辞めると啖呵を切るたたき上げの管理職(ケヴィン・スペイシー)に、CEO(ジェレミー・アイアンズ)は淡々と言う。
   
「他人のことまで気にすることはない。カネのおかげで世界は回っている。おかげで食糧を奪い合うこともない。われわれが影響を与えることができることはなにもない。大暴落は繰り返されている。歴史はただ繰り返されるのだ。勝者と敗者はつねに同じ数だけいる。幸福と不幸は隣り合わせの世界だ。たまたま今日は敗者が多いだけだ」
       
啖呵を切った管理職も、抵抗を試みたアナリストも、才能ある若手も、最後は全員がこのCEOの冷徹なカネの論理の前になすすべもなくひれ伏してしまう。豪邸のローン、健康保険の負担、高級車の維持費、高額な離婚の慰謝料、先の長いこれからのサラリーマン生活など、それぞれが抱えるそれぞれの事情を言い訳に。
 
ひとはカネの論理から逃れられて無邪気には生きられない。
 
割り切れない自己嫌悪と忸怩たる思い。カネの論理に屈した代償とはいえ、ケヴィン・スペイシーのラストは哀れさを禁じ得ない。





(★)トップ画像 : photo by Petra Wessman - Stock_market_crises Adapted / CC BY - SA 2.0




 

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映画が描くバブルの実相とメンタリティ<2>~『マネー・ショート 華麗なる大逆転』~バビロン再訪#14

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 バブルとは内なる自己破滅願望なのか~『マネー・ショート 華麗なる大逆転』~

         
『マネー・ショート 華麗なる大逆転』(アダム・マッケイ監督 2015年)は、リーマンショックの際、「逆張り」で、つまり市場の暴落に賭けて大金をつかんだ投資家たちの群像劇。投資銀行の内部からバブル崩壊を描いた『マージン・コール』とは逆の視点から、100年に一度といわれた金融危機のその時を描く。こちらも芸達者な俳優たちが金融界のアウトサイダーを演じる見応えある作品。
             
人づきあいが苦手な元医者の変わり者ヘッジファンドオーナー(クリスチャン・ベール)、嗅覚抜群で立ち回りが上手いドイツ銀行の行員(ライアン・ゴズリング)、金融界への不信にイライラが募る仕切り屋のヘッジファンド経営者(スティーブ・カレル)、ガレージ投資家と揶揄されているチャラい若造個人投資家2人の4組が、クリスチャン・ベールがいち早く気がついたサブライムローンの破綻の可能性をネタに、壮大な「空売り」を仕掛ける。実際はクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)という債務先が破綻した場合に「保険金」が受け取れる商品を購入することで市場の暴落で儲けようとする。
                
タイトルにある「ショート」とは将来の値下がりを見込んで金融商品を先売りすることの業界用語。ちなみに原題はThe Big Short(大いなる空売り)というもの。
         

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リーマンショックの元凶といわれたサブプライムローンなどをめぐる実態が具体的に描かれ、そのとんでもない実態に唖然とさせられる。
      
無収入(No Income)、無職(No Job)、無資産(no Assets)の頭文字をとってNINJYAニンジャローンと称される、ほとんど無審査の超いい加減なローン、ストリッパーが複数の担保ローンをつけて何か所もの家を所有している驚きの現実、リスクによらずAAAの格付けが常態化している、銀行とグルになったS&Pなどの大手格付け会社、低い格付け債権を集めて新たな高格付け債権を生成するほとんどハッタリの金融手法(CDO)、賭け(破綻リスク)の結果に賭け、さらその賭けの結果にまた賭け、さらに・・・というように、胴元が知らぬ間に倍々ゲームで債務が膨らんでいく手品のようなデリバティブ商品(合成CDO)etc.
 
日本語サブタイトルからは、痛快なピカレスクものを連想させ、コメディタッチを交えてテンポ良く展開する語り口はまさに痛快そのものだが、その後味は決して甘くはない。
    
信用とコネのない若造投資家2人が組んだのが、業界に倦んで早々とリタイアして今はオーガニック野菜を育てている元投資銀行マン(ブラッド・ピット)。目論見が当たって喜びを隠せない2人がじゃれ合うのを見てブラピは諫める。「市場の崩壊の結果、なにが起こるのかをよく考えろ。何百万人の人が職を失い、家を失くす。しわ寄せが行くのはいつも普通の人々だ」。
            
驚異の運用結果を残し、自らの正しさが証明できたのもかかわらず、クリスチャン・ベールは自らのファンドを廃業し、また、市場の不正義に一矢報いることができ、大金を手にしたスティーブ・カレルも、自分たちの行為もしょせんは、詐欺まがいの腐った市場を利用しているだけではないのかと表情は曇ったままだ。
       
犯罪まがいの行為が常態化している市場、誰もそれをおかしいと思わず拡大のユーフォリアに包まれる業界、一方で市場の崩壊を今か今かと待望するアウトサイダーたち、ついに崩壊が現実となり、連鎖的に引き起こされる混乱と悲劇。
      
「誰もが心の奥底では、世の終末の到来を待ち受けているのだ」。映画では村上春樹の 『1Q84』 の一説が引用される。
    
かつて共同体における崇高さはポトラッチ(蕩尽)によって失う富の大きさと結びついていた。権力とは喪失する権力のことだ。有用さが支配する資本制社会に至り、そうした浪費の祭祀性は失われ、同時に崇高さも消え失せたと、ジョルジュ・バタイユは記した。
     
際限のない強欲さ、競うようにエスカレートする贅沢な消費、祭祀のような陶酔感とその先に待っている自己崩壊。繰り返されるバブルとは、まるで、失われた崇高さの存在を市場社会のなかで証明しようとする脅迫観念の一種のようにみえてくる。
 
あるいは、そうしたマインドセットを巧みに操る、市場にビルトインされたリブート(再起動)のための金融システムの一環なのか。
  
10年に一度で繰り返されるバブルとは、はたして我々の内なる願望なのだろうか。
 
崩壊の不気味な予兆に彩られたレッド・ツェッペリンのWhen the Levee Breaks(★)が流れ、映画は幕を閉じる。


 
 

(★)When the Levee Breaksは「堤防が決壊する時」という意。オリジナルは1927年のミシシッピ川氾濫の際に堤防の決壊を防ぐ作業を強制させられた黒人労働者の悲劇を歌ったブルース。映画で流れるのは、レッド・ツェッペリンがカヴァーしてヘヴィーなロックナンバーに仕上がったヴァージョン。アルバム『Ⅳ』収録。
 
(★)トップ画像 : photo by Harshil Shah-London-Canary Wharf/CC BY-ND 2.0



 
*初出:東京カンテイ「マンションライブラリー


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坂茂が手がけたホテル 《ショウナイホテル スイデンテラス》 宿泊記

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《ショウナイホテル スイデンテラス》 SHONAI HOTEL SUIDEN TERRASSEに泊まってみました。


《ショウナイホテル スイデンテラス》は山形県鶴岡市にあります。その名の通り、米どころを象徴する庄内平野の水田(★)の中に建っています。

見晴らしの良さ、空の大きさなど、田んぼが広がる大らかな風景は、建て込んだ都会の街並みを見慣れた目には、今や新鮮に映ります。
 
水田を渡るように長いアプローチが設けられ、その先に展開する世界への精神的ゲートとなっています。この長いアプローチは、日常から少し距離を置いたリゾート(非日常)的な時空が始まることの宣言なのです。この木を組んだ矢来(の一種)のような造形は、乾燥のために稲架(はさ)がけされた稲を思わせるような、かつては日本の田んぼのいたるところで見られた風景を喚起するようなデザインです。
 

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建築の設計はプリッカー賞受賞建築家の坂茂です。意外にも坂茂が手がけた初めてのホテルだそうです。
   
水田の広がりの中に、宙に浮くように持ち上げられたテラス状の建物がたたずむ様子は、なかなかダイナミックです。RCとガラスによる低く伸びるヴォリュームに折り紙のような造形の木の屋根が乗った建物は、モダンであり、かつリージョナルでもある、そんな建築として、大らかな庄内平野の風景によくなじんでいます。
 

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外の風景が貫入するガラスのエントランスホール。ホテルらしからぬ素っ気なさが潔くて好印象です。入ってすぐのところに吹き抜けの階段があり、2階にはレセプションをはじめ諸機能が集められています。インテリアや家具には坂茂おとくいの紙菅が使われています。
 

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客室ゾーンへは共用棟からそれぞれガラスブリッジを渡ってアクセスします。ここでも<渡る>という行為による象徴作用が意図されています。客室ゾーンは3つの棟に分かれており、宿泊棟の先には温泉施設(スパ&フィットネス)があります。
 

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ホテルの廊下特有の閉塞感がないのは、要所要所に設けられたヴォイドから外や地面が望めるからです。同時にこのヴォイドは、外を通ってそれぞれの客室へと至るというコテージスタイルの客室をイメージさせ、リゾートらしい雰囲気を醸し出す仕掛けともなっている秀逸なアイデアです。
     
シンプルかつナチュラルテイストの室内。壁の一部には外壁と同じタイルが使われています。ファブリックによるしっとり系テイストが主流をなすホテルインテリアへのアンチテーぜとなっています。極力余計なデザインを排したモノでそろえた客室備品もまたしかりです。
 
四周がガラス張りで天井の高い共用棟には、気持ちの良い開放的な空気が漂っています。コンクリートとガラスと木のバランスもいい感じです。
 

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レストランには大きなテラスが付属しており、残念ながら冬場は使えませんが、水田を渡る春風の心地よさ、強い日差しを逃れた夏の日の無為の時間、秋の夕陽に照らされた逆光の眩しさなど、そこでのひと時は、さぞかし心奪われそうだと想像できます。
 
大人のリゾートを謳い文句にしたような重苦しさがないところも好感が持てます。レストランは子供連れの家族でいっぱいであり、親子そろっておしゃれな部屋着で共用棟を闊歩する様子は、オープンでフレンドリーで、まさに滞在型リゾートの雰囲気の、非日常的日常性とでも表現できそうな、独特のゆるーい空気感を生んでおり、このホテルの個性を決定づけるのに重要な役割を担っています。
 
ホテルの個性は、空間やデザインもさることながら、こうした空気感によって左右されます。
 

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子連れ客が多いのには理由があります。もともとこのホテルは、隣接して建てられている全天候型児童施設《キッズドーム ソライ》の収益基盤となる意図で始めれており、恐らくホテルとタイアップした子育て家族向けの企画などがあるのでしょう。
   
このホテルの大きな魅力となっているのが共用棟に設けられたライブラリー。本棚に並ぶ1,000冊のなかから気になった本を手に取ってその場でパラパラと眺めたり、そばのテーブルやロビーのソファで試し読みをしたり、あるいは部屋に持ち帰ってベッドのなかでじっくり読んだりなど、本とさまざまな空間とがシンクロして生まれる至福の時間を楽しめます。
 
食、旅、音楽、アート、人類学、庄内など、「バッハ」の幅允孝さんによる周到なブックセレクションは、こうした思いがけない出会いや刺激を用意してくれます。
 

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鶴岡の旧藩校だった致道館博物館には西郷”南洲”隆盛の座右の銘だった「敬天愛人」の額が飾られています。
      
江戸の薩摩藩邸を焼き討ちするほどの過激な佐幕派だった旧庄内藩の鶴岡になぜ、西郷南洲の額が架けられているのでしょうか。官軍の総指揮官だった西郷は、降伏帰順した庄内藩に対して、寛大な態度で対処します。それに感激した庄内藩は一転、藩を上げて西郷を敬愛するようになり、両藩の交流が始まったという史実がそこにはありました。詳しくは過去記事「西郷南洲という謎」でどうぞ。
         
書物を残さなかった西郷の言葉が唯一記された「西郷南洲遺訓」を編纂したのも荘内藩士でしたし、西南戦争では庄内藩の若者2名が西郷軍として命を落とし、桜島を望む南洲墓地に眠っています。
 
西郷が斃れた後、明治の日本が目指した近代化とは、つまるところ集権化であり、工業化でした。
 
れ以降、地方と農業は忘れ去られ、その結果、今日の東京以外の日本全国で起きているのが、農業や地域産業の衰退、人口減、商業のショッピングモール化やチェーン店化、そして中心市街地の空洞化です。
 
鶴岡も例外ではなく、かつてのメインストリートは、空き地、空き家、閉じられたシャッターばかりが目立つのが現実です。
 
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《ショウナイホテル スイデンテラス》が建っている場所は、水田とはいっても、慶応義塾大学先端生命科学研究所やバイオベンチャー企業などの最先端の研究所や企業が集積する鶴岡サイエンスパークの一画にあります。《スイデンテラス》はサイエンスパークの土地の一部を農転して作られており、技術系ではありませんが、鶴岡発のベンチャー企業であるヤマガタデザイン株式会社が企画・運営し、県や市や地元資本がバックアップしています。
 
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かつての水田がスイデンとなって、都市では味わえない空間や時間がひとを惹きつける。《スイデンテラス》の試みは、まぎれもなく<日本の近代>の先、つまり旧来の集権的、OLD産業的ではない、分散的かつ次世代的試みといえましょう。
 
鶴岡は「ユネスコ食文化創造都市」 UNESCO Creative Cites of Gastronomy に認定されているように、日本海の海の幸、在来野菜、山菜、日本酒など食材の宝庫であり、そうした地域の山・里・海などの自然が育んだ食文化が息づく場所でもあります。同じ「食文化創造都市」としてはスペインのバスク(都市としてはビルバオ)が認定されています。今や食都として世界に名をはせるバスクですが、かつては言葉もスペイン語とは全く異なり、テロも辞さない過激な独立運動を闘ってきた歴史を持った、国をものともしない個性を有する地方です。
        
バスクのように、ガストロノミーをキーワードに、鶴岡における分散的、非集権的なムーブメントが盛り上がる可能性も十分に考えられます。
    
NEXT GENERATIONに目を向けて、果敢にチャレンジする鶴岡を注視・応援したいと思います。

 
 


 
(★)水田とはいっても、農転して農地ではなくなったため、食糧用のイネの栽培は許可されていないのだそうです。維持管理や修景上の問題があるのかもしれませんが、本物の米が植えられる水田として、宿泊客が田植えや稲刈り、脱穀などの農作業に参加・体験できる、そして自らが育てたお米をレストランで食べられる、さらにそれがガストロノミー・ツーリズムのネタなって、日本中あるいは世界中のひとを惹きつける、などの展開になれば理想的ですね。



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東京論としてのB級グルメ 

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B級グルメは80年代のバブルの頃に登場した。
 
B級グルメという言葉が広く認知されたきっかけは『スーパーガイド 東京B級グルメ』(文藝春秋編 文春文庫ビジュアル版 1986)だ(★1)。
 
里見真三が編集長をしていた80年代前半の季刊誌『くりま』での食特集記事を母体としてビジュアル文庫化したものだ。
 
気取ってなくて、お手頃価格で、そしてストレートに旨い。そんな食べ物と食体験を指してB級グルメと呼ぶことは、その後すっかり定着した。
 
前掲書のカバーの中央には、築地「豊ちゃん」の名物の一皿「オムのっけハヤシ・カレーの両がけ」の迫力ある写真がドンと鎮座し、その上にちょっとレトロな字体でタイトルが乗せられ、ケチヤップで描かれた大きめの「B」の文字が、いかにもの雰囲気を醸し出している。
         
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築地「豊ちゃん」(カツ丼)、神保町「天丼いもや」(天丼)、銀座「竹葉亭」(うな丼)、人形町「玉ひで」(親子丼)、新橋「かめちゃぼ」(牛丼)、赤坂「津々井」(オムライス)、銀座「煉瓦亭」(ハヤシライス)、本郷「ルオー」(カレーライス)。前掲書の巻頭特集「これが伝統の味「五大丼三ライス」だ!」において紹介されている店たちだ(★2)。
  
「五大丼三ライス」という見事なカテゴライズと里見真三とカメラマンの飯窪敏彦が始めたといわれる真上からのアングルで撮られた料理写真にそそられて、こうした店を一軒一軒潰していくのがバブル期の秘かな楽しみだった。
 
B級グルメとはアンチグルメという意味でもあり、そうした見立てが成立する背景には、80年代に起こったグルメブームがあった。アンチとはいえ、食通でも食道楽でも食いしん坊でも食べ歩きでもなく、グルメという言葉にこだわるところに、その批評性が伺える。
 
グルメブームの基本になったのが西洋料理、なかでもフランス料理の一般化だ。もちろんフランス料理店はそれ以前から存在していたが、それはホテルのダイニングや「マキシム」など本国のメジャーブランドの海外店舗に限られていた。
 
日比谷「アピシウス」(1983)のようなラグジュアリーなキュイジーヌ・フランセーズから、西麻布「ビストロ・ド・ラ・シテ」(1973)のような本国並みの雰囲気のビストロまで、70年代から80年代前半にかけて、フランスで修業した日本人シェフが個性的なオーナーレストランを開店させる。
 
80年代後半から90年代前半にかけては、ピザとスパゲッティが主流だったイタリア料理においても、オーナーシェフのイタリア料理店が次々と開店、フレンチの次のブームとなった。バブル期には「イタめし」と称され、これをきっかけに、いわゆるレストランへの敷居が一気に下がった。
 
こうして、幅と奥行を有する形で日本に定着した西洋料理が80年代のグルメブームのきっかけであり、今や食傷ぎみのグルメという言葉もフランス語が出自でこの時に生まれたものだ。
 
折しもバブルと重なり、グルメブームは沸騰した。「「グルメ」に浮かれた激動の10年」。食関係の編集者畑中美応子は、80年代をこう総括した(『ファッションフード、あります はやりの食べ物クロニクル1970-2010』 紀伊国屋書店 2013)。
     
B級グルメの話に戻ろう。
  
『スーパーガイド 東京B級グルメ』の最初のページに、こんな宣言が載せられている。「A級の技術で東京流の味と伝統を守り、しかも値段はB級の心意気に燃える店のレポートを中心とする、これは一種の東京論である」。
       
B級グルメは70年代から80年代にかけてブームになった東京論とシンクロしていた。
     
70年代に入り、それまでの高度経済成長の結果、日本の一人当たりGDPはアメリカの水準に近づき、1ドル360円だった円の価値は、1980年代の後半には1ドル120円台と、固定相場制時代の3倍の購買力を有するようになっていた。
 
こうした近代化による豊かさや自信というひとつの達成の一方で、近代化の原理であるモダニズムは60年代後半以降、世界的なレベルでその矛盾や行き詰まりをみせるようになっていた。
     
モダニズムによる達成と矛盾が、文学、社会学、思想、批評、都市、建築などさまざまなジャンルを東京論に向かわせた。
       
生きられた都市、書かれた都市から都市を読み解く、テキストを読むように都市を歩く、表層の裏側に隠された都市の構造を探るなど、それまでの機能を語る都市論や都市問題への実務的アプローチではない東京論が生まれた。
 
磯田光一『思想としての東京』(1978)、川添登『東京の原風景』(1979)、富田均『東京徘徊』(1979)、槇文彦『見えがくれする都市』(1980)、前田愛『都市空間のなかの文学』(1982)、陣内秀信『東京の空間人類学』(1985)など、当時の多くの東京論が目を向けたのが東京のルーツとしての江戸だった。
    
東京論は、近代化がないがしろにした江戸の残り香を求め、今の東京に潜む江戸以来の構造を探り、前近代と近代が平気で隣り合う東京への愛憎を表明する。
     
西洋モダニズムの観点からは、異質で遅れた都市とみえる東京は、むしろ奥が深く、趣があり、モダニズムの単純な論理では括りきれない、ユニークな都市として再認識されるようになった。
           
「昔風の菓子パンが食べたくて」、「セピア色の町 谷中散歩」、「東京惣菜資料館」、「カタログ 下町のかおりをつたえる菓子」、「蕎麦屋で酒を呑む」、丼もの、洋食、ラーメン、蕎麦、お惣菜、カレーパン、コロッケ、焼きそば、豚のしょうが焼き、あんこ、ロールキャベツ、エスニック、世紀末東京、下町、商店街、ガード下、墨田川、築地、谷中、浅草、人形町、神楽坂、四谷荒木町etc.
     
B級グルメシリーズのビジュアル文庫から拾ったキーワードだ。登場するのは下町、レトロ、日常料理など庶民生活を象徴する街や場所や一皿だ。
      
B級グルメは単なる旨安グルメではなく、東京人のルーツとしての下町(あるは町人地)に江戸や明治や昭和初期から育まれた伝統的の味覚を探るという、東京論のバリエーションだった。
      
東京論は江戸に向かい、B級グルメは下町に向かった。
  
バブルは経済的エスカレーションとその無謀さの破局というエコノミカルな側面だけでは決してなかった。すくなくとも日本の80年代バブルにおいては。
        
地上げが横行し、日々様変わりする街並みを見ながら、同時に、表層が失われながらも残り続ける構造を探り、うたかたのなかに不易を求め、前近代と近代の共存に魅せられ、モダニズムの価値観を揺さぶられながら、ぼくらは東京を歩き、B級グルメと嘯いて、バブルとその崩壊の時代の、そんな東京を生きていた。







(★1)B級グルメという言葉が最初に使われたのは、ライターの田沢竜次が雑誌『angle』に連載した記事をもとに書いた『東京グルメ通信 B級グルメの逆襲』(主婦と生活社 1985)だと言われている。田沢竜次はライターとして前掲の『スーパーガイド 東京B級グルメ』にも参加している。B級グルメと冠された同様のビジュアル文庫はその後同出版社から数冊出版されている。
 
(★2)8店のうち築地「豊ちゃん」、神保町「天丼いもや」、新橋「かめちゃぼ」は閉店している。
   
(★)トップ画像は市川市八幡の「大黒家」のカツ丼(2013年撮影)。江戸・東京論の先駆者のような永井荷風は、晩年、八幡に住み「大黒家」のカツ丼を愛好した。荷風は亡くなる1959年5月30日の前日もここ「大黒屋」でカツ丼を食べている。「大黒家」も2017年に閉店している。



  



*初出: 東京カンテイ「マンションライブラリー」



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『リバーズ・エッジ』が描いたバブル崩壊の心象 ~バビロン再訪#16

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80年代バブルは、1990年3月の不動産融資総量規制がきっかけで崩壊したと言われているが、実際に地価やマンション価格が本格的に下がり始めたのは1992~1993年頃からであり、不況感が深刻に実感されはじめたのもその頃からだった。

80年代バブルとその崩壊を象徴し、忘れられない心象がある。岡崎京子の『リバーズ・エッジ』に描かれた風景だ。
    
「リバーズ・エッジ」は月間CUTIEに1993年3月号~1994年4月号に連載され、1994年6月に単行本化された漫画作品だ。

 
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『リバーズ・エッジ』はこんな物語だ。
 
川の河口に近い高校。工場が建ち並び、川は淀んでいる。主人公の若草ハルナは母子家庭。その恋人の観音崎君の家も父親が愛人騒ぎを起こしている。
 
ハルナは観音崎君からいじめられている山田君を何度か助け、それがきっかけで山田君に好意を抱いていく。山田君は助けてくれたお礼にと、僕の宝物だと言って河原の死体を見せてくれる。ハルナは死体を見て驚くも、いつものように「何か実感がわかない」としか感じない。
 
山田君は同性愛者だと告白する。同じ死体の秘密を共有している吉川こずえという後輩のことも知らされる。吉川こずえはモデルをしており、学校でもその容姿が注目を集めている存在だが、いつも隠れて過食と嘔吐を繰り返している。河原の死体という秘密を周囲に隠しながら三人の不思議な関係が生まれる。
 
惨劇が起こる。
 
同性愛者の山田君が偽装で付き合っていた田島カンナがハルナと山田君の仲を誤解してハルナのマンションの部屋に放火し、自らは焼身自殺してしまう。ハルナの友達のルミちゃんは観音崎君の子を妊娠する。中絶費用を要求するうちに観音崎君と口論になり観音崎君はルミちゃんの首を絞める。ルミちゃんは一命を取りとめるが、帰宅後、ルミちゃんの日記を盗み見ているオタクっぽい姉と罵り合いになり、ルミちゃんはカッターで胸を切られ、動転した姉も自分の手首を切る。結果、ルミちゃんは流産する。
 
惨劇の後、ハルナは転校し、吉川こずえは学校をやめ、みんなはバラバラになる。なにごともなかったように日常が続くことが暗示され物語は終わる。
 
岡崎京子は『くちびるから散弾銃』(1987~)、『pink』(1989~)、『東京ガールズブラボー』(1990~)など、バブル時代を通じ、資本主義経済、消費社会を生きる女の子たちを、大いなる愛情と共感をこめて、同時にクールで突き放した眼差しで描いてきた。
 
1993年に連載が始まった『リバーズ・エッジ』には、岡崎京子がそれまで描いてきた消費社会の物欲の快楽や悪徳は出てこない。描かれているのは、その後の光景だ。
 
排煙をあげる工場群、ぬいぐるみが打ち捨てられた汚れた川、川にかかる鉄の橋、大規模団地、セイタカアワダチソウが生い茂る地上げされたままの空き地、空き地の隣にはビルやマンション群が建ち並び、川越しに都市の夜景が遠く、広がる。
 
そこは産業と住宅がせめぎ合いモザイク状に入り混じり合った、「近代」の痕跡を色濃く残した場所。『リバーズ・エッジ』は郊外を舞台にした物語と評されることが多いが、そこは郊外というよりは住工が混在する、都市のエッジに広がる準工エリアという方が正確だ。工場と住宅が混在した準工地帯は、郊外以上にわれわれの社会である工業に支えられた暮らしを象徴している場所だ。
 
「近代」を支えた最小単位としての核家族はすでに主流ではなく、集団教育を通じて近代的人間を鍛錬してきた学校という機関もすでにその役割を十全には果たさなくなった。商品と快適さと幸福があまねく普及した時代の「無力な王子と王女」である少年少女は、そうした日常を無防備に生きる。


リバーズエッジ2

   
社会学者の三田宗介によれば1970年頃に世界は転換点を迎えたという。19世紀半ばの産業革命を契機に爆発的に伸びた世界の人口増加率は、1970年前後に変曲点に至り、それ以降は下降をたどっている。人類の爆発期であった「近代」は終焉を迎え、これからの社会は大増殖期から安定平衡期へと大きく転換する時代を迎える(三田宗介 『現代社会はどこに向かうか』 岩波新書 2018年)。
 
思い返せば、1970年を境に、日本においても象徴的な出来事が重なった。大阪万博、三島由紀夫事件(1970)、ニクソンショック(1971)、あさま山荘事件(1972)、オイルショック(1973)、そして戦後初のマイナス成長(1974)。
 
1974年に日本の高度経済成長は終わった。それ以降日本は、それまでの重厚長大型(鉄鋼・造船・石油化学)から軽薄短小型(家電・自動車・半導体)へと産業構造を転換し、社会は工業化から情報化、生産から消費へと軸足を移した。経済成長は続いていたものの、その性格がよりライトでスモールでソフトで、目に見えないものに様変わりした。
 
1980年代のバブルとはこうした「近代」がたどり着いた最後の爆発だった。バブルとバブルの崩壊は戦後日本社会の総決算だったことはもちろん、大きな意味での「近代」の終わりの始まりだった。
 
『リバーズ・エッジ』は、「近代」の果てに行き着いた典型的な風景を描き、「近代」の終わりの始まりを可視化した。

 
戦場のガールズライフ


  
「「八十年代」とゆう時代はクリスタル的消費の時代であった、と言いきってポイする向きの方もおられるが、私にとって「キタイとキボウの時代」であった。何に対して?「終わってゆく」ことに対して。破壊、分裂、混乱、衰退に対するロマンス。退化してゆくことのきもちよさ。「物質化」してゆくことのせつなさ。それは「泣くこと」のたのしさにも似ていた。そんなもので満ちていた「私の」八十年代(正確には前期)。(中略)「九十年代」は泣きたくても泣けない時代だ」(岡崎京子 『オカザキ・ジャーナル』 1991年~1992年に朝日ジャーナルに連載 2015年に平凡社から書籍化)。
   
「終わってゆく」ことへの願望。岡崎は日本最後の爆発であった80年代バブルを正確に見通していた。
 
『リバーズ・エッジ』の主人公ハルナが生に実感が持てずにいるのはなぜか。それは「終わってゆく」ことすら終わってしまった、決して終わらない時代の到来への戸惑いだといえる。
 
バブルが崩壊しても、夢見たような甘美な終わりなどは到来しなかった。バブルが終わって日本に到来したのは、「泣きたくとも泣けない時代」、終わることさえできない日常だった。
 
ハルナの実感のない生とは「平坦な戦場で僕らが生きの延びること」(★1)のための、「あらかじめ失われた子供達」の知恵だともいえる。






(★1)『リバーズ・エッジ』で引用されたウィリアム・ギブスンの詩「最愛の人」(The Beloved)の一節。詩は『Robert Longo』(黒丸尚訳 京都書院 1985)に所収。
       
(★)『リバーズ・エッジ』では、橋の存在が象徴的に描かれている。トップ画像は漫画を原作にした映画『リバーズ・エッジ』(行定勲監督 2018)で、橋のシーンのロケで使われた東京都中央区の相生橋(2019年6月撮影)。橋梁、歩道、欄干、街灯など、岡崎京子が漫画で描いた橋の造形とよく似ている。4枚目の画像は、2015年に開催された「岡崎京子展 戦場のガールズライフ」(@世田谷文学館)のチラシ(部分)。



 

 

       




*初出: 東京カンテイ「マンションライブラリー」



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グリニッチ・ヴィレッジ・コネクション<上>~ ジェイン・ジェイコブズとボブ・ディラン ~

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『アメリカ大都市の死と生』 THE DEATH AND LIFE OF GREAST AMRICAN CITIES (1961)(★1)は、アーバンデザインや都市計画の分野ではバイブル的存在として名高い著作だ。


アメリカ大都市の死と生

   

著者のジェイン・ジェイコブズは、政治家や官僚や専門家は都市のことをなにもわかっていないとして、自らが住むニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジの街の様子を生き生きと活写し、多様性こそが都市に不可欠な要素だと主張し、行政が一方的に既存の街並みを無視して道路を通したり、大掛かりな高速道路を作るやり方やスラムクリアランスと称して地域のコミュニティを破壊してスーパーブロック(大区間)に高層建物を建てる再開発手法を批判した。


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(Jane Jacobs in Washington Square , source : websiteCURBED, photo by Fred W.McDarrah/Getty Images)  
    
ジェイコブズは安全で魅力的な都市のコミュニティには、機能が多様であること、街区は小さく、街路は何本もあること、新旧の建物が混在していること、人口が高密度であること、の4つの要素が重要だと主張した。
 
それは、職住を分離し、車専用道路により歩者分離を図り、足元にオープンスペースを確保して高層建物を建てるという、当時の主流だったコルビュジエ流のモダニズム思想に基づく都市計画を真っ向から否定することを意味していた。
 
田舎(ペンシルバニア州スクラントン)の商業高校出身で三児の母親だったジェイン・ジェイコブズの著作は、都市計画の専門家やアカデミズムからの非難と反発を受ながらも、街の暮らしを破壊する大鉈を振るうような都市計画や一方的なスラムクリアランスによる弊害やインターナショナリズムによる画一的な都市の姿に疑問を持つ多くのひとびとの共感を得ていく。60年代初頭のアメリカにおける公民権運動やベトナム反戦にみられるような反体制運動とのシンクロもあった。
 
ジェイン・ジェイコブズは、アクティビストとしても名高い人物で、ワシントンスクエアパークを分断して5番街を延伸する計画やグリニッチ・ビレッジを横断するように計画されていたローワー・マンハッタン・エクスプレスウエイ(ローメックス)計画への反対運動を主導した。


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(Jane Jacobs at a demonstration against the proposed Lower Manhattan Expressway, source : website The Bowery Boys, photo by Fred W. McDarrah/Getty Images)

 

お互いに天敵とまで言われた、当時のニューヨークの都市計画の推進責任者であり、「マスタービルダー(創造主)」と崇められる一方で、「パワーブローカー」としてその強引なやり口が非難されたロバート・モーゼスとジェーン・ジェイコブズとの「闘い」をめぐる様子は、アンソニー・フリント『ジェイコブズ対モーゼス - ニューヨーク都市計画をめぐる闘い – 』(渡邊泰彦訳 鹿島出版会 2011)に詳しく記されている。
 
アンソニー・フリントの本のなかで思わぬ記述があり、目が留まった。
 
「「風に吹かれて」と「時代は変わる」の間で、まだそれほど有名ではなかったボブ・ディランが、ローワーマンハッタン・エクスプレスウェイへの抗議の歌曲を書き、この地域の美しい調べをもつ街路の名前、ディランシー、ブルーム、マルベリーを挿入してデモ行進で歌えるようにした」(前掲書)
     
その曲はListen Robert Mosesと題された曲で歌詞は以下の画像にある通りだ。この画像が掲載されたwebsiteのBELCIMERには書かれたのは1963年と記されている。


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グリニッチ・ヴィレッジというと思い出されるのが、ボブ・ディランの3枚目のアルバム『フリーホリーイン』(1963)のジャケットだ。
 
両側に車が停まった狭い道路、鉄骨階段がむき出しになった5階建てぐらいのレンガの建物が建ち並ぶ街並み、ディランが当時恋人だったスージー・ロトロと腕を組んで身を寄せ合って雪のグルニッチ・ビレッジの街を歩いている。

ボヘミアンな人々が闊歩する気の置けない自由な街。ニューヨークにおいそれとは行けない時代にあって、このジャケット写真のイメージは、グリニッチ・ヴィレッジのアイコンだった。
 

The Freewheelin

 

文学や演劇や音楽や前衛アートを目指す若者たちが全米中から集まり、<ヴィレッジ・ヴァンガード>をはじめとする伝説的なジャズクラブが建ち並び、ビートニクや反体制運動の基地となり、ゲイカルチャーの発祥の地といわれた、1950年代から60年代にかけてのグリニッチ・ヴィレッジは、カウンターカルチャーの中心地だった。
 
ボブ・ディランもそのなかの一人で、自由で寛容な雰囲気に惹かれ、1961年に故郷ミネソタから移り住んだ。
 
ジェイコブズの息子のジム・ジェイコブズはこう証言している。(from THE GLOBE AND MAIL website
 
「両親の家ではいつもプロテストソングが流れていて、私はそれを聞いて育った。(中略)ジェインとボブ・ディランは一緒にある曲を書いているんだよ。ジェインがローワー・マンハッタン・エクスプレスウェイの闘いのためにプロテストソングが必要だと言い出して、友人のアーティストのハリー・ジャクソンが当時彼の家に居候していたボブ・ディランをジェーンのところに差し向けたんだ。ジェインはディランにプロテストソングはどう構成されるべきで、どういう役割を果たすのかについて、彼を手助けし、彼に言い聞かせていたよ。おそらく彼が書いた初めてのプロテストソングだと思うよ」
 
当時の若者が反体制やプロテストに惹かれないわけがない。ましてや、生涯、労働組合活動家でもあったウディ・ガスリーに憧れ、ボヘミアンと反体制のメッカであった当時のグリニッチ・ヴィレッジに移り住んだ、二十歳そこそこのナイーブな若者であれば。
 
そして確かにボブ・ディランはプロテストフォークの若きヒーローとして登場した。

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(Bob Dylan, sitting on a bench in Christopher Park, January 22, 1965,source:websiteRIOT MATERIAL, photo by Fred W. McDarrah)

 
しかしながら、こんな証言もある。
 
「自らが自分自身の広告(引用者注:反体制のフォークの神様として売り出そうとするコロンビアによる広告)と戦っていることに気がついた。例えば彼は<激しい雨が降る>が核の冬を描いていることを否定した。そうでありながら、彼はまたマーケティングの精神に沿っても演奏した。のちに、この歌が核の時代の恐怖、とくにキューバ危機への一般的な反応だと主張したのだ。広く引用されていた発言で、彼はこう述べている。「自分は残された時間があまりないと分かったときに書いたんです」。<激しい雨>は、実際は、キューバ危機が始まる少なくとも1か月前には書かれていた」(アレックス・ロス『これを聴け』、みすず書房、2015)。
            
さまざまなディラン研究家によって明らかになった彼の経歴や5枚目のアルバム『ブリンギン・イット・バック・ホーム』(1965)以降のディランの活動は、こうした見方を裏付ける。ボブ・ディランはエレキをアコーティティックに持ち替えたのであり、フォークではなくロックンロールからスタートしたアーティストなのだ。
      
プロテストソングの「いろは」をボブ・ディランに手ほどきしたのは実はジェイン・ジェイコブズだった。さらにそれをどう使えば効果的なのかを伝授したのも、政治家や有力者をも利用しながら反対運動を仕掛け、展開する天性のアクティビストであり、稀代のストラテジストであったジェイコブズだった。そしてディランはそのストーリーに乗って、その偉大な才能を世に認めさせた。十分にありえる話だ。
 
残念ながらディランはこの曲を録音していない。





(★1)『アメリカ大都市の死と生』日本語版は1969年に抄訳(黒川紀章訳)、1977年にSD選書として同新版、2010年に完訳(山形浩生訳)がいずれも鹿島出版会から出版されている。


              グリニッチ・ヴィレッジ・コネクション<下>に続く



    




*初出 : zeitgeist site



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グリニッチ・ヴィレッジ・コネクション<中>~ ジェイン・ジェイコブズとスーザン・ソンタグ ~

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グリニッチ・ヴィレッジ・コネクション<上>
に続いて60年代のニューヨーク グリニッチ・ヴィレッジの群像を。
     
ウエスト・ヴィレッジ(グリニッチ・ヴィレッジの西側で6番街からハドソン川までのエリア)のハドソンストリート555番地にあったジェイン・ジェイコブズの家は、ロバート・モーゼスとの闘いのヘッドクオーターとなった。「毎晩のように、ビレッジ救済委員会の主要メンバーはジェイコブスの家で落ち合い、食卓を囲み、マティーニをすすり、タバコをくゆらせた」(アンソニー・フリント『ジェイコブズ対モーゼス - ニューヨーク都市計画をめぐる闘い – 』 渡邊泰彦訳 2011 鹿島出版会)。
  
アンソニー・フリントの前掲書に一枚の写真が載っている。

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場所は1967年12月のニューヨークの留置所。ジェイン・ジェイコブズ(右端)の左隣に映っている美女はスーザン・ソンタグだ。ジェイコブズは、ベトナム戦争に抗議するデモ(ホワイトホール・ストリートにあった入隊センターを三日間封鎖した)に参加し、ソンタグやアレン・ギンズバーグらとともに逮捕されている。逮捕者は259人に上った。
             
スーザン・ソンタグ(1933-2004)は、ニューヨーク生まれの文学者。文学、映画、写真、芸術、文化、政治などに関する数多くの批評やエッセイ、小説などを残した。リベラルなアクティビストとしても有名。その知性と美貌は、「アメリカ文学界のダークレディ」、「前衛芸術のナタリー・ウッド」とも称された。こうした物言いはフェミニストでもあったソンタグ本人が最も嫌うところであったろうが。
        
ソンタグは、その前年に処女著作Against Interpretation(1966年)が出版され、新しい知性の登場として注目を集めていた。『反解釈』(高橋康也他訳、竹内書店新社)として日本語訳が出版されたのは1971年だ。
   

Against Interpretation


スーザン・ソンタグの、率直で明晰でかつ複雑なことを複雑さのなかで語ろうとする真摯な姿勢は、40年ぶりに読み返してみてもまったく変わらなかった。
      
「解釈とは世界に対する知性の復讐だ。解釈することは対象を貧困化させること、世界を委縮させることである」、「われわれの文化の基盤は過剰、生産過剰にある。その結果、われわれの感覚的経験は着実に鋭敏さを失いつつある。(中略)いま重要なのはわれわれの感覚を取り戻すことだ」、「解釈学の代わりに、われわれは芸術の官能美学(エロティックス)を必要としている」として、解釈ではなく官能を、知性より感覚を、と宣言する(前掲書)。
        
解釈ではなく感覚や官能を、内容よりスタイルを、との目のすくような鮮やかな宣言とともに登場し、文学や哲学から芸術論まで、ハイカルチャーからマスカルチャーまで、縦横に論じるスーザン・ソンタグは、60年代アメリカが生んだ最上の知性と言っても過言ではない。
      
なかでも広く注目を集めたのが「《キャンプ》についてのノート」と題された文章だ。
   
「キャンプとは世界を常に審美的に経験することである。それは、「内容」に対する「様式」(スタイル)の勝利、「道徳」に対する「美学」の勝利、悲劇に対するアイロニーの勝利の具体化なのだ」、「キャンプ ― 大衆社会のダンディズム」、「キャンプとは、道徳の溶剤である」として、当時《キャンプ》と呼ばれていた新しい感覚を言語化した(前掲書)。

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*source : LITERARY HUB

 
その《キャンプ》が最近、再び注目されている。
 
コムギャルソンCOMME DES GARCONSの2018-19年秋冬のショーで川久保玲が掲げたテーマがこの《キャンプ》だった。川久保玲はソンタグの愛読者だそうだ。また、ニューヨーク・メトロポリタン美術館で毎年行なわれる『METガラ』(ゴージャスな衣装に身を包んだセレブが一堂に会す世界最大級のファッションの祭典)の2019年のテーマも《キャンプ》だ。
       
《キャンプ》とは単なる「アンチ」や「シニシズム」ではなく、常識や定説の領域を拡張し、新たな価値を創造する寛容で繊細な感覚。作為を感じさせないことを狙った作為は《キャンプ》だ。作者や作品が意図していないところに価値を見出すのは《キャンプ》だ。
 
例えば、完璧な無頓着さを感じさせる装いや態度は《キャンプ》的だ。非常識やくだらなさや失敗作に思いがけない価値を発見するのは《キャンプ》的だ。
 
日本でいうと、初期の「おたく」や「ボーイズラブ」や「B級グルメ」、あるいは「利休好み」や「風流ならざるもまた風流」などの価値観はキャンプ的といえるかもしれない。
   
《キャンプ》は常に《キャンプ》であるとは限らない。《キャンプ》は文脈、状況、空気、時代によって変わる。うたかただが、確かに感じられる、言葉にならない、それまでにはない空気や感じ。ソンタグはそれを初めて言語化した。
       
世界中が閉塞し、息苦しく感じられる現在、世界は、再び《キャンプ》の自由さと寛容さと批評性を欲しているのかもしれない。
     
スーザン・ソンタグの誠実さと力強さの源泉は、徹底的に「私」に立脚して、自らの感覚を通じて、時代の支配的な価値観やイデオロギーや世の中の予断を浮かび上がらせるところだ。
   
「わたしが書いてきたのは、厳密に言えば、批評でもなんでもない、あるひとつの美学、すなわちわたし自身の感受性についてのあるひとつの理論を築くための個人的症例研究(ケーススタディ)にほかならなかったのだ。(中略)ある種の判断や趣味の根底にある暗黙の前提をえぐり出し、明らかにすることを、わたしは求めていたのだ(前掲書「まえがき」)。
 
「私」と世界に関する倫理は、スーザン・ソンタグがその後も一貫してこだわった姿勢だ。60年代の北ヴェトナム訪問、ボスニア滞在、対テロ戦争と称して戦争へ突き進むブッシュ大統領以下アメリカ政府の方がむしろ「臆病者」であると断じた9.11に際しての態度(アメリカ中から袋叩きにあった)など、すべからく「私」を語って世界を希求する態度は一貫している。


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*source : DPRAGON , photo by Annie Leibovitz

     
「自分自身に対してより、世界に対してずっと大きな興味があります。(中略)自分について語ることは何かふしだらな感じを抱いてしまうのです。(中略)主張するときは、「私」と言って語る。でも、「私」で語っても、内容は私のことではないのです。(中略)安寧はひとを孤立させます。ですから私はしょっちゅう旅をしています。世界は「私」でないものごとで溢れていることを忘れないように。世界は「私」のためにあるのではないのだ、ということを忘れないために」(スーザン・ソンタグ 『良心の領界』 NTT出版 2004)。
                 
スーザン・ソンタグの言葉は、「私」に自閉しがちな精神を勇気づけ、世界を忘れないように鼓舞し続けるてくれる。
       
同じグリニッチ・ヴィレッジの住人だったジェイコブズとソンタグは、1967年の冬のニューヨークの留置所で隣同士となり、なにを語り合っていたのだろうか。


             グリニッチ・ヴィレッジ・コネクション<中>に続く



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*初出 : zeitgeist site



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映画が描くバブルの実相とメンタリティ<3>~『インサイド・ジョブ 世界不況の知られざる真実』~バビロン再訪#17

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2008年のリーマンショックの際、日本でもディベロッパーやゼネコンの倒産が相次いだ。80年代バブルの影響が少なく、急拡大、急成長を誇っていた新興ディベロッパーや中堅ゼネコンがバタバタと潰れていく様子は「突然死」と呼ばれた。
 
「突然死」の理由は、開発の失敗や保有資産の値下がりや営業赤字ではなく、世界的な信用収縮による資金ショートだった。
 
2000年にITバブルがはじけた後、アメリカの投資資金は有望な投資先として日本の不動産への投資を急拡大させており、ファンドを売却先とした物件やREITを受け皿とした開発(それらは不動産流動化事業と呼ばれていた)で急成長してきたディベロッパーがもろに影響を受けた。
 
アメリカでの出来事が、あれよあれよという間に、他国に拡大し、アメリカの住宅バブルやサブプライムローンとは全く無関係の企業に「突然死」をもたらし、世界を不況のどん底に突き落とした。
 
80年代バブルがドメスティックな不動産バブルだとするならば、リーマンショックはグローバルな金融バブルだ。
   
リーマンショックとはなんだったのか。
 
百年に一度といわれ、その後の世界を変えた、この大掛かりな崩壊劇の内実を知りたい人にとって、ドキュメンタリー映画『インサイド・ジョブ 世界不況の知られざる真実』(チャールズ・ファーガソン監督 2010年)は必見だ。その「内部犯行」の手口の一部始終をサスペンスフルな語り口で解き明かしてくれる。アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。
                   
アメリカは日本とは異なり人口増加社会だ。毎年約1%ずつ人口が増加している。1990年代の10年間でアメリカの人口は3,000万人増えている。その多くがヒスパニック系だ。旺盛な住宅需要に支えられ、アメリカの住宅価格は2001-2007年で約2倍になっている。
       
ここまではいい。健全な実需だ。あるいは単なる住宅バブルだ。
     
住宅バブルはいつかははじけ、住宅ローンは焦げ付く。ここまでもいい。価格下落で仕入れた土地が売れず不動産業者が返済不能に陥り、貸し手である金融機関が不良債権を抱える。よくある話だ。日本の80年代バブルはこの構図だった。
  
問題はその先だ。
       
住宅バブルが住宅ローン会社と住宅購入者という債権・債務の当事者にとどまらなかったどころか、当事者があずかり知らないところで、あずかり知らない規模で、世界中に信用とリスクをばらまいていたというのがリーマンショックだった。
         
その理由は証券化とデリバティブだ。
        
ファニーメイやフレディマックなどの住宅債権保証会社やリーマン・ブラザースなどの投資銀行は、住宅ローンを担保にした債権(モーゲージ債)をほかのローン債権と一緒くたにし、証券化を繰り返す手法で、高リスク債権が優良債権へと化けるCDO(Collateralized Debt Obligation 債務担保証券)と呼ばれる商品に仕立て上げた。
   
証券化のミソは、銀行などのローンの貸し手にとって返済が滞るという直接的なリスクがなくなることだ。その結果、貸し手は返済の能力のない顧客(サブプライム)にまで貸し付ける、あるいは同じ借り手に複数のローンを組ませるなど、とにかくローンをどんどん貸し込み、手数料確保に励むことになる。
          
住宅の価格が上昇し続けており、よしんば借り手が破綻しても担保の物件を売却すれば債券は回収できるとの思惑が拍車をかけた。クライアントである投資銀行の要求に応じ、ムーディーズなどの一流格付け会社が、リスクの実態を無視して平気でAAAの格付けをしていたという驚くべき事実もあった。
   
こうしてリスクの高い債権やクズ債権が大量に作られ、いつの間にか高い格付債権に仕立てられ、世界中の投資家にばらまかれた。
   
さらに信用規模を拡大し、事態を決定的に深刻にしたのが、CDS(Credit Default Swap)と呼ばれるデリバティブ商品だ。
         
CDSはCDOの債務先が破綻した場合に保証金を受け取れる仕組みのデリバティブだ。CDSはCDOの保有者かどうかによらず購入できるため、その信用額は実際の債権額とは無関係に膨張する。いわば破綻の可能性に賭ける掛け金の上限がないゲームのようなものだ。さらには複数のCDSを束ねた合成CDO(Synthetic CDO)と呼ばれる商品まで登場し、信用の規模は幾何級数的に膨らんだ。その結果、市場に出回るCDOの内容や規模を、もはや誰も把握していないという事態へと至った。
          
住宅の買い手とローンの貸し手という住宅購入現場のシンプルな関係が、金融技術を駆使する投資銀行が介在することで、いつの間にか、遠く離れた顔が見えない抽象的な関係、ヴァーチャルな電子空間のなかの数字だけの関係に変容し、その結果、誰も当事者としての意識とモラルを失っていく。
        
バブルは人災だ。人為的出来事だ。少なくとも本作が描くリーマンショックの実態と顛末はそう物語っている。
     

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大恐慌を経験した戦後のアメリカは、銀行/証券の垣根がはっきりした厳しい規制市場だった。事実、リーマンショックまでアメリカでは金融危機は起きていない。
     
1980年代以降、アメリカは金融規制緩和に舵を切る。学者、経営者、閣僚、コンサルタントなどを渡り歩きながら、規制緩和を推し進める、政・産・学が一体となった金融マフィアとでも呼ぶべき一大ロビー勢力の姿が描かれる。
    
なかでも、ジョージ・ソロスの「この幻想を生み出した張本人は経済学者だ」との言葉通り、金融緩和の強力な後ろ盾になったのが、ハーバード大学やコロンビア大学などの経済学者たちだ。
       
グレン・ハバードは、ブッシュ大統領の経済顧問として、個人所得税の引き下げ、遺産税の廃止、贈与税の引き下げ、配当・キャピタルゲイン税の減税など、富裕層に手厚い減税政策により、富裕層の資産形成を加速し、その後の経済格差の拡大の原因となったといわれるブッシュ減税を主導した人物だ。
             
コロンビア大学経済学部長となったグレン・ハバードは、ゴールドマン・サックスと共同論文で「CDSは市場を安定化させ、景気後退を緩やかにする」と主張した。
   
クリントン政権の財務長官を務めたローレンス・サマーズは、その後、ハーバード大学学長を務め、オバマ政権の国家経済会議委員長へと渡り歩いている。
          
リーマンショック直前までFRB議長を務めたアラン・グリーンスパンは 「バブルは事後になって始めてわかる」と開き直り、次代のFRB議長ベン・バーナンキは、「住宅価格の下落の可能性は極めて低い」と断言していた。
       
リーマンショック時の財務長官ヘンリー・ポールソンをはじめ、ロバート・ルービン(クリントン政権の財務長官)、ウイリアム・ダドリー(オバマ政権のNY連銀総裁)らは、全員ゴールドマン・サックスの出身者だ。
     
なかでも金融マフィアの犯罪的行為として描かれるのが、AIGとゴールドマン・サックス救済のケースだ。
   
ゴールドマン・サックスはクズのようなCDOを顧客に大量に販売すると同時に、CDOの債務先が破綻するリスクをヘッジするCDSをAIGから購入し、いわばクズCDOで二重の利益を目論んでいた。さらにCDSの売り手のAIGの倒産をも予測し、それに対するCDSも別会社から購入していた。
             
元ゴールドマン・サックスCEOで時の財務長官のヘンリー・ポールソンとその次代の財務長官のティモシー・ガイトナーは、市場沈静化のためにといってリーマン・ブラザースを破綻させる一方でAIGを国有化し救済する。救済には、投資銀行への訴訟権を放棄する前提が付されていた。その結果、ゴールドマン・サックスはCDSの保障金を国税によって満額支払いを受け、延命したAIGの役員はその後、多額のボーナスを手にした。
          
ゴールドマン・サックスの平均年収は60万ドル(2007年初の1ドル120円換算で約7,200万円)、ヘンリー・ポールソンのゴールドマン・サックスCEO時代の年収は3,100万ドル(同約37億2,000万円)だった。ちなみに在任期間中、数百億円の収入を得たといわれているリーマン・ブラザースCEOのリチャード・ファルドは、一回も取引業務のフロアに来たことはなかったそうだ。
       
本作の描く、想像を絶する、呆れ果てる、傲岸な、厚顔な、強欲な、節操のないエピソードの数々に対する信憑性を高めているのが、すべてのキーマンが取材拒否をしているという事実だ。
       
ルービン、サマーズ、ポールソン、ガイトナー、ダドリー、グリーンスパン、バーナンキらのキーマン、あるいはその後ろ盾となったと指摘されているハーバード大学やコロンビア大学など、全員が取材を拒否している。
               
リーマンショックによる景気後退の影響で、アメリカでは600万件の住宅が差し押さえられ、GMやクライスラーなどの伝統産業が消え、欧米の失業率は10%を超えた。現在の分断社会はここから始まった。
           
一方でリーマンショックに関連して起訴・逮捕されたケースは一件もない。詐欺や粉飾決算で訴えられた企業や経営者もいない。逮捕者や自殺者が少なくなかった日本の80年代バブルとは大違いだ。むしろ金融企業はロビイストを3,000人規模に増やし、金融規制強化を阻止し、リーマン前より強大になっているそうだ。
          
「金儲けによって脳が刺激される箇所はコカインのそれと同じだ」、「金融緩和はタンカーの隔壁を取り除く行為だ」、「金融工学は夢を創る。悪夢になったらそのツケを払うのは別の人間だ」など本作ではさまざまな人がバブルへの警句を発する。
          
なかでもシティバンクCEOのチャールズ・プリンスの「われわれは音楽が止まるまで踊るしかない」との言葉は、まるで他人事のような、それでいてバブルの火中の当事者の立場を正直に吐露した言葉だといえる。
         
この言葉が一理あると思わせるところに、政・産・学が共犯して引き起こした人災としてのバブルというリーマンショックの本質が見え隠れしている。

 

 

 

(★)トップ画像 : photo by cloud 2013 - Occupy Wall Street - You Are Not A Loan!Adapted / CC BY 2.0







*初出 :東京カンテイ「マンションライブラリー」



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「小さな国」が生んだ「小さな人間」のためのモダニズム ~アルヴァ・アアルト展を観て ~   

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アルヴァ・アアルト Alvar Aaltoは、合理性や機能に軸足を置きながら、人間味が感じられる建築や家具やプロダクトなど、独自のモダンデザインを生んだフィンランドの巨匠建築家だ。

曲げ木を使ったシンプルな《スツール60》や独特の曲線ガラスで作られた花器《アアルト・ベース》など、アアルトがデザインしたプロダクトは、日本の公私の場でもよく見かけ、これらは日本で最も親しまれている北欧モダンデザインと言えるだろう。

「日本の工芸品や人生への姿勢がどうしてフィンランドのそれとよく似ているのか不思議である」との同じフィンランドのデザイナー カイ・フランク Kaj Franckの言葉のように、アアルトをはじめとする北欧デザインの持つシンプルさと温かさは、日本の感性との親和性も感じさせる(過去記事「シンプルの系譜<5>」参照。)

国際巡回展「アルヴァ・アアルト展-もうひつの自然-」(2019.2.16-4.14 @東京ステーションギャラリー)を観ながら、モダニズムのなかに人間らしさを追求したアルヴァ・アアルトの<アナザー・モダニズム>の源流を探ってみる。
   

アアルト展

 
近代建築の教科書と呼ばれている『空間 時間 建築』(1941年)でジークフリード・ギーデオンは、近代建築を代表する建築家として、ヴァルター・グロピウス(1883-1969)、ル・コルビュジエ(1887-1965)、ミース・ファンデル・ローエ(1886-1969)のモダニズムの創始者の3人とともにアルヴァ・アアルト(1898-1976)の名を挙げている。
       
アアルトはモダニズム創始者の3巨匠に比べ約10歳強年下にあたる。

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「最も重要な好条件は、彼の仕事開始時期がフィンランドの独立とほぼ同じ時期だったことである(中略)アールトはちょうどよい時期に、ちょうど良い国に生まれたのである」、「アールトを近代建築の他の多くの先駆者と比較するならば、歴史的環境が彼に有利に働いたのだということができよう」とアアルトの伝記を書いた、友人でもあったヨーラン・シルツは記している(ヨーラン・シルツ編 『アルヴァー・アールト エッセイとスケッチ』 吉崎恵子訳 鹿島出版会 2009)。
      
アアルトが生まれたフィンランドは、西をスウェーデン、東をロシア連邦に隣接し、絶えずこの二国からの侵略と支配を受けてきた。スウェーデンによる長い支配の後、ナポレオン戦争以降はロシアの支配下にあった。1917年にロシア革命の混乱に乗じて独立を果たすも、両国との領土紛争が絶えなかった。アアルトの代表作のひとつ《ヴィープリ(ヴィーボルク)の図書館》がある都市ヴィープリは、この時期にロシア領となり、現在もそのままだ。第二次大戦ではソ連との関係から枢軸国側となったが、終戦間際に対ソ和解のために同盟国だったドイツとの戦闘(ラップランド戦争)に踏み切るなど、大国に挟まれた小国ゆえの複雑な歩みを辿っている。敗戦後も独立は保たれたが、資本主義国でありながら、NATOやECには非加盟という、ソ連の影響が色濃く残る、東西バランスを意識したかじ取りの時代が続いた。完全に西側になったのは1991年のソ連崩壊後だ。
        
シルツがいう「好条件」とは、バウハウスを通じてモダニズムムーブメントを先導しながら、結局、祖国を追われアメリカに亡命を余儀なくされたグロピウスやミース、国際的な評価ほど祖国フランスとの関係を上手く結べなかったコルビュジエなどモダニズムの先達者たちに比べ、アアルトはキャリアの初期から公共建築を手がけ、その後も祖国を代表する建築家として活躍できた「歴史的環境」を指している。
        
この「歴史的環境」は、数百年の他国支配から独立した小さな若い共和国の誕生に立ち会った同じく若い建築家が、新しい社会を志向する若きモダニストとして生きるきっかけにもなったことは想像に難くない。
       
アアルトは1929年のCIAM第2会議に招かれ、ギーデオンやグロピウスやコルビュジエらと知己になり、終身会員にも選ばれいる。ひと世代上のモダニズムの創始者たちとの交流がアアルトのモダニストとしての信念をさらに強固にしたことは間違いない。アアルトは、それまでの古典主義的な趣が残る作風を一掃して、初期の傑作《パイミオのサナトリウム》(1933)が誕生する。
 

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(* Paimio Sanatorium , photo by Leon-Paimio Sanatorium / CC-BY2.0 )

 
語ることを滅多にしなかったアアルトだが、前掲書では「小さな人間」と「小さな国」との言葉で、自らの信念と矜持を語っている。
  
「現代の機械文明のなかで「小さな人間」をどうして保護できよう?」、「フィンランドのような小さな国は(中略)製品の「小さな人間」に対する適合性を試す場としての可能性が考えられる」、「小さな国を、人間の身近な環境や生活様式、そしてそれらに関係する文化形態のための研究所にすることは可能に違いない」。
 
「小さな人間」とは近代社会がもたらした、機械化、工業化、大量生産、都市化のなかで生きることを余儀なくされた寄る辺ない人間のことだ。そして「小さな国」とは、ヨーロッパ諸国のような「帝国主義的ではない」、そしてさらに、アメリカやソ連のような「大量生産の中心地」でもはない、祖国フィンランドの立ち位置のことだ。
 
同時に「小さな人間」、「小さな国」という言葉には、大国に翻弄されてきたフィンランドとその国民の思いも重なっていたはずだ。
 
「小さな国」が「小さな人間」のためのモダニズムの巨匠を生んだ。
 
アアルトが建築家としてのキャリアをスタートさせた1920年代は、フィンランドをはじめとする北欧で本格的な工業化が始まった時代だった。
 
人間的モダニズムを目指すアアルトは、建築の目的は「物質の世界を人間生活と調和させることである」、「創造と各々の技術的現象を、調和ある人間生活を人間のためにつくり出すように結合させることによって達成されるのである」と述べ、合理主義、機能主義、技術を「人間化」しなければならないと繰り返し主張している(前掲書)。
 
アアルト展では、《バイミオのサナトリウム》の部屋が再現されている。若きアアルトは、病床で横になっていることが多い患者にとって、なるべくストレスを感じないで日々を過ごせるように、きめ細かい数々の配慮を創案している。
 
例えば、天井や家具や壁の色彩を吟味し、光源が直接目に入らない照明を考案し、ベッドから見える窓の位置を調整し、暖房の熱が直接患者の頭に当たらないように工夫し、今で言うところのバリアフリーの取っ手を開発し、洗面台は隣で寝ている人の邪魔にならないように蛇口の水が鋭角に当たるようにして音を立てない設計とするなど、アアルトのいう「人間化」の実践を垣間見ることができる。
   

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(* Armchair 41 Paimio , photo by Ilkka Jukarainen-IMG_0278/CC BY 2.0

 
優雅なカーブを描く木の座面と曲げ木のアームを組み合わせた斬新なイメージの《アームチェア41パイミオ》と名づけられた有名なチェアは、《バイミオのサナトリウム》のロビーの家具のひとつして開発されたものだ。
 
《スツール60》などのアアルトの家具で使われる曲げ木のサンプルが展示されていた。無垢のバーチ材に長さ20センチほどの5本の薄いスリットを入れ、その中にベニヤを差し込んで接着・積層させることによって、厚みのある無垢材を曲げられるようにしたアアルトが最初に特許を取った技術(L-レッグ)だ。
 

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国土の2/3を占めと言われるフンランドの森から切り出した美しいバーチ材に、曲げ加工可能な可塑性と同時に家具部材としての強度と耐久性を付与し、この技術を元にして、それまでのモダニズムの発想にはなかった、金属に代わる木の温もりを持ったモダンファニチャーが生まれた。
 
この小さなサンプルは、合理性と人間性を両立させようとしたアルヴァ・アアルトの<アナザー・モダニズム>を象徴している。



  



*初出 : zeitgeist site



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すべてのマンションはポストモダンだ!?~バビロン再訪 #18

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80年代バブルの頃、建築界を賑わしていたのがポストモダンデザインだ。
 
ポストモダンとバブルとはそもそもまったく別の話なのだが、バブルに沸く社会の雰囲気とポストモダンデザインが標ぼうするイメージがぴったりと一致し、ポストモダンデザインは、バブルを象徴するデザインとなった。
 
もともとポストモダンとは、建築から始まり、その後に思想や社会などに普及した概念だ。
 
画一化や非人間化が叫ばれ、行き詰まりを見せ始めていた60年代以降のモダニズム建築への批判、そしてなによりも、合理主義、理想主義、進歩主義といったモダニズムの価値観がもつ教条主義的な堅苦しさからの自由を目指して、ポストモダン建築は生まれた。
 
建築家のロバート・ヴェンチューリが、モダニズム建築のスローガンだった”Less is More” を”Less is Bore”と皮肉った言葉が、当時の気分をよく表している。
     
ポストモダン建築は、チャールズ・ムーアによる《イタリア広場》(1978)を皮切りに、マイケル・グレイヴスの《ポートランド・ビル》(1982)、フィリップ・ジョンソンの《AT&Tビル》(1984)、シーザー・ペリの《ワールド・ファイナンシャル・センター》(1981-1987)など、80年代のアメリカを席巻した。
  
当時ブームとなったボストン、ボルチモア、ニューヨーク、サンフランシスコなどの北米のウォーターフロント開発における街づくりや建築はポストモダンデザイン一色で飾られた。
 
歴史的デザインや伝統的意匠の再現、さまざまな時代や地域のモチーフの引用と編集、円や曲線や幾何学による自由なフォルム、多彩なカラー、シンボリックでスペクタクルなイメージなど、それまでの禁欲的で素っ気ないモダニズムに倦んでいた世界の人々の眼には、ポストモダンの明るく自由で楽し気な雰囲気は新鮮に映った。
  
日本においては、そうしたポストモダンの雰囲気が、当時のバブルの空気にぴったりと一致した。
       
アメリカに右ならえの当時の日本は、さっそく東京湾岸でウォーターフロント開発を展開し、高騰するYenに物をいわせて海外のポストモダン建築の大御所たちを次々と招聘した。
  
チャールズ・ムーア、マイケル・グレイヴス、シーザー・ペリ、アルド・ロッシ、クリスチャン・ド・ボルザンパルク、リカルド・ボフィールなど、欧米の名だたるポストモダン建築家たちが、日本で作品を残した。
     
日本の建築家も負けてはいない。単なるバブル的ノリだったのか、あるいは本気でポストモダン思想に鞍替えしたのか、磯崎新《つくばセンタービル》(1983)、丹下健三《東京都庁》(1990)、菊竹清訓《江戸東京博物館》(1993)など、戦後の日本建築界を代表するような一流どころが、一斉にポストモダンデザインに舵を切って世間を驚かせた。
   
いまや日本を代表する建築家である隈研吾の初期の話題作も、いまだにこれほどあっけらかんとしたポストモダン建築はないと思われる《M2》(1991)だ。
 
日本のマンションのポストモダンデザインの嚆矢はといえば、先に挙げたアメリカ建築界の大御所チャールズ・ムーアが設計した《オーキッドコート》(1991~1996)だろう。六甲山系を背景に住吉川沿いに展開するクラシシズムを範とした高級分譲マンションだ(JR神戸線「住吉」W6)。
       

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*《オーキッドコート》パンフレットより

     
寄棟屋根、重厚なコーニスや幾重にもまわるモールディング、ペディメント(切妻の三角形)風にデザインされた最上階のドーマー窓、縦長ウインドウ、ピラスター(壁付柱)、アーチ、シンメトリーな軸線、低層部・中層部・上層部とデザインを切り替えたヨーロッパの建物を模した3層構成の立面、マナーハウス(英国領主の家)の庭園をイメージしたランドスケープ、山(六甲)と海(瀬戸内海)を結ぶ象徴としての水の流れなど、場所性や象徴性を重視するチャールズ・ムーアの建築哲学が全開のデザインだ。
      
イタリアの古典主義建築を引用し、ポップアート的に再構成して、ニューオリンズに《イタリア広場》を出現させたチャールズ・ムーアは、《オーキッドコート》では、山、水系、緑といった日本のきめ細やかな自然環境を借景に、古典的意匠のよる壮麗なヨーロッパ流建築を配し、世界のどこにもない高級感を描いてみせた。
         
六甲の緑の山並みを背景に、威風を誇るクラシシズムを身に纏っ建物が連なる様子は、昔も今も、まさに無国籍な、ポストモダンを象徴する光景だ。
        
当時、ポストモダン建築のスターだったマイケル・グレイヴスも、磯崎新がプロデュースした《ネクサス百道》(1989)、浜野安宏がプロデュースした《アルテ横浜》(1992)などのポストモダンマンションを日本に残した。
          
時代を席巻したポストモダン建築はバブルの崩壊とともに急速に色褪せてゆく。
      
ユーモアや楽しさは冗長に見え出し、大胆な引用や編集はかすかな違和感を放ち始め、時代の先端は時代の徒花へと、いつの間にか変容していった。

文字通りの「近代後」という意味で、ポストモダンの概念や思想そのものが有効性を失ったというよりは、建築におけるポストモダンが、単なる表層の意匠、見てくれの話に終始してしまったことが、お手軽な差異を求めるマーケットの論理と図らずもシンクロし過ぎてしまった、というところが現実に近いだろう。山高ければ谷深し。
       
日本のマンションにおいて、ポストモダンデザインが残した最も大きな影響は、バブル崩壊以降、マンションの設計業務とデザイン業務が分離したことだ。
          
外観やエントランスや共用施設の意匠は、デザイン監修と称され、建築設計から分離・独立した、自由に後づけ可能な業務として、しだいに一般化、独立化、商品化していった。往々にしてそれらは、設計があらかた終わってから始まる、表層のスタイリングを意味していた。
 
集合住宅は世界中どこでも、エレベーターを使って空中のコンクリ-トの箱の中に共同で住むという住宅だ。合理的・効率的・標準的を旨とする住居だ。モダニズム精神の賜物のような建物だ。
  
その典型は公団住宅だ。国や地域によらず、モデレートで安心できる居住が担保される。
  
一方、「豊かな」社会は「豊かな」集合住宅を求め、民間マンションが生まれる。それ以降、マンションは、公団的標準化、公団的画一化からの差別化を競ってきた。
    
立地を吟味し、アクセス方式や採光に知恵を絞り、新たな間取りを開発し、設備や仕様に工夫を凝らす。商品企画による差別化だ。
 
ポストモダンデザインは、その差別化のための恰好のビジネスモデルを生み出した。
     
モダニズム建築界の重鎮フィリップ・ジョンソンは、37階のタワー《AT&Tビル》(後のソニービル)のトップを擬古的モチーフで飾るだけで、世界のポストモダンムーブメントを象徴する作品をつくり上げ、表層の操作でモダンはたちまちポストモダンへと一変することを実証した。

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*photo by David Shankbone – Sony Building New York /CC BY 2.5

 
ポストモダン以降、設計とデザインは分離し、同じ構造、同じ間取り、同じ配棟のマンションでも、後付けのデザインで見事に別のコンセプトの物件に変貌した。
            
チャールズ・ムーア風、マイケル・グレイヴス風、ミース風、ライト風、コルビュジエ風、デザイナーズ風、ウエストコースト風、英国貴族城館風、マンハッタンアールデコ風、パリのプチホテル風、下町町屋風、和モダン風、隠れ家別荘風、地中海リゾート風、アジアンリゾート風etc.
  
モダンに施す「お化粧」はなんでもありだ。厚化粧もあれば、ナチュラルメイクもある。「ポスト」や「脱」や「反」を標ぼうする「お化粧」すら、その手の内というのがモダニズムだからだ。
           
すべてのマンションは、モダンであり、かつ、すべてのマンションは、ポストモダンである。

 

 

(★)トップ画像は隈研吾の《M2》。photo by Wiiii - M2 Building, at Setagaya, Tokyo, Japan, designed by Kengo Kuma in 1991 Adapted / CC BY-SA 3.0




*初出 :東京カンテイ「マンションライブラリー」



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グリニッチ・ヴィレッジ・コネクション<下> ~ グレース・ペイリー ~

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グリニッチ・ヴィレッジ・コネクション<上>
<中>に続いて60年代のニューヨーク グリニッチ・ヴィレッジの群像を。
               
東をブロード・ウェイ、西をハドソン川、北を14丁目、南をハウストン・ストリートに囲まれたエリアが通常、グリニッチ・ヴィレッジと呼ばれている場所だ。
                 
マンハッタン島は1609年、オランダ東インド会社に雇われたイギリス人探検家ヘンリー・ハドソンによって「発見」され、1625年ニュー・アムステルダムと名づけられた。この年はニューヨークの創立年ともなっている。日本は三代将軍徳川家光の時代だ。
      
グリニッチ・ヴィレッジは、オランダ人入植者によって牧草地として開拓され、その後、英蘭戦争に勝ったイギリス人が支配権を確立し、当時の中心地だったローワー・マンハッタンのはずれにある郊外住宅地としてスタートした。19世紀にはヘンリー・ジェイムズやエドガー・アラン・ポーなどの作家が住むようになり、その後の芸術家やボヘミアンの街としての歴史が始まった。
    

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(*1807年にまとめられた1811年に採用されたマンハッタンにおける委員会計画の最終版)
        
現在のニューヨークを特徴づけるグリッドパターン(南北に走る16本のアヴェニュー<街>と東西に走る155本のストリート<丁目>)は、「1811年委員会計画」と呼ばれる都市計画によって作られたものだが、17世紀から人が住んでいたグリニッチ・ヴィレッジあたりから南側のエリアは、グリッドパターンに摩天楼が建ち並ぶそれ以北、ミッド~アッパーマンハッタンとは異なり、不規則な街区に19世紀の鋳鉄やレンガ造りの低層の建物が残されているなど、気の置けないダウンタウンらしい雰囲気や界隈性が魅力となっている。
        
古い建物が多く、家賃が安いため、20世紀に入ってもグリニッチ・ヴィレッジは、多くのアーティストやボヘミアンを惹きつけてきた。作家、前衛アート、ビートニク、ジャズ、反体制運動、ゲイカルチャーなど、1950年代から60年代にかけて、グリニッチ・ヴィレッジはカウンターカルチャーの中心地として名を馳せた。文学や演劇やアートを目指す若者たちが集まってくる1950年代のグリニッチ・ヴィレッジの様子は、ポール・マザースキー監督の自伝的映画『グリニッチ・ヴィレッジの青春』(1976年)で描かれている。
             
そんなグリニッチ・ヴレッジの路上で毎日繰り広げられる暮らしの様子をジェイン・ジェイコブズは、まるで複雑な「バレイ」のようだと形容した。(ジェイン・ジェイコブズ  『アメリカ大都市の死と生』 山形浩生訳 2010 鹿島出版会)。
     
さまざま階層の、職業の、人種の、年齢の住民が行き交い、会話を交わし、群れ、戯れ、ある時は諍い、時には助け合いながら、暮らしが営まれている。それはバラバラで個人的で即興的ありながら、同時に、安全で快適でこころ安んじて暮らせる、知らず知らずの自律的な秩序が成立している。そんな都市の姿を比喩したものだ。
       
これこそが理想的な都市の姿であり、この自律的秩序が破壊されると都市は死に至る、としてジェイコブズはブルドーザー型の開発に反対した。
            
1967年、ヴェトナム戦争に反対し、ホワイトホースストリートにあった入隊センターを三日間封鎖したデモで、ジェイン・ジェイコブズやスーザン・ソンタグらといっしょに逮捕された259人のなかの一人にグレイス・ペイリーもいた。
 
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(*Short-story writer, poet, and antiwar activist Grace Paley is demonstrating against the Vietnam War, March 15, 1965. Copyright Fred W. McDarrah, Courtesy Steven Kasher Gallery, New York, source : https://www.riotmaterial.com/fred-mcdarrah-new-york-scenes/)

     
グレイス・ペイリー(1922-2007)は、ウクライナから移民したロシア系ユダヤ人の両親を持つブロンクス生まれの小説家兼アクティビスト。二児の母親。戦前の反ファシズム運動を手始めに、ヴェトナム反戦、フェミニズム、反核、エコロジーなどのイシューで晩年まで世界を飛び回っていた筋金入りの政治活動家だった。
   
半世紀近いキャリアにおいて創作作品が短編小説集3冊と寡作なのは、活動家としての忙しさ故だった。ペイリーは自らのことを「いくぶん戦闘的な平和主義者で話の分かるアナーキスト」と自己紹介している。日本では村上春樹が1999年に『最後の瞬間のすごく大きな変化』(2冊目の作品)を日本語に訳して知られ始めた。その後、残りの二冊も村上春樹の翻訳で出版されている。
         
グレース・ペイリーが描くのは、ニューヨーク、しかもローワーマンハッタンやブルックリンなどに住む普通の人たち。作家の分身と思しきユダヤ系のシングルマザー、公園に集まる同じ境遇の母親たち、父をはじめとした家族、ユダヤ系移民、ストリートに生きる若者たちなどだ。とはいえその筆致はポートレート的描写とは全く逆の独特の個性、趣、もっといえば癖を持っている。
       
「私が意味のある会話をとても必要としているときに、男性社会の匂いのひと嗅ぎを求めているまさにそのときに - 要するに私のフレンドリーな言語を果てることなき肉体言語に翻訳できる頭の働く男友達を少なくとも一人は必要としているときに - 私は近所の公園で子供たちに取り巻かれ、無為に時を送りことを余儀なくされていた」
         
2番目の短編集『最後の瞬間のすごく大きな変化』の「木の中のフェイス」と題された作品の冒頭だ(引用は村上春樹訳 文藝春秋 1999)。
 
村上春樹はグレイス・ペイリーの文体についてこういっている。
 
「グレイス・ペイリーの物語と文体には、いったんはまりこむと、もうこれなしにはいられなくなるという、不思議な中毒性があって、そのややこしさが、とにかくびりびりとと病みつきになる。ごつごつとしながらも流麗、ぶっきらぼうだが親切、戦闘的にして人情溢れ、即物的にして耽美的、庶民的にして高踏的、わけはわからないけどよくわかる、男なんかクソくらえだけど大好き、というどこをとっても二律背反的に難儀なその文体が、逆にいとおしてくてたまらなくなってしまうのである」
  
ワシントン・ポストはグレイス・ペイリーの作品を「グリニッチ・ヴィレッジ - さらにいうと11丁目の6番街と7番街の間のエリア - からの街のヴォイス」だと評している。(The Washington Post April 14, 1985
         
同じグリニッチ・ヴィレッジの住人だったスーザン・ソンタグは、グレイス・ペイリーのことをこう称賛した。
         
「グレイス・ペイリーは、私を泣かせ、笑わせ、そして憧れさせた。彼女は、可笑しくて、悲しくて、引き締まっていて、謙虚で、エネルギッシュで、鋭利な、そんな誰にも真似できないヴォイスを有した、生まれながらの作家、そして非常に稀有な作家である」
        
「ヴォイス」はグレース・ペイリーの小説の特徴と魅力を象徴する言葉だ。
    
「あなたの書かれるものの中には、キッチン・テーブルを囲んで人々が話しあっているヴォイスのようなものが感じられます」とのインタヴュアの問いに、グレイス・ペイリー本人も「ああ、それは素敵ですね。それを聴いて嬉しいわ」と答えている(グレイス・ペイリー 『その日の後刻に』 村上春樹訳 文藝春秋 2017)。
     

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(*source : https://www.kickstarter.com/projects/1293301982/grace-paleys-life-stories?lang=ja)

     
ジェイン・ジェイコブズが歩道の「バレエ」と形容し、グレイス・ペイリーによって街の「ヴォイス」として表現されたグリニッチ・ヴィレッジの姿は、70年代以降、徐々に失われていく。ジェントリフィケーション(都市の高級化)、投資収益、ビッグビジネス、チェーンオペレーションなどが幅を利かせ、不動産が上り、家賃が上がり、元からの住民が住めなくなり、顔の見えるスモールビジネスが成り立たなくなった。
     
資本市場に浮かぶ都市は世界中どこでも同じだ。グリニッチ・ヴレッジとて例外ではない。
      
消え去りゆくニューヨークの姿を追ったA DISAPPEARING NYC FILM という動画サイトがある。「マーサ・ストリート書店で我を忘れて」 Get Lost at Mercer Street Booksというタイトルでは、グリニッチ・ヴィレッジの古書店Mercer Street Booksのオーナーのウエイン・コービーが淡々と語る。
        

Get Lost at Mercer Street Books from Wheelhouse Communications on Vimeo.

 

           
「グリニッチ・ヴィレッジでは、ここ40年のあいだで、小さな個人の店が消えてなくなり、チェーン店とショッピングセンターに代わってしまった」、「インターネットではできないこともある。それは何万冊の本に囲まれて我を忘れること。あれやこれや本をさまよってね。土曜の午後や水曜の夜の仕事帰りなんかにさ」
   
ここはスーザン・ソンタグがお気に入りの書店だったそうだ。

 

 

    



グリニッチ・ヴィレッジ・コネクション<中>へ

グリニッチ・ヴィレッジ・コレクション<上>へ     



*初出 : zeitgeist site



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ベトナム料理事始め<上> ~ バビロン再訪#19

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今や日本にすっかり定着したベトナム料理。
 
日本で最初のベトナム料理レストランは、1980年に開店した赤坂の老舗「アオザイ」だそうですが、日本でベトナム料理が注目を集めたのがバブルの頃でした。
      
中国料理、台湾料理、韓国料理などの知名度に比べてはもちろん、同じ東南アジアのインドネシア料理やタイ料理などに比べても、日本でのベトナム料理の知名度は決して高くありませんでした。
     
その背景にあったのが、70年代まで続いていたベトナム戦争だったことは想像に難くありません。当時の日本は、べトナムで戦うアメリカの重要な後方基地であり、沖縄の嘉手納基地からはB52が北爆に飛び立っていきました。
     
日本でベトナム料理が知られるようになったきかっけは、1986年、バブル勃興のさなか、出来たばかりのアークヒルズの中にオープンした「A.D.コリシアム」 A.D.Coliseum というレストランでした。
 
ギリシアや古代ローマなどのモチーフが散りばめられたネオクラシックスタイルの空間のなか、ベトナム料理をワインと共に供するという、実にバブル前夜のTOKYOにふさわしい、華やかで、無邪気で、そしてとびきりおしゃれなお店でした。
  

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ロンドンのデザイナー「ティムニー&ファウラー」 Sue Timney & Graham Fowler によるデザインです。このデザイナーコンビは、内装のほか、家具、ロゴ、制服、食器、メニューなども手掛けており、隙のないトータルデザインがひとつの世界感を作り上げていました。後に同じ六本木で「パラディソ」や「トゥーリア」などを手がける山本コテツや佐藤としひろがプロデュースとして関わっていました。
 
何を食べたか、何を飲んだかはすっかり忘れてしまいましたが、過去と現在、東洋と西洋、レトロとモダンをミックスした、いかにもポストモダンを象徴するようなエクレクティック(折衷的)で無国籍な空気感は、鮮やかに記憶に残っています。
  
日本とは異なり、フランスが植民地宗主国だったという歴史を背景に、パリには、ベトナム料理店、カンボジア料理店が数多く存在し、本国出身の料理人が腕を振るうその質と奥行は、庶民向けから宮廷料理まで、伝統スタイルからモダンエスニックまでと、驚くべき充実度を誇っています。
       
確か「A.D.コリシアム」は、パリ7区のキュズィーヌ・ヴェトナミエンヌの名店「タン・ディン」 Tan Dinhのシェフの協力を得たという話を聞いたような記憶があります。銘醸ワインとベトナム料理の組み合わせは、このレストランが始めたと言われています。
        
アジアをヨーロッパ経由のおしゃれなスタイルとしてみせる。この新鮮なコンセプトは、大いに話題になり、「A.D.コリシアム」はこぞって雑誌などに取り上げられ、日本におけるベトナム料理は、パリ経由のおしゃれなファッションのひとつとして、バブル期に受容されたのでした。
    

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とはいえ、1986年の日本においては、ニョクマムやライスペーパーやフォーなどを知っている人は皆無でした。食事をワインとともに楽しむことすら、まだまだ非日常であり、ましてやベトナム料理をワインとともに、というスタイルはいささか早すぎました。
   
ベトナム料理が広く認知されるのは、80年代のエスニック料理ブームを経て90年代に入ったあたりからです。ベトナム人が作る本場のベトナム料理のお店がチラホラ出来はじめます。池袋「サイゴン・レストラン」(1988年オープン)、二子玉川「ジャンズ」(1997年オープン)、泉岳寺「フースアン」(2001年オープン)などもその一つです。
 
おそらくは日本で最初の一般向けのベトナム料理書、有元葉子『わたしのベトナム料理』(柴田書店)が出版されたのが1996年です。いまや著名料理研究家となった有元葉子の出世作は意外にもベトナム料理でした。
 
海と山の幸が両方楽しめる、野菜が多くヘルシー、日本の出汁にも似た優しい味付け、麵やライスなど日本人になじみのある炭水化物の一皿が充実しているなど、ベトナム料理は日本人の嗜好に合致し、広く普及していきます。
     
日本のベトナム料理店でひとつだけ残念なのが飲み物です。暑い国故、もっとも充実しているのが焼酎やウォッカのような蒸留酒です。本国で最も飲まれているのも、ビールなどよりも、こうしたもち米などから蒸留した度数の高いアルコールなのだそうです。もちろんベトナム産のビールはあるし、ウィスキーやワインなども飲めるし、香ばしい香りのベトナム焼酎ももちろん美味しいのですが、スパークリングワインやフルボディの赤ワインと合わせたいときは、やや欲求不満に陥ってしまいます。
     
そうした時は、手作りのベトナム料理でいきましょう。最近では食材も手軽に入手できるようになり、かつてほどのハードルの高さはなくなりました。なによりも、知らない国をあれこれ想像しながら、その国の料理を作る行為は、アームチェアー・トラベラーならぬ、キッチン・トラベラーあるいはフライパン・トラベラーとでも名づけたくなるような、想像上の旅行のような楽しさです。
 
次回「ベトナム料理事始め<下>」では、日本の暑い夏にぴったりのベトナム料理の数々をレシピ付きでお届けします。

 


(★)画像はすべて「A.D.コリシアム」。British Institute of Inteior Design のサイトより。






*初出 :東京カンテイ「マンションライブラリー」



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モダニズムが夢みる「アナザーユートピア」

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建築ではなくオープンスペースからこれからの都市をあり方を考える。建築家の槇文彦が「アナザーユートピア」という論考で問題提起している。
 
槇文彦の問題提起とそれへのさまざまな専門家からの応答で構成された書籍『アナザーユートピア-「オープンスペース」から都市を考える』(槇文彦・真壁智治 NTT出版 2019年)の刊行とあわせてトークショーが開かれた(2019年4月23日@青山ブックセンター本店)。


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(*『アナザーユートピア–「オープンスペース」から都市を考える』刊行記念トークショー、左から真壁智治、槇文彦、藪前知子、北山恒)
 
1953年の一年間の滞在以来、たびたび訪れたニューヨークに関して、槇は自分にとってのニューヨークの原風景は何だろうかと問うている。
 
そしてそれは、マンハッタンにひしめくスカイスクレーパーの像ではなく、「広大なセントラル・パーク、古いMOMAの彫刻ガーデン、ロックフェラー・センターのスケートリンク、グリニッジ・ヴィレッジへの入り口でもあるワシントン・スクエア、そこで老人たちがのんびりとチェスを楽しんでいる風景、あるいは70年代、コロンビア大学でのワークショップのため長期滞在していたホテルが面するグラマシー・パーク」などのオープンスペースであった、と。
        
槇文彦は、建築や都市の状況に閉塞感が漂っていた70年代初め、奥野健男『文学における原風景』(1972)に衝撃を受けたと告白する。奥野の言う「原風景」とは、かつては日本のどこにでもあった「原っぱ」のことだ。
 
槇や奥野から30年後の世代の建築家の青木淳は前掲書で、「原っぱ」の系譜として岡崎京子の『リバーズ・エッジ』(1994年)の死体が転がる河原を挙げ、「原っぱ」とは物理的な空間や時代や世代を超えた根源的な共同感覚であると指摘している。
     
「原っぱ」をあえてシンプルに言ってしまうと、社会、家族、日常、しがらみ、束縛、機能、目的、役割、権力などからの<解放区>ということになろうか。
 
「原っぱ」という空き地の存在やそこでの経験が、ひとの心象や記憶を形成し、都市のリアリティや都市のイメージにつながっている。
 
こうした認識は、日本的空間の特質を「奥」という概念で提示した『見えがくれする都市』(1980年)や道路とつながりながらさまざまな形態のオープンスペースが連なった代官山の《ヒルサイドテラス》(1968-1998)など、槇の一連の論考や設計活動とすでに通底していた。槇文彦がオープンスペースから都市を考えるという発想に至ったことはある意味必然だったとも言える。
 
そこにあるのは、地と図の反転、つまり図(建築)をもっぱらを主体とし、地(オープンスペース)を残された余白として認識してきた、近代的発想(モダニズム)の反転の企てにほかならない。
     
トークショーの出席予定者だった(当日は欠席)建築家 塚本由晴は、「オーナーシップ、オーサーシップから、メンバーシップへ」(前掲書)という論考で、東工大の花見のエピソードを題材に語っている。
  
東工大は2006年に本館前の車道を、ウッドデッキによる桜並木の下の広場状プロムナードとして整備する。その後、東工大は花見の名所として学外から大勢の花見客を集めるようになる。花見が盛んになるにつれて、そのオープンスペースでは飲酒やBBQや夜間の利用などが禁止されるようになり、立ち入りエリアの制限、警備員の巡回など、管理も厳格になった。その結果、整備以前から塚本らなど学内の人たちが行ってきた「普通の」花見や学内での酒宴が不可能になってしまった。
      

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(*東工大の花見の様子、2019年4月撮影)
     

花見は単なる宴会を超えた、桜の開花という自然のリズムにひとのふるまいをリンクさせた文化的行為である。
 
同時に花見は、普段は単なる桜が植えてあるだけの人気のない場所が、桜の開花という自然のサイクルに合わせて、突如、そして自然に、その下にオープンスペースが生成されるという、西洋におけるシンボリックでスタティックな、モノ的・空間的なオープンスペースのあり方には決してみられない、日本的なコト的・時間的な空間感受や環境応答を反映した、日本独特のオープンスペースのあり方の現れでもある。
 
ふるまいの制限は、こうした感性や心性(マインドセット)や環境読解能力やスキルの制限につながり、ひいては社会や文化の制限に至り、受動的マインドしかもたない都市住民しか生み出し得ない状況が生まれると、塚本は注意を喚起する。
     
たかが花見、されど花見。
 
学生の花見が事実上黙認(お目こぼし)されていた時には、誰も気がつかなかったことが、花見の隆盛の結果、隠れていた(忘れられていた)所有や利用や管理などの空間権力の問題として前景化する。
 
塚本はこうした現状を「施設化」と呼んでいる。「施設化」とは今の社会と都市に充満する息苦しさの別名でもある。
 
明治以降の近代化推進によって、村や都市の習慣に由来する共有(コモン)という概念と空間は、それまで馴染みのない公(パブリック)/私(プライベート)に切り分けられ、その概念と空間を実践する専門家として確立されたのが建築家という職能だった。
        
必ずしもユートピアを生み出すことに成功しなかったモダニズムの挫折を意識した建築家は、これまではオーサーシップ(作品性・デザイン性)によって、「施設化」に傾くオーナーシップ(所有権)によるモダニズムを批判してきたが、はたして、そうした個別の戦線で、こうしたオープンスペースをめぐる問題は解決されるのか、と塚本は問題提起する。
 
そして、オーナーシップ(所有者・管理者)、オーサーシップ(計画家・建築家)に代わる、メンバーシップ(利用者)の原理の確立を訴える。


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トークショーに塚本の「代打」として出席した建築家の北山恒は、かつての「共」(コモン)が、「公」(パブリック)=政府と「私」(プライベート)=市場に分離されたのが、近代社会であり、ポスト近代においては、「公」と「私」が再び「共」へと統合され、新たなコミュニティが生まれることが必要だと述べている。
 
そのためには所有という権力の融解によって、所有が曖昧な場所が再び必要とされ、そこが「アナザーユートピア」と呼ばれる場所になると北山は指摘する。
   
ユートピアとは、実在しない理想郷、「どこにもない場所」を意味する。そのユートピアを希求してきたのがモダニズムとモダニズム建築だった。
      
「アナザーユートピア」、つまり「もうひとつのどこにもない場所」は、モダニズムが失敗したユートピアをオープンスペースという別のアプローチで希求する運動ともいえる。
  
そしてそれは、あり得たかもしれない近代、「アナザーモダニズム」へと至る可能性をも予感させる構 えの大きさを感じさせる。



 
    




*初出 : zeitgeist site



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